2021年8月27日金曜日

川柳誌から見た川柳の世界

コロナ禍で川柳の句会・大会が中止になったり、誌上句会に切り替えられたりしている。9月19日に岩手県北上市の日本現代詩歌文学館で開催予定の「第7回現代川柳の集い」では第7回日本現代詩歌文学館長賞を受賞した新家完司の講演「人間を詠う・自分を詠う」があるはずだったが、これも中止となったようだ。
川柳人は句会・大会に集まって競い合うのが好きなので、そういう場が失われていくのは辛いところである。そんな中で句会が元気なのが、くんじろうが主催している「川柳・北田辺」である。同誌119号からこの句会の様子を紹介しておこう。川柳の句会には席題と兼題があり、兼題には題が出されているものと雑詠(自由詠)がある。まず席題「ありきたり」から。

逆さ富士からは密のカメラマン   茂俊
ベルリンの壁にらくがきした悟空  くんじろう
四畳半ひとま紫陽花も声変わり   かがり
メイドインチャイナであった羊雲  きゅういち

どこが「ありきたり」やねん、と突っ込むところだが、この句会の雰囲気がうかがわれる句が取られている。次に兼題「雑詠」から。

ロココ調椅子で爪研ぐペルシャ猫  恵美子
右折から豆大福と同棲時代     彰子
四分休符が戻ってくる実家     和枝
薄紙の七枚目から魚市場      くんじろう

このときのリアル出席者は5人だったようだが、欠席投句者が6人。
続いて「川柳草原」116号を覗いてみよう。京都の川柳グループ草原が発行している。第一回草原賞が発表されていて、北村幸子が受賞している。選考の方法は誌上大会を前期(5月)と後期(6月)の二回実施して、その抜句数の合計で賞を決めるというもの。合点制の賞レースのやり方はいろいろあるが、投句者どうしで競い合いながら点を積み重ねてゆく方式はある意味で川柳人の体質に合っているとも言える。12点獲得した北村幸子の句から。

お義母さんと呼ばれて眉を描き直す  北村幸子
2メートル空けても伯母の静電気
転調を五回近づくほど遠い
このままでいいんだ路線図も君も

「垂人」は中西ひろ美と広瀬ちえみの二人が編集・発行していて、ジャンル越境型の同人誌である。俳句と川柳の接点があるとすれば、「俳諧」に求めることができる。「垂人」40号は特に俳諧を意識した誌面になっていて、「とびら」(巻頭言)で中西が「俳諧哥」について書き、鈴木純一が「超訳 芭蕉七部集『春の日(一)』伊勢詣での巻」を掲載している。ちなみに、かつて鈴木が書いた「一寸先へ切りかくるなり」(『セレクション柳論』邑書林)は私が惚れ込んだ出色の文章である。「垂人」40号から同人作品を紹介する。

乾いたら出会つてしまふ事がある  中西ひろ美
泡を吐く金魚の声が聞こえない   ますだかも
息子の干し方とわたしの干し方   高橋かづき
えいえんはスノードームの島である 広瀬ちえみ
べとべとやぬるぬるたちのチームなり   同
入口に合わないときの鉋です       同

巻末に「風谷・鳴峯・走尾・垂人(2001~2021)目次総覧」が収録されている。「風谷」「鳴峯」「走尾」「垂人」と誌名を変えつつ疾走してきた、この20年間の中西の軌跡である。「垂人」は50号まで発行すると中西は言っているそうだ。

俳誌「奎」14号から細村星一郎の俳句を紹介していきたい。細村は暮田真名の「ぺら」句会で特選を二句取っている(「反社会的湖にお手紙です」「ベーコンと犬の家賃が払えない」)。俳句ではどんな句を書いているのだろうか。

うららかに草をくはえてみたりもす   細村星一郎
桜貝思ひ出したら伝へるよ
春を待つとき人間は上を見る
春が来て僕らはウルトラマンの子
焼野だと知つて前より好きになる

京都の川柳誌「凜」86号。同人作品から。

パブロフの犬を一枚ずつ脱ごう  こうだひでお
誰も困らないからクジラは魚     同
いい嘘もあってときどき鏡拭く  桑原伸吉
エコ袋に入りきれない疲労感     同
髪染めておとな気取りの京都晴れ 辻嬉久子
珈琲の熱さをすする聖五月      同

同誌3月句会、雑詠から。

弓張月に似合う切手を選んでる  岩根彰子
ひなあられだけを飾って雛まつり 西田雅子
星を避ける三段変速ギア     森田律子

「きょうと川柳大会」が11月3日に予定されていて、事前投句締切が9月11日。無事に開催できるだろうか。
最後に、北海道の川柳誌「水脈」58号。「𠮷田久美子の世界」を浪越靖政が書いている。

くちなしよ私も欲しい弦一本  𠮷田久美子
葉鶏頭灯りは肉屋より洩れる
鳥小屋にうっかり宇宙の分娩室
黒揚羽割れた六月のオルガスム

同誌同人作品から。

湯と水の間合は詰めておきなさい  河野潤々
もがいているアマビエ@成果主義  四ッ谷いずみ
藤棚のフラッシュバック半跏思惟像 酒井麗水
ウイルスよ野心を捨てて去ることね 平井詔子
白亜紀のアンモナイトが君の椅子  一戸涼子
エロかっこいい不滅のアズナブール 麒麟
この星は、どうかしている。さようなら 落合魯忠
生まれて死ぬまで天然温泉     浪越靖政

2021年8月20日金曜日

ポスト現代川柳の動向―個の時代へ

『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房)の第四章「ポスト現代川柳」には10名の川柳人が収録されている。「ポスト現代川柳」という区分の仕方や収録メンバーの人選には異論もあるだろうが、句集の有無や実績だけでなく、ジャンルの外部への発信力や今後の可能性も含めて選ばれている。彼らの現在の動きについて見ていきたい。
『はじめまして現代川柳』の出版にいち早く反応したのが川合大祐である。川合の第二句集『リバー・ワールド』は2021年4月に発行されている。2019年から2020年初夏にかけて書かれた1001句が収録されている。部厚くて饒舌な句集である。川柳句集に適正サイズがあるのかどうか分からないが、ふつう300句から500句くらいだろう。それ以上になると同想句・類似句が多くなり、読んでいて飽きてくることが多い。けれども、『リバー・ワールド』は退屈ではなく、次々に繰り出される句の連続に圧倒されるというタイプの句集だ。柳本々々はこの量の多さが必要だったのだと言っている。川合は「あとがき」で「エゴイズムの膨張」と書いているが、このエゴイズムは作者のプライベートな体験の表現というようなものではなくて、作者の好きな言葉の組み合わせを読者に押し付けてくるという意味のエゴイズムである。それはある意味で文芸の基本かもしれない。
表現者がそれぞれ持っている言葉のプール(辞書)があるとすれば、それは無意識のなかに大量に保存されている。無意識を開放したときに立ち現れてくる言葉を次々に書き留めてゆけば句は量産することができるが、それはカオスのなかで自爆してしまう危険な作業でもある。そこで支えとなるのが川柳技術。川合には20年を超える川柳歴があり、これまで見聞きしてきたさまざまな川柳作品が支えとなっているはずだ。私は『リバー・ワールド』という句集は実験的であると同時に現代川柳の血脈につながるものだと思っている。
あと、この句集は編集協力者である柳本々々の眼が入ることによって完成度の高いものとなっている。これまでの川柳句集に足りなかったのは編集者の存在である。川柳にも編集者が必要だということを改めて感じる。

エスパーが社史を編纂しない初夏  川合大祐
道長をあまりシベリアだと言うな
文集に埼の字がない養成所

川合に続いて湊圭伍の句集『そら耳のつづきを』(書肆侃侃房)が5月に発行された。湊圭史は『はじめまして現代川柳』の刊行後、筆名を湊圭伍に変えた。改名は気分一新して川柳に向き合うという気持ちの表れかも知れない。彼は2010年4月の「バックストローク」30号から同人になっているから、川柳歴は12年ほど。ようやく第一句集が刊行された。ちょうど飯島章友が「川柳スープレックス」http://senryusuplex.seesaa.net/(2021年08月16日)に「湊圭伍著・現代川柳句集『そら耳のつづきを』を読む」を掲載しているので、そちらの方もご覧いただきたい。

そら耳のつづきを散っていくガラス  湊圭伍
漱石のちょっと発熱ちょっと死後
助手席でカバンのなかを拭いている

さらに飯島章友の第一句集『成長痛の月』(素粒社)が9月に発行される予定だという。飯島は歌人でもあるが、「かばん」の編集を担当していたときに同誌に川柳のコーナーを設けて歌人を川柳実作へと誘う役割を果たした。彼は伝統川柳の世界もよく知っているから、川柳全体の現状を知悉しているし、「川柳スープレックス」を立ち上げるなどの行動力もある。「確かにこの世のことのようで、でもなんだかそんなことはどうでもよいように思えてくる」「永遠の興味津々と平熱の茶目っ気が句の中に閉じ込められた。」(東直子の帯文より)
どんな第一句集になるのか、楽しみだ。

ある日来た痛み 初歩だよワトスン君  飯島章友
Re: がつづく奥に埋もれている遺体
くちびるは天地をむすぶ雲かしら

かつて「セレクション柳人」(邑書林)シリーズが一般の読者に現代川柳を届ける役割を果たしたが、アンソロジーに続いて川柳の個人句集が読者の目に触れる機会が多くなれば嬉しいことだ。
コロナ禍で川柳句会の開催がままならない状況だが、誌上句会・大会への切り替えだけではなく、さまざまな模索が続いている。芳賀博子は「ゆに」というウェブ句会を立ち上げている(https://uni575.com/)。次のような案内が公開されている。
「ゆには、川柳を中心にことばの魅力をウェブで楽しむ新しい会です。
作品発表も句会もイベントもすべてウェブ。
だから世界のどこからでも、参加自由。」
句会だけではなく、講演なども行われるようだ。

迷ったら海の匂いのする方へ    芳賀博子
手のひらのえさも手のひらもあげる
放電の終わったあとの蝸牛

ネット句会では夏雲システムがよく利用されているようだが、暮田真名はGoogleスプレッドシートを使って「ぺら句会」を開催した(投句締切済み)。夏雲システムでは投句を自動的に処理するので、主催者・管理者も誰が投句したか分からない。選句が済んだ後で作者名が分かるようになっている。ただし、参加者は管理者に事前登録しておくことが必要で、参加者以外には公開されない。「ぺら句会」の場合は一般に公募するので、選者である暮田にも作者名が分からないようにスプレッドシートを利用したようだ。シートに書き込んでゆくので、あとから投句した人は前の投句者が書いた句を読むことができる。おもしろい試みだ。
ちょうど8月21日(土)、22日(日)に「家具でも分かる暮田真名展」が開催される。第二句集『ぺら』の展示・販売もあるという。『ぺら』はB1一枚に200句掲載してある。

県道のかたちになった犬がくる  暮田真名
家具でも分かる手品でしょうか
みんなはぼくの替え歌でした

暮田は現代俳句協会青年部のHPに「川柳はなぜ奇行に及ぶのか」を発表するなど、アウェイの場でも発信を続けている。http://kangempai.jp/seinenbu/index.html

以上取り上げた方々以外にも、それぞれの川柳人が独自の活動を続けているが、今回は紹介しきれない。従来、川柳では結社の主催による句会・大会が中心で、伝統的結社の大会には数百人が集まることもあったが、コロナや高齢化などの状況の変化によって集団の力が衰退しつつあるようだ。川柳や文芸に対する考え方も多様化しており、それぞれのバックグラウンドは異なっている。均一の川柳観をもった人々が共通の場に集まるというより、少数のグループや個人によって川柳が発信されるケースが今後増えてゆくのだろう。個人の資質や発信力が問われ、ひとつの企画に共感した人々がそのつど参加するというかたちになってゆくのだと思われる。

2021年8月14日土曜日

連句を読むということ

暦の上ではすでに秋である。8月7日の立秋の日に「連句新聞」秋号が公開された。
「連句新聞」(http://renkushinbun.com/)は高松霞と門野優の二人の連句人が発行している。毎年10月に大阪天満宮で開催されている「浪速の芭蕉祭」は、昨年Zoomを使ったリモートで行われることになり、そのリハーサルが昨年9月にあった。そのときはじめて高松と門野が出会って意気投合し、二人ではじめたのが「連句新聞」である。知り合って2週間ほどで企画が生まれるスピード感が現代的だが、10月の「浪速の芭蕉祭」本番で高松は新しい企画について詳細は伏せたまま次のように語っている。

高松「門野さんとは、先日の『浪速の芭蕉祭』のリハーサルで意気投合しましてですね、一緒に企画を作っているんですよ。来年の春に立ち上げる予定です」
小池「どういう企画かは言えない?」
高松「言えない!お楽しみにお待ちください」
(日本連句協会報「連句」2021年2月号「若手連句人から見た現代連句の世界」)。

そして今年2月に「連句新聞」春号が、5月に夏号が公開され、今回が3号目になる。
現代連句作品11巻のほか、毎号掲載されるコラムでは春号に中村安伸「連句と時間」、夏号に堀田季何「変容する連句」、今回の秋号には中山奈々が「イレギュラー連句」を書いている。中山は和漢連句とソネット連句について触れているが、和漢連句についてはこの時評(2014年12月5日)でも触れたことがあるので、興味のある方はご参照いただきたい。

さて、連句に純粋読者というものはありえないと思うが、「連句新聞」ではじめて現代連句に触れた方が、連句の読み方について迷われるということはあるかもしれない。
基本的に連句は作るもので読むものではない。連句の作り方は対面で実作することによってしか本当のことは伝わらないので、本を読んで連句に興味をもつことはあっても、本から連句の精髄を習得するということは考えにくい。では実際に連句人が連句作品に対してどう読んでいるかというと、式目やルールと照らしあわせて、うまくクリアーしているとか、あえてルールを破って冒険しているとか、パターン化した展開ではなく新機軸を出しているとかいう点にまず注意が注がれるのである。特に月・花の定座と恋(折口信夫は「恋の座」と呼んだ)は読みどころだ。その上で、式目は守られているが平凡な付句が多いものは評価されないし、逆に式目に瑕瑾があっても今まで読んだことのない新鮮な句があれば評価されたりする。その場合もルールと表現内容のバランスによるので、おもしろい句があっても式目違反が多すぎると支持できない気持ちになったりする。そしてこの「式目」なるものも人によって微妙に異なり、合理的な理由をもたない「作法」の場合もある。
連句人が最も恐れているのは言葉が転がっていかずに、連句が、付句がそこで止まってしまうことで、前句に対して付句をつけることができるのは、前句に省略されている空白の部分が必ずあるからなのだ。前句が屹立・完成していると次に続けることができなくなる。芭蕉は「言ひおほせてなにかある」と言ったが、百バーセント表現しきったとしてそれが何になるというのだろう。言葉を次に手渡すのが連句だから、屹立した句に対して「それは俳句だ」としばしばいわれるのは連句の解体を怖れているのだ。
「連句を読む」ということに話を戻すと、まず前句を読むことが前提となる。連句は前句を読む(レクチュール)と付句を付ける(エクリチュール)という作業の繰り返しなので、一巻全体を「読む」ということにはあまり意味がないという意見もある。この立場に立つと連句批評というものは成立しないことになる。
現在、連句界で一般的に言われている読みの基準は

一句のおもしろさ
前句と付句の関係のおもしろさ(親句・疎句の付け味)
三句の渡りの転じのおもしろさ
一巻全体の流れのおもしろさ

などであろう。一句のおもしろさだけではなく、その場所でその付句が適当かどうかが問われることになる。また、趣向のあるおもしろい句が並びすぎると、お互いに効果を消し合うことになるので、魅力的な句のあとには平明な句(平凡な句ではない)を付けることによって前句を引き立たせる心得が必要となる。屹立した句が続くのでは読んでいる方が疲れてしまう。
連句の読者が何をおもしろいと思うかは人によって異なるので、一口におもしろさと言っても詩性もあれば俳諧性、諷刺性もあり、典拠を踏まえたパロディや時事的な句もあり、季の句と雑(無季)の句がバランスよく配されていることも重要となる。

連句の付合いの呼吸は別にむずかしいものではなく、たとえば橋閒石の

階段が無くて海鼠の日暮かな
銀河系のとある酒場のヒヤシンス

は連句的なのだし、釈迢空の

葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を 行きし人あり

の上の句と下の句の関係は連句の発句と脇句の関係に相当する。
現在の俳句グループのなかで小澤實の「澤」は連句に理解があるが、最近の俳誌のなかでは「鹿火屋」創刊百周年記念特集(2021年5・6月号)が連句を取り上げている。原朝子は「俳句の母郷を垣間見て―連句に思う俳句」で連句への関心を述べており、脇起り歌仙「頂上や」は「頂上や殊に野菊の吹かれ居り」(原石鼎)を発句として捌き・高岡慧、執筆・西川那歩による一巻となっている。
俳句・短歌を問わず、連句における言葉と言葉の関係性の世界は短詩型文学の読者・作者にとって無縁ではない。

2021年8月6日金曜日

佐藤文香句集『菊は雪』

「短歌研究」8月号については前回も触れたが、掲載作品のうち佐藤弓生の「はなばなに」は俳句・短歌を詞書にして自作を詠んでいる。その中に現代川柳を引用している一首がある。

  くるうほど凪いで一枚のガラス  八上桐子
しんがりの気泡昇天そののちはどこまでも水平な朝です 佐藤弓生

八上の句は句集『hibi』(港の人)に収録されている。凪の背後には狂暴なものが隠されているのであり、静謐なガラスの内部には何があるのか知れたものではない。佐藤弓生は八上の句の世界を垂直と水平のイメージでとらえ直している。
また、佐藤弓生は「短歌研究」の同号「人生処方歌集」で佐藤文香の『菊は雪』(左右社)を取り上げていて、そこでは菊と雪の取り合わせについて次の歌を連想しているのだった。

心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花  凡河内躬恒

躬恒では「菊と霜」だが、佐藤文香では「菊は雪」になっている。この「は」という連辞が曲者だ。そもそも現実レベルでは菊は雪ではない。伝統的な和歌の世界でも雪と結びつくのは菊ではなくて花(桜)であった。花吹雪という言葉があるように、花=雪であり、桜=雪というように見立てられる。だから菊=雪と言われると一種の衝撃が生まれるのである。
では「菊は雪」という言葉がどこから来たのか。その言葉の出自については作句工房の秘密であるべきだと私は思う。無から有は生まれないから、その言葉が生まれる契機となるものがあったはずだ。それは存外つまらないことだったり、何でもない些細なことだったりするから、読者は生まれた言葉そのものを楽しめばいいのだろう。

くちびるはむかし平安神宮でした  石田柊馬

この句をはじめて読んだときに衝撃を覚えたが、くちびる=平安神宮という等式をつなぐものとして、たとえば平安神宮の赤い大鳥居を思い浮かべたりすると読みがつまらなくなってしまう。躬恒の歌で霜=菊をつなぐものは白であることに間違いはなく、理屈の歌という面もあるけれど、答えがわかってしまえばそれまでという訳でもないだろう。
菊は雪に変容する。言葉の変容、イメージの変容する気分が表現されている句として、巻頭の次の句が注目される。

みづうみの氷るすべてがそのからだ  佐藤文香

みづうみ→氷る→からだ、というふうに言葉が変容してゆく。自然のイメージではじまったものが最後に人体のイメージに行きついている。

夕立ちよ山は木に選ばれてゐる
間奏や夏をやしなふ左心房
鎌倉や雪のつもりの雨が降る
爽籟や巻貝の身に心あり
月南極の氷すべてをわれに呉れよ

木が山に選ばれるのではなくて、山が木に選ばれるのだという。「左心房」の身体性。雪のつもりで降っている雨。巻貝に心があるのか。俳句形式のなかにときどき表れる私性。この句集の止めの句はこんなふうになっている。

ゆめにゆめかさねうちけし菊は雪  佐藤文香

刊行記念特典として付いている佐藤文香と太田ユリの対談のペーパーによると、『菊は雪』は「短詩系ユニットguca」の活動を締めくくるものだという。
佐藤は「外向きの仕事を担当する」という役割を果たそうとしてきたと言っている。『15歳の短歌・俳句・川柳②』『俳句を遊べ!』『天の川銀河発電所』など、キュレーターとしての仕事である。俳句だけではなく、『金曜日の川柳』の企画協力にも彼女は関わっている。それが今回は句集というかたちでクリエーターとして自らの作品をまとめた意義は大きい。
対談の中で佐藤の「一番尊敬している同世代の俳句作家たちを信じて、句集を作ろうと思った」という発言が印象に残った。同じことを太田ユリは「これまで外を向いてやってきたけど、俳句の中の人たちをもう一度信頼するという流れ」と言っている。こんなふうに言いきれるのは凄いことだと思う。

左右社からは三田三郎の第二歌集『鬼と踊る』の今月末発行が予告されている。こちらも楽しみだ。