前々回、小津夜景の『フラワーズ・カンフー』について書いたが、小津が自らのブログで高山れおなの『俳諧曾我』を読んだのがきっかけで攝津幸彦賞に応募した、というようなことを書いているのを読み、腑に落ちるところがあった。『俳諧曾我』のうち「フィレンツェにて」では詞書+俳句というかたちで作品が書かれている。また、「三百句拾遺」では『詩経』が使われている。
「屹立せよ一行の詩」というような考え方からすると、作品の前後には何も付けてほしくない、ということになるだろうが、文芸が無から生まれるのではなくて、先行する作品との関係性のなかから生まれるのだとすれば、前書き+句歌というパターンはとても刺激的な光景を生み出すことになる。
斉藤斎藤の歌集『人の道 死ぬと町』(短歌研究社)には単独歌、連作、詞書+短歌、などのさまざまなパターンの作品が収録されていて、読者を飽きさせない。2004年から2015年までの作品が集められていて、まだ完全には読み込めていないが、連作の、特に散文+短歌の部分に注目してみたい。
池田小学校事件の「今だから、宅間守」、大阪での展覧会を見ての「人体の不思議展」なども興味深いが、福島を詠んだ「NORMAL RADIATION BACKGROUND 3 福島」から次のような詞書(前書き)を引用してみる。
「本日司会を仰せつかりました磐梯熱海温泉おかみの会の片桐栄子と申します。福島に降り注いだセシウムは、134と137がほぼ同量と言われています。この曲線をちょっと下げる、もうちょっと下げる、これが除染の実際でございます。福島で生きる。福島を生きる。ならぬことはならぬものです。二年は除染しないでください。でないと川に流れ込んで全部こっち来る。証明できるかどうか議論していて、尿中のセシウムが6ベクレルに上がっていくのを防ぐことができますか。女の子の満足度をとにかく追及したくて東北最高レベルの時給をご用意しました。今なら被災者待遇あり、託児手当支給。逆に元気をもろたわと鶴瓶が家族に乾杯します。人が生み出したものを人が除染できないわけがない。岐阜と神奈川では年間0.4ミリシーベルトも違う、そのくらいの相場感でわたしたちは大好きなふくしまで今このときも生きています。わたしたちはゴジラではありません。和合亮一です。おかしなことを言っていますが本気です。福島はこれからも福島であり続けます。伝えたいことはそれだけです」
一読して分かるように、これは単独の発言や文章の引用ではない。さまざまな発言・メッセージなどを綴りあわせてリミックスしたものである。
短歌誌「井泉」72号のリレー評論「現代に向き合う歌とは?」に荻原裕幸が「現代/短歌をめぐる断章」という文章を書いている。荻原は1970年代まで人々はその時代の「現在」を少なくとも知識として共有していたのに対して、1980年代ごろからそのような共有感がなくなり、その人その人の「現在」がパラレルワールドのように存在している、と述べたあと次のように書いている。
「同じことは、短歌の流れにも生じつつあるように感じる。ニューウェーブ以後、ほぼ四半世紀の間、新しい人があらわれ、新しい作品が注目されても、それらが一連の動きとして、現代の短歌の焦点として認識されることが、きわめて少なくなった。数十年もすれば、短歌史が、歴史ではなく、列記化しそうだ」
そして、荻原は斉藤斎藤の歌集から次の二首を挙げている。
こういうひとも長渕剛を聴くのかと勉強になるすごい音漏れ
大丈夫あなたあの買ったマンションに津波の心配はありません
「注目したいのは『長渕剛を聴く』ことと『津波の心配』とが、ほぼ同じ位相の情報として扱われているこの語り口である。『現代』の題材に向き合って短歌を書いていれば、直面せざるを得ない価値の平準化だ」
「井泉」の「リレー評論」では、もう一人、彦坂美喜子が「当事者でない者の表現」を書いている。彦坂は震災や戦争などの大きな事件に対して「当事者でない者が、対岸の火事ではないどのような表現が可能か」と問題提起したあと、その可能性として北川透の詩「射影図、あるいは、遙かな二つの地震」を挙げている。そして短歌でこれができるかどうか考えるときに、そのひとつとして斉藤斎藤の歌を挙げている。
みんな原発やめる気ないすよねと言えばみんな頷く短歌の集まり
「『みんな頷く』顔の見えない、その曖昧性こそ、漠然とした原発への肯定と否定が入り混じっている現在の人々の感情に他ならない。ここには問いと答えの情況の記述があるだけだが、現代の、みんなが、抱えている曖昧性にまで言葉が届いていると思う」
荻原と彦坂がそれぞれの視点から斉藤斎藤の歌を取り上げているのは、それだけこの歌集に「現代」が反映しているからに違いない。
さらに川柳に引きつけるならば、柳本々々は「〈感想〉としての文学―兵頭全郎と斉藤斎藤―」(ブログ「俳句新空間」2016年11月11日)で兵頭全郎の川柳と斉藤斎藤にある共通点を見出している。
おはようございます ※個人の感想です 兵頭全郎
「この全郎さんの句が教えてくれるのはこういうことです。〈感想〉とはよく知られているような読書〈感想〉文のような意味の付与なんかではない。そうではなくて、実は〈感想〉というのはそれそのものを「個人の感想」としてしまうことで、〈偏った見方〉であることを引き受け、そしてその〈あからさまな偏差〉によって再定義しようとするものだ、ということなのです」。
この「※個人の感想です」がまったくおなじかたちであらわれているものとして、柳本は斉藤斎藤の歌集のうち「わたしが減ってゆく街で ~NORMAL RADIATION BACKGROUND 4 東京タワー」を引用している。
一九九〇年、バブル崩壊。わたしは高校を卒業する。
一九九三年、就職氷河期突入。
一九九六年、就職活動もロクにしなかったわたしは、大学を卒業してフリーターになった。
高校生の私は、就職はできて当たり前。就活は、10人中8人が座れる椅子取りゲームと思っていた。
しかし大学生活を送るうち、みるみる椅子は減らされてゆき、卒業する頃には10人に三つの椅子しか残されていなかった。*13
*13 ※個人の感想です
「一九九三年からの就職氷河期という社会・歴史のなかに投げ込まれているか『私』ですが、そのなかに『10人に三つの椅子しか残されていなかった』という『個人の感想』が出てくることによって、大きな社会の歴史と小さなわたしの歴史が競りあい、そのどちらもが相対化されるようになっています」
斉藤斎藤の『人の道 死ぬと町』は興味深い歌集である。引用したくなるような短歌と散文がちりばめられている。それぞれの読者の問題意識によって作品がさまざまな表情を見せる。現代を代表する歌集に違いない。
2016年11月18日金曜日
2016年11月13日日曜日
尾藤三柳の仕事
10月19日に尾藤三柳が亡くなった。享年87歳。
三柳は「川柳公論」を主宰したほか、『川柳総合事典』の監修、『川柳200年の実像』『川柳入門』『川柳作句教室』などの入門書を通じて川柳の普及に貢献した。川柳界にとって大きな存在であった。
いま三柳の仕事をふりかえってみるとき、彼が「川柳形式の構造」を明らかにしたこと、「川柳史」への展望を開いたこと、「選者」の役割を再認識させたことの三点が特に重要だと思われる。
まず、「川柳形式の構造」についてだが、三柳は『柳多留』の編者である呉陵軒可有の文芸観として「一章の問答」を挙げている。
母おやハもつたいないがだましよい
『川柳200年の実像』(雄山閣)で三柳はこの句を例に挙げて次のように言う。
「この付句に、一句としての独立内容を与えているのは、対立的な二段構造、いわゆる『一章に問答』である。『~は~』という一章のかたちは古川柳の普遍様式の一つで、この場合、格助詞の『は』は、前後二段を結んで、その上の文が、その下に続く文に対して『問』のかたちになる。『母おやハ』は、だから『母親というものは、どううものかというと』である。その問から引き出されたのが『もったいない』と『だましよい』という対立・矛盾する概念で、これが一句の内容になる。母親は『もったいない』存在であると同時に、『だましよい』存在であるという背反したものの捉え方、それがイロニーであり、諧謔のもとをなしている。これが『一章に問答』の典型である」
三柳が述べているのは古川柳の例であるが、現代川柳はこの基本構造を越えて、答えの部分をイメージに置き換えたり、答えを書かないなどのさなざな展開を見せているのである。現代川柳でも「~は」という句を見ると「は」に川柳性を感じるのは、この問答構造の遠い記憶があるからにほかならない。私は詩的飛躍論者だから、「問答」ではなく「飛躍」という捉え方をすることが多いが、三柳の明らかにした川柳のルーツを忘れたことはない。
次に、「川柳史」への展望についてだが、現代川柳史についての満足できる論考が存在しない現状で、三柳が昭和後期までの川柳史をまとめておいてくれたことの恩恵は計り知れない。特に「難解句」がなぜ生まれたかについて、明治40年代の「主観句」の台頭に起源を求めているのは興味深い。『選者考』(新葉館)では次のように述べられている。
「問答的な二段構造によるアイロニーの磁場を本質としてきた川柳に対して、作者の主観的な感じや気分を『答』とだけ提示して『他人に斟酌』しないという新傾向の発想が、現代につながる『解る、解らない』論争の原点となったことに目を注いでおかなければならないだろう」
句会を中心とする川柳の革新は常に「選者」の問題と関連してきた。私が三柳の著作の中で実践的に重要だと思うのが『選者考』(葉文館出版)である。
「選者は単なる選別者ではなく、同時に批評家であり、選と批評は表裏をなすものであった」
「批評はつねに『在るもの』から『在るべきもの』への憧憬に支えられており、その尺度となるのが、古来の歌式であり、判者自身の造詣を集約した歌論である」
「歌合せ」について述べた部分だが、本質的な洞察を含んでいる。
明治期に川柳の句会がなぜ「互選制」から「任意選者制」へと変化したのかも本書を読めばよく分かる。
私は一時期「川柳公論」に投句していた時期がある。
三柳の師系は酒井久良伎→前田雀郎→尾藤三柳である。
三柳が久良岐と剣花坊の連句について触れていたので、二人の連句作品の全体を知りたいと手紙を出すと、それが掲載されている「川柳公論」第13巻1号を送ってくれた。私はこれをもとに「今なぜ阪井久良伎なのか」を書いたことがある(拙著『蕩尽の文芸』に収録)。
尾藤三柳はもういない。
私たちは彼の残した仕事を乗り越え、現代川柳のさまざまな展開を視野に入れながら、先へ進んでいかなければならないだろう。
三柳は「川柳公論」を主宰したほか、『川柳総合事典』の監修、『川柳200年の実像』『川柳入門』『川柳作句教室』などの入門書を通じて川柳の普及に貢献した。川柳界にとって大きな存在であった。
いま三柳の仕事をふりかえってみるとき、彼が「川柳形式の構造」を明らかにしたこと、「川柳史」への展望を開いたこと、「選者」の役割を再認識させたことの三点が特に重要だと思われる。
まず、「川柳形式の構造」についてだが、三柳は『柳多留』の編者である呉陵軒可有の文芸観として「一章の問答」を挙げている。
母おやハもつたいないがだましよい
『川柳200年の実像』(雄山閣)で三柳はこの句を例に挙げて次のように言う。
「この付句に、一句としての独立内容を与えているのは、対立的な二段構造、いわゆる『一章に問答』である。『~は~』という一章のかたちは古川柳の普遍様式の一つで、この場合、格助詞の『は』は、前後二段を結んで、その上の文が、その下に続く文に対して『問』のかたちになる。『母おやハ』は、だから『母親というものは、どううものかというと』である。その問から引き出されたのが『もったいない』と『だましよい』という対立・矛盾する概念で、これが一句の内容になる。母親は『もったいない』存在であると同時に、『だましよい』存在であるという背反したものの捉え方、それがイロニーであり、諧謔のもとをなしている。これが『一章に問答』の典型である」
三柳が述べているのは古川柳の例であるが、現代川柳はこの基本構造を越えて、答えの部分をイメージに置き換えたり、答えを書かないなどのさなざな展開を見せているのである。現代川柳でも「~は」という句を見ると「は」に川柳性を感じるのは、この問答構造の遠い記憶があるからにほかならない。私は詩的飛躍論者だから、「問答」ではなく「飛躍」という捉え方をすることが多いが、三柳の明らかにした川柳のルーツを忘れたことはない。
次に、「川柳史」への展望についてだが、現代川柳史についての満足できる論考が存在しない現状で、三柳が昭和後期までの川柳史をまとめておいてくれたことの恩恵は計り知れない。特に「難解句」がなぜ生まれたかについて、明治40年代の「主観句」の台頭に起源を求めているのは興味深い。『選者考』(新葉館)では次のように述べられている。
「問答的な二段構造によるアイロニーの磁場を本質としてきた川柳に対して、作者の主観的な感じや気分を『答』とだけ提示して『他人に斟酌』しないという新傾向の発想が、現代につながる『解る、解らない』論争の原点となったことに目を注いでおかなければならないだろう」
句会を中心とする川柳の革新は常に「選者」の問題と関連してきた。私が三柳の著作の中で実践的に重要だと思うのが『選者考』(葉文館出版)である。
「選者は単なる選別者ではなく、同時に批評家であり、選と批評は表裏をなすものであった」
「批評はつねに『在るもの』から『在るべきもの』への憧憬に支えられており、その尺度となるのが、古来の歌式であり、判者自身の造詣を集約した歌論である」
「歌合せ」について述べた部分だが、本質的な洞察を含んでいる。
明治期に川柳の句会がなぜ「互選制」から「任意選者制」へと変化したのかも本書を読めばよく分かる。
私は一時期「川柳公論」に投句していた時期がある。
三柳の師系は酒井久良伎→前田雀郎→尾藤三柳である。
三柳が久良岐と剣花坊の連句について触れていたので、二人の連句作品の全体を知りたいと手紙を出すと、それが掲載されている「川柳公論」第13巻1号を送ってくれた。私はこれをもとに「今なぜ阪井久良伎なのか」を書いたことがある(拙著『蕩尽の文芸』に収録)。
尾藤三柳はもういない。
私たちは彼の残した仕事を乗り越え、現代川柳のさまざまな展開を視野に入れながら、先へ進んでいかなければならないだろう。
2016年11月5日土曜日
小津夜景句集『フラワーズ・カンフー』を読む
小津夜景はいわゆる俳壇とは無関係なところから登場した。
私が小津夜景の名をはじめて目にしたのは「豈」55号に掲載された「第二回攝津幸彦記念賞・準賞」の「出アバラヤ記」だった。作品は前書(詞書)+俳句の実験的なかたちになっている。句集に詞書を付けるのは高山れおな『荒東雑詩』などで見たことがあるが、小津の場合は哲学的思考がベースにあるように感じられる。
その後の彼女の活躍はめざましい。ネットを中心に実作と評論を発表、今年8月にはブログ「フラワーズ・カンフー」を立ち上げて毎日更新している。
そして、このたび第一句集『フラワーズ・カンフー』(ふらんす堂)が上梓された。
帯文を寄せているのは次の両人。
正岡豊「廃園から楽園へ」
鴇田智哉「のほほんと、くっきりと、あらわれ続ける言葉の彼方。今ここをくすぐる、花の遊び。読んでいる私を忘れてしまうのは、シャボン玉のように繰り出される愉快のせいだ」
句集の「あとがき」には次のように書かれている。
〈「出アバラヤ記」が攝津幸彦賞の準賞となったのを機に俳句を始めてから途方もなく長い二年半が経過した。この間しばしば思い出したのは「前衛であるとは死んだものが何であるかを知っているということ、そして後衛であるとは死んだものをまだ愛しているということだ」といったロラン・バルトの言葉である〉
次にあげるのは巻頭の句。
あたたかなたぶららさなり雨のふる
この句は「たぶららさ」以外何も言っていない。「タブラ・ラサ」は「白紙」であり、ひらかな表記にしている。白紙の状態から小津の俳句がはじまるのだ。
『フラワーズ・カンフー』が送られてきたとき、「出アバラヤ記」の章を読んでみた。何だか印象が違うので、「豈」掲載作品と比べてみると、ずいぶん変更されている。「あとがき」を読むと「新たに編集し直した(出アバラヤ記の改稿含む)」とある。
どのように改稿されたのか。
「ふみしだく歓喜にはいまだ遠いけれど、金星のかたむく土地はうるはしく盛つてゐる。
隠者ゐてジャージ干すらむ秋の園 」(初稿)
句集では前書きは同じだが、句が次の作に変更されている。
跡形もなきところより秋めきぬ
全体を通じて詞書の部分は手直しや追加はあるが、ほぼ初稿のままである。句の方はほとんど入替えられていて、改稿というより別の作品とも受け取れる。たとえば初稿にあった「死ぬまでに出アバラヤ記書いてみやう」という句は抹消され、タイトルにだけ痕跡が残されている。
詞書と句をセットにして読むだけでなく、句を詞書から外して一句として楽しむ読み方もありだろう。あるいは、句を外して哲学的エッセイとして読んでゆくこともできる。いずれにせよ、この作品は俳句が哲学と親和的であることを証明している。
冒頭句「たぶららさ」をはじめとしてこの句集にはふだん俳句では見慣れない単語がいろいろ出てくる。表現者は誰でも自分の心の中に辞書をもっていて、テクストのなかに愛用の語を混ぜてゆく。小津の句集に書物的(ブッキッシュ)な感じがするのは、作者が読んできたおびただしい書物が背後にあるからだろう。プレテクストに基づいた作品も多いようだ。
最後の章「オンフルールの海の歌」。
オンフルールは印象派の画家たちがよく絵を描いた港町である。数年前に短時間だけ訪れたことがある。午後の陽光が建物群を照らして美しかった。エリック・サティの生家もあって、中には入れなかったが少し嬉しい気がした。
蓮喰ひ人ねむるや櫂のない小舟
蓮喰い人か。ホメロスだったかな。
プレテクストの問題。李賀の漢詩に付けた句。八田木枯を主題として詠んだ短歌など、この句集の読みどころは多い。
最後に句集のなかで最も好きな句を挙げておく。
しろながすくじらのやうにゆきずりぬ
しろながすくじらは未了性の海を泳いでいる。
(付)週刊俳句第497号(2016年10月30日)「学生特集号」を読んだ。
大林桂の福永耕二論がおもしろかった。大林とは読書会でいっしょになったことがある。ドイツ留学から帰ってきたところらしくて、現象学やハイデガーの話を少し聞いた。俳句は「鷹」に所属しているそうだ。あと、宮﨑莉々香が「私の好きな五句」について書いている。その中に「川柳的な俳句」という言い方が出てくる。何が「川柳的」かは微妙な問題であり、どうも宮﨑はオチがあるのが川柳だと考えているフシがある。宮﨑は「蝶」のなかで私も注目している若手俳人である。「蝶」は「川柳木馬」とも交流があるので、川柳にも理解があるのかと思っていたが、「莉々香よ、お前もか」と思った。「川柳的俳句」があるなら「俳句的川柳」も存在することになり、互いに自分のもっている陳腐な「俳句イメージ」「川柳イメージ」で相手を矮小化することになってしまうのだ。
私が小津夜景の名をはじめて目にしたのは「豈」55号に掲載された「第二回攝津幸彦記念賞・準賞」の「出アバラヤ記」だった。作品は前書(詞書)+俳句の実験的なかたちになっている。句集に詞書を付けるのは高山れおな『荒東雑詩』などで見たことがあるが、小津の場合は哲学的思考がベースにあるように感じられる。
その後の彼女の活躍はめざましい。ネットを中心に実作と評論を発表、今年8月にはブログ「フラワーズ・カンフー」を立ち上げて毎日更新している。
そして、このたび第一句集『フラワーズ・カンフー』(ふらんす堂)が上梓された。
帯文を寄せているのは次の両人。
正岡豊「廃園から楽園へ」
鴇田智哉「のほほんと、くっきりと、あらわれ続ける言葉の彼方。今ここをくすぐる、花の遊び。読んでいる私を忘れてしまうのは、シャボン玉のように繰り出される愉快のせいだ」
句集の「あとがき」には次のように書かれている。
〈「出アバラヤ記」が攝津幸彦賞の準賞となったのを機に俳句を始めてから途方もなく長い二年半が経過した。この間しばしば思い出したのは「前衛であるとは死んだものが何であるかを知っているということ、そして後衛であるとは死んだものをまだ愛しているということだ」といったロラン・バルトの言葉である〉
次にあげるのは巻頭の句。
あたたかなたぶららさなり雨のふる
この句は「たぶららさ」以外何も言っていない。「タブラ・ラサ」は「白紙」であり、ひらかな表記にしている。白紙の状態から小津の俳句がはじまるのだ。
『フラワーズ・カンフー』が送られてきたとき、「出アバラヤ記」の章を読んでみた。何だか印象が違うので、「豈」掲載作品と比べてみると、ずいぶん変更されている。「あとがき」を読むと「新たに編集し直した(出アバラヤ記の改稿含む)」とある。
どのように改稿されたのか。
「ふみしだく歓喜にはいまだ遠いけれど、金星のかたむく土地はうるはしく盛つてゐる。
隠者ゐてジャージ干すらむ秋の園 」(初稿)
句集では前書きは同じだが、句が次の作に変更されている。
跡形もなきところより秋めきぬ
全体を通じて詞書の部分は手直しや追加はあるが、ほぼ初稿のままである。句の方はほとんど入替えられていて、改稿というより別の作品とも受け取れる。たとえば初稿にあった「死ぬまでに出アバラヤ記書いてみやう」という句は抹消され、タイトルにだけ痕跡が残されている。
詞書と句をセットにして読むだけでなく、句を詞書から外して一句として楽しむ読み方もありだろう。あるいは、句を外して哲学的エッセイとして読んでゆくこともできる。いずれにせよ、この作品は俳句が哲学と親和的であることを証明している。
冒頭句「たぶららさ」をはじめとしてこの句集にはふだん俳句では見慣れない単語がいろいろ出てくる。表現者は誰でも自分の心の中に辞書をもっていて、テクストのなかに愛用の語を混ぜてゆく。小津の句集に書物的(ブッキッシュ)な感じがするのは、作者が読んできたおびただしい書物が背後にあるからだろう。プレテクストに基づいた作品も多いようだ。
最後の章「オンフルールの海の歌」。
オンフルールは印象派の画家たちがよく絵を描いた港町である。数年前に短時間だけ訪れたことがある。午後の陽光が建物群を照らして美しかった。エリック・サティの生家もあって、中には入れなかったが少し嬉しい気がした。
蓮喰ひ人ねむるや櫂のない小舟
蓮喰い人か。ホメロスだったかな。
プレテクストの問題。李賀の漢詩に付けた句。八田木枯を主題として詠んだ短歌など、この句集の読みどころは多い。
最後に句集のなかで最も好きな句を挙げておく。
しろながすくじらのやうにゆきずりぬ
しろながすくじらは未了性の海を泳いでいる。
(付)週刊俳句第497号(2016年10月30日)「学生特集号」を読んだ。
大林桂の福永耕二論がおもしろかった。大林とは読書会でいっしょになったことがある。ドイツ留学から帰ってきたところらしくて、現象学やハイデガーの話を少し聞いた。俳句は「鷹」に所属しているそうだ。あと、宮﨑莉々香が「私の好きな五句」について書いている。その中に「川柳的な俳句」という言い方が出てくる。何が「川柳的」かは微妙な問題であり、どうも宮﨑はオチがあるのが川柳だと考えているフシがある。宮﨑は「蝶」のなかで私も注目している若手俳人である。「蝶」は「川柳木馬」とも交流があるので、川柳にも理解があるのかと思っていたが、「莉々香よ、お前もか」と思った。「川柳的俳句」があるなら「俳句的川柳」も存在することになり、互いに自分のもっている陳腐な「俳句イメージ」「川柳イメージ」で相手を矮小化することになってしまうのだ。
2016年10月28日金曜日
俳句らしさ、川柳らしさ
「第10回船団フォーラム」が10月23日(日)に伊丹市立図書館(ことば蔵)で開催され、私は第一部のパネラーとして参加した。
伊丹の柿衞文庫には何度も行っているが、図書館ははじめてで、開催までの時間に館内を見て歩いた。閲覧室の詩歌コーナーには川柳関係の本も何冊かあり、先進的な取り組みをしている図書館のようだ。「タイトルだけで作家デビュー」の展示があって、自分で考えた架空の本のタイトルだけが1000枚近く壁に掲示してあるのがおもしろかった。
この日のフォーラムのテーマは「激突する!五七五 俳句VS川柳」で70名を超える参加者。川柳人の方が少し多かったようだ。
第一部はディスカッション「俳句らしさ、川柳らしさ」。パネラーは俳句側から塩見恵介・山本たくや、川柳側から芳賀博子・小池正博。
「俳句と川柳」についてはこれまでにもしばしば論じられてきたが、私の感想では実りや成果があったという話は聞いたことがない。「俳句らしさ」「川柳らしさ」を「俳句性」「川柳性」ととらえると、そのような区別は曖昧であり、有効ではなくなってしまう。実際、この日に四人が挙げた句を見てもあまり区別はないように感じられた。
もちろん、伝統俳句と伝統川柳とを比較すると違いが出てくるが、先端的な俳句と川柳とを比べてみても明確な違いは出てこない。それを無理に区別しようとすると、川柳性とは「うがち」だというような狭い川柳論になってしまう。これまでの柳俳異同論が有効ではなかったのは「規範」を求めてきたからだ。
しかし、個々の作品を見ると「俳句のてざわり」「川柳のてざわり」(感触)というものは感じられる。
歴史的にみると俳句と川柳は発生の違いがあって、発句が独立した俳句と、前句付の前句を省略して成立した川柳とはそれぞれの表現領域を拡大しながら今日に至っている。だから、「いま」の時点で共時的に見ると違いは明確ではない。「取合せ」と「前句からの飛躍」は結果的に区別がつかないのだ。
従って、ディスカッションに臨む私のスタンスは、「激突」はしないというものになった。
芳賀博子には私とは異なる意見・立場があったことだろう。「激突」した方が対立軸が明確になって面白いのだが、私は気がすすまなかった。
けれども、話し合っているうちに分かってきたことも多い。
私が現代川柳の代表句として挙げたのは次の五句である。
ひなまつり力道山は黒ぱっち 石田柊馬
見たことのない猫がいる枕元 石部明
もうひとり落ちてくるまで穴はたいくつ 広瀬ちえみ
どうせ煮られるなら視聴者参加型 兵頭全郎
都合よく転校生は蟻まみれ 小池正博
「ひなまつり」の句に私が「川柳らしさ」を感じるのは「は」の使い方である。
「母親はもったいないがだましよい」という古川柳の問答体の遠い響きを感じるのだ。
ひなまつり力道山は黒ぱっち(川柳)
ひなまつり力道山の黒ぱっち(俳句)
けれども、俳人は「力道山の」とする、という。取合せ・配合の句となって、俳句のかたちになるのだろう。
もうひとつ落ちてくるまで穴はたいくつ(川柳)
もうひとつ落ちてくるまで秋の穴(俳句)
「穴はたいくつ」と言うのが川柳であり、そこが川柳のおもしろさになる。
けれども、こういう比較、改作にはあまり意味がないだろう。
すぐれた川柳とすぐれた俳句とを並べてみることにこそ意味はある。
第二部の句会ライブ、第三部の坪内稔典と木本朱夏との対談についてはここでは報告を省略する。
全体を通していろいろ考えるところがあった。攻めるべきところ、守るべきところがいろいろあると思ったが、今後の課題となる。
気になったのは塩見恵介が挙げていた次の句。
「この雪は俺が降らせた」「田中すげぇ」 吉田愛
現代歌人集会2014年(神戸)でも話題になった句で、ネットでも言及されたので私も記憶にあった。この作者はその後どうしているのか気になったが、俳句フィールドからは消えてしまったらしい。残念なことである。
伊丹の柿衞文庫には何度も行っているが、図書館ははじめてで、開催までの時間に館内を見て歩いた。閲覧室の詩歌コーナーには川柳関係の本も何冊かあり、先進的な取り組みをしている図書館のようだ。「タイトルだけで作家デビュー」の展示があって、自分で考えた架空の本のタイトルだけが1000枚近く壁に掲示してあるのがおもしろかった。
この日のフォーラムのテーマは「激突する!五七五 俳句VS川柳」で70名を超える参加者。川柳人の方が少し多かったようだ。
第一部はディスカッション「俳句らしさ、川柳らしさ」。パネラーは俳句側から塩見恵介・山本たくや、川柳側から芳賀博子・小池正博。
「俳句と川柳」についてはこれまでにもしばしば論じられてきたが、私の感想では実りや成果があったという話は聞いたことがない。「俳句らしさ」「川柳らしさ」を「俳句性」「川柳性」ととらえると、そのような区別は曖昧であり、有効ではなくなってしまう。実際、この日に四人が挙げた句を見てもあまり区別はないように感じられた。
もちろん、伝統俳句と伝統川柳とを比較すると違いが出てくるが、先端的な俳句と川柳とを比べてみても明確な違いは出てこない。それを無理に区別しようとすると、川柳性とは「うがち」だというような狭い川柳論になってしまう。これまでの柳俳異同論が有効ではなかったのは「規範」を求めてきたからだ。
しかし、個々の作品を見ると「俳句のてざわり」「川柳のてざわり」(感触)というものは感じられる。
歴史的にみると俳句と川柳は発生の違いがあって、発句が独立した俳句と、前句付の前句を省略して成立した川柳とはそれぞれの表現領域を拡大しながら今日に至っている。だから、「いま」の時点で共時的に見ると違いは明確ではない。「取合せ」と「前句からの飛躍」は結果的に区別がつかないのだ。
従って、ディスカッションに臨む私のスタンスは、「激突」はしないというものになった。
芳賀博子には私とは異なる意見・立場があったことだろう。「激突」した方が対立軸が明確になって面白いのだが、私は気がすすまなかった。
けれども、話し合っているうちに分かってきたことも多い。
私が現代川柳の代表句として挙げたのは次の五句である。
ひなまつり力道山は黒ぱっち 石田柊馬
見たことのない猫がいる枕元 石部明
もうひとり落ちてくるまで穴はたいくつ 広瀬ちえみ
どうせ煮られるなら視聴者参加型 兵頭全郎
都合よく転校生は蟻まみれ 小池正博
「ひなまつり」の句に私が「川柳らしさ」を感じるのは「は」の使い方である。
「母親はもったいないがだましよい」という古川柳の問答体の遠い響きを感じるのだ。
ひなまつり力道山は黒ぱっち(川柳)
ひなまつり力道山の黒ぱっち(俳句)
けれども、俳人は「力道山の」とする、という。取合せ・配合の句となって、俳句のかたちになるのだろう。
もうひとつ落ちてくるまで穴はたいくつ(川柳)
もうひとつ落ちてくるまで秋の穴(俳句)
「穴はたいくつ」と言うのが川柳であり、そこが川柳のおもしろさになる。
けれども、こういう比較、改作にはあまり意味がないだろう。
すぐれた川柳とすぐれた俳句とを並べてみることにこそ意味はある。
第二部の句会ライブ、第三部の坪内稔典と木本朱夏との対談についてはここでは報告を省略する。
全体を通していろいろ考えるところがあった。攻めるべきところ、守るべきところがいろいろあると思ったが、今後の課題となる。
気になったのは塩見恵介が挙げていた次の句。
「この雪は俺が降らせた」「田中すげぇ」 吉田愛
現代歌人集会2014年(神戸)でも話題になった句で、ネットでも言及されたので私も記憶にあった。この作者はその後どうしているのか気になったが、俳句フィールドからは消えてしまったらしい。残念なことである。
2016年10月21日金曜日
詩集・歌集・句集逍遥
宇宙。「吉田、金返せ」「ない。」「……なら、仕方ない」宇宙。 斉藤斎藤
歌集『人の道、死ぬと町』(短歌研究社)から。
2004年から2015年までの作品が収録されている。単独作、連作、詞書+短歌、文章など、さまざまなスタイルの作品がちりばめられていて退屈しない。短歌もいいな、と改めて感じる。
駅の人混みに紛れ込むと
すれ違う人みんなが
サヨリを
心の中に飼っているように
つんつん つんつん突いてくる
壺阪輝代詩集『けろけろ と』(土曜美術社)。「サヨリ」から。
「心」というテーマで書かれた詩が収録されている。
壺阪さんとは「第1回BSおかやま川柳大会」お目にかかった。彼女は『セレクション柳人・石部明集』の解説を書いていて、石部さんとのつながりでその日の選者もされていた。
懇親会で隣になったときに、連句の話になった。私が前句と付句との関係を話すと、壺阪さんは「それは詩で言えば連と連との関係になりますね」とおっしゃった。
それ以来、詩誌「ネビューラ」を送っていただいている。
鳥の巣に肩やはらかくして入る 岡野泰輔
赤ん坊花より遠いものを見て
夏暁のここにコップがあると思へ
小鳥来るあゝその窓に意味はない
初夢になんであなたが出てくるか
岡野泰輔句集『なめらかな世界の肉』(ふらんす堂)。
調べてみると、私は『俳コレ』を読んだときにこの作者の「いちばんのきれいなときを蛇でゐる」「プールまで二列に並ぶ不吉なり」「その橋を叩く菫と名をつけて」などの句にチェックを入れていた。読んでいて言葉の感覚がとてもぴったりしていて心地よい。
数の子さくさく人間関係が壊れ 瀬戸正洋
人は人を嫌ひて焼酎へ炭酸
夏の雨職場へ行きたくないと思ふ
虫売の祖国も売ってしまひけり
短日や胸ぐらつかまれてゐる姿勢
瀬戸正洋句集『へらへらと生まれ胃薬風邪薬』(邑書林)。
タイトルがユニークだし、句意もよくわかっておもしろい。
ただ、1ページ1句というのがかえって読みづらかった。
「この自販機は私、荒木が真心をこめて右手で補充しました」 斉藤斎藤
「荒木と真心」というタイトルで二首並べられているうちの一首。
固有名詞を使った歌がときどき出てくる。
「君との暮らしがはじまるだろう(仮)」では青木さん。
清談の酒家点在す梅花村 九里順子
わたくしの胸の振子は桃柳
山水を懐胎させて二人かな
滝はまた雲気となりて白き山羊
爽籟に書を読むここは白鹿洞
九里順子句集『風景』(邑書林)。
俳句フィールドの周縁ではなくてセンターで書かれているという印象の句集。
掲出句は「キッチュ山水」の章から。山水画をモチーフにして、いかにも山水画っぽい仕立てで作られている。
樹の精と身は濡れて立つ朝の斧 中川一
扉はいつか枯れ野へひらくマタイ伝
ひまわりふえる 少女のままの飼育箱
銀河から一筋ずれる坂の咳
約束の時間が過ぎる薔薇の岸
川柳句集も紹介しよう。
中川一(なかがわ・はじめ)句集『蒼より遠く』(新葉館)。
「祖国」「父」「母」「私そして旅」「妻そして家族」「師そして友」というテーマで章立てされている。こういう大時代的なやり方は現在の大勢とは逆行するが、作者もそのことに自覚的で、次のように書いている。
「言葉から発想するこの時代に、あえてこのような章分けをするのは、椙元紋太、房川素生、大山竹二、鈴木九葉、泉淳夫ほかの諸師が〝川柳は人間〟であり、だからこそ〝こころ〟、〝おもい〟を詠むと信じるからである」
私の川柳観とは異なるが、ひとつの川柳観に殉じるという点には敬意を表する。
句集に掲載されている作品も泉淳夫の系譜を受け継ぐものだろう。
如月の街 まぼろしの鶴吹かれ 泉淳夫
中川には川柳研究者としての仕事もあり、句集に収録されている「泉淳夫ノート」「天才児 小島六厘坊」は貴重な労作である。
喉の奥から父方の鹿 顔を出す 岩田多佳子
びしびしと輪ゴム飛ばしている発芽
虫ピンでとめるカーストの胸びれ
押さないで軟体動物通ります
寝ている水に声を掛けてはいけません
川柳句集をもう一冊。岩田多佳子句集『ステンレスの木』(あざみエージェント)。
岩田とは川柳句会でよく顔をあわせて、手練れの句を作るという印象があったが、こうして句集にまとめられると彼女の実力がはっきりと立上ってくる。やはり句集というものは必要だと思う。
川柳をはじめて12年。その間に作った2000句を500句まで絞り、そこから前田一石の選によって300句を句集にしたという。そういう作業によって一句一句の前で立ち止まって読める句集に仕上がっている。柳本々々の解説付き。
できることなら自分と結婚したかったと嫁が何やら得意げに言う 斉藤斎藤
歌集『人の道、死ぬと町』(短歌研究社)から。
2004年から2015年までの作品が収録されている。単独作、連作、詞書+短歌、文章など、さまざまなスタイルの作品がちりばめられていて退屈しない。短歌もいいな、と改めて感じる。
駅の人混みに紛れ込むと
すれ違う人みんなが
サヨリを
心の中に飼っているように
つんつん つんつん突いてくる
壺阪輝代詩集『けろけろ と』(土曜美術社)。「サヨリ」から。
「心」というテーマで書かれた詩が収録されている。
壺阪さんとは「第1回BSおかやま川柳大会」お目にかかった。彼女は『セレクション柳人・石部明集』の解説を書いていて、石部さんとのつながりでその日の選者もされていた。
懇親会で隣になったときに、連句の話になった。私が前句と付句との関係を話すと、壺阪さんは「それは詩で言えば連と連との関係になりますね」とおっしゃった。
それ以来、詩誌「ネビューラ」を送っていただいている。
鳥の巣に肩やはらかくして入る 岡野泰輔
赤ん坊花より遠いものを見て
夏暁のここにコップがあると思へ
小鳥来るあゝその窓に意味はない
初夢になんであなたが出てくるか
岡野泰輔句集『なめらかな世界の肉』(ふらんす堂)。
調べてみると、私は『俳コレ』を読んだときにこの作者の「いちばんのきれいなときを蛇でゐる」「プールまで二列に並ぶ不吉なり」「その橋を叩く菫と名をつけて」などの句にチェックを入れていた。読んでいて言葉の感覚がとてもぴったりしていて心地よい。
数の子さくさく人間関係が壊れ 瀬戸正洋
人は人を嫌ひて焼酎へ炭酸
夏の雨職場へ行きたくないと思ふ
虫売の祖国も売ってしまひけり
短日や胸ぐらつかまれてゐる姿勢
瀬戸正洋句集『へらへらと生まれ胃薬風邪薬』(邑書林)。
タイトルがユニークだし、句意もよくわかっておもしろい。
ただ、1ページ1句というのがかえって読みづらかった。
「この自販機は私、荒木が真心をこめて右手で補充しました」 斉藤斎藤
「荒木と真心」というタイトルで二首並べられているうちの一首。
固有名詞を使った歌がときどき出てくる。
「君との暮らしがはじまるだろう(仮)」では青木さん。
清談の酒家点在す梅花村 九里順子
わたくしの胸の振子は桃柳
山水を懐胎させて二人かな
滝はまた雲気となりて白き山羊
爽籟に書を読むここは白鹿洞
九里順子句集『風景』(邑書林)。
俳句フィールドの周縁ではなくてセンターで書かれているという印象の句集。
掲出句は「キッチュ山水」の章から。山水画をモチーフにして、いかにも山水画っぽい仕立てで作られている。
樹の精と身は濡れて立つ朝の斧 中川一
扉はいつか枯れ野へひらくマタイ伝
ひまわりふえる 少女のままの飼育箱
銀河から一筋ずれる坂の咳
約束の時間が過ぎる薔薇の岸
川柳句集も紹介しよう。
中川一(なかがわ・はじめ)句集『蒼より遠く』(新葉館)。
「祖国」「父」「母」「私そして旅」「妻そして家族」「師そして友」というテーマで章立てされている。こういう大時代的なやり方は現在の大勢とは逆行するが、作者もそのことに自覚的で、次のように書いている。
「言葉から発想するこの時代に、あえてこのような章分けをするのは、椙元紋太、房川素生、大山竹二、鈴木九葉、泉淳夫ほかの諸師が〝川柳は人間〟であり、だからこそ〝こころ〟、〝おもい〟を詠むと信じるからである」
私の川柳観とは異なるが、ひとつの川柳観に殉じるという点には敬意を表する。
句集に掲載されている作品も泉淳夫の系譜を受け継ぐものだろう。
如月の街 まぼろしの鶴吹かれ 泉淳夫
中川には川柳研究者としての仕事もあり、句集に収録されている「泉淳夫ノート」「天才児 小島六厘坊」は貴重な労作である。
喉の奥から父方の鹿 顔を出す 岩田多佳子
びしびしと輪ゴム飛ばしている発芽
虫ピンでとめるカーストの胸びれ
押さないで軟体動物通ります
寝ている水に声を掛けてはいけません
川柳句集をもう一冊。岩田多佳子句集『ステンレスの木』(あざみエージェント)。
岩田とは川柳句会でよく顔をあわせて、手練れの句を作るという印象があったが、こうして句集にまとめられると彼女の実力がはっきりと立上ってくる。やはり句集というものは必要だと思う。
川柳をはじめて12年。その間に作った2000句を500句まで絞り、そこから前田一石の選によって300句を句集にしたという。そういう作業によって一句一句の前で立ち止まって読める句集に仕上がっている。柳本々々の解説付き。
できることなら自分と結婚したかったと嫁が何やら得意げに言う 斉藤斎藤
2016年10月15日土曜日
「短詩型文学の集い」レポート
10月10日、「短詩型文学の集い―連句への誘い」が大阪上本町・たかつガーデンで開催された。このイベントは「浪速の芭蕉祭」が10年目の節目を迎えたのにちなんで、その関連行事として実施されたもので、大阪天満宮の連句講・鷽の会(うそのかい)主催、俳諧寒菊堂連句振興基金の後援による。「連句人だけではなく、歌人・俳人・川柳人も含めて、短詩型文学に関心のある方々のご参加をお待ちしています」と呼びかけたが、当日30名程度の参加があり、その約半数が連句人、俳人が7名、あと川柳人と歌人が数名であった。短詩型文学は相互に関連しているから、どの入口から入ってもつながっており、隣接ジャンルのことを視野に入れておかなくてはいけないと私は思っているが、イベントの趣旨が拡散して焦点のぼやけた集まりになったのかもしれない。
会場には連句関連の本を展示し、句集の販売も行った。また、フリーペーパー・コーナーを設けて持ち帰り自由とした。展示した連句本の主なものを挙げると―
「夏の日」(東明雅)「芦丈翁俳諧聞書」(根津芦丈) 「落落鈔」(高橋玄一郎)「連句の魅力」(岡本春人)「連句をさぐる」(近松寿子)「蕉風連句の原点」(三好龍肝)「連句実作への道」(今泉宇涯)「連句歳時記」(阿片瓢郎)「橋閒石俳諧余談」(橋閒石)「俳諧手引」(高浜年尾)「連句恋々」(矢崎藍) 「超連句入門」(浅沼璞)「雪は昔も」(別所真紀子)「吉岡梅游連句俳句自選集」「連句辞典」「浪速の芭蕉祭入選作品集」「とよた連句まつり作品集」など、連句人以外の一般の人の目には触れにくい本も多い。
フリペでは月胡(毎野厚美)の連句漫画「両吟半歌仙・林檎の巻」が好評だった。
展示解説はパワーポイントを使い、「連句入門」では「打越」「付けと転じ」「三句の渡り」などの連句の要諦を解説した。
「現代連句への道」では子規の連俳否定論と虚子の連句肯定論、虚子につながる新派の連句を振り返り、これに対する旧派の連句や柳田国男などの民俗学系の連句などについて話した。1981年に「連句懇話会」が発足し、1988年に「連句協会」に改組、現在は「日本連句協会」となっている。現代の連句人の活動や連句諸形式についても触れた。
会場のある上本町付近には俳諧史跡が多い。昼の休憩時間に四ッ谷龍さんを案内して西鶴の墓がある誓願寺に行った。西鶴墓も以前に比べるとずいぶんきれいに整備されている。
午後の部では、まず「雑俳と付合文芸」について。
「関係性の文学」という視点から、私は雑俳に興味を持っている。近世雑俳から近代雑俳への流れのなかで代表的なものを紹介した。ご存じの方も多いだろうが、近代雑俳からいくつか挙げておきたい。
羊飼い まさか俺が狼とは 久佐太郎 (冠句)
指の股からのぞく嘘泣き 清阿弥 (淡路雑俳・二つ折・七七形式)
広い/地球を包む空色の風呂敷 土佐狂句(七五四)
やせたなア あの人の夢見るどたい 肥後狂句
木強漢刀ん先端で髭を剃っ(ぼっけもんかっなんさっでひげをそっ) 薩摩狂句
甘党は ようかんがえて 置く碁石 島谷吾六 (段駄羅)
言葉と言葉の関係性、笠題(冠句の題)と連句の前句の共通性、前句・付句の二句の関係性を五七五一句の中で実現する可能性など、いろいろ示唆を与えるところがありそうだ。
いよいよメインとなる四ッ谷龍との対談に入る。参加者の方々もこの時間帯を目当てに集まってこられたようである。
四ッ谷さんに出演を依頼した時点では句集発行のことは何も知らなかったが、タイミングよく句集『夢想の大地におがたまの花が降る』が上梓されたので、自然、この句集についての話が中心になった。
まずパワポで「おがたまの花」を紹介する。「おがたま」は漢字では小賀玉、招霊などと書き、神楽鈴はおがたまをかたどっているらしい。一円硬貨の図案もおがたまの木だと言われる。京都の白峯神社や熊野の速玉大社の樹が有名だが、東京では皇居の外苑でも見られ、大阪では私市の植物園や長居植物園にもあるそうだ。こういう花だから鎮魂の意味が込められているのだろう。
連作俳句について、四ッ谷は「連作は現代俳句では否定的に見られることが多かったが、最近では関悦史の『六十億本の回転する曲がった棒』など連作を試みる人が出てきた」と述べ、今度の句集から「枯野人」と「なんばんぎせる」の連作を挙げた。「枯野人」の方は上五または下五で使われているのに対して、「なんばんぎせる」の方は中七を固定して使われていて、「なにぬねの」を使った連作のひとつだ。雑誌に発表したときは評判がよくなかったそうだ。なぜ「なにぬねの」なのかという私の質問には、「さしすせそ」や「らりるれろ」ではバカバカしい感じが出ないということだった。さらに、私がもっとも聞きたかったのは、この「なんばんぎせる」が入っている章が「言語の学習」というタイトルになっている理由である。震災の連作と「なにぬねの」連作が交互に配置されているのはなぜなのだろう。
四ッ谷はなぜ「いわきへ」行ったのかというところから始めた。震災後、いわきに人が来なくなったので、危機感をもった地元の方が俳人に声をかけてツアーを呼びかけた。現地を見ないといけないと思ったが、そこで俳句を作るかどうかは決めていなかったという。ツアーに参加した俳人の一人が俳句を作りはじめ、他の俳人たちも緊張感のなかで作句した。現地のひとたちのもてなしをうけるなかで、単に「ありがとう」と言うだけではすまないと感じたようだ。その間の状況について俳句創作集『いわきへ』では次のように述べられている。
「われわれは、かならずしも現地で俳句を作ろうと思ってこの旅に参加したわけではありませんでした。被災地を題材にして俳句を制作するというようなことは、むしろ非常にむずかしいのではないかと、考えていたかもしれません。しかし、昼に被災地を自分たちの目で見て、その夜さまざまに語らう中で、参加者の一人が、『俳句を作ろう、お互いが作った句を交換しあおう』と提案したとき、それはやるべきことだと、全員が感じました」
その上で、なぜ「なんばんぎせる」などの句群と交互にしたかについて、彼はこんなふうに語った。いわきで作った句だけを並べると、いわゆる「震災句集」的ないやらしさが出てくる。俳人は善人づらをしてはいけない。そこで普通に並べるのではなくて何かをしなければいけない。被災地にゆくと言ってはいけないことがある。悲しみに声をあげるというようなことは、よそから来た者が言ってはいけない。だから震災地で創る俳句というのは、地雷をよけながら進んでゆくようなもの。逆に「なんばんぎせる」の句は言葉の縛りがある。表裏の関係だが、ある制約のなかで俳句を作っているという意味では共通性があることに気がついた。
そういう意味で、震災という事態を目の前にしたときに、俳句をつくるという行為は「言語の学習」だったのである。
小津夜景はブログでこんなふうに書いている。
「四ッ谷は〈夢想の大地〉という異界を桃ならぬおがたまの花に託して描いた。そしてそのとき芥川龍之介と(そしておそらく多くの俳人と)決定的に違ったのは、別天地の活写を神話的文脈におもねらず、その代わりに数学用語をつかって成したことだ」
小津の言うように、句集の最後の章には数学用語が出てくるし、ちょうど「数学俳句」のイベントが数日前に開催されたばかりだったので、俳句と数学の関係についても聞いてみた。彼はルービックキューブを使って説明してくれたが、ここでは詳細は省略する。
四ッ谷の話のなかで出てきた若手俳人は鴇田智哉、北大路翼などであり、四ッ谷自身の代表作は何かという会場からの質問に対しては「遠くから人還り来るまむし草」を挙げた。そのほかにも興味深い話が多かったが、長くなるので切り上げておく。
対談中に話題にのぼった鴇田智哉や宮本佳世乃などが参加している俳誌「オルガン」次号では、浅沼璞をゲストに連句が話題になっているそうなので、これも楽しみだ。
最後に「連句ワークショップ」として、橋閒石の句を発句として非懐紙連句の最初の六句を巻いてみた。会場から付句を募集して、プロジェクターで句案をスクリーンに映しながら付け進めていった。連句の実況中継というおもむきで、今までにも行ったことがあるが、今回は連句人も多く、俳人・歌人も手練れの方々なので、付句がどんどん出てスムーズに進行した。
白露や老子の牛の盗まれて 閒石
揺れるともなく揺れる秋草 正博
もう歩けないならおんぶしてあげる 知昭
超過勤務に光ひとすじ ともこ
氷結の噴水を割る斧一閃 龍
ネックウォーマーレッグウォーマー みどり
会場を一日使えたので、連句本の展示、フリマ、連句入門、近代連句史、連句と短詩型諸ジャンルとの関係、対談、ワークショップと、私のやってみたかったアイデアはほぼ出し尽くすことができた。フリマといっても「浪速の芭蕉祭」と四ッ谷さんの本だけで他に出店はなかったし、フリーペーパー・フリーマガジンもあまり集まらず、イベントとして成功したかどうかには疑問もあるが、参加者の中には一日を通して聴いていただいた方もいたのは嬉しかった。私が頭の中で考えたことであっても、現実化するとどんな結果になるのか分からない。何もしないよりは実施してみてよかったのかなと思っている。
会場には連句関連の本を展示し、句集の販売も行った。また、フリーペーパー・コーナーを設けて持ち帰り自由とした。展示した連句本の主なものを挙げると―
「夏の日」(東明雅)「芦丈翁俳諧聞書」(根津芦丈) 「落落鈔」(高橋玄一郎)「連句の魅力」(岡本春人)「連句をさぐる」(近松寿子)「蕉風連句の原点」(三好龍肝)「連句実作への道」(今泉宇涯)「連句歳時記」(阿片瓢郎)「橋閒石俳諧余談」(橋閒石)「俳諧手引」(高浜年尾)「連句恋々」(矢崎藍) 「超連句入門」(浅沼璞)「雪は昔も」(別所真紀子)「吉岡梅游連句俳句自選集」「連句辞典」「浪速の芭蕉祭入選作品集」「とよた連句まつり作品集」など、連句人以外の一般の人の目には触れにくい本も多い。
フリペでは月胡(毎野厚美)の連句漫画「両吟半歌仙・林檎の巻」が好評だった。
展示解説はパワーポイントを使い、「連句入門」では「打越」「付けと転じ」「三句の渡り」などの連句の要諦を解説した。
「現代連句への道」では子規の連俳否定論と虚子の連句肯定論、虚子につながる新派の連句を振り返り、これに対する旧派の連句や柳田国男などの民俗学系の連句などについて話した。1981年に「連句懇話会」が発足し、1988年に「連句協会」に改組、現在は「日本連句協会」となっている。現代の連句人の活動や連句諸形式についても触れた。
会場のある上本町付近には俳諧史跡が多い。昼の休憩時間に四ッ谷龍さんを案内して西鶴の墓がある誓願寺に行った。西鶴墓も以前に比べるとずいぶんきれいに整備されている。
午後の部では、まず「雑俳と付合文芸」について。
「関係性の文学」という視点から、私は雑俳に興味を持っている。近世雑俳から近代雑俳への流れのなかで代表的なものを紹介した。ご存じの方も多いだろうが、近代雑俳からいくつか挙げておきたい。
羊飼い まさか俺が狼とは 久佐太郎 (冠句)
指の股からのぞく嘘泣き 清阿弥 (淡路雑俳・二つ折・七七形式)
広い/地球を包む空色の風呂敷 土佐狂句(七五四)
やせたなア あの人の夢見るどたい 肥後狂句
木強漢刀ん先端で髭を剃っ(ぼっけもんかっなんさっでひげをそっ) 薩摩狂句
甘党は ようかんがえて 置く碁石 島谷吾六 (段駄羅)
言葉と言葉の関係性、笠題(冠句の題)と連句の前句の共通性、前句・付句の二句の関係性を五七五一句の中で実現する可能性など、いろいろ示唆を与えるところがありそうだ。
いよいよメインとなる四ッ谷龍との対談に入る。参加者の方々もこの時間帯を目当てに集まってこられたようである。
四ッ谷さんに出演を依頼した時点では句集発行のことは何も知らなかったが、タイミングよく句集『夢想の大地におがたまの花が降る』が上梓されたので、自然、この句集についての話が中心になった。
まずパワポで「おがたまの花」を紹介する。「おがたま」は漢字では小賀玉、招霊などと書き、神楽鈴はおがたまをかたどっているらしい。一円硬貨の図案もおがたまの木だと言われる。京都の白峯神社や熊野の速玉大社の樹が有名だが、東京では皇居の外苑でも見られ、大阪では私市の植物園や長居植物園にもあるそうだ。こういう花だから鎮魂の意味が込められているのだろう。
連作俳句について、四ッ谷は「連作は現代俳句では否定的に見られることが多かったが、最近では関悦史の『六十億本の回転する曲がった棒』など連作を試みる人が出てきた」と述べ、今度の句集から「枯野人」と「なんばんぎせる」の連作を挙げた。「枯野人」の方は上五または下五で使われているのに対して、「なんばんぎせる」の方は中七を固定して使われていて、「なにぬねの」を使った連作のひとつだ。雑誌に発表したときは評判がよくなかったそうだ。なぜ「なにぬねの」なのかという私の質問には、「さしすせそ」や「らりるれろ」ではバカバカしい感じが出ないということだった。さらに、私がもっとも聞きたかったのは、この「なんばんぎせる」が入っている章が「言語の学習」というタイトルになっている理由である。震災の連作と「なにぬねの」連作が交互に配置されているのはなぜなのだろう。
四ッ谷はなぜ「いわきへ」行ったのかというところから始めた。震災後、いわきに人が来なくなったので、危機感をもった地元の方が俳人に声をかけてツアーを呼びかけた。現地を見ないといけないと思ったが、そこで俳句を作るかどうかは決めていなかったという。ツアーに参加した俳人の一人が俳句を作りはじめ、他の俳人たちも緊張感のなかで作句した。現地のひとたちのもてなしをうけるなかで、単に「ありがとう」と言うだけではすまないと感じたようだ。その間の状況について俳句創作集『いわきへ』では次のように述べられている。
「われわれは、かならずしも現地で俳句を作ろうと思ってこの旅に参加したわけではありませんでした。被災地を題材にして俳句を制作するというようなことは、むしろ非常にむずかしいのではないかと、考えていたかもしれません。しかし、昼に被災地を自分たちの目で見て、その夜さまざまに語らう中で、参加者の一人が、『俳句を作ろう、お互いが作った句を交換しあおう』と提案したとき、それはやるべきことだと、全員が感じました」
その上で、なぜ「なんばんぎせる」などの句群と交互にしたかについて、彼はこんなふうに語った。いわきで作った句だけを並べると、いわゆる「震災句集」的ないやらしさが出てくる。俳人は善人づらをしてはいけない。そこで普通に並べるのではなくて何かをしなければいけない。被災地にゆくと言ってはいけないことがある。悲しみに声をあげるというようなことは、よそから来た者が言ってはいけない。だから震災地で創る俳句というのは、地雷をよけながら進んでゆくようなもの。逆に「なんばんぎせる」の句は言葉の縛りがある。表裏の関係だが、ある制約のなかで俳句を作っているという意味では共通性があることに気がついた。
そういう意味で、震災という事態を目の前にしたときに、俳句をつくるという行為は「言語の学習」だったのである。
小津夜景はブログでこんなふうに書いている。
「四ッ谷は〈夢想の大地〉という異界を桃ならぬおがたまの花に託して描いた。そしてそのとき芥川龍之介と(そしておそらく多くの俳人と)決定的に違ったのは、別天地の活写を神話的文脈におもねらず、その代わりに数学用語をつかって成したことだ」
小津の言うように、句集の最後の章には数学用語が出てくるし、ちょうど「数学俳句」のイベントが数日前に開催されたばかりだったので、俳句と数学の関係についても聞いてみた。彼はルービックキューブを使って説明してくれたが、ここでは詳細は省略する。
四ッ谷の話のなかで出てきた若手俳人は鴇田智哉、北大路翼などであり、四ッ谷自身の代表作は何かという会場からの質問に対しては「遠くから人還り来るまむし草」を挙げた。そのほかにも興味深い話が多かったが、長くなるので切り上げておく。
対談中に話題にのぼった鴇田智哉や宮本佳世乃などが参加している俳誌「オルガン」次号では、浅沼璞をゲストに連句が話題になっているそうなので、これも楽しみだ。
最後に「連句ワークショップ」として、橋閒石の句を発句として非懐紙連句の最初の六句を巻いてみた。会場から付句を募集して、プロジェクターで句案をスクリーンに映しながら付け進めていった。連句の実況中継というおもむきで、今までにも行ったことがあるが、今回は連句人も多く、俳人・歌人も手練れの方々なので、付句がどんどん出てスムーズに進行した。
白露や老子の牛の盗まれて 閒石
揺れるともなく揺れる秋草 正博
もう歩けないならおんぶしてあげる 知昭
超過勤務に光ひとすじ ともこ
氷結の噴水を割る斧一閃 龍
ネックウォーマーレッグウォーマー みどり
会場を一日使えたので、連句本の展示、フリマ、連句入門、近代連句史、連句と短詩型諸ジャンルとの関係、対談、ワークショップと、私のやってみたかったアイデアはほぼ出し尽くすことができた。フリマといっても「浪速の芭蕉祭」と四ッ谷さんの本だけで他に出店はなかったし、フリーペーパー・フリーマガジンもあまり集まらず、イベントとして成功したかどうかには疑問もあるが、参加者の中には一日を通して聴いていただいた方もいたのは嬉しかった。私が頭の中で考えたことであっても、現実化するとどんな結果になるのか分からない。何もしないよりは実施してみてよかったのかなと思っている。
2016年10月7日金曜日
文フリ・国文祭奈良・篠山
このところイベントが続いていて、ゆっくり川柳作品を書く時間がとれない。時間があればいい句が書けるというものでもないが、「実作」と「川柳発信の場づくり」とのバランスをとることは必要なのだろう。このごろよく頭に浮かぶのはキュレーターという言葉である。川柳の発信がひとつのシステムとして軌道に乗るためには、役割の分担が必要となる。以前はクリエーターとプロデューサーくらいの分け方で、川柳作品を書く人がいて、それを掲載する同人誌や結社誌を編集する人がいる、くらいのことで片がついていた。編集はけっこうエネルギーのいる仕事なので、作品を書きながら編集をするのは負担が大きく、クリエーターとプロデューサーを兼ねたりすると体調を崩したりする。役割分担が必要なのだが、川柳の場合はそんなことも言っていられない。
美術館にはよく行くのだが、美術展を企画し、企画したコンセプトに基づいて出品作品をリストアップして所蔵者と出品交渉をする学芸員の役割は重要だ。何をどう並べるかによって、常識を超える新しい視点が生まれたりする。そのような企画者をキュレーターと呼ぶらしい。キュレーターは単なる学芸員というより美術の新しい動向を生み出す創造者となる。文学の領域でも「編集者・漱石」というような視点や、編集そのものが創造なのだという考え方が生まれている。
たとえ規模は小さくても、同じようなことを川柳や連句でできないか、というようなことを考えたりする。私はいつから大風呂敷を広げるようになったのだろう。
9月18日、「第四回文学フリマ大阪」が堺市産業振興センターで開催された。最寄駅の中百舌鳥へは自宅から電車一本で30分もかからずに行けるので便利である。開場には午前10時過ぎに到着。出店するのは昨年に続き二回目なので、要領はわかっている。
私は2013年の第一回大阪開催のときに「文フリ」というものをはじめて体験してカルチャーショックを受けた。文学表現を発信する人、それを受容して購読する若い世代の人たちが世の中にはこんなにいるのだという驚きであった。ブースに置かれている冊子・フリーペーパーは、ふだん見慣れている川柳誌とは何と異なっていたことだろう。
短詩型では短歌の出店が多く、俳句がそれに続いている。残念ながら川柳の出店がなかったので、第二回文フリ大阪のときに申し込んでみたのだが、メールに不慣れなため出店申し込みが完了していなかった。第三回のときは失敗せずに出店することができて、「川柳界から唯一の出店」と虚勢を張ってみた。今年は文フリの雰囲気もよく分かり、落ち着いて営業することができたが、相変わらず残念なのは来場者の中に川柳人の姿がほとんど見られないことである。文フリは大多数の川柳人とは無縁であり、川柳発信の場とはとらえられていないということだろう。売れる・売れないは別として、川柳発信のひとつの場と考えないと経済利益上意味のないことになってしまう。
来年の1月22日には京都市勧業館「みやこめっせ」で文フリが開催されることになっていて、私も出店を予定しているが、状況が少しでも変わればいいと思っている。
10月1日は奈良県文化会館で「国民文化祭なら」連句の祭典のプレ大会が開催され、80数名の連句人が参加した。今年の「国文祭あいち(連句)」は10月30日に熱田神宮で開催されるが、来年は奈良である。そのプレ大会として行われたもので、「奈良県大芸術祭」の一環として参加。
近藤蕉肝(成蹊大学名誉教授)の講演「連句と神仏」は奈良と連句の関わりを歴史的に解説するだけでなく、国際的な視点から連句の重要性を指摘するものだった。近藤は山田孝雄の俳諧文法とチョムスキーの生成文法から普遍俳諧文法を着想。アメリカ留学中にジョン・ケイジと接触、ケイジと『RENGA』について話し合った。さらに、オクタビオ・パスの『RENGA』にも注目し、現在はパースの記号学と空海の密教理論を結び付けた普遍俳諧大系を模索している。近藤は国際連句や連句パフォーマンスの活動でも知られ、10月9日の「浪速の芭蕉祭」(大阪天満宮)でも国際連句の座を受けもつことになっている。
講演のあとは25座に分かれて連句実作が行われた。私の参加した座では小川廣男捌きで歌仙を巻きあげた。
10月2日は篠山で開催の「俳句と美術のコラボ展」の最終日。川柳人4名で見に行った。
JR新三田駅から小倉喜郎さんの車で会場へ。会場は小倉さんの母校だった篠山市後川(しずかわ)小学校である。
この展覧会は2年前から会合を重ね、制作・準備をして作り上げられたものだという。ふつう俳句と美術のコラボレーションといっても、俳句作品に絵を付けたり、美術作品を見て俳句を作るという程度のことだろうが、そういうものにはしたくないという主催者たちの強いこだわりがあって、異質のジャンルの表現者どうしのぶつかり合いの果てに生れた独自のアートになっている。したがって、俳人とアーティストがそれぞれ自己完結した作品を出して取り合わせるのではなくて、創造過程で葛藤や相互刺激が生まれることになる。場合によっては作品が完成せずに終わってしまったり、コラボするはずの相手が替わってしまうこともある。案内パンフには次のように書かれている。
○モノと言葉 モノと言葉を郵送し繋いでいき、それを時系列に展示する。
○場所と俳句 特定の場所からイメージされる象徴的な像を具体化する。
○俳句と俳画をライブで行う。
○俳句と映像のコラボ。
○俳人と音楽家による即興セッション。
○俳句とインタラクティブな装置とのコラボ。
○後川の情景をガラス絵と俳句で表現し、カルタも作成する。
具他的な作品についてはすでにネットでも紹介がでているし、言葉ではなかなか伝えづらいが、とても刺激的だった。
さて、同じようなことが川柳でもできるだろうか。川柳とアートとのコラボはありうるだろうか。それは促成栽培ではとてもかなえられないことであり、二人の異質な表現者が時間をかけて熟成させることによってはじめてかなうことである。この展覧会を見ながら、そういうことを強く感じた。
美術館にはよく行くのだが、美術展を企画し、企画したコンセプトに基づいて出品作品をリストアップして所蔵者と出品交渉をする学芸員の役割は重要だ。何をどう並べるかによって、常識を超える新しい視点が生まれたりする。そのような企画者をキュレーターと呼ぶらしい。キュレーターは単なる学芸員というより美術の新しい動向を生み出す創造者となる。文学の領域でも「編集者・漱石」というような視点や、編集そのものが創造なのだという考え方が生まれている。
たとえ規模は小さくても、同じようなことを川柳や連句でできないか、というようなことを考えたりする。私はいつから大風呂敷を広げるようになったのだろう。
9月18日、「第四回文学フリマ大阪」が堺市産業振興センターで開催された。最寄駅の中百舌鳥へは自宅から電車一本で30分もかからずに行けるので便利である。開場には午前10時過ぎに到着。出店するのは昨年に続き二回目なので、要領はわかっている。
私は2013年の第一回大阪開催のときに「文フリ」というものをはじめて体験してカルチャーショックを受けた。文学表現を発信する人、それを受容して購読する若い世代の人たちが世の中にはこんなにいるのだという驚きであった。ブースに置かれている冊子・フリーペーパーは、ふだん見慣れている川柳誌とは何と異なっていたことだろう。
短詩型では短歌の出店が多く、俳句がそれに続いている。残念ながら川柳の出店がなかったので、第二回文フリ大阪のときに申し込んでみたのだが、メールに不慣れなため出店申し込みが完了していなかった。第三回のときは失敗せずに出店することができて、「川柳界から唯一の出店」と虚勢を張ってみた。今年は文フリの雰囲気もよく分かり、落ち着いて営業することができたが、相変わらず残念なのは来場者の中に川柳人の姿がほとんど見られないことである。文フリは大多数の川柳人とは無縁であり、川柳発信の場とはとらえられていないということだろう。売れる・売れないは別として、川柳発信のひとつの場と考えないと経済利益上意味のないことになってしまう。
来年の1月22日には京都市勧業館「みやこめっせ」で文フリが開催されることになっていて、私も出店を予定しているが、状況が少しでも変わればいいと思っている。
10月1日は奈良県文化会館で「国民文化祭なら」連句の祭典のプレ大会が開催され、80数名の連句人が参加した。今年の「国文祭あいち(連句)」は10月30日に熱田神宮で開催されるが、来年は奈良である。そのプレ大会として行われたもので、「奈良県大芸術祭」の一環として参加。
近藤蕉肝(成蹊大学名誉教授)の講演「連句と神仏」は奈良と連句の関わりを歴史的に解説するだけでなく、国際的な視点から連句の重要性を指摘するものだった。近藤は山田孝雄の俳諧文法とチョムスキーの生成文法から普遍俳諧文法を着想。アメリカ留学中にジョン・ケイジと接触、ケイジと『RENGA』について話し合った。さらに、オクタビオ・パスの『RENGA』にも注目し、現在はパースの記号学と空海の密教理論を結び付けた普遍俳諧大系を模索している。近藤は国際連句や連句パフォーマンスの活動でも知られ、10月9日の「浪速の芭蕉祭」(大阪天満宮)でも国際連句の座を受けもつことになっている。
講演のあとは25座に分かれて連句実作が行われた。私の参加した座では小川廣男捌きで歌仙を巻きあげた。
10月2日は篠山で開催の「俳句と美術のコラボ展」の最終日。川柳人4名で見に行った。
JR新三田駅から小倉喜郎さんの車で会場へ。会場は小倉さんの母校だった篠山市後川(しずかわ)小学校である。
この展覧会は2年前から会合を重ね、制作・準備をして作り上げられたものだという。ふつう俳句と美術のコラボレーションといっても、俳句作品に絵を付けたり、美術作品を見て俳句を作るという程度のことだろうが、そういうものにはしたくないという主催者たちの強いこだわりがあって、異質のジャンルの表現者どうしのぶつかり合いの果てに生れた独自のアートになっている。したがって、俳人とアーティストがそれぞれ自己完結した作品を出して取り合わせるのではなくて、創造過程で葛藤や相互刺激が生まれることになる。場合によっては作品が完成せずに終わってしまったり、コラボするはずの相手が替わってしまうこともある。案内パンフには次のように書かれている。
○モノと言葉 モノと言葉を郵送し繋いでいき、それを時系列に展示する。
○場所と俳句 特定の場所からイメージされる象徴的な像を具体化する。
○俳句と俳画をライブで行う。
○俳句と映像のコラボ。
○俳人と音楽家による即興セッション。
○俳句とインタラクティブな装置とのコラボ。
○後川の情景をガラス絵と俳句で表現し、カルタも作成する。
具他的な作品についてはすでにネットでも紹介がでているし、言葉ではなかなか伝えづらいが、とても刺激的だった。
さて、同じようなことが川柳でもできるだろうか。川柳とアートとのコラボはありうるだろうか。それは促成栽培ではとてもかなえられないことであり、二人の異質な表現者が時間をかけて熟成させることによってはじめてかなうことである。この展覧会を見ながら、そういうことを強く感じた。
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