今年の国民文化(よさこい高知文化祭2026)は高知県で開催される。「川柳の祭典」は11月1日(日)四万十市しまんとぴあ、「連句の祭典」は11月15日(日)にオーテピア高知図書館で行われ、私は連句の祭典の方に参加予定である。ちなみに高知ゆかりの連句人に寺田寅彦がいて、寅彦が4歳から19歳まですごしていた邸宅を復元した寺田寅彦記念館もある。
8月9日の大阪連句懇話会では国文祭にちなんで、寅彦の連句実作と連句論をとりあげた。寅彦の連句作品は松根東洋城の「渋柿」に49巻掲載されている。連衆は寅日子(寺田寅彦)・東洋城・蓬里雨(小宮豊隆)である。次に挙げるのが「渋柿」に掲載された最初の歌仙で、大正14年10月に掲載されている。このとき小宮豊隆はドイツに留学中だったので、東洋城との両吟になっている。オモテ六句のみ引用する。
水団扇鵜飼の絵なる篝かな 東洋城
旅の話の更けて涼しき 寅日子
縁柱すがるところに瘤ありて 城
半分とけしあと解けぬ謎 子
吸物をあとから出した月の宴 城
庭のすすきに風渡る頃 子
寅彦・東洋城・豊隆の三人は近代連句史に大きな役割を果たしていて、『連句辞典』(東京堂出版)の人名篇のページには三人とも名前が掲載されている。小宮豊隆は漱石研究や俳諧研究で知られ、俳文学会の初代会長をつとめた。次の歌仙は、小宮が東北帝国大学の教授として仙台に赴任する際に巻かれたもの(昭和2年2月「渋柿」掲載)。
送別
あすよりはみちのく人や春の雨 東洋城
まだ雪のこる西側の山 蓬里雨
沈丁花こぼるる里に移り来て 寅日子
以下省略。昭和10年、東洋城の新居落成のときに巻かれたのが歌仙「冬空や」の巻(昭和10年6月「渋柿」掲載)。こういうときは客が発句を詠んで新居をほめ、亭主が脇で挨拶をかえすのが普通だが、この歌仙では東洋城自身が自祝の発句を詠んでいる。これも東洋城の性格であろうか。
草庵棟上
冬空や白木の柱押し立てて 東洋城
心静まる石上の霜 寅日子
半日の損得客に量るらむ 城
途中省略して、名残りの表の7句目から。
ままならぬものを譬はば針のめど 寅日子
無き柄をすげる縁のさまたげ 東洋城
もののふの矢竹心に恋ひわたり 城
内侍に化けし狐うつくし 子
濁り江の雨を醸して月の暈 子
水嵩見ゆる野菊溝萩 城
矢竹心(やたけごころ)は勇猛心。昭和10年に寅彦は亡くなっているから、晩年の彼は連句に打ち込んでいたことになる。
寅彦は連句評論もいくつか書いていて、「連句雑俎」(「渋柿」昭和6年3月~12月)は代表的なもの。連句の独自性・連句と音楽・連句と合奏・連句の心理と夢の心理・連句心理の諸現象・月花の定座の意義・短歌の連作と連句など多岐に渡って連句を論じている。
「俳諧の本質的概論」もよく知られている。能勢朝次の『連句芸術の性格』にも「尊敬する先覚者」として寺田寅彦の名が挙げられ、「俳諧の本質的概論」が引用されている。エイゼンシュテインの映画などの影響でモンタージュ理論が喧伝され、俳句の取合せにも応用された時期だった。
「近頃映画芸術の理論で云うところのモンタージュはやはり取合せの芸術である。二つのものを衝き合わせることによって、二つの各々とはちがった全く別ないわゆる倍音或いは綜合音ともいうべきものを発生する」「常に俳諧に親しんで其の潜在意識的連想の活動に馴らされたものから見ると、たとえば定家や西行の短歌の多数のものによって刺激される連想はあまりに顕在的であり、訴え方が顕わであり過ぎるっような気がするのを如何ともすることが出来ない。斎藤茂吉氏の「赤光」の歌が吾々を喜ばせたのは其の歌の潜在的暗示に富む為であった」「潜在的である故にまた俳諧の無心所着的な取合せ方は夢の現象における物象の取合せに類似する」
映画と連句の関係については、「映画芸術」のうち「映画と連句」の項がわかりやすい。
「あらゆる芸術のうちでその動的な構成法において最も映画に接近するものは俳諧連句であろう」「発句はそれ自身の中にすでに若干の心像のモンタージュ的構成を備えているが、歌仙連句の中の付け句の一つ一つはそれぞれが一つのモンタージュビルドであり、その細胞である」「識閾の上層だけでつながったものは、つまり一つの静的な像である。いわゆる付き過ぎた連句は、結局一句を二つに分けただけで『歩み』はない」
寅彦は歌仙のほかに「三つ物」「二枚折」「二つ折」「二枚屏風」「トルソー」などの形式を試みている。詳しいことは寺田寅彦全集を参照していただきたいが、ここではRONDO(ロンド)という形式をとりあげる。10句形式で発句は長句のものと短句のものの二通りあるが、ここでは短句ではじまる作品を紹介しておく。
氷を砕く音も短夜 寅日子
さまざまに心尽しの花の鉢 子
娘をよんで本を読ませる 蓬里雨
蝿打の糸のほつれに秋見えて 子
黍の葉にさす日も斜なる 雨
客曳の塩辛声もなつかっしく 子
ををこで行李をぶらさげて行く 雨
時々は村の公事にも口利きて 子
色のやけたる紋の桐の葉 雨
五月雨の匂ひ籠れる薬局に 子
氷を砕く………………
挙句が発句に戻って回ってゆくのでロンドというわけだ。
俳諧接心の岡本星女は寺田寅彦から刺激を受けて、発句が短句からはじまる「R」という形式を試みた。旧聞に属するが『連句年鑑』(2002年版)からR「トレモロを」の巻を紹介する。
トレモロをもて星の呼び合う 岡本 星女
耕すやイーハトーブの大地をば 葦生はてを
サフランライスほんのりと黄 星野 焱
孔明に初恋のひとありしならん 星
バンドネオンがジェラシーに哭く を
伴天連の秘宝のありか刺青に 焱
水神祭を河童祭と 星
実柘榴のからくれないに笑みこぼれ お
螻蛄放屁虫百足虫鬼の子 焱
大阪のあきない妹の嫁入りとは 星
琥珀の化生素心蝋梅 お
サザビーズにチャーチル手沢のスキットル 焱
2026年8月28日金曜日
2026年8月13日木曜日
「あつたの杜」連句まつりと三河の俳諧
「あつたの杜」連句まつりは今年で7回目を迎え、8月2日にイーブルなごやで開催された。6座36人の参加があり、当日の連句作品は熱田神宮に奉納されることになっている。イーブルなごやには川柳の会で行ったことがあるが、連句会に参加するのははじめてである。JR名古屋駅のホームできしめんの店に入る。専門店で食べるより手ごろだ。金山までJRで行き、東別院まで歩く。東別院付近の以前入ったことのある喫茶店で連句会開始までの時間待ちをする。
連句会は盛会で、東京、横浜、松山など各地からの参加者があって交流できた。私の座には三河の俳諧について詳しい方がいて刺激を受けた。愛知は尾張と三河に分かれるが、尾張の俳諧については芭蕉の『冬の日』により蕉風発祥の地としてよく知られており、2016年の愛知国民文化祭の際には熱田や鳴海の俳諧めぐりもしたが、三河の俳諧については知識がなかった。
帰宅後、『東海の俳諧史』(さるみの会編)で調べてみると「三河蕉門」の項目があった。三河蕉門には西三河の岡崎と東三河の新城(しんしろ)という二つの中心地がある。元禄時代が全盛期で、享保にはいると凋落したという。荷兮編『曠野後集』には岡崎俳人も入集している。
にぎやかな中にしづけし盆の月 秋冬
いなづまに又くりかへす噺かな 鶴声
藤たれて光ありけり砂の色 霰艇
岡崎蕉門は完全には尾張から独立していなくて、尾張の影響下にあったようだ。当時、三河蕉門を代表する俳人と見られていたのが鶴声。鶴声が編者となった『柱暦(はしらごよみ)』から二句抜いておく。
白魚や銀をもて鋳る西施 鶴声
曲水や花の波行く小さかづき
『柱暦』から歌仙のオモテも引用しておこう。
活計をあらしにさする桜かな 釣眠
もやすく渡る水の暖 秋冬
蚊帳のきれ田うちの食に打きせて 鶴声
迦す仲戸を軒下へ出す 眠
名月も正直いはば内がよし 冬
毛脚の露を鼻紙でふく 声
三河蕉門のもう一つの中心地、東三河の新城のリーダーだったのが太田白雪。元禄四年十月、白雪は自宅に芭蕉を迎えている。白雪は新城の庄屋・太田金衛門で、14歳の長男・重英と11歳の次男・孝知に芭蕉はそれぞれ「桃先」「桃後」の号を与えた。そのとき詠まれたのが次の発句である。
その匂ひ桃より白し水仙花 芭蕉
少年たちの純粋な詩心を水仙にたとえ、「私」=「桃青」より清らかだという挨拶である。その後の白雪父子の句を挙げておく。
刈りしほの麦吹く風や鳴海潟 白雪
行き暮れて蚊の声すごし羅生門 桃先
しがみついて砂に流るる蛙かな 桃後
やがて享保年間に入り、三河蕉門は静かに終焉を迎えることになる。
尾張俳壇は横井也有や加藤暁台などの活動が続くが、天保期に入って井上士朗の門人によって三河俳壇がやや活況を取り戻すことになる。『東海の俳諧史』の「天保俳諧」のページには三河について次のように書かれている。
「士朗門の逸材で、天保まで生きながらえて、その衣鉢を十分に伝え、岡崎正風を提唱したのが岡崎の青々処鶴田卓池だ。この人あるによって三河の俳界は統一せられている。彼はいまの菅生町辺に住んでいた紺屋の主人」「士朗在世中からよく旅に同行してるし、一人立ちしてからは門葉をつれて遠方まで俳行脚している。その為広く顔が売れていた」
『化政天保俳諧集』(古典俳文学大系16)に『青々処句集』が収録されているので、卓池の句を紹介していこう。
正月十二日朱芳亭句会
梅の気力ひらくばかりになりにけり
水竹別荘
蚊ひとつに夕ぐれを知るさくらかな
朱樹翁十三回忌の追福をいとなむ日
今日こゝにちなみわすれず閑古鳥
朱芳は士朗門の俳人。水竹は卓池の門人である。ちなみに水竹、塞馬、蓬宇が卓池門の三羽烏である。朱樹翁は士朗の号。士郎十三回忌に卓池は『安居鐘』を編んでいる。
卓池の俳諧行脚は各地に及んでいて、旅吟も多いので抜き出しておく。
月仏信濃へ花のころに来て (善光寺)
目にさはるさくらいやしやわかの浦(和歌浦)
しら川やこゝろとむればなく水鶏 (白河の関)
朱鷺の羽に日影さしけり皐月雨 (新潟)
橋だてやすゞみながらの人通り (天橋立)
とかくして芦に日の入るわかれ哉 (浪花・玉造)
『青々処句集』は水竹の序、塞馬の跋で卓池の七回忌追善として刊行された。塞馬の跋文には卓池の人柄が次のように書かれている。 「其性温順敦厚にしてよく人を究る故に、風雅を以て来訪する門人遊客日々に十を以て算ふ。其の盛莚思ふべし」
春の雪ゆきの遠山見えて降る 卓池
連句会は盛会で、東京、横浜、松山など各地からの参加者があって交流できた。私の座には三河の俳諧について詳しい方がいて刺激を受けた。愛知は尾張と三河に分かれるが、尾張の俳諧については芭蕉の『冬の日』により蕉風発祥の地としてよく知られており、2016年の愛知国民文化祭の際には熱田や鳴海の俳諧めぐりもしたが、三河の俳諧については知識がなかった。
帰宅後、『東海の俳諧史』(さるみの会編)で調べてみると「三河蕉門」の項目があった。三河蕉門には西三河の岡崎と東三河の新城(しんしろ)という二つの中心地がある。元禄時代が全盛期で、享保にはいると凋落したという。荷兮編『曠野後集』には岡崎俳人も入集している。
にぎやかな中にしづけし盆の月 秋冬
いなづまに又くりかへす噺かな 鶴声
藤たれて光ありけり砂の色 霰艇
岡崎蕉門は完全には尾張から独立していなくて、尾張の影響下にあったようだ。当時、三河蕉門を代表する俳人と見られていたのが鶴声。鶴声が編者となった『柱暦(はしらごよみ)』から二句抜いておく。
白魚や銀をもて鋳る西施 鶴声
曲水や花の波行く小さかづき
『柱暦』から歌仙のオモテも引用しておこう。
活計をあらしにさする桜かな 釣眠
もやすく渡る水の暖 秋冬
蚊帳のきれ田うちの食に打きせて 鶴声
迦す仲戸を軒下へ出す 眠
名月も正直いはば内がよし 冬
毛脚の露を鼻紙でふく 声
三河蕉門のもう一つの中心地、東三河の新城のリーダーだったのが太田白雪。元禄四年十月、白雪は自宅に芭蕉を迎えている。白雪は新城の庄屋・太田金衛門で、14歳の長男・重英と11歳の次男・孝知に芭蕉はそれぞれ「桃先」「桃後」の号を与えた。そのとき詠まれたのが次の発句である。
その匂ひ桃より白し水仙花 芭蕉
少年たちの純粋な詩心を水仙にたとえ、「私」=「桃青」より清らかだという挨拶である。その後の白雪父子の句を挙げておく。
刈りしほの麦吹く風や鳴海潟 白雪
行き暮れて蚊の声すごし羅生門 桃先
しがみついて砂に流るる蛙かな 桃後
やがて享保年間に入り、三河蕉門は静かに終焉を迎えることになる。
尾張俳壇は横井也有や加藤暁台などの活動が続くが、天保期に入って井上士朗の門人によって三河俳壇がやや活況を取り戻すことになる。『東海の俳諧史』の「天保俳諧」のページには三河について次のように書かれている。
「士朗門の逸材で、天保まで生きながらえて、その衣鉢を十分に伝え、岡崎正風を提唱したのが岡崎の青々処鶴田卓池だ。この人あるによって三河の俳界は統一せられている。彼はいまの菅生町辺に住んでいた紺屋の主人」「士朗在世中からよく旅に同行してるし、一人立ちしてからは門葉をつれて遠方まで俳行脚している。その為広く顔が売れていた」
『化政天保俳諧集』(古典俳文学大系16)に『青々処句集』が収録されているので、卓池の句を紹介していこう。
正月十二日朱芳亭句会
梅の気力ひらくばかりになりにけり
水竹別荘
蚊ひとつに夕ぐれを知るさくらかな
朱樹翁十三回忌の追福をいとなむ日
今日こゝにちなみわすれず閑古鳥
朱芳は士朗門の俳人。水竹は卓池の門人である。ちなみに水竹、塞馬、蓬宇が卓池門の三羽烏である。朱樹翁は士朗の号。士郎十三回忌に卓池は『安居鐘』を編んでいる。
卓池の俳諧行脚は各地に及んでいて、旅吟も多いので抜き出しておく。
月仏信濃へ花のころに来て (善光寺)
目にさはるさくらいやしやわかの浦(和歌浦)
しら川やこゝろとむればなく水鶏 (白河の関)
朱鷺の羽に日影さしけり皐月雨 (新潟)
橋だてやすゞみながらの人通り (天橋立)
とかくして芦に日の入るわかれ哉 (浪花・玉造)
『青々処句集』は水竹の序、塞馬の跋で卓池の七回忌追善として刊行された。塞馬の跋文には卓池の人柄が次のように書かれている。 「其性温順敦厚にしてよく人を究る故に、風雅を以て来訪する門人遊客日々に十を以て算ふ。其の盛莚思ふべし」
春の雪ゆきの遠山見えて降る 卓池
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