和歌の世界では女性の作者の歌が古代から連綿と続いているが、『菟玖波集』を読んでいて女性の連歌作者の存在に目の覚めるような思いがした。
もえわたる夜中の螢をしるべにて
みさをに物やおもひみだれん 後深草院弁内侍
あしの根のうき身はさぞとしりながら 後深草院少将内侍
弁内侍、少将内侍の祖父・藤原隆信、父・信実はともに肖像画家として知られる。信実の三人の娘は女流歌人として有名で、上から藻壁門院少将、後深草院弁内侍、後深草院少将内侍。弁内侍には『弁内侍日記』がある。二条良基の『筑波問答』には次のように書かれている。「後の嵯峨の御時は、この泉殿にて、御連歌年ごとに、庚申の日は必ず侍しなり。弁内侍・少将内侍などいふ女房連歌師、御簾のうちより紅の袴・衣の妻口押し出だして、香りみちて、心も及ばぬ句ども申し出だされ侍りしかば、人々感にたへず、高声に吟詠せられき」
女性の俳諧については別所真紀子の仕事が挙げられる。『芭蕉にひらかれた俳諧の女性史』(1989年、オリジン出版センター)『「言葉」を手にした市井の女たち』(1993年、同出版)は俳諧の女性史の基本文献である。前者は「芭蕉の女性観」をはじめ凡兆の妻の羽紅、乙州の母の智月、斯波園女などが取り上げられている。後者のタイトルの「言葉」には「エクリチュール」とルビがふられ、谷口田女、五十嵐浜藻などが論じられている。浜藻は別所の俳諧小説の主人公として描かれ、浜藻歌仙帖の連作『つらつら椿』『残る蛍』『浜藻 崎陽歌仙帖』は連句に興味のある読者にお勧めしたい。
あと、上野さち子著『女性俳句の世界』(1989年、岩波新書)は田捨女から細見綾子まで、近世から現代までの女性俳諧・俳句史を通覧するのに便利である。
では、川柳の世界ではどうだろうか。
川上三太郎の著書に『川柳200年』(1966年、読売新聞社)がある。その中の「女性の作品とその動向」という章で、三太郎は次のように書いている。
「戦後、川柳界でのいちじるしい二つの進出があった。一つは時事川柳の再発足で、これは別項に略記した。もう一つはいわゆる女性川柳作家の激増、これである。もちろんこの二つとも戦後にあらわれたのではない。戦後どころか戦前、大正、明治とさかのぼって、江戸川柳の中にすでに発芽していた。ここに女性の川柳作家について私の知っていることは、明治時代すでに彼女たちがいたことで、その中の二、三のかたにはお目にすらかかっている」
このように述べたあと、三太郎は明治36年(1903年)前後の女性作者の句を挙げている。三太郎が挙げているのは次のような作品である(一部省略)。
キューピット矢の払底の度々困り 政女
ぼうぼうと毛のショールから人の首 京子
梓弓元の女房に会つたやう 素梅女
小説で読めば苦学は面白し 倭文子
詩の国へ法師を送る西遊記 はる子
恋に負けやうやく人となりすまし つる女
少し説明を加えておこう。阪井素梅女(さかい・そばいじょ)は阪井久良岐の妻である。明治37年、久良岐社の同人となる。
燕の絵アシラヒに雨五六本 阪井素梅女
俄雨帯を包むが女なり
美しく化けて公達迷はせる
梅の精西海へ飛んで千余年
伊藤政女(いとう・まさじょ)は作家の伊藤銀月の妻。自らも小説を書き、『川柳久良岐点』にも句が掲載されている。阪井久良岐は彼女を柳壇のジャンヌ・ダルクと呼んだという。
虞美人も詩迄詠めると気が付かず 伊藤政女
付けたりのやうに散花里を訪ひ
ならばその枕一つは借りたいな
二人にはつげずわたしは死にました
「虞美人」は司馬遷の『史記』に登場する項羽の愛姫、「散花里」は『源氏物語』の「花散里」の巻、「枕一つ」は「邯鄲一炊の夢」、「二人には」は万葉集の菟原処女(うないおとめ)や謡曲『求塚』など二人の男性から求婚された女性の物語が踏まえられている。
下山京子(しもやま・きょうこ)は岐陽子の名でも知られ、久良岐が「京子果して川柳に天才を有する乎」と驚嘆した才女。関西川柳社の創立にも加わっている。
同窓会ハズバンド連れ式部来る 京子
坊つちゃんの留守ラケットが笊になり
夏座敷当座は心落付かず
細い雨断頭台に啼く鴉
以上三名は久良岐系であり、明治期の女性川柳はおおむね阪井久良岐の指導下にあったようだ。
次に三太郎は大正時代の女性作家の句を挙げている。
踏み込んでならない場所を下に見る 信子
カーテンはいつからかおろされてゐた 茂子
ふと上げた睫毛言葉を待つてゐる しづ子
死なないで別れときどき逢ひませう 梅子
飲んでほし止めてもほしい酒をつぎ よし乃
大正時代になると新興川柳運動が起こり、井上剣花坊の柳尊寺系の女性作家が活躍するようになる。井上信子は剣花坊の妻だが、彼女のことはこの時評(2020年7月10日)で触れたことがあるので、ここでは略すことにする。
この色の襟が掛けたい藤の色 三笠しづ子
軟らかに抱いた兎の息づかい
これ以上人形らしくなり切れず
拭はるる涙をもつて逢ひに行く
ハッとしたやうに切られた花のふるへ
田中五呂八は「ふたりの女流作家論」(昭和4年5月「氷原」40号)で信子としづ子を並べて論じている。吉田茂子・麻生葭乃についてはここでは触れないが、それぞれ興味深い女性川柳人である。
三太郎の文章に戻ると、女性の作品を挙げたあと、彼は次のように述べている。
「ここで気がつくことは二、三の例外を除くと、句の眼の据えかたが、べつに男性作家となんら変わっていないということである。言いかえれば作者は女性であるが、句は〝おんな〟ではないということである」
「しかし、この時代としてはそうなのが当然で、比率からいっても、男性百に対して女性一ぐらいであるから、句がみんな〝男〟になっているのである。そこで私はいった。『女性の句とは作者が女であるということだけではない。句が〝おんな〟でなければならぬ』と。前掲明治、大正の中のいわゆる例外とされているとよ子、つる女、信子、茂子、しづ子、梅子、よし乃等々のそれらが、例外でなく本命であるようにならなければならぬ。私はそれに努めた。そして戦前、戦後の女性のあらかたは、従来の男の手になる川柳を伝承しているかに見えるが、やがては本来の女性にかえって〝おんな〟の句が撩乱と七彩の虹の橋を架けるであろう」
1960年代当時の川上三太郎の女性川柳に対する考え方がうかがえるが、現在の視点から見て、検討すべきいろいろな問題がありそうだ。
まず、「作者は女性であるが、句は〝おんな〟ではないということ」とはどういう意味だろうか。彼は「句がみんな〝男〟になっている」とも言っている。女性作家が川柳を書くのだから男性作家とは異なる独自の視点が必要だと言いたいのだろう。男性が主流である文芸ジャンルで女性の作者が従来の「男の眼」を通して世界をとらえ、作品を書くということは起こりがちだろう。その場合の「男の句」「女の句」とはどのようなものか。そもそも「男の句」「女の句」というようなものが現代川柳においてありうるのかということも問われなければならない。
三太郎は「従来の川柳」は「皮肉、風刺、洒落」とも言っているから、これらが「男の川柳」の内実というイメージだろう。(ただし、三太郎は詩性川柳に道を開いたひとりでもあるので、彼の川柳観には大きな幅がある。)また、「女の川柳」の本命としてとよ子、つる女、(井上)信子、(吉田)茂子、(三笠)しづ子、梅子、(麻生)よし乃などの名前が挙げられているのも三太郎の川柳観をさぐる手がかりとなる。また、三太郎は戦後の女性作家の句評も行っているので、ふたつ紹介しておく。
しようのないひとをふんわり包む笑み 時実新子
「意識してもしなくても、女性の天性の母性本能というものは、男性にさえ向けられるものである。それが漂っているのが感じられるから、この句は微笑の中に読めるのである」
献身の細胞一つ追憶記 福島真澄
「どんなに尽くしても飾っても、いってしまえば人間は単なる細胞にしか過ぎないという。下五の〝追憶記〟のむなしさが言外にあふれて、〝一つ〟という一人称の孤独感を印象づけてくる。この句想を定型にした窮屈さはマイナスである」
現在の眼から見て様々な問題を含みながら、三太郎には女性の川柳人を育てた功績がある。彼は「撩乱と七彩の虹の橋を架けるであろう」と言ったが、その代表的な存在が時実新子だった。
2021年2月26日金曜日
2021年2月19日金曜日
親句と疎句の感覚
今年は2月2日が節分、2月3日が立春だったが、その立春の日にネットで「連句新聞」が立ち上げられた。高松霞と門野優が昨秋から計画していたもので、立春の日に公開されたのは「春号」ということ。10グループの連句作品とトピックス「ひらがなかせん」が掲載されている。季刊になるようで、次号は発句が夏の連句が集められることになりそうだ。四季がそろえば、現代連句のアンソロジーとして貴重なものになるだろう。中村安伸がコラム「連句と時間」を書いていて、次のように言っている。
〈句を付けるにあたって難しく感じるのが、前句の一つ前の句、すなわち打越句との関係である。付句は打越句と関係が「あってはならない」とされていて、これは数ある連句のルールのうちでも特に重要なものである。
しかし、二句の関係を完全にゼロにすることは不可能である。私の解釈では、打越句と前句の関係と、前句と付句の関係が類似のものであってはならないということであり、このルールは「時間」に関係していると思う。〉
念のため用語の説明をしておくと、たとえば次の付合で
A 尻尾ぬらした狐しまった わだとしお
B 風吹けば吹くまま乱る雪女 別所真紀子
C 繰返し聴く「展覧会の絵」 田倉夕花
Cから見て、Aを打越(うちこし)、Bを前句(まえく)、Cを付句(つけく)と呼ぶ。AB及びBCはひとつの世界だが、AとCは別の世界。即ち、BをはさんでAからCへ転じる。
中村は「場の時間」と「個の時間」の二つの時間について述べているが、ここでは前句と付句の関係について「親句と疎句」という視点で書いてみたい。釈迢空の有名な短歌からはじめようか。
葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を 行きし人あり 釈迢空
『海やまのあひだ』のうち「島山」という連作十四首の第一首。作者は次のように言っている。「もとより此歌は、葛の花が踏みしだかれてゐたことを原因として、山道を行つた人を推理している訳ではない」(『自歌自註』)
これはどういうことだろう。この歌は三句切れで、上の句葛の花の風景は映像的で鮮やかだ。そこから通っていった人の姿の存在がありありと実感されたのである。この歌の成立は、原因があって結果があるというような因果律や意味のつながりによるものではなく、連想と感覚によって成り立っている。これを連句における発句と脇句との関係と捉えることもできる。上の句と下の句の意味の関連がわかりやすいから、「親句」(しんく)と言えるだろう。
次は斎藤茂吉。
たたかひは上海に起り居たりけり鳳仙花紅く散りゐたりけり 斎藤茂吉
この歌は茂吉の「分からぬ歌」(難解歌)としてよく取り上げられる。
「この一首は、上の句と下の句とが別々なやうに出来て居るために『分からぬ歌』の標本として後年に至るまで歌壇の材料になつたものである。併し、この一首などは、何でもないもので、讀者はただこの儘、文字どほりに受納れてくれればそれで好いのであつて、別に寓意も何もあつたものではないのである。」(「作歌四十年」)
上の句と下の句の意味つながりが一見すると無関係のように見えるのだろうが、茂吉は上の句の「戦争」を下の句で「鳳仙花」にあっさり変えてしまった。意味のつながりが分かりにくく飛躍感があるので「疎句」(そく)になるだろう。
定家は疎句に秀歌が多いと言ったと伝えられる。
親句・疎句は和歌で言うほか、連歌・連句でも言われる。
「歌には親句・疎句とて二つの体あり。連歌にはなきことにや」(心敬『ささめごと』)
ちなみに心敬の疎句としては次の付合が有名。
我が心たれにかたらむ秋の空
萩にゆふかぜ雲にかりがね 心敬(『新撰菟玖波集』)
連歌の起源や平安時代の連歌について今は触れないが、連歌が流行するにあたって、後鳥羽院と藤原定家の存在が大きい。連歌流行のベースにあるのは三句切れと体言止めだろう。
見渡せば山もと霞む水無瀬川夕は秋となに思ひけむ 後鳥羽院
春の夜の夢の浮橋と絶えして峰にわかるる横雲の空 藤原定家
後鳥羽院の上の句の状景から下の句の述懐(『枕草子』の「秋は夕暮れ」という美意識に対するアンチ)、定家の上の句の源氏物語の雰囲気から下の句の峰に別れてゆく雲の情景(恋)への幽玄と余情。
定家の新風は当初「達磨歌」と呼ばれて非難された。自分だけ悟っていて、他には理解できない歌である。
「今の世の歌をばすずろごとの様に思ひて、やや達磨宗など云ふ異名をつけて譏り嘲ける」(鴨長明『無明抄』)
しかし、現代の私たちの感覚からは定家の歌は難解ではないし、茂吉の難解歌すら連句人にとっては難解でも何でもない。わかりやすいものである。寺田寅彦の次の言葉は、そのことを物語っている。「常に俳諧に親しんでその潜在意識的連想の活動に慣らされたものから見ると、たとえば定家や西行の短歌の多数のものによって刺激される連想はあまりに顕在的であり、訴え方があらわであり過ぎるような気がするのをいかんともすることができない。斎藤茂吉氏の『赤光』の歌がわれわれを喜ばせたのはその歌の潜在的暗示に富むためであった」(「俳諧の本質的概論」『寺田寅彦随筆集』第三巻、岩波文庫)
付けと転じ、親句と疎句の感覚は連句実作を体験しないとなかなか分からない。付句が疎句ばかりになると連句は解体してしまうので、どのようにバランスをとるかが連句実作の要諦だろう。連句は座の文芸なので、その場に集まらないとできないものだが、コロナ禍のいまは逆にZoomなどのリモート連句の機会が増えているので、興味ある人は連句実作のチャンスがあることとと思う。
鴨長明は『無明抄』のなかで「歌はただ同じ詞なれども、続けがら・いひがらにてよくもあしくも聞ゆるなり」と書いている。藤原定家も「申さば、すべて詞に、あしきもなくよろしきも有るべからず。ただつづけがらにて、歌詞の優劣侍るべし」(『毎月抄』)と同様の考えを述べている。
すべては言葉の関係性の世界なのだ。
〈句を付けるにあたって難しく感じるのが、前句の一つ前の句、すなわち打越句との関係である。付句は打越句と関係が「あってはならない」とされていて、これは数ある連句のルールのうちでも特に重要なものである。
しかし、二句の関係を完全にゼロにすることは不可能である。私の解釈では、打越句と前句の関係と、前句と付句の関係が類似のものであってはならないということであり、このルールは「時間」に関係していると思う。〉
念のため用語の説明をしておくと、たとえば次の付合で
A 尻尾ぬらした狐しまった わだとしお
B 風吹けば吹くまま乱る雪女 別所真紀子
C 繰返し聴く「展覧会の絵」 田倉夕花
Cから見て、Aを打越(うちこし)、Bを前句(まえく)、Cを付句(つけく)と呼ぶ。AB及びBCはひとつの世界だが、AとCは別の世界。即ち、BをはさんでAからCへ転じる。
中村は「場の時間」と「個の時間」の二つの時間について述べているが、ここでは前句と付句の関係について「親句と疎句」という視点で書いてみたい。釈迢空の有名な短歌からはじめようか。
葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を 行きし人あり 釈迢空
『海やまのあひだ』のうち「島山」という連作十四首の第一首。作者は次のように言っている。「もとより此歌は、葛の花が踏みしだかれてゐたことを原因として、山道を行つた人を推理している訳ではない」(『自歌自註』)
これはどういうことだろう。この歌は三句切れで、上の句葛の花の風景は映像的で鮮やかだ。そこから通っていった人の姿の存在がありありと実感されたのである。この歌の成立は、原因があって結果があるというような因果律や意味のつながりによるものではなく、連想と感覚によって成り立っている。これを連句における発句と脇句との関係と捉えることもできる。上の句と下の句の意味の関連がわかりやすいから、「親句」(しんく)と言えるだろう。
次は斎藤茂吉。
たたかひは上海に起り居たりけり鳳仙花紅く散りゐたりけり 斎藤茂吉
この歌は茂吉の「分からぬ歌」(難解歌)としてよく取り上げられる。
「この一首は、上の句と下の句とが別々なやうに出来て居るために『分からぬ歌』の標本として後年に至るまで歌壇の材料になつたものである。併し、この一首などは、何でもないもので、讀者はただこの儘、文字どほりに受納れてくれればそれで好いのであつて、別に寓意も何もあつたものではないのである。」(「作歌四十年」)
上の句と下の句の意味つながりが一見すると無関係のように見えるのだろうが、茂吉は上の句の「戦争」を下の句で「鳳仙花」にあっさり変えてしまった。意味のつながりが分かりにくく飛躍感があるので「疎句」(そく)になるだろう。
定家は疎句に秀歌が多いと言ったと伝えられる。
親句・疎句は和歌で言うほか、連歌・連句でも言われる。
「歌には親句・疎句とて二つの体あり。連歌にはなきことにや」(心敬『ささめごと』)
ちなみに心敬の疎句としては次の付合が有名。
我が心たれにかたらむ秋の空
萩にゆふかぜ雲にかりがね 心敬(『新撰菟玖波集』)
連歌の起源や平安時代の連歌について今は触れないが、連歌が流行するにあたって、後鳥羽院と藤原定家の存在が大きい。連歌流行のベースにあるのは三句切れと体言止めだろう。
見渡せば山もと霞む水無瀬川夕は秋となに思ひけむ 後鳥羽院
春の夜の夢の浮橋と絶えして峰にわかるる横雲の空 藤原定家
後鳥羽院の上の句の状景から下の句の述懐(『枕草子』の「秋は夕暮れ」という美意識に対するアンチ)、定家の上の句の源氏物語の雰囲気から下の句の峰に別れてゆく雲の情景(恋)への幽玄と余情。
定家の新風は当初「達磨歌」と呼ばれて非難された。自分だけ悟っていて、他には理解できない歌である。
「今の世の歌をばすずろごとの様に思ひて、やや達磨宗など云ふ異名をつけて譏り嘲ける」(鴨長明『無明抄』)
しかし、現代の私たちの感覚からは定家の歌は難解ではないし、茂吉の難解歌すら連句人にとっては難解でも何でもない。わかりやすいものである。寺田寅彦の次の言葉は、そのことを物語っている。「常に俳諧に親しんでその潜在意識的連想の活動に慣らされたものから見ると、たとえば定家や西行の短歌の多数のものによって刺激される連想はあまりに顕在的であり、訴え方があらわであり過ぎるような気がするのをいかんともすることができない。斎藤茂吉氏の『赤光』の歌がわれわれを喜ばせたのはその歌の潜在的暗示に富むためであった」(「俳諧の本質的概論」『寺田寅彦随筆集』第三巻、岩波文庫)
付けと転じ、親句と疎句の感覚は連句実作を体験しないとなかなか分からない。付句が疎句ばかりになると連句は解体してしまうので、どのようにバランスをとるかが連句実作の要諦だろう。連句は座の文芸なので、その場に集まらないとできないものだが、コロナ禍のいまは逆にZoomなどのリモート連句の機会が増えているので、興味ある人は連句実作のチャンスがあることとと思う。
鴨長明は『無明抄』のなかで「歌はただ同じ詞なれども、続けがら・いひがらにてよくもあしくも聞ゆるなり」と書いている。藤原定家も「申さば、すべて詞に、あしきもなくよろしきも有るべからず。ただつづけがらにて、歌詞の優劣侍るべし」(『毎月抄』)と同様の考えを述べている。
すべては言葉の関係性の世界なのだ。
2021年2月12日金曜日
吉松澄子と杉野十佐一賞
第25回杉野十佐一賞の大賞を吉松澄子が受賞した(「おかじょうき川柳社」ホームページ)。受賞作は
風船がハーイと言えば空ですね 吉松澄子
題は (^O^)/ という絵文字である。応募者は作句にとまどったようだが、この絵文字は「ハーイ」という意味らしい。吉松は巧みに句に詠み込んでいる。
なかはられいこの選評を紹介する。
〈特選に推した作品である。風船と空では付きすぎだという意見があるかもしれない。だけど、そこを割り引いても、この句の持つ解放感と爽快感に、そして「ハーイ」という底抜けの明るさに、心を動かされた。だれかの手を離れて青空の奥へ奥へと昇ってゆく風船の映像もくっきりと見えるし、なにより「言えば空」という不思議な決めつけ方にも惹かれる。今年、すべての人が味わった閉塞感を少しのあいだ忘れさせてくれる作品だった〉
吉松の受賞は二度目となる。前回は第23回で、そのときの題は「黒」。
別室の黒羊羹はどうなるの 吉松澄子
吉松は松山の川柳グループ「GOKEN」のメンバー。『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房)の中西軒わのページで、私は「GOKEN」について次のように解説している。
〈松山は「俳都」と言われ、正岡子規の出身地であるだけでなく、近年は「俳句甲子園」で盛り上がっているが、実は川柳も盛んな都市なのだ。前田五健という人がいる。伊予鉄道につとめていたが、野球拳の創始者としても知られている。彼は高名な川柳人であった。
なんぼでもあるぞと滝の水は落ち 前田五健
この五建の名をとった「GOKEN」という川柳グループが松山にある。代表は原田否可立。吉松澄子や高橋こう子、中野千秋・井上せい子など、個性的な川柳人たちが集まっている。中西軒わもその一人だ〉
杉野十佐一は昭和26年に「おかじょうき川柳社」を設立。昭和54年に没するまで初代代表をつとめた。杉野十佐一賞という川柳界のなかで注目を集める賞で、二度も受賞したことは吉松澄子の実力をはっきりと示している。
「川柳スパイラル」掲載作品から吉松の句を抜き出しておく。
さりげないその言葉こそ常套手段 吉松澄子
誰のものですか鎖骨がうつくしい
正統派キャラメル識別番号は
あっそれはむかしのわたしわれもこう
きれいごと並べて遊びたいような
知っていたはずを解凍されちゃった
黒鍵のエチュード ぬけぬけと冬へ
こじらせるそんなつもりはない再会
心中をしようかなんてソーダ水
ぐれなくてよかった一房の葡萄
次に近刊の雑誌からいくつか紹介しておく。
「みしみし」8号(編集・三島ゆかり)は連句誌だが、連衆の短歌・俳句・川柳作品も掲載されている。川柳からは八上桐子が参加。
検査機のなかの気球ときた岬 八上桐子
桔梗切る鋏が夜も切ってしまう
三島ゆかりが〈八上桐子『hibi』を読む〉を書いている。三島は「私は俳人なので川柳の読み方を知っている訳ではない。丸腰で頭から読む」と書いているが、読者としては正当な読み方である。先入観なしに、一行の詩として川柳を読んでもらえばいいと思う。
あと田中槐が「岡井隆の俳句へのヴァリエ―ション」として短歌を書いているのに注目した。
絵の家に寒燈二ついや三つ 岡井隆
「三つ」だとわかつてゐるが「二つ」だと、否、一つだに見ようとはせず 田中槐
最後に「川柳ねじまき」7号から。
琉球硝子の気泡たちにも明日はある なかはられいこ
きょねんからことしを引いて残るもの
朝がきて空が青くて、なんか、ごめん
なかはらが前向きな句を書いているのが、こんな時代だから救われる。日常に対する愛着。
傘の骨透けてあざらしのまなざし 八上桐子
コロナ来る扁桃腺を乗り継いで 丸山進
古書店の奥まぼろしになる日常 青砥和子
よし今日から君は、だ、になれ 猫田千恵子
留守続くことまぶたをはぐくむこと 二村典子
待っている二月みたいな顔をして 瀧村小奈生
風船がハーイと言えば空ですね 吉松澄子
題は (^O^)/ という絵文字である。応募者は作句にとまどったようだが、この絵文字は「ハーイ」という意味らしい。吉松は巧みに句に詠み込んでいる。
なかはられいこの選評を紹介する。
〈特選に推した作品である。風船と空では付きすぎだという意見があるかもしれない。だけど、そこを割り引いても、この句の持つ解放感と爽快感に、そして「ハーイ」という底抜けの明るさに、心を動かされた。だれかの手を離れて青空の奥へ奥へと昇ってゆく風船の映像もくっきりと見えるし、なにより「言えば空」という不思議な決めつけ方にも惹かれる。今年、すべての人が味わった閉塞感を少しのあいだ忘れさせてくれる作品だった〉
吉松の受賞は二度目となる。前回は第23回で、そのときの題は「黒」。
別室の黒羊羹はどうなるの 吉松澄子
吉松は松山の川柳グループ「GOKEN」のメンバー。『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房)の中西軒わのページで、私は「GOKEN」について次のように解説している。
〈松山は「俳都」と言われ、正岡子規の出身地であるだけでなく、近年は「俳句甲子園」で盛り上がっているが、実は川柳も盛んな都市なのだ。前田五健という人がいる。伊予鉄道につとめていたが、野球拳の創始者としても知られている。彼は高名な川柳人であった。
なんぼでもあるぞと滝の水は落ち 前田五健
この五建の名をとった「GOKEN」という川柳グループが松山にある。代表は原田否可立。吉松澄子や高橋こう子、中野千秋・井上せい子など、個性的な川柳人たちが集まっている。中西軒わもその一人だ〉
杉野十佐一は昭和26年に「おかじょうき川柳社」を設立。昭和54年に没するまで初代代表をつとめた。杉野十佐一賞という川柳界のなかで注目を集める賞で、二度も受賞したことは吉松澄子の実力をはっきりと示している。
「川柳スパイラル」掲載作品から吉松の句を抜き出しておく。
さりげないその言葉こそ常套手段 吉松澄子
誰のものですか鎖骨がうつくしい
正統派キャラメル識別番号は
あっそれはむかしのわたしわれもこう
きれいごと並べて遊びたいような
知っていたはずを解凍されちゃった
黒鍵のエチュード ぬけぬけと冬へ
こじらせるそんなつもりはない再会
心中をしようかなんてソーダ水
ぐれなくてよかった一房の葡萄
次に近刊の雑誌からいくつか紹介しておく。
「みしみし」8号(編集・三島ゆかり)は連句誌だが、連衆の短歌・俳句・川柳作品も掲載されている。川柳からは八上桐子が参加。
検査機のなかの気球ときた岬 八上桐子
桔梗切る鋏が夜も切ってしまう
三島ゆかりが〈八上桐子『hibi』を読む〉を書いている。三島は「私は俳人なので川柳の読み方を知っている訳ではない。丸腰で頭から読む」と書いているが、読者としては正当な読み方である。先入観なしに、一行の詩として川柳を読んでもらえばいいと思う。
あと田中槐が「岡井隆の俳句へのヴァリエ―ション」として短歌を書いているのに注目した。
絵の家に寒燈二ついや三つ 岡井隆
「三つ」だとわかつてゐるが「二つ」だと、否、一つだに見ようとはせず 田中槐
最後に「川柳ねじまき」7号から。
琉球硝子の気泡たちにも明日はある なかはられいこ
きょねんからことしを引いて残るもの
朝がきて空が青くて、なんか、ごめん
なかはらが前向きな句を書いているのが、こんな時代だから救われる。日常に対する愛着。
傘の骨透けてあざらしのまなざし 八上桐子
コロナ来る扁桃腺を乗り継いで 丸山進
古書店の奥まぼろしになる日常 青砥和子
よし今日から君は、だ、になれ 猫田千恵子
留守続くことまぶたをはぐくむこと 二村典子
待っている二月みたいな顔をして 瀧村小奈生
2021年2月5日金曜日
短歌と川柳の交流、新しいステージへ
短歌ムック「ねむらない樹」6号に第三回笹井宏之賞が発表されている。大賞は乾遙香「夢のあとさき」。全50首のうち3首紹介する。
飛ばされた帽子を帽子を飛ばされた人とわたしで追いかけました 乾遙香
わたしとの無言の時間に耐えかねた男の子がかけてくれる音楽
わたしがいたことしか覚えていないというその夢のわたしに任せよう
「わたしがいつか短歌で賞をもらうことがあるなら、それは笹井宏之賞だろうと第一回から信じていました」と作者は〈受賞の言葉〉に書いている。「わたし」と相手との関係性が「わたし」の側から詠まれている。私性と恋と夢。幽玄や余情を現代的に詠もうとすれば、こんなふうになるのかなとあらぬことを思った。
「ねむらない樹」の特集はほかに黒瀬珂瀾、現代川柳の衝撃、アンケート2020年の収穫、『林檎貫通式』を読む、と内容満載。特集3「現代川柳の衝撃」では
樋口由起子「短歌読者のための現代川柳案内 五七五のせかい」
川合大祐・暮田真名・柳本々々・飯島章友・正岡豊・初谷むい(それぞれ川柳5句と短歌5首)
座談会「現代川柳は命綱なしのポエジー」(小池正博・瀬戸夏子・なかはられいこ)
という内容になっている。
「川柳は命綱がなくポエジーだけで生きている」(瀬戸夏子)とか「川柳は上達するのか?」(暮田真名)とか、言ってくれるじゃないのという発言が随所に見られる。
「短歌人」2月号に笹川諒が「現代川柳が面白い」を書いていて、『はじめまして現代川柳』のことが紹介されている。笹川は「私が現代川柳に興味を持ったのは、笹井宏之さんのブログ『些細』がきっかけだった」という。2008年6月26日の記事で「『うがち』や『おかしみ』だけではない現代詩にも負けないようなポエジーにあふれた現代川柳たくさんあるのになあ」と笹井宏之が書いているそうだ。
口開けば鳥が飛び出すから黙る なかはられいこ
どうしても声のかわりに鹿が出る あぶないっていうだけであぶない 笹井宏之
笹川諒はこの二つを並べて紹介したあと、「笹井さんの歌の上の句が、川柳としても成立することに気がついた」という。とっても興味深い。
このところ管見に入ったなかで出色の川柳作品を書いているのが我妻俊樹である。
歌人で怪談作家でもある我妻はもともと巧みな川柳を書いていて、私の手元には『眩しすぎる星を減らしてくれ』という冊子がある。2018年5月「川柳スパイラル東京句会」に彼を招いたときに作ってもらった百句を収録。
沿線のところどころにある気絶 我妻俊樹
おにいさん絶滅前に光ろうか
その後も我妻の川柳はときどき読んでいたが、このたびネットプリント「ウマとヒマワリ12」で彼の作品をまとめて読むことができた。現代川柳の作者の句と比べても遜色がない作品が並んでいる。
書き順を忘れられない町がある 我妻俊樹
あなたにもランプの芯があるはずだ
玉虫と決めたらずっとそうしてる
八階の野菊売り場が荒らされた
「ウマとヒマワリ12」では平岡直子が俳句を書いている。平岡も上質の川柳の書き手であるが、一年前の「ウマとヒマワリ7」の特別対談ではこんなふうに言っていた。
「川柳だったら短歌とは別ファイルではありつつ同じアカウント内で作れるけど、俳句は無理。俳句も慣れてくると短歌と並行して作ることはできるけど、それは単に切り替えが早くなるだけで、同一アカウントとして作れるようになる日は来ないと思う」
短歌と川柳は同一アカウントのなかの別ファイル
短歌と俳句はアカウントが違う
という捉え方である。
もうひとつ、ネットプリント「砕氷船」もおもしろい試みをしている。暮田真名(川柳人)・斉藤志保(俳人)・榊原紘(歌人)のユニットだが「砕氷船」第二号では暮田が俳句を、斉藤が短歌を、榊原が川柳を書いている。ここでは暮田の俳句と「ウマとヒマワリ」の平岡の俳句を並べてみたい。
冬麗それなら鰐を飼うといい 暮田真名(「砕氷船」)
鶴以外すべて逆さの文字になる 暮田真名
寒椿わたしが銃を構えたか 平岡直子(「ウマとヒマワリ」)
冬の滝ゆえきらめいてかまわない 平岡直子
暮田は俳句を書いても自然に川柳になっているし、平岡は俳句の季語に近づきつつ独自の感覚を出していて刺激的だ。
「ねむらない樹」6号の対談でなかはられいこが語っているように、川柳人と歌人との交流は「ラエティティア」以来、一部で続けられてきた。
いま短歌と川柳の交流は新しいステージに入ったようだ。かつて「ジャンルの越境」が言われたことがあったが、「越境」というのは自分のフィールドを守ったうえで、他のジャンルにも手を出してみるというニュアンスがある。もちろん自分のフィールドは大切にしなければならないが、現在はジャンルの定義にこだわるのではなくて、実作を通じて形式の違いを語ることのできる作者が増えてきている。「ねむらない樹」の座談会の最後でなかはられいこは川柳について「荒らされるほど実っていないので、開墾しにきてください。短歌の人たちにも一緒に鍬持ってもらって、耕していけたらいいなと思っています」と言っている。
ほんとうにそんなふうになったら、おもしろいね。
飛ばされた帽子を帽子を飛ばされた人とわたしで追いかけました 乾遙香
わたしとの無言の時間に耐えかねた男の子がかけてくれる音楽
わたしがいたことしか覚えていないというその夢のわたしに任せよう
「わたしがいつか短歌で賞をもらうことがあるなら、それは笹井宏之賞だろうと第一回から信じていました」と作者は〈受賞の言葉〉に書いている。「わたし」と相手との関係性が「わたし」の側から詠まれている。私性と恋と夢。幽玄や余情を現代的に詠もうとすれば、こんなふうになるのかなとあらぬことを思った。
「ねむらない樹」の特集はほかに黒瀬珂瀾、現代川柳の衝撃、アンケート2020年の収穫、『林檎貫通式』を読む、と内容満載。特集3「現代川柳の衝撃」では
樋口由起子「短歌読者のための現代川柳案内 五七五のせかい」
川合大祐・暮田真名・柳本々々・飯島章友・正岡豊・初谷むい(それぞれ川柳5句と短歌5首)
座談会「現代川柳は命綱なしのポエジー」(小池正博・瀬戸夏子・なかはられいこ)
という内容になっている。
「川柳は命綱がなくポエジーだけで生きている」(瀬戸夏子)とか「川柳は上達するのか?」(暮田真名)とか、言ってくれるじゃないのという発言が随所に見られる。
「短歌人」2月号に笹川諒が「現代川柳が面白い」を書いていて、『はじめまして現代川柳』のことが紹介されている。笹川は「私が現代川柳に興味を持ったのは、笹井宏之さんのブログ『些細』がきっかけだった」という。2008年6月26日の記事で「『うがち』や『おかしみ』だけではない現代詩にも負けないようなポエジーにあふれた現代川柳たくさんあるのになあ」と笹井宏之が書いているそうだ。
口開けば鳥が飛び出すから黙る なかはられいこ
どうしても声のかわりに鹿が出る あぶないっていうだけであぶない 笹井宏之
笹川諒はこの二つを並べて紹介したあと、「笹井さんの歌の上の句が、川柳としても成立することに気がついた」という。とっても興味深い。
このところ管見に入ったなかで出色の川柳作品を書いているのが我妻俊樹である。
歌人で怪談作家でもある我妻はもともと巧みな川柳を書いていて、私の手元には『眩しすぎる星を減らしてくれ』という冊子がある。2018年5月「川柳スパイラル東京句会」に彼を招いたときに作ってもらった百句を収録。
沿線のところどころにある気絶 我妻俊樹
おにいさん絶滅前に光ろうか
その後も我妻の川柳はときどき読んでいたが、このたびネットプリント「ウマとヒマワリ12」で彼の作品をまとめて読むことができた。現代川柳の作者の句と比べても遜色がない作品が並んでいる。
書き順を忘れられない町がある 我妻俊樹
あなたにもランプの芯があるはずだ
玉虫と決めたらずっとそうしてる
八階の野菊売り場が荒らされた
「ウマとヒマワリ12」では平岡直子が俳句を書いている。平岡も上質の川柳の書き手であるが、一年前の「ウマとヒマワリ7」の特別対談ではこんなふうに言っていた。
「川柳だったら短歌とは別ファイルではありつつ同じアカウント内で作れるけど、俳句は無理。俳句も慣れてくると短歌と並行して作ることはできるけど、それは単に切り替えが早くなるだけで、同一アカウントとして作れるようになる日は来ないと思う」
短歌と川柳は同一アカウントのなかの別ファイル
短歌と俳句はアカウントが違う
という捉え方である。
もうひとつ、ネットプリント「砕氷船」もおもしろい試みをしている。暮田真名(川柳人)・斉藤志保(俳人)・榊原紘(歌人)のユニットだが「砕氷船」第二号では暮田が俳句を、斉藤が短歌を、榊原が川柳を書いている。ここでは暮田の俳句と「ウマとヒマワリ」の平岡の俳句を並べてみたい。
冬麗それなら鰐を飼うといい 暮田真名(「砕氷船」)
鶴以外すべて逆さの文字になる 暮田真名
寒椿わたしが銃を構えたか 平岡直子(「ウマとヒマワリ」)
冬の滝ゆえきらめいてかまわない 平岡直子
暮田は俳句を書いても自然に川柳になっているし、平岡は俳句の季語に近づきつつ独自の感覚を出していて刺激的だ。
「ねむらない樹」6号の対談でなかはられいこが語っているように、川柳人と歌人との交流は「ラエティティア」以来、一部で続けられてきた。
いま短歌と川柳の交流は新しいステージに入ったようだ。かつて「ジャンルの越境」が言われたことがあったが、「越境」というのは自分のフィールドを守ったうえで、他のジャンルにも手を出してみるというニュアンスがある。もちろん自分のフィールドは大切にしなければならないが、現在はジャンルの定義にこだわるのではなくて、実作を通じて形式の違いを語ることのできる作者が増えてきている。「ねむらない樹」の座談会の最後でなかはられいこは川柳について「荒らされるほど実っていないので、開墾しにきてください。短歌の人たちにも一緒に鍬持ってもらって、耕していけたらいいなと思っています」と言っている。
ほんとうにそんなふうになったら、おもしろいね。
2021年1月29日金曜日
川柳の徹夜句会
大学の講義のオンライン化に伴い、学生のやる気が低下しているという新聞記事を読んだ。授業もリモートが多くなって、学生の学ぶ意欲が盛り上がらないのだろう。ナマの会話に比べてリモートではコミュニケーションがとりにくいし、たとえ講義のクオリティが高くても、人は雑談などの機会を通じて意欲が高まるというのも本当だ。
句会のオンライン化も一部で進んでいる。私はリモート連句しか経験がないが、プラス・マイナス両面があるのは当然である。リモートなら遠隔地でふだん会えない人とも一座できるメリットがある。リモートでは会話がはずまないというのも場合によるので、おしゃべりなオジサンが集まっているから会話はとぎれないという話も聞く。前提となる人間関係がすでにできている場合は問題ないが、初対面どうしだとむずかしいだろう。
連句の場合は高齢者が多いから、オンラインではハードルが高いこともありそうだ。そうするとスキルを持っている人に範囲が限られて広がりがなくなってしまうという問題が生まれてくる。Zoomを使いこなせる人が楽しく連句を続けているのに、ナマの句会でないと参加できない人が遠ざかってゆくことになる。また、座というものは微妙なものだから、たとえスキルがあってもどの座にでも誰でも入っていけるわけでもない。
ほとんど家にこもっているので、川柳の方もあまり情報が入ってこない。おもしろくないので、川柳誌のバックナンバーを読んだりして憂さを晴らしている。今回は「川柳平安」のバックナンバーから、徹夜句会のことを紹介してみよう。
「バックストローク」のときに、「ねむらん会」という徹夜句会に何度か参加したことがある。石部明の手配で、主として岡山県和気町の鵜飼谷温泉で開催。石田柊馬と田中博造がキャプテンになり、紅白のチームに分かれて得点を競い合う。句会だけでは眠たくなるので、ゲームやクイズも交えて夜明けまで続ける。「三分間吟」というのがあって、出題を聞いたとたんに三分間で作句する。出句数は無制限。一人で10~20句出句する人もあるから、一句を10秒ほどで作るペースである。高齢者も多いのに徹夜などして大丈夫かという声もあったが、参加者はけっこう楽しんでいた。
「ねむらん会」のルーツは平安川柳社の「夏をたのしむ会」にあると聞いていたので、どのような会だったのか、かねて気になっていた。平安川柳社は京都川柳界の大同団結を目指して1957年に発足、創立20周年記念大会を開催したあと1978年に解散した。いま私の手元にある「川柳平安」66号から「昭和37年度・夏をたのしむ会」の様子を再現してみよう。
1962年8月18日午後9時~19日午前8時。会場は嵐山の虚空蔵山・法輪寺。「夏をたのしむ会」は毎年開催されていたようだが、このときは京都の川柳人だけでなく、ふあうすと川柳社や番傘など各地からの参加者を加えて49名の参加。入浴後、兼題・席題の締切が23時。
「第三者」(堀豊次選)
第三者きみほんとうの友であれ 薫風子
第三者として噂のリレーする 絢一郎
一口も言わずニヤリと第三者 聰夢
第三者の眼がころぶのを待っている 秀果
別れろと言える友だちばかりなり 素生
能面の白さを持てり第三者 徳三
第三者帰りを急ぐばかりなり 今雨
「火」(北川絢一郎選)
たばこの火借りる卑屈な背をゆがめ 聰夢
小さく揺れてるむかえ火へ母かえる 秀果
ガスの火のおんなのあすもそこにある 寛哉
「されこうべ」(葵徳三選)
レジャーの世叱りつけてるされこうべ 不二也
されこうべそぼ降る雨につぶやけり 秀果
美人薄命されこうべの白さ 喜山
されこうべ一つジキルとハイド住みし 選者
あと「なにわ」(丹波太路選)「勉強」(福永泰典選)があるが省略。選句発表のあとは腹ごしらえをして、お酒を飲む人もいる。日付がかわって午前1時から第二部が開催される。紅白に分かれて採点を争い、それぞれの応援団長が座を盛り上げる。常識クイズ・川柳クイズ・オリンピック競技などのゲーム、遊びではあるが真剣に進行してゆく様子だ。
恒例の「三分間吟」(三分間無制限作句)は参加者が多数なので時間の都合上六題に絞られたようだ。「BG」(橘高薫風子選)・「虫」(岸田万彩郎選)・「相手」(佐々木鳳石選)・「夜明け」(河相すすむ選)・「川」(増井不二也選)・「風船」(大高角嵐選)とあるが、誌面では作者別に取り混ぜて掲載されている。BGはビジネス・ガールだろうか。時代を感じさせる。
BGが五人舗道をふさぐ雨 入仙
虫籠の虫の命を見ていたり 五黄子
かなしみの相手の影を見て歩く 豊次
夜明けもうそこまで来てる山の影 三八朗
川一つ向こうに好きな人がいる 美佐緒
風船を飛ばし四五人振りむかせ 薫風子
次第に東の空が白んできて、準備されていた出し物を割愛。福引による賞品贈呈のあと朝食。岩田山から遊びに来る猿におどろかされながら、午前8時に散会となる。そのあと何人かはふあうすと川柳社の東映撮影所見学に合流したというから元気なものだ。
ほかの年のことも「川柳平安」から少し紹介しておく。
1964年8月15日午後8時から16日午前8時まで。嵐山虚空蔵山法輪寺にて開催。
こんな日の針は心をつくものか 冬二
乾いてる声で闇から返事する 豊次
靴をぬう針に童話がひそんでる 博造
港から来た西洋の夢である 富造
闇に聞く梢の音をふりあおぎ 入仙
1966年8月20日、例年の会場とは異なり善光寺で開催。桃山御陵を背景に伏見の街を見下ろす高台にある。
しょせん愚か者だった黒めがね 清造
からっぽの男が風におどろいて 絢一郎
悪の花の最後に風が吹いている 秀果
つきまとう過去脱走をあきらめる 寛哉
以上、平安の徹夜句会を紹介してみたが、誌面から雰囲気だけは伝わってくる。いい歳をした川柳人たちが少年少女のように句会に興じていることが分かる。句作のエネルギーとモチベーションはけっこうこういう馬鹿騒ぎから生まれるものなのだろう。
句会のオンライン化も一部で進んでいる。私はリモート連句しか経験がないが、プラス・マイナス両面があるのは当然である。リモートなら遠隔地でふだん会えない人とも一座できるメリットがある。リモートでは会話がはずまないというのも場合によるので、おしゃべりなオジサンが集まっているから会話はとぎれないという話も聞く。前提となる人間関係がすでにできている場合は問題ないが、初対面どうしだとむずかしいだろう。
連句の場合は高齢者が多いから、オンラインではハードルが高いこともありそうだ。そうするとスキルを持っている人に範囲が限られて広がりがなくなってしまうという問題が生まれてくる。Zoomを使いこなせる人が楽しく連句を続けているのに、ナマの句会でないと参加できない人が遠ざかってゆくことになる。また、座というものは微妙なものだから、たとえスキルがあってもどの座にでも誰でも入っていけるわけでもない。
ほとんど家にこもっているので、川柳の方もあまり情報が入ってこない。おもしろくないので、川柳誌のバックナンバーを読んだりして憂さを晴らしている。今回は「川柳平安」のバックナンバーから、徹夜句会のことを紹介してみよう。
「バックストローク」のときに、「ねむらん会」という徹夜句会に何度か参加したことがある。石部明の手配で、主として岡山県和気町の鵜飼谷温泉で開催。石田柊馬と田中博造がキャプテンになり、紅白のチームに分かれて得点を競い合う。句会だけでは眠たくなるので、ゲームやクイズも交えて夜明けまで続ける。「三分間吟」というのがあって、出題を聞いたとたんに三分間で作句する。出句数は無制限。一人で10~20句出句する人もあるから、一句を10秒ほどで作るペースである。高齢者も多いのに徹夜などして大丈夫かという声もあったが、参加者はけっこう楽しんでいた。
「ねむらん会」のルーツは平安川柳社の「夏をたのしむ会」にあると聞いていたので、どのような会だったのか、かねて気になっていた。平安川柳社は京都川柳界の大同団結を目指して1957年に発足、創立20周年記念大会を開催したあと1978年に解散した。いま私の手元にある「川柳平安」66号から「昭和37年度・夏をたのしむ会」の様子を再現してみよう。
1962年8月18日午後9時~19日午前8時。会場は嵐山の虚空蔵山・法輪寺。「夏をたのしむ会」は毎年開催されていたようだが、このときは京都の川柳人だけでなく、ふあうすと川柳社や番傘など各地からの参加者を加えて49名の参加。入浴後、兼題・席題の締切が23時。
「第三者」(堀豊次選)
第三者きみほんとうの友であれ 薫風子
第三者として噂のリレーする 絢一郎
一口も言わずニヤリと第三者 聰夢
第三者の眼がころぶのを待っている 秀果
別れろと言える友だちばかりなり 素生
能面の白さを持てり第三者 徳三
第三者帰りを急ぐばかりなり 今雨
「火」(北川絢一郎選)
たばこの火借りる卑屈な背をゆがめ 聰夢
小さく揺れてるむかえ火へ母かえる 秀果
ガスの火のおんなのあすもそこにある 寛哉
「されこうべ」(葵徳三選)
レジャーの世叱りつけてるされこうべ 不二也
されこうべそぼ降る雨につぶやけり 秀果
美人薄命されこうべの白さ 喜山
されこうべ一つジキルとハイド住みし 選者
あと「なにわ」(丹波太路選)「勉強」(福永泰典選)があるが省略。選句発表のあとは腹ごしらえをして、お酒を飲む人もいる。日付がかわって午前1時から第二部が開催される。紅白に分かれて採点を争い、それぞれの応援団長が座を盛り上げる。常識クイズ・川柳クイズ・オリンピック競技などのゲーム、遊びではあるが真剣に進行してゆく様子だ。
恒例の「三分間吟」(三分間無制限作句)は参加者が多数なので時間の都合上六題に絞られたようだ。「BG」(橘高薫風子選)・「虫」(岸田万彩郎選)・「相手」(佐々木鳳石選)・「夜明け」(河相すすむ選)・「川」(増井不二也選)・「風船」(大高角嵐選)とあるが、誌面では作者別に取り混ぜて掲載されている。BGはビジネス・ガールだろうか。時代を感じさせる。
BGが五人舗道をふさぐ雨 入仙
虫籠の虫の命を見ていたり 五黄子
かなしみの相手の影を見て歩く 豊次
夜明けもうそこまで来てる山の影 三八朗
川一つ向こうに好きな人がいる 美佐緒
風船を飛ばし四五人振りむかせ 薫風子
次第に東の空が白んできて、準備されていた出し物を割愛。福引による賞品贈呈のあと朝食。岩田山から遊びに来る猿におどろかされながら、午前8時に散会となる。そのあと何人かはふあうすと川柳社の東映撮影所見学に合流したというから元気なものだ。
ほかの年のことも「川柳平安」から少し紹介しておく。
1964年8月15日午後8時から16日午前8時まで。嵐山虚空蔵山法輪寺にて開催。
こんな日の針は心をつくものか 冬二
乾いてる声で闇から返事する 豊次
靴をぬう針に童話がひそんでる 博造
港から来た西洋の夢である 富造
闇に聞く梢の音をふりあおぎ 入仙
1966年8月20日、例年の会場とは異なり善光寺で開催。桃山御陵を背景に伏見の街を見下ろす高台にある。
しょせん愚か者だった黒めがね 清造
からっぽの男が風におどろいて 絢一郎
悪の花の最後に風が吹いている 秀果
つきまとう過去脱走をあきらめる 寛哉
以上、平安の徹夜句会を紹介してみたが、誌面から雰囲気だけは伝わってくる。いい歳をした川柳人たちが少年少女のように句会に興じていることが分かる。句作のエネルギーとモチベーションはけっこうこういう馬鹿騒ぎから生まれるものなのだろう。
2021年1月22日金曜日
「現代川柳」について
第164回芥川賞は宇佐見りんの「推し、燃ゆ」が受賞した。作者は大学生。綿矢りさ、金原ひとみに次いで3番目に若い受賞だという。手元に掲載誌の「文藝」2020年秋号があったので、遅ればせながら読んでみた。この号を買ったのは特集「覚醒するシスターフッド」のうち瀬戸夏子の「誘惑のために」が読みたかったから。瀬戸は高橋たか子の『誘惑者』について書いていた。いまちょうど「文藝」2021年春号が出ていて、瀬戸の最初の小説「ウェンディ、才能という名前で生まれてきたかった?」が掲載されている。語り手と女性詩人とのアンチ・シスターフッド的交流と『ピーターパン』を書いたバリーや『冷血』のカポーティなどのエピソードが重ねあわせられて展開する。クリストファー・ロビンの次はピーターパン?「永遠の少年」ではなくて、ウェンディの方に作者の問題意識があるのだろう。
コロナ下で自粛生活が続くが、それぞれの表現者が着々と仕事を進めている。
『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房)が昨年10月末に刊行されて、現代川柳に対する関心が高まるきっかけになっているようだ。
反応はいろいろあるが、まず「現代川柳というものがあることをはじめて知った」という感想がある。それにはいろいろな意味があると思う。
「古川柳」というものがあることは、たぶん誰でも知っている。『柳多留』などの古川柳に対して、「現代川柳」が存在することに対しては、単純に存在が知られていない場合と、存在は知っていても「現代川柳」は認めないという立場がある。大岡信は「折々のうた」で古川柳を取り上げたが、現代川柳は取り上げなかった。現代川柳の句会・大会に俳人を選者に招いた場合でも、「現代川柳っぽい句」は採らないというスタンスで選句されてしまう場合がある。
次に「サラリーマン川柳」「シルバー川柳」「健康川柳」などは聞いたことがあるが、「現代川柳」を読むのははじめてという場合。「〇〇川柳」というかたちで世間に流布している川柳を「属性川柳」と呼ぶことがある。ひとつの領域に特化した川柳である。そうすると「現代川柳」も「猫川柳」「犬川柳」などと同様の属性川柳のひとつということになる。現に書店ではこれらの川柳が同じように並べられている。
そういう様々な受けとめ方を含めて「はじめまして」というタイトルは時宜を得たものだったのかも知れない。書肆侃侃房が短歌の本を多く出していることもあって、本書は歌人の読者からはおおむね好意的に受け止められているようだ。
川柳人の反応はどうかというと、キャリアの長い川柳人にとっては本書に収録されている作者の大部分は既読の作品となるだろう。だから第三章の「現代川柳の源流」に収録されている川上日車や木村半文銭などの作品が逆に新鮮だったかもしれない。
ここまで「現代川柳」という言葉を曖昧に使ってきたが、それでは「現代川柳」とはどのような作品を言うのだろうか。本書では次のように述べられている。
〈伝統であれ革新であれ、文芸としての川柳を志向する作品を「現代川柳」と呼んでおこう。〉
これは実にアバウトな定義なのだが、アンソロジーへの収録に当たって、ストライクゾーンはできるだけ広く設定しておきたいというつもりもあった。「現代川柳」の議論をするより、まず作品を読んでほしいということだが、少しだけ補足をしておきたい。
本書にも書いておいたが、「現代川柳」を定義しようとすれば、河野春三に行きつく。春三の『現代川柳への理解』(天馬発行所、1962年)から引用してみよう。
〈ここに「現代川柳」というのはそうした革新的な進歩的な川柳をさして呼んでいるので、特に「現代」という文字に意識的な重点をおいていることを知ってほしい。〉
〈現在生きている人間が作った川柳であるからという意味でなら、何でも全部現代川柳といえぬことはない。然し、私達が提唱している現代川柳が意味する「現代」は少し違う。〉
「現代の川柳」と「現代川柳」は違う。春三は「現代川柳」の精神について具体的に次のように挙げている。
現代人としての意識に目覚め、現代人の手で、現代人の感覚によって川柳を作って行くこと。
川柳を非詩の立場でなく、短詩ジャンルの一分野として確立して行くこと。
根底に批評精神をもつこと。
内容の自由性を欲求すること。
日記川柳・報告川柳・綴り方川柳の名で呼ばれるトリヴィアリズムを排撃すること。
必ずしも5・7・5の一定のリズムでなしに、自分の内部要求に即応した短詩のリズムを見出してゆくこと。
作句の上にイメージを尊重すること。
今から60年前に「現代川柳」を推進しようとした川柳人の精神はこのようなものだった。それが現在そのままのかたちで「現代川柳」の内実として定義できるわけでもないから、今度のアンソロジーでは「伝統であれ革新であれ、文芸としての川柳を志向する作品」という曖昧な表現をしている。半世紀にわたる現代川柳史を意識してのことだ。
1571年、ボルドーでの法官生活から引退して故郷の村に帰ったモンテーニュは、邸宅の一隅にある塔にこもって、その後20年間『エセー』の執筆を続けた。この塔はモンテーニュの塔として有名である。塔にこもりっきりだったのかというとそうでもなく、彼はボルドーの市長を務めたり、ローマに旅行したりしている。旧教徒と新教徒の宗教戦争のさなかであり、ペストの流行もあった大変な時代である。
「最近わたしは、自分に残されているこの少しばかりの余生を静かにひとから離れて過ごすようにしよう。それ以外にはどのようなことにもかかずらうまいと、わたしにできるかぎりではあるが、心に決めて、自分の家に引退した」(「何もしないでいることについて」)
同じことをわが兼好法師は次のように言っている。
「つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心に移りゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」
コロナ下で自粛生活が続くが、それぞれの表現者が着々と仕事を進めている。
『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房)が昨年10月末に刊行されて、現代川柳に対する関心が高まるきっかけになっているようだ。
反応はいろいろあるが、まず「現代川柳というものがあることをはじめて知った」という感想がある。それにはいろいろな意味があると思う。
「古川柳」というものがあることは、たぶん誰でも知っている。『柳多留』などの古川柳に対して、「現代川柳」が存在することに対しては、単純に存在が知られていない場合と、存在は知っていても「現代川柳」は認めないという立場がある。大岡信は「折々のうた」で古川柳を取り上げたが、現代川柳は取り上げなかった。現代川柳の句会・大会に俳人を選者に招いた場合でも、「現代川柳っぽい句」は採らないというスタンスで選句されてしまう場合がある。
次に「サラリーマン川柳」「シルバー川柳」「健康川柳」などは聞いたことがあるが、「現代川柳」を読むのははじめてという場合。「〇〇川柳」というかたちで世間に流布している川柳を「属性川柳」と呼ぶことがある。ひとつの領域に特化した川柳である。そうすると「現代川柳」も「猫川柳」「犬川柳」などと同様の属性川柳のひとつということになる。現に書店ではこれらの川柳が同じように並べられている。
そういう様々な受けとめ方を含めて「はじめまして」というタイトルは時宜を得たものだったのかも知れない。書肆侃侃房が短歌の本を多く出していることもあって、本書は歌人の読者からはおおむね好意的に受け止められているようだ。
川柳人の反応はどうかというと、キャリアの長い川柳人にとっては本書に収録されている作者の大部分は既読の作品となるだろう。だから第三章の「現代川柳の源流」に収録されている川上日車や木村半文銭などの作品が逆に新鮮だったかもしれない。
ここまで「現代川柳」という言葉を曖昧に使ってきたが、それでは「現代川柳」とはどのような作品を言うのだろうか。本書では次のように述べられている。
〈伝統であれ革新であれ、文芸としての川柳を志向する作品を「現代川柳」と呼んでおこう。〉
これは実にアバウトな定義なのだが、アンソロジーへの収録に当たって、ストライクゾーンはできるだけ広く設定しておきたいというつもりもあった。「現代川柳」の議論をするより、まず作品を読んでほしいということだが、少しだけ補足をしておきたい。
本書にも書いておいたが、「現代川柳」を定義しようとすれば、河野春三に行きつく。春三の『現代川柳への理解』(天馬発行所、1962年)から引用してみよう。
〈ここに「現代川柳」というのはそうした革新的な進歩的な川柳をさして呼んでいるので、特に「現代」という文字に意識的な重点をおいていることを知ってほしい。〉
〈現在生きている人間が作った川柳であるからという意味でなら、何でも全部現代川柳といえぬことはない。然し、私達が提唱している現代川柳が意味する「現代」は少し違う。〉
「現代の川柳」と「現代川柳」は違う。春三は「現代川柳」の精神について具体的に次のように挙げている。
現代人としての意識に目覚め、現代人の手で、現代人の感覚によって川柳を作って行くこと。
川柳を非詩の立場でなく、短詩ジャンルの一分野として確立して行くこと。
根底に批評精神をもつこと。
内容の自由性を欲求すること。
日記川柳・報告川柳・綴り方川柳の名で呼ばれるトリヴィアリズムを排撃すること。
必ずしも5・7・5の一定のリズムでなしに、自分の内部要求に即応した短詩のリズムを見出してゆくこと。
作句の上にイメージを尊重すること。
今から60年前に「現代川柳」を推進しようとした川柳人の精神はこのようなものだった。それが現在そのままのかたちで「現代川柳」の内実として定義できるわけでもないから、今度のアンソロジーでは「伝統であれ革新であれ、文芸としての川柳を志向する作品」という曖昧な表現をしている。半世紀にわたる現代川柳史を意識してのことだ。
1571年、ボルドーでの法官生活から引退して故郷の村に帰ったモンテーニュは、邸宅の一隅にある塔にこもって、その後20年間『エセー』の執筆を続けた。この塔はモンテーニュの塔として有名である。塔にこもりっきりだったのかというとそうでもなく、彼はボルドーの市長を務めたり、ローマに旅行したりしている。旧教徒と新教徒の宗教戦争のさなかであり、ペストの流行もあった大変な時代である。
「最近わたしは、自分に残されているこの少しばかりの余生を静かにひとから離れて過ごすようにしよう。それ以外にはどのようなことにもかかずらうまいと、わたしにできるかぎりではあるが、心に決めて、自分の家に引退した」(「何もしないでいることについて」)
同じことをわが兼好法師は次のように言っている。
「つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心に移りゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」
2021年1月17日日曜日
川柳と物語性
コロナ禍で外出がままならないので、テレビを見て過ごす時間が増えた。エムオンやスペースシャワーなどの音楽番組をBGMがわりにつけているが、最近のいろいろなミュージシャンの曲が耳に入ってくる。
年末の紅白歌合戦では、YOASOBIが沢山の本に囲まれて「夜に駆ける」を歌ったことが目をひいた。場所は角川武蔵野ミュージアムの本棚劇場だそうだ。YOASOBIはそもそも小説を音楽にするプロジェクトから誕生したというから、本に囲まれて歌うのはふさわしい。「夜を駆ける」は星野舞夜の小説「タナトスの誘惑」に基づいているという。
紅白では星野源が「うちで踊ろう」に二番の歌詞を付けて歌ったことも評判になった。「たまに重なり合うよな僕ら」「常に嘲りあうよな僕ら」というフレーズが耳に残った。ひとは本来ひとりなのだが、だからこそ時にはともに何かをすることが必要なのだというメッセージと受け取った。
あいみょんの人気もすごいが、彼女はある番組で「物語として読める歌詞を書きたい」と言っていた。物語に対する欲求は文学の読者だけではなく、ひろく音楽の世界にも入ってきているのだろう。現在のような困難な時代だからこそ人々は物語を必要とする。
でんぐり返しの日々 可哀想なふりをして (あいみょん「マリーゴールド」)
いつかはひとり いつかはふたり (「ハルノヒ」)
僕の心臓のBPMは190になったぞ(「君はロックを聴かない」)
物語性のある作品を書く川柳人といえば、広瀬ちえみがまず思い浮かぶ。
広瀬は『セレクション柳人14広瀬ちえみ集』(邑書林)に収録されている文章で次のように書いている。
「では短詩形といわれる川柳は物語ではないのだろうか。あるいはポエジーといわれる詩は、「季語」や「切れ」を武器にしている俳句は、物語ではないのだろうかという疑問はいつもつきまとっている。作品ができたとき、頭の中には、つねに自分なりのひとつの物語ができるからである。初心のときから「韻文、韻文」とまるでお経のように言われてきた。韻文は物語ではないのだろうか。五・七・五のリズムに乗せて、あることないことを書くのは物語ではないのだろうか」(「思い」の問題)
ビニールの木に水をやったら笑ったわ 広瀬ちえみ
散文と韻文の違い。小説(物語)は散文、短歌・俳句・川柳は韻文というように一応は分けられるが、物語は散文で、美の世界は韻文で、というように截然と分けられるものでもない。川柳のなかにも散文性は存在するし、現実を直視する散文精神はメッセージ性ともつながってゆくから川柳と無縁ではない。
『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房)から物語の感じられる川柳を抜き出しておこう。
見たことのない猫がいる枕元 石部明
つぎつぎと女が消える一揆の村 海地大破
吊橋の快楽をいちどだけ兄と 渡部可奈子
人殺しして来て細い糞をする 中村冨二
読者の想像力を刺激するような句である。小説や物語の一場面のようにも読めるし、川柳の一句が一編の小説に匹敵するとも言える。
コロナ禍でいくつかの川柳句会が終了に追い込まれている。句会は人が集まらなければ成立しないから、座の文芸の性格が強いところではやむを得ないのだろう。それぞれの川柳グループがコロナ下で対応に苦慮している。
誌上句会・大会に切りかえる
ネット句会
Zoomなどを利用したリモート句会
感染対策をしたうえで句会を開催する
など対応はさまざまだ。私もこの一年ほどリアル句会に参加していない。ひとりで作句を続ければいいようなものだが、句会に出られない状況はナマの川柳の感覚から遊離してゆく怖さがある。特に川柳の場合は句会後の懇親会がディープで、一概には言えないが短歌・俳句の飲み会よりも人間関係が濃密だから、酒席の場が禁じられている現状には辛いものがある。
文芸における個人と場の関係を、大岡信は「うたげと孤心」と呼んでいる。いまは各人が孤独に自らの営為を続ける時期だろうが、直接会えなくても他の人とコミュニケーションをとる手段はいろいろあるので、孤立しているわけではなく、遠いところでつながっていると思いたい。
マスクしてたって笑窪なんでしょう 岡田幸生
年末の紅白歌合戦では、YOASOBIが沢山の本に囲まれて「夜に駆ける」を歌ったことが目をひいた。場所は角川武蔵野ミュージアムの本棚劇場だそうだ。YOASOBIはそもそも小説を音楽にするプロジェクトから誕生したというから、本に囲まれて歌うのはふさわしい。「夜を駆ける」は星野舞夜の小説「タナトスの誘惑」に基づいているという。
紅白では星野源が「うちで踊ろう」に二番の歌詞を付けて歌ったことも評判になった。「たまに重なり合うよな僕ら」「常に嘲りあうよな僕ら」というフレーズが耳に残った。ひとは本来ひとりなのだが、だからこそ時にはともに何かをすることが必要なのだというメッセージと受け取った。
あいみょんの人気もすごいが、彼女はある番組で「物語として読める歌詞を書きたい」と言っていた。物語に対する欲求は文学の読者だけではなく、ひろく音楽の世界にも入ってきているのだろう。現在のような困難な時代だからこそ人々は物語を必要とする。
でんぐり返しの日々 可哀想なふりをして (あいみょん「マリーゴールド」)
いつかはひとり いつかはふたり (「ハルノヒ」)
僕の心臓のBPMは190になったぞ(「君はロックを聴かない」)
物語性のある作品を書く川柳人といえば、広瀬ちえみがまず思い浮かぶ。
広瀬は『セレクション柳人14広瀬ちえみ集』(邑書林)に収録されている文章で次のように書いている。
「では短詩形といわれる川柳は物語ではないのだろうか。あるいはポエジーといわれる詩は、「季語」や「切れ」を武器にしている俳句は、物語ではないのだろうかという疑問はいつもつきまとっている。作品ができたとき、頭の中には、つねに自分なりのひとつの物語ができるからである。初心のときから「韻文、韻文」とまるでお経のように言われてきた。韻文は物語ではないのだろうか。五・七・五のリズムに乗せて、あることないことを書くのは物語ではないのだろうか」(「思い」の問題)
ビニールの木に水をやったら笑ったわ 広瀬ちえみ
散文と韻文の違い。小説(物語)は散文、短歌・俳句・川柳は韻文というように一応は分けられるが、物語は散文で、美の世界は韻文で、というように截然と分けられるものでもない。川柳のなかにも散文性は存在するし、現実を直視する散文精神はメッセージ性ともつながってゆくから川柳と無縁ではない。
『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房)から物語の感じられる川柳を抜き出しておこう。
見たことのない猫がいる枕元 石部明
つぎつぎと女が消える一揆の村 海地大破
吊橋の快楽をいちどだけ兄と 渡部可奈子
人殺しして来て細い糞をする 中村冨二
読者の想像力を刺激するような句である。小説や物語の一場面のようにも読めるし、川柳の一句が一編の小説に匹敵するとも言える。
コロナ禍でいくつかの川柳句会が終了に追い込まれている。句会は人が集まらなければ成立しないから、座の文芸の性格が強いところではやむを得ないのだろう。それぞれの川柳グループがコロナ下で対応に苦慮している。
誌上句会・大会に切りかえる
ネット句会
Zoomなどを利用したリモート句会
感染対策をしたうえで句会を開催する
など対応はさまざまだ。私もこの一年ほどリアル句会に参加していない。ひとりで作句を続ければいいようなものだが、句会に出られない状況はナマの川柳の感覚から遊離してゆく怖さがある。特に川柳の場合は句会後の懇親会がディープで、一概には言えないが短歌・俳句の飲み会よりも人間関係が濃密だから、酒席の場が禁じられている現状には辛いものがある。
文芸における個人と場の関係を、大岡信は「うたげと孤心」と呼んでいる。いまは各人が孤独に自らの営為を続ける時期だろうが、直接会えなくても他の人とコミュニケーションをとる手段はいろいろあるので、孤立しているわけではなく、遠いところでつながっていると思いたい。
マスクしてたって笑窪なんでしょう 岡田幸生
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