2017年9月29日金曜日

早稲田文学増刊・女性号

ジム・ジャームッシュ監督の映画「パターソン」を見た。
「現代詩手帖」9月号に映画評が出ていたし、ちょうど梅田で上映していたので、見に行った。
パターソンという町に住むパターソンという男が主人公。彼はバスの運転手をしながらノートに詩を書いている。その一週間のできごとが描かれている。
双子(twins)が繰り返し出てきたり、飼い犬の表情がおもしろかったりして細部も楽しめた。
10歳くらいの女の子が詩を書いている。主人公と話をしたあと、去ってゆくときに彼女が

Do you like Emily Dickinson?

というシーン、一瞬胸がつまった。

「早稲田文学増刊・女性号」を購入する。
発売前から話題になっていて、すでにネットに掲載されていた川上未映子の巻頭言は読んでいた。この巻頭言を身近にいる女性(私に「女の子は作られる」ということを教えてくれたひと)に見せると、「こんなのは当り前のことで、どんな作品を集めるかが問題」と言う。女性にとって当然の視点でも、私には新鮮で共感できたのは私が川柳という誤解されやすいジャンルに関わってきたことが一つの理由かもしれない。

「どうせそんなものだろう」、そう言ってあなたに蓋をしようとする人たちに、そして「まだそんなことを言っているのか」と笑いながら、あなたから背を向ける人たちに、どうか「これは一度きりのわたしの人生の、ほんとうの問題なのだ」と表明する勇気を。(川上未映子)

80人近い執筆者で、ジャンルも小説・現代詩・短歌・俳句と多岐に渡っている。
俳句から池田澄子・佐藤文香・中山奈々が参加している。
佐藤文香の「神戸市西区学園東町」は幼児から自分がどう呼ばれてきたかという呼称の変遷を記した短文と俳句をセットにして興味深い。たとえば、こんな具合に。

私ははじめ、あやかちゃんだったはずだ。少なくとも幼稚園のときにはあやかちゃんだった。しかし小学校に入ったら、知らない子たちから「さとうさん」と呼ばれるようになってしまった。これではいけないと思った。
アベリア来とうわさっきのアレ緑の蜂

佐藤は松山だと思っていたが、神戸で育ったらしい。「来とうわ」は「来てるわ」の神戸弁。大阪人は「来とう」とは言わない。多和田葉子の「空っぽの瓶」にも書かれているように、自分をどう呼ぶか、人にどう呼ばれるかは微妙で重要な問題である。
中山奈々は「O-157」15句を発表している。

初潮なり干からびし蚯蚓を摘み
O-157の年より生理南風

「初潮」「生理」が詠まれている。こういう句を読むと、「還暦の男に初潮小豆めし」(渡辺隆夫)などはやはり男性視点で書かれていたのだなと思う。中山は自己の呼称として「ぼく」をよく使う。

短歌からは今橋愛・東直子・井上法子・盛田志保子・早坂類・雪舟えま・野口あや子など比較的多数の歌人が参加している。
今橋愛は40才の自分を多行短歌で対象化しているが、『O脚の膝』で登場したときの印象が強いので、時間の経過を感じる。野口あや子の「エラクトラ・ハレーション」から二首引用しておこう。

森鷗外、森茉莉、
森鷗外が茉莉にふれたるおやゆびの葉巻のかおるような満月

アナイス・ニン
日毎夜毎ニンを犯してほのあおき梅を目のようにみひらいている

何しろ本書は550頁という厚さなので、まだ十分に読みきれていない。難点は重いので持ち運びできないことだろう。読んだことのない小説、知らなかった作家の作品も多い。書斎に置いて少しずつ読んでいるが、韓国のアーティスト、イ・ランの「韓国大衆音楽賞 トロフィー直売女」がおもしろいというより切実で印象的だった。中島みゆきでは「私たちは春の中で」「木曜の夜」「ファイト!」の三つが収録されているが、「ファイト!」の次のフレーズは私も心の中でいつも呟いている。

ファイト!闘う君の唄を
闘わない奴等が笑うだろう

2017年9月22日金曜日

第五回文学フリマ大阪

9月18日、「第五回文学フリマ大阪」に参加・出店した。
文フリというものに出店するのはこれで五回目である。大阪には第三回から参加。あと京都に一回、東京に一回。五回の経験からいろいろ思うところがあったが、それは後にして、当日ゲットしたものの中から二冊ご紹介。

まず、短歌から「ぱらぷりゅい」。12人の女性歌人による一回だけの冊子だという。メンバーは岩尾淳子・江戸雪・大森静佳・尾崎まゆみ・河野美砂子・沙羅みなみ・中津昌子・野田かおり・前田康子・松城ゆき・やすたけまり・山下泉。
代表の尾崎まゆみはこんなふうに書いている。

「一冊限りの特別な冊子を、いつも歌会などで会う人たちと作りたいと思ったのは、去年初めて行った大阪文学フリマで自作の冊子を売っている人たちが楽しそうだったから」

「女性に限定」「関西」の二つの括りがある。
各12首の短歌のほか参加者の第一歌集の書評を並べるという企画である。あと、歌会の記録。パラプリュイはフランス語で雨傘。日傘はパラソル。ちなみに漢字の「傘」の画数は十二画。12で徹底している。

女には関係のない場があるとやさしい眉のむなしい声で        江戸雪
ひとがひとに溺れることの、息継ぎのたびに海星を握り潰してしまう  大森静佳
鯉川筋をあるく少女のまなざしのまぶし 再度山の濃緑        尾崎まゆみ
ざんねんな探偵としてわれはわれに雇われていたり今日も推理す    山下泉

そういえば山下泉『光の引用』の歌評会に出席したことを思い出す。

二冊目は『カラマーゾフの犬』。ドストエフスキー五大長編アンソロジーとあるが、ドストエフスキーの二次制作なのだろう。『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』『悪霊』『白痴』『未成年』のそれぞれに漫画と小説や短歌・俳句が付く。企画・編集はmerongreeという人。メロングリーと読むのだろう。

ドストエフスキーはもういない。だから、わたしはゆるされる。

ということで、「全国に数人いるドストエフスキークラスタが創作した『自分が見たいドストエフスキー(自分が描かなきゃ出ない新刊)』を収録したのが本誌です」とある。

以上、二冊を紹介したのは内容もおもしろかったが、文フリに向けての制作の仕方にも刺激になるところがあったからだ。
私は今回「川柳サイドSpiral Wave」の名で出店したのだが、川柳から他の出店はなかった。大阪では昨年・一昨年も同じようなものだったが、「川柳界から唯一の出店」と強がってみても、川柳の存在感の薄さは覆うべくもない。特に感じたのは、かたまりとして川柳から複数の出店がないと、人も集まらないし本も売れないということである。
文フリでは川柳本が売れないから、直接川柳大会に行って句集を売る方がよいという考え方がある。大会・句会に集まっているのは川柳人だから、その方が効率がよいのは事実である。しかし、内輪の人間のなかでやりとりしていても、少しも読者の範囲は広がらないし、会場の片隅を借りて本を売るという販売形態もあまり元気のでるものではない。
いまのところ文フリには出店すること自体に意義があると思って参加しているが、何かしら新しい出店形態や企画を考えないといけないと思った。

今回、文フリ大阪のために用意したのは合同句集『川柳サイドSpiral Wave』第二巻である。
これは今年一月の文フリ京都で販売した第一巻に続くもので、榊陽子が抜けて樹萄らきと酒井かがりが新たに加わっている。各30句収録。

強大な堀北真希が降りて来る           川合大祐
小童め傷つかぬよう必死だな           樹萄らき
お、おにぎりの、の、のりがこわいんだなプツン  飯島章友
握らないでくださいそれは渦です         柳本々々
Hey Siri , What did you do this time ?     兵頭全郎
モハでキハでキンコンカン兄貴          酒井かがり
そうだなあ危険な菊をあげようか         小池正博

またフリーペーパーとして「THANATOS」3号(発行 小池正博・八上桐子)を無料配布した。
石部明の川柳を振りかえるもので、今回は1996年~2002年の作品を50句掲載している。

入口のすぐ真後ろがもう出口      石部明
際限もなく砂がある砂遊び

石部明語録と「川柳人はどのようにして自ら納得できる一句にたどりつくのだろうか」「石部明に『遊魔系』上梓を決意させたものは何だろう」の二本の短文が付く。葉ね文庫にも置いてもらっているので、ご希望の方はどうぞ。今年は石部明没後五年になるので、石部の作品が改めて読まれる機会になれば嬉しい。

2017年9月16日土曜日

会話辞典というコミュニケーション―『きょうごめん行けないんだ』

「現代詩手帖」9月号の俳句時評に田島健一が『きょうごめん行けないんだ』(安福望×柳本々々、発行・食パンとペン)を取り上げている。
今回は書棚からこの本を取り出して、もう一度読んでみることにした。
この本は5月の「文フリ東京」のときに買ったもの。表紙の安福のイラストには猫と少女が描かれている。猫は積み上げた本の上に乗って、少女に両足(前足)を差し出している。少女は本を持っていて、その表紙には「neco」と書いてあるようだ。
裏表紙を見ると「にゃあにゃあ」というタイトルで、次の会話が…。

柳本 にゃにゃあだって伝わるかどうかわからないものね。
安福 にゃあにゃあも伝わることあるかもしれないですね。一回だけとか。
柳本 じゃあ、コミュニケーションは奇跡なんだ。

田島健一も指摘しているように、この本は「コミュニケーション」がひとつのテーマであるらしい。

大阪の中崎町で「とととと展」が開催されたのは2015年8月のことだった。
そのとき柳本が安福望と岡野大嗣の両人と語りあったのは印象的だった。
テーマは「と」である。~「と」~をつなぐ。では、何をつなぐのか。どのようにつなぐのか。

本書の最初のページに「会う」という項目がある。「いつか出会えるものはまた出会えるってフィギュア観なんですよ」と柳本は語っている。

柳本 いつも買おうかどうしようか悩んで買わないでそのまま売り切れて後悔することがけっこうあるんだけど、でもじぶんがほんとうにほしいものってまたでてくるんですよ。またぜったい出会うんです。それをフィギュアから学んだんです。

「出会うものは最終的に出合う」ということを柳本は繰り返し語っている。フィギュアに限らず、人と会うのも同じである。

柳本 あ、そういう機会はちゃんとやってくるんだなって。やすふくさんや岡野さんもそうだし。あ、そうか、会わなければいけないひとには会えるんだなって。(イエローブリックロード)

この本を読みながら、柳本々々とはどういう人なんだろうということを改めて思った。
私は柳本とは何度も会っているし、川柳イベントで対談したこともあるが、考えてみれば個人的なことはほとんど知らない。
柳本との出会いにしても、彼が最初に「川柳カード」にメールしてきたときに、私は正体不明の人物として警戒した。いわば、最初の出会いに失敗したわけだが、その後きちんと交流することができたのは「出会うべきものは出会う」と彼が言う通りだろう。
この本には柳本の個人的なことも話されていて、ああ、そういう経歴だったのかと思うところがあった。彼が川柳の世界に入ってきた必然性のようなものがあるように感じる。表現者であるかぎり、闇や悪の部分を持っているものだが、それが川柳とつながっているのである。
最初に少し違和感を感じたのは、なぜ会話辞典(対談)というスタイルをとるのか、ということだった。語るべきことがあるなら、自分ひとり(個)の責任で語り、表現するべきだという感覚が私のどこかにある。
けれども、「とととと展」以来の「つなぐ思想」は彼のスタイルなのかもしれない。そして、対話の相手として安福は絶妙の存在である。彼女もまた短歌をはじめ短詩型文学について語るべきことをもっているのだ。

あと、二箇所ほど引用してみよう。
まず「うろうろする」。

柳本 うろうろするのがすきなんですよね。そのひとの風景になったりとか。
そうするとそのひとが、あっと気づくみたいな。感想をかくって、うろうろする行為だし。
安福 ほんとだ。
感想はうろうろしてますね。そのひとのまわりを
柳本 本を読む行為もうろうろすることに似てませんか。なんかいったりきたりしたり、とちゅうでやめたり。

次に「あと」から。

柳本 ぼく、やっぱり「あと」がけっこうだいじになってくるのかなとおもって。感想かいてても、ああ、あそこをおれはやりのこしたんだなあとか。やったからこそ、あとでわかるものがあって。
安福 だから絵はその時点までのその短歌についてここまで考えたってことなので、またどこか旅立つんですね。やらないとわからないですね。

柳本がどういう感じで文章を書いているのかがうかがえる。
安福と柳本の対談(会話辞典)というスタイルは今後も続いていくのだろう。楽しみにしている。

2017年9月8日金曜日

福田若之句集『自生地』についてのメモ

福田若之の第一句集『自生地』のメモを書いてみたい。
福田の名前をはじめて知ったのは『俳コレ』の収録句を読んだときだった。

さくら、ひら つながりのよわいぼくたち   福田若之
ヒヤシンスしあわせがどうしても要る

などの若い感性が新鮮だった。
その後の彼の活躍は周知のところだが、今年になって福田と会う機会が二度ほどあった。論客としておそろしい人かと思っていたが、気さくな好青年だった。
『自生地』の巻頭は次の句である。

梅雨の自室が老人の死ぬ部屋みたいだ

この句には「気がつくと、ふたたびひどい部屋のありさまで、僕はそこに棲んでいる」という文が添えられている。
句に文を添えるかたちの句集を最近よく見かける。
ここでは作者の居る部屋の様子から話がはじまっている。
巻頭句というのはそれなりに自信のある句、句集一冊を支えるだけの実質のある句であることが多い。けれども、この句集の場合は少し様子が違う。
「僕があらためて書くことのできるものは、結局のところ、僕がいまだ捨てられずにいるものでしかない。だから、ついに現実味を帯びることになった句集の制作を、僕は、六年前にとあるアンソロジーに収められた僕自身の作品をこの手で書き写すことからはじめることにした」
この文に続く句群は『俳コレ』に収録された作品群である(ただし一部、変更がある)。
つまり、これは句集をつくるところを見せる句集なのだ。
創られた句(作品)だけがすべてであって、句集には作品だけを収録すべきだという芸術観とは異なり、句集を作りつつある「僕」のプロセスを見せること自体が一種のアートだと言う考えがベースにあるのかもしれない。この句集を読む読者は work in progress として作者とともに歩んでゆく感じをもつ。
そのための仕掛けもいくつかあって、狂言回しのように節目節目で「かまきり」が登場するし、小岱シオン(コノタシオン)といういわくありげな人物も出てくる。コノタシオンはコノテーションだろう。
けれども、そういうことも本当はどうでもよくて、文とは無関係に句を楽しめばいいのかもしれない。
ありきたりだが、句集から10句気に入った句を挙げてみる。

さくら、ひら つながりのよわいぼくたち
ヒヤシンスしあわせがどうしても要る
突堤で五歳で蟹に挟まれる
いたはずのひとが歩いてこない夏至
ひめりんご夢の乾電池の味だ
誤字を塗りつぶすと森のひとが来る
いつか不可視の桜木町に鳴る車輪
オランウータンの雄逃げコスモスと戻る
悪さして梅雨のあいだを猫でいる
みかん、的な。なんだか話せない僕ら

最後に、句集の帯に三人の書店員さんが言葉を寄せているのは印象的である。葉ね文庫の池上規公子、水中書店の今野真、紀伊国屋新宿本店の梅﨑実奈の三人である。句集を発信してゆく際に、信頼できる書店との共同がこれからますます重要になってゆくだろう。

2017年9月1日金曜日

銃架ともなり得る君の肩―BL短歌・BL俳句のことなど

先日テレビでNHK短歌を見ていると、黒瀬珂瀾がBL短歌として松野志保の歌を紹介していた。興味をもったので『桜前線開架宣言』を開いてみると、次のような歌があった。

好きな色は青と緑というぼくを裏切るように真夏の生理   松野志保
もしぼくが男だったらためらわず凭れた君の肩であろうか
今はただぼくが壊れてゆくさまを少し離れて見つめていてよ
戒厳令を報じる紙面に包まれてダリアようこそぼくらの部屋へ
雑踏を見おろす真昼 銃架ともなり得る君の肩にもたれて 

最初の三首はわかりやすいと思うが、四首目はレジスタンス少年二人を軸にした連作の一首だそうだ。二首目と五首目は直接関係ないが、五首目では「君の肩」は戦争に向かいつつある社会では銃をかつぐものともなりうるという批評的な想像力も働いている。
山田航は『桜前線開架宣言』の解説でこんなふうに書いている。
「いろんな種類の美学を許容するのが現代短歌のいいところであるが、この松野志保はとりわけ異色の美学を追求する歌人だ。凜としたアルトの響きでの詠唱が聞こえてくるような中性的な文体。本人は女性であるが『ぼく』という一人称を好んで歌の中に用いており、少年同士の愛の世界を表現しようとする。いわば『ボーイズラブ短歌』のトップランナーである」
そして山田は「ボーイズラブ的」な短歌は葛原妙子や春日井建にもあったが、松野の新しさは「社会的弱者が変革を求めるときの暴力性に美のあり方を見出そうとしている点」だと言っている。
そういえば春日井建の『未成年』にはこんな歌があった。

両の眼に針射して魚を放ちやるきみを受刑に送るかたみに   春日井建
男囚のはげしき胸に抱かれて鳩はしたたる泥汗を吸ふ

獄中の友への同性の恋という設定である。胸に抱かれる鳩に同一化する恋情はとてもエロティックだ。

「BL読みというのはどんなふうに読むのですか?」
ある時なかやまななに訊いたことがある。
彼女が私の川柳もBL読みできると言ったので、びっくりした。

プラハまで行った靴なら親友だ   小池正博

主語は書いていないのだが、この親友同士は男性で恋愛関係にあると妄想するわけである。プラハまで行ったのだから、そこで何かがあったのかもしれない。

BL短歌誌「共有結晶」は手元にないが、BL俳句誌「庫内灯」は文学フリマで手に入れて持っている。「庫内灯」1号(2015年9月)に石原ユキオが「BL俳句の醸し方」を書いている。
「BL俳句に決まった読み方はありません。
漫画や小説を読むように、あるいはゲームや映画やミュージカルのワンシーンにうっとりするように、気軽に楽しんでもらえたらうれしいです」
そして石原はBL俳句を楽しむコツとして「情景を想像し、ストーリーを妄想せよ!」というミッションを与えている。
この号には金原まさ子と佐々木紺の往復書簡も収録されていて興味深い。

少年を食べつくす群がって蝶たち     金原まさ子

この句について金原は、20年くらい前に見た「去年の夏、突然に」というアメリカ映画の物語から作ったもので、本当にどぎついでしょう、と述べたあと「そう言えば、そちらのBL俳句には性の匂いがいたしませんね。すごく清潔で私ははずかしいです」と書いている。「BLは清らかですね」
金原は「庫内灯」2号(2016年9月)には作品を寄せている。他の作者の句もまじえて紹介する。

ふかい歯型の青りんご視てとり乱す    金原まさ子
Tシャツや抱きしめられて絞め返す    石原ユキオ
短夜を同じ湯船や少し寄る        岡田一実
どちらかが起きてどちらかが眠る     なかやまなな
奈落から隧道そして春灯へ        松本てふこ
彼の怒りに触れたし白百合を噛む     実駒

5月の「句集を読み合う 岡村知昭×中村安伸」(関西現俳協青年部)で仲田陽子が中村安伸『虎の夜食』のBL読みを行ったときもびっくりしたが、BL短歌・BL俳句は徐々に浸透してきており、その射程距離は思ったより広いようだ。