「川柳スパイラル」27号はゲスト作品として南雲ゆゆ、水埜青磁、空野つみき、加那屋こあ、馬場叶羽の句をそれぞれ10句掲載している。1句ずつ紹介する。
この儒艮、マーク・ロスコの黙示では? 南雲ゆゆ
いっけな~い!で建立されしプラクラや 水埜青磁
人形に青信号を塗る 剥がす 空野つみき
ホワイトノイズ混ざらない蝶もいる 加那屋こあ
そうだわと言って気球に乗っている 馬場叶羽
前の三人が川柳人、あとの二人が俳人である。
南雲ゆゆには句集『姉の胚』があり、第二句集『揶揄の¨』(やゆのうむらうと)』も10月に発行予定だという。水埜青磁、空野つみきとは今年3月の「らくだ忌第5回川柳大会」で出合い、作品を依頼した。加那屋こあは「俳句四季」の新人賞を受賞。「朝日新聞」8月5日付夕刊の「あるきだす言葉たち」に「ひかりのまま」12句が掲載されている(「ブローティガン読む夏掛にくるまって」)。馬場叶羽とは奈良の「わかくさ連句会」で知りあって、5月の「関西連句を楽しむ会in須磨」にも出席してもらった。
さて、いまネットを中心に精力的に川柳を発信している表現者にnesがいる。nesは「アイリス句会」を主催するネット系の若手川柳人だが、関西の幾つかのリアル句会にもときどき顔をみせている。彼が最近公開した「かんたん句会」はアカウント登録なしで川柳・俳句の句会を開催できるサービスで、頻繁に利用されているようだ。
nesが5月に発行した『鏡像事変~現代川柳アンソロジー』にはネット系の若手川柳人の作品が掲載されているので、「川柳スパイラル」のゲストと重なる作者を中心に紹介しておきたい。
くちづける度に瓦は落ちていく 下野みかも
花鋏 めぐりあってやってもいい 水埜青磁
バス停に人魚を棄ててずっと雨 空野つみき
数えるといつも奇数のこどもたち 桜庭紀子
地図をかく私がいない国のこと 野に咲くお花
下野は恋句を中心に30句をそろえている。現代川柳で恋の句はもっと書かれてもいいと思っている。ステレオタイプの表現ではなく、深化した現代的な恋の句が現れてほしい。
水埜の句、題詠ではないだろうが、「花鋏」が題(発想の起点)のような役割を果たしていて、そこからどのような方向に飛躍するかというのが読みどころだ。このような方法は雑排の冠句にもあって、「羊飼い まさか俺が狼とは」「宝石箱 いちどに春がこぼれ出る」などの例がある。「羊飼い」「宝石箱」が冠題。
空野の句、「バス停」は川柳でよく詠まれる場所だが、そこに人魚を棄てるという。端正で安定した句作だ。
桜庭の句、「川柳スパイラル」の句会でも高得点を集めた作品。新奇なことばは何も使われていないが、改めて言われると不思議な現実が表現されている。
野に咲くお花は「鱗kokera川柳賞」で平岡直子の目にとまったことで注目されたが、「かわいい」というコンセプトを中心にした日常詠が持ち味である。
「川柳スパイラル」27号では特集「現代川柳と私」のコーナーに水城鉄茶、下野みかも、桜庭紀子、野に咲くお花、森砂季のエッセイを掲載している。短詩型文学の場合は、作者のことがある程度わかっている方が作品を鑑賞しやすい。もちろん作者と作品を安易に結びつけた解釈は避けなければならず、作品の背後に作者の実人生を貼りつけたり、作者と作中主体を混同するような読みとは私も距離を置いてきたつもりだ。ただ、リアルで会ったことのない作者の創作環境を知ることで、その作者への関心が深まることも事実である。川柳を書き続けてゆくモチベーションを維持することが大切だ。
週刊「川柳時評」
2026年9月11日金曜日
2026年9月4日金曜日
泉淳夫の戯作
8月のNHK文化センター梅田教室「はじめまして現代川柳」で「ふあうすと」系の作者、大山竹二と泉淳夫の作品を取り上げた。大山竹二については「大山竹二における人間の探求」という文章を書いたことがあり、『蕩尽の文芸』にも収録されている。また泉淳夫については、石田柊馬の『LPの森/道化師からの伝言』に「病涯」として淳夫の『風祷』が紹介されている。そこでは次のような句が引用されていた。
たぐり寄せては小面の紐に泣かれる 泉淳夫
すすき原狂い小袖のひらひら翔つ
浮草や水の狼藉はじまりぬ
「『風祷』(1987年)は病んで声を失い弱ってゆく自分を見つめる孤影の句集である。病んでいる、病は不治のものであろう。老いの自覚もある。普遍の悲しみとはいえ、それをどのように書くか。どのように対峙するか。病老死の認識がしっかり確かに自分のものとなったときの、未知の言語空間はどのように泉淳夫にあったのだろう。世に病涯を書いた名句は多い」と石田柊馬は書いている。
『風祷』は晩年の泉淳夫の句境を表わすが、そこに至るまでの彼の歩みをまず見ておきたい。
つばくらめ都会の河は濁りゆく(『平日』)
如月の街 まぼろしの鶴吹かれ(『風話』)
雪の深さに沈める壺が音もたず
童女ひとり風と遊びてきりもなし
終着駅 枯野に椅子が一つある
凧絵師の一生賭けてきた軽さ
夢のなか絶えて会わざる馬立てり(『風祷』)
わが死後の二月よ蒼いランプを吊れ
萩の寺 小面通す 萩ざかり
『平日』は家族詠を含めた日常詠、『風話』にはそこから脱皮した粒よりの句が多い。『風祷』は柊馬のいうような病涯句。泉淳夫の句集には二系列あって、『平日』『風話』『風祷』が句集、『女絵師』『楽屋酒』『博多祭時記』が戯作と称されている。前者は泉淳夫のおもての顔、後者が淳夫のもうひとつの顔とも見えるが、どちらも同じ淳夫の顔とも言える。泉淳夫の芸の幅であり、以下、後者の戯作の方を紹介していこう。(『平日』『風話』のあと『市街逍遥』が出ているが、作者のあとがきには、第三句集と呼ぶべきものではなく、『楽屋酒』からの展開を句会作品主体に集めたものとあり、微妙な位置にある句集である。)
『女絵師』はご覧になる機会がないと思うので、多めに引用しておく。『平日』発刊を機に出された江戸情緒あふれた百句を集めた小句集である。
伊勢講にして今日を出る若旦那
突出しの姉の店知る角兵衛獅子
宿下り継母の化粧を白く見る <
両国の灯へ年隠す蛇使い
女絵師根岸の寮へ出入する
焼香の順姐さんの目が険し
検校のひとり笑いが噛む小判
三度笠江戸をぷっつり口にせず
丸山を踏絵の夜からひとり消え
広重の雨雲助の尻を打ち
一読してわかるように、江戸の市井を題材として、川柳によって過去の一時代を構築している。戯作と称しているが、遊戯的なものではなく、句の作り方はしっかりしている。『平日』の最後に「課題一郭」の章があり、たとえば「雁(森鷗外作より)」として「飴細工おとがい細い娘に育ち」「寝返りの向きも娘の住む無縁坂」「風邪気味の父を案じて二日くる」などの句が詠まれている。鷗外の小説を素材とした題詠なのである。同様に『女絵師』も江戸をテーマにした連作となる。この方法は次の『楽屋酒』『博多祭時記』でも踏襲されている。
鳥追のふるいつかせる括り顎(『楽屋酒』)
十五夜の寮に呼ばれてくる笛師
江戸中を白い夜にする芒売り
鐘紡の塀に陽がある昼の酒(『博多祭時記』)
中洲出て中洲に戻る舟遊び
博多時間何時もの顔が二人来ず
泉淳夫は博多生まれの博多っ子であった。後に小倉に転居したが、小倉には違和感を感じたようだ。『博多祭時記』はいまや過ぎ去った時代の博多の風物を川柳作品として再現しようとした句集である。「博多の町々にはその頃(大正末期~昭和初期)、こころの触れ合いを持つ善き隣人たちが、倚り合うように生活していて、その人たちの描く日々の哀歓には何とも云えない潤いと艶やかさがあった」(あとがき)
『博多祭時記』の終章「博多往来」の句を紹介しておこう。
珈琲が匂うレーロの昼下がり(東中洲)
バッテン館間奏楽に眼をつむり
鐘紡の塀道行のように添い
常盤館馬賊藝妓を丸抱え(花街)
濱新地矢野サーカスが吹き鳴らし
トロ食いに新道折れる玉屋ずし(町筋)
川端ぜんざい博多の下戸の顔が合い(店舗)
夢の久作のごたーる養子連れてくる(人物)
たぐり寄せては小面の紐に泣かれる 泉淳夫
すすき原狂い小袖のひらひら翔つ
浮草や水の狼藉はじまりぬ
「『風祷』(1987年)は病んで声を失い弱ってゆく自分を見つめる孤影の句集である。病んでいる、病は不治のものであろう。老いの自覚もある。普遍の悲しみとはいえ、それをどのように書くか。どのように対峙するか。病老死の認識がしっかり確かに自分のものとなったときの、未知の言語空間はどのように泉淳夫にあったのだろう。世に病涯を書いた名句は多い」と石田柊馬は書いている。
『風祷』は晩年の泉淳夫の句境を表わすが、そこに至るまでの彼の歩みをまず見ておきたい。
つばくらめ都会の河は濁りゆく(『平日』)
如月の街 まぼろしの鶴吹かれ(『風話』)
雪の深さに沈める壺が音もたず
童女ひとり風と遊びてきりもなし
終着駅 枯野に椅子が一つある
凧絵師の一生賭けてきた軽さ
夢のなか絶えて会わざる馬立てり(『風祷』)
わが死後の二月よ蒼いランプを吊れ
萩の寺 小面通す 萩ざかり
『平日』は家族詠を含めた日常詠、『風話』にはそこから脱皮した粒よりの句が多い。『風祷』は柊馬のいうような病涯句。泉淳夫の句集には二系列あって、『平日』『風話』『風祷』が句集、『女絵師』『楽屋酒』『博多祭時記』が戯作と称されている。前者は泉淳夫のおもての顔、後者が淳夫のもうひとつの顔とも見えるが、どちらも同じ淳夫の顔とも言える。泉淳夫の芸の幅であり、以下、後者の戯作の方を紹介していこう。(『平日』『風話』のあと『市街逍遥』が出ているが、作者のあとがきには、第三句集と呼ぶべきものではなく、『楽屋酒』からの展開を句会作品主体に集めたものとあり、微妙な位置にある句集である。)
『女絵師』はご覧になる機会がないと思うので、多めに引用しておく。『平日』発刊を機に出された江戸情緒あふれた百句を集めた小句集である。
伊勢講にして今日を出る若旦那
突出しの姉の店知る角兵衛獅子
宿下り継母の化粧を白く見る <
両国の灯へ年隠す蛇使い
女絵師根岸の寮へ出入する
焼香の順姐さんの目が険し
検校のひとり笑いが噛む小判
三度笠江戸をぷっつり口にせず
丸山を踏絵の夜からひとり消え
広重の雨雲助の尻を打ち
一読してわかるように、江戸の市井を題材として、川柳によって過去の一時代を構築している。戯作と称しているが、遊戯的なものではなく、句の作り方はしっかりしている。『平日』の最後に「課題一郭」の章があり、たとえば「雁(森鷗外作より)」として「飴細工おとがい細い娘に育ち」「寝返りの向きも娘の住む無縁坂」「風邪気味の父を案じて二日くる」などの句が詠まれている。鷗外の小説を素材とした題詠なのである。同様に『女絵師』も江戸をテーマにした連作となる。この方法は次の『楽屋酒』『博多祭時記』でも踏襲されている。
鳥追のふるいつかせる括り顎(『楽屋酒』)
十五夜の寮に呼ばれてくる笛師
江戸中を白い夜にする芒売り
鐘紡の塀に陽がある昼の酒(『博多祭時記』)
中洲出て中洲に戻る舟遊び
博多時間何時もの顔が二人来ず
泉淳夫は博多生まれの博多っ子であった。後に小倉に転居したが、小倉には違和感を感じたようだ。『博多祭時記』はいまや過ぎ去った時代の博多の風物を川柳作品として再現しようとした句集である。「博多の町々にはその頃(大正末期~昭和初期)、こころの触れ合いを持つ善き隣人たちが、倚り合うように生活していて、その人たちの描く日々の哀歓には何とも云えない潤いと艶やかさがあった」(あとがき)
『博多祭時記』の終章「博多往来」の句を紹介しておこう。
珈琲が匂うレーロの昼下がり(東中洲)
バッテン館間奏楽に眼をつむり
鐘紡の塀道行のように添い
常盤館馬賊藝妓を丸抱え(花街)
濱新地矢野サーカスが吹き鳴らし
トロ食いに新道折れる玉屋ずし(町筋)
川端ぜんざい博多の下戸の顔が合い(店舗)
夢の久作のごたーる養子連れてくる(人物)
2026年8月28日金曜日
寺田寅彦の連句
今年の国民文化(よさこい高知文化祭2026)は高知県で開催される。「川柳の祭典」は11月1日(日)四万十市しまんとぴあ、「連句の祭典」は11月15日(日)にオーテピア高知図書館で行われ、私は連句の祭典の方に参加予定である。ちなみに高知ゆかりの連句人に寺田寅彦がいて、寅彦が4歳から19歳まですごしていた邸宅を復元した寺田寅彦記念館もある。
8月9日の大阪連句懇話会では国文祭にちなんで、寅彦の連句実作と連句論をとりあげた。寅彦の連句作品は松根東洋城の「渋柿」に49巻掲載されている。連衆は寅日子(寺田寅彦)・東洋城・蓬里雨(小宮豊隆)である。次に挙げるのが「渋柿」に掲載された最初の歌仙で、大正14年10月に掲載されている。このとき小宮豊隆はドイツに留学中だったので、東洋城との両吟になっている。オモテ六句のみ引用する。
水団扇鵜飼の絵なる篝かな 東洋城
旅の話の更けて涼しき 寅日子
縁柱すがるところに瘤ありて 城
半分とけしあと解けぬ謎 子
吸物をあとから出した月の宴 城
庭のすすきに風渡る頃 子
寅彦・東洋城・豊隆の三人は近代連句史に大きな役割を果たしていて、『連句辞典』(東京堂出版)の人名篇のページには三人とも名前が掲載されている。小宮豊隆は漱石研究や俳諧研究で知られ、俳文学会の初代会長をつとめた。次の歌仙は、小宮が東北帝国大学の教授として仙台に赴任する際に巻かれたもの(昭和2年2月「渋柿」掲載)。
送別
あすよりはみちのく人や春の雨 東洋城
まだ雪のこる西側の山 蓬里雨
沈丁花こぼるる里に移り来て 寅日子
以下省略。昭和10年、東洋城の新居落成のときに巻かれたのが歌仙「冬空や」の巻(昭和10年6月「渋柿」掲載)。こういうときは客が発句を詠んで新居をほめ、亭主が脇で挨拶をかえすのが普通だが、この歌仙では東洋城自身が自祝の発句を詠んでいる。これも東洋城の性格であろうか。
草庵棟上
冬空や白木の柱押し立てて 東洋城
心静まる石上の霜 寅日子
半日の損得客に量るらむ 城
途中省略して、名残りの表の7句目から。
ままならぬものを譬はば針のめど 寅日子
無き柄をすげる縁のさまたげ 東洋城
もののふの矢竹心に恋ひわたり 城
内侍に化けし狐うつくし 子
濁り江の雨を醸して月の暈 子
水嵩見ゆる野菊溝萩 城
矢竹心(やたけごころ)は勇猛心。昭和10年に寅彦は亡くなっているから、晩年の彼は連句に打ち込んでいたことになる。
寅彦は連句評論もいくつか書いていて、「連句雑俎」(「渋柿」昭和6年3月~12月)は代表的なもの。連句の独自性・連句と音楽・連句と合奏・連句の心理と夢の心理・連句心理の諸現象・月花の定座の意義・短歌の連作と連句など多岐に渡って連句を論じている。
「俳諧の本質的概論」もよく知られている。能勢朝次の『連句芸術の性格』にも「尊敬する先覚者」として寺田寅彦の名が挙げられ、「俳諧の本質的概論」が引用されている。エイゼンシュテインの映画などの影響でモンタージュ理論が喧伝され、俳句の取合せにも応用された時期だった。
「近頃映画芸術の理論で云うところのモンタージュはやはり取合せの芸術である。二つのものを衝き合わせることによって、二つの各々とはちがった全く別ないわゆる倍音或いは綜合音ともいうべきものを発生する」「常に俳諧に親しんで其の潜在意識的連想の活動に馴らされたものから見ると、たとえば定家や西行の短歌の多数のものによって刺激される連想はあまりに顕在的であり、訴え方が顕わであり過ぎるっような気がするのを如何ともすることが出来ない。斎藤茂吉氏の「赤光」の歌が吾々を喜ばせたのは其の歌の潜在的暗示に富む為であった」「潜在的である故にまた俳諧の無心所着的な取合せ方は夢の現象における物象の取合せに類似する」
映画と連句の関係については、「映画芸術」のうち「映画と連句」の項がわかりやすい。
「あらゆる芸術のうちでその動的な構成法において最も映画に接近するものは俳諧連句であろう」「発句はそれ自身の中にすでに若干の心像のモンタージュ的構成を備えているが、歌仙連句の中の付け句の一つ一つはそれぞれが一つのモンタージュビルドであり、その細胞である」「識閾の上層だけでつながったものは、つまり一つの静的な像である。いわゆる付き過ぎた連句は、結局一句を二つに分けただけで『歩み』はない」
寅彦は歌仙のほかに「三つ物」「二枚折」「二つ折」「二枚屏風」「トルソー」などの形式を試みている。詳しいことは寺田寅彦全集を参照していただきたいが、ここではRONDO(ロンド)という形式をとりあげる。10句形式で発句は長句のものと短句のものの二通りあるが、ここでは短句ではじまる作品を紹介しておく。
氷を砕く音も短夜 寅日子
さまざまに心尽しの花の鉢 子
娘をよんで本を読ませる 蓬里雨
蝿打の糸のほつれに秋見えて 子
黍の葉にさす日も斜なる 雨
客曳の塩辛声もなつかっしく 子
ををこで行李をぶらさげて行く 雨
時々は村の公事にも口利きて 子
色のやけたる紋の桐の葉 雨
五月雨の匂ひ籠れる薬局に 子
氷を砕く………………
挙句が発句に戻って回ってゆくのでロンドというわけだ。
俳諧接心の岡本星女は寺田寅彦から刺激を受けて、発句が短句からはじまる「R」という形式を試みた。旧聞に属するが『連句年鑑』(2002年版)からR「トレモロを」の巻を紹介する。
トレモロをもて星の呼び合う 岡本 星女
耕すやイーハトーブの大地をば 葦生はてを
サフランライスほんのりと黄 星野 焱
孔明に初恋のひとありしならん 星
バンドネオンがジェラシーに哭く を
伴天連の秘宝のありか刺青に 焱
水神祭を河童祭と 星
実柘榴のからくれないに笑みこぼれ お
螻蛄放屁虫百足虫鬼の子 焱
大阪のあきない妹の嫁入りとは 星
琥珀の化生素心蝋梅 お
サザビーズにチャーチル手沢のスキットル 焱
8月9日の大阪連句懇話会では国文祭にちなんで、寅彦の連句実作と連句論をとりあげた。寅彦の連句作品は松根東洋城の「渋柿」に49巻掲載されている。連衆は寅日子(寺田寅彦)・東洋城・蓬里雨(小宮豊隆)である。次に挙げるのが「渋柿」に掲載された最初の歌仙で、大正14年10月に掲載されている。このとき小宮豊隆はドイツに留学中だったので、東洋城との両吟になっている。オモテ六句のみ引用する。
水団扇鵜飼の絵なる篝かな 東洋城
旅の話の更けて涼しき 寅日子
縁柱すがるところに瘤ありて 城
半分とけしあと解けぬ謎 子
吸物をあとから出した月の宴 城
庭のすすきに風渡る頃 子
寅彦・東洋城・豊隆の三人は近代連句史に大きな役割を果たしていて、『連句辞典』(東京堂出版)の人名篇のページには三人とも名前が掲載されている。小宮豊隆は漱石研究や俳諧研究で知られ、俳文学会の初代会長をつとめた。次の歌仙は、小宮が東北帝国大学の教授として仙台に赴任する際に巻かれたもの(昭和2年2月「渋柿」掲載)。
送別
あすよりはみちのく人や春の雨 東洋城
まだ雪のこる西側の山 蓬里雨
沈丁花こぼるる里に移り来て 寅日子
以下省略。昭和10年、東洋城の新居落成のときに巻かれたのが歌仙「冬空や」の巻(昭和10年6月「渋柿」掲載)。こういうときは客が発句を詠んで新居をほめ、亭主が脇で挨拶をかえすのが普通だが、この歌仙では東洋城自身が自祝の発句を詠んでいる。これも東洋城の性格であろうか。
草庵棟上
冬空や白木の柱押し立てて 東洋城
心静まる石上の霜 寅日子
半日の損得客に量るらむ 城
途中省略して、名残りの表の7句目から。
ままならぬものを譬はば針のめど 寅日子
無き柄をすげる縁のさまたげ 東洋城
もののふの矢竹心に恋ひわたり 城
内侍に化けし狐うつくし 子
濁り江の雨を醸して月の暈 子
水嵩見ゆる野菊溝萩 城
矢竹心(やたけごころ)は勇猛心。昭和10年に寅彦は亡くなっているから、晩年の彼は連句に打ち込んでいたことになる。
寅彦は連句評論もいくつか書いていて、「連句雑俎」(「渋柿」昭和6年3月~12月)は代表的なもの。連句の独自性・連句と音楽・連句と合奏・連句の心理と夢の心理・連句心理の諸現象・月花の定座の意義・短歌の連作と連句など多岐に渡って連句を論じている。
「俳諧の本質的概論」もよく知られている。能勢朝次の『連句芸術の性格』にも「尊敬する先覚者」として寺田寅彦の名が挙げられ、「俳諧の本質的概論」が引用されている。エイゼンシュテインの映画などの影響でモンタージュ理論が喧伝され、俳句の取合せにも応用された時期だった。
「近頃映画芸術の理論で云うところのモンタージュはやはり取合せの芸術である。二つのものを衝き合わせることによって、二つの各々とはちがった全く別ないわゆる倍音或いは綜合音ともいうべきものを発生する」「常に俳諧に親しんで其の潜在意識的連想の活動に馴らされたものから見ると、たとえば定家や西行の短歌の多数のものによって刺激される連想はあまりに顕在的であり、訴え方が顕わであり過ぎるっような気がするのを如何ともすることが出来ない。斎藤茂吉氏の「赤光」の歌が吾々を喜ばせたのは其の歌の潜在的暗示に富む為であった」「潜在的である故にまた俳諧の無心所着的な取合せ方は夢の現象における物象の取合せに類似する」
映画と連句の関係については、「映画芸術」のうち「映画と連句」の項がわかりやすい。
「あらゆる芸術のうちでその動的な構成法において最も映画に接近するものは俳諧連句であろう」「発句はそれ自身の中にすでに若干の心像のモンタージュ的構成を備えているが、歌仙連句の中の付け句の一つ一つはそれぞれが一つのモンタージュビルドであり、その細胞である」「識閾の上層だけでつながったものは、つまり一つの静的な像である。いわゆる付き過ぎた連句は、結局一句を二つに分けただけで『歩み』はない」
寅彦は歌仙のほかに「三つ物」「二枚折」「二つ折」「二枚屏風」「トルソー」などの形式を試みている。詳しいことは寺田寅彦全集を参照していただきたいが、ここではRONDO(ロンド)という形式をとりあげる。10句形式で発句は長句のものと短句のものの二通りあるが、ここでは短句ではじまる作品を紹介しておく。
氷を砕く音も短夜 寅日子
さまざまに心尽しの花の鉢 子
娘をよんで本を読ませる 蓬里雨
蝿打の糸のほつれに秋見えて 子
黍の葉にさす日も斜なる 雨
客曳の塩辛声もなつかっしく 子
ををこで行李をぶらさげて行く 雨
時々は村の公事にも口利きて 子
色のやけたる紋の桐の葉 雨
五月雨の匂ひ籠れる薬局に 子
氷を砕く………………
挙句が発句に戻って回ってゆくのでロンドというわけだ。
俳諧接心の岡本星女は寺田寅彦から刺激を受けて、発句が短句からはじまる「R」という形式を試みた。旧聞に属するが『連句年鑑』(2002年版)からR「トレモロを」の巻を紹介する。
トレモロをもて星の呼び合う 岡本 星女
耕すやイーハトーブの大地をば 葦生はてを
サフランライスほんのりと黄 星野 焱
孔明に初恋のひとありしならん 星
バンドネオンがジェラシーに哭く を
伴天連の秘宝のありか刺青に 焱
水神祭を河童祭と 星
実柘榴のからくれないに笑みこぼれ お
螻蛄放屁虫百足虫鬼の子 焱
大阪のあきない妹の嫁入りとは 星
琥珀の化生素心蝋梅 お
サザビーズにチャーチル手沢のスキットル 焱
2026年8月13日木曜日
「あつたの杜」連句まつりと三河の俳諧
「あつたの杜」連句まつりは今年で7回目を迎え、8月2日にイーブルなごやで開催された。6座36人の参加があり、当日の連句作品は熱田神宮に奉納されることになっている。イーブルなごやには川柳の会で行ったことがあるが、連句会に参加するのははじめてである。JR名古屋駅のホームできしめんの店に入る。専門店で食べるより手ごろだ。金山までJRで行き、東別院まで歩く。東別院付近の以前入ったことのある喫茶店で連句会開始までの時間待ちをする。
連句会は盛会で、東京、横浜、松山など各地からの参加者があって交流できた。私の座には三河の俳諧について詳しい方がいて刺激を受けた。愛知は尾張と三河に分かれるが、尾張の俳諧については芭蕉の『冬の日』により蕉風発祥の地としてよく知られており、2016年の愛知国民文化祭の際には熱田や鳴海の俳諧めぐりもしたが、三河の俳諧については知識がなかった。
帰宅後、『東海の俳諧史』(さるみの会編)で調べてみると「三河蕉門」の項目があった。三河蕉門には西三河の岡崎と東三河の新城(しんしろ)という二つの中心地がある。元禄時代が全盛期で、享保にはいると凋落したという。荷兮編『曠野後集』には岡崎俳人も入集している。
にぎやかな中にしづけし盆の月 秋冬
いなづまに又くりかへす噺かな 鶴声
藤たれて光ありけり砂の色 霰艇
岡崎蕉門は完全には尾張から独立していなくて、尾張の影響下にあったようだ。当時、三河蕉門を代表する俳人と見られていたのが鶴声。鶴声が編者となった『柱暦(はしらごよみ)』から二句抜いておく。
白魚や銀をもて鋳る西施 鶴声
曲水や花の波行く小さかづき
『柱暦』から歌仙のオモテも引用しておこう。
活計をあらしにさする桜かな 釣眠
もやすく渡る水の暖 秋冬
蚊帳のきれ田うちの食に打きせて 鶴声
迦す仲戸を軒下へ出す 眠
名月も正直いはば内がよし 冬
毛脚の露を鼻紙でふく 声
三河蕉門のもう一つの中心地、東三河の新城のリーダーだったのが太田白雪。元禄四年十月、白雪は自宅に芭蕉を迎えている。白雪は新城の庄屋・太田金衛門で、14歳の長男・重英と11歳の次男・孝知に芭蕉はそれぞれ「桃先」「桃後」の号を与えた。そのとき詠まれたのが次の発句である。
その匂ひ桃より白し水仙花 芭蕉
少年たちの純粋な詩心を水仙にたとえ、「私」=「桃青」より清らかだという挨拶である。その後の白雪父子の句を挙げておく。
刈りしほの麦吹く風や鳴海潟 白雪
行き暮れて蚊の声すごし羅生門 桃先
しがみついて砂に流るる蛙かな 桃後
やがて享保年間に入り、三河蕉門は静かに終焉を迎えることになる。
尾張俳壇は横井也有や加藤暁台などの活動が続くが、天保期に入って井上士朗の門人によって三河俳壇がやや活況を取り戻すことになる。『東海の俳諧史』の「天保俳諧」のページには三河について次のように書かれている。
「士朗門の逸材で、天保まで生きながらえて、その衣鉢を十分に伝え、岡崎正風を提唱したのが岡崎の青々処鶴田卓池だ。この人あるによって三河の俳界は統一せられている。彼はいまの菅生町辺に住んでいた紺屋の主人」「士朗在世中からよく旅に同行してるし、一人立ちしてからは門葉をつれて遠方まで俳行脚している。その為広く顔が売れていた」
『化政天保俳諧集』(古典俳文学大系16)に『青々処句集』が収録されているので、卓池の句を紹介していこう。
正月十二日朱芳亭句会
梅の気力ひらくばかりになりにけり
水竹別荘
蚊ひとつに夕ぐれを知るさくらかな
朱樹翁十三回忌の追福をいとなむ日
今日こゝにちなみわすれず閑古鳥
朱芳は士朗門の俳人。水竹は卓池の門人である。ちなみに水竹、塞馬、蓬宇が卓池門の三羽烏である。朱樹翁は士朗の号。士郎十三回忌に卓池は『安居鐘』を編んでいる。
卓池の俳諧行脚は各地に及んでいて、旅吟も多いので抜き出しておく。
月仏信濃へ花のころに来て (善光寺)
目にさはるさくらいやしやわかの浦(和歌浦)
しら川やこゝろとむればなく水鶏 (白河の関)
朱鷺の羽に日影さしけり皐月雨 (新潟)
橋だてやすゞみながらの人通り (天橋立)
とかくして芦に日の入るわかれ哉 (浪花・玉造)
『青々処句集』は水竹の序、塞馬の跋で卓池の七回忌追善として刊行された。塞馬の跋文には卓池の人柄が次のように書かれている。 「其性温順敦厚にしてよく人を究る故に、風雅を以て来訪する門人遊客日々に十を以て算ふ。其の盛莚思ふべし」
春の雪ゆきの遠山見えて降る 卓池
連句会は盛会で、東京、横浜、松山など各地からの参加者があって交流できた。私の座には三河の俳諧について詳しい方がいて刺激を受けた。愛知は尾張と三河に分かれるが、尾張の俳諧については芭蕉の『冬の日』により蕉風発祥の地としてよく知られており、2016年の愛知国民文化祭の際には熱田や鳴海の俳諧めぐりもしたが、三河の俳諧については知識がなかった。
帰宅後、『東海の俳諧史』(さるみの会編)で調べてみると「三河蕉門」の項目があった。三河蕉門には西三河の岡崎と東三河の新城(しんしろ)という二つの中心地がある。元禄時代が全盛期で、享保にはいると凋落したという。荷兮編『曠野後集』には岡崎俳人も入集している。
にぎやかな中にしづけし盆の月 秋冬
いなづまに又くりかへす噺かな 鶴声
藤たれて光ありけり砂の色 霰艇
岡崎蕉門は完全には尾張から独立していなくて、尾張の影響下にあったようだ。当時、三河蕉門を代表する俳人と見られていたのが鶴声。鶴声が編者となった『柱暦(はしらごよみ)』から二句抜いておく。
白魚や銀をもて鋳る西施 鶴声
曲水や花の波行く小さかづき
『柱暦』から歌仙のオモテも引用しておこう。
活計をあらしにさする桜かな 釣眠
もやすく渡る水の暖 秋冬
蚊帳のきれ田うちの食に打きせて 鶴声
迦す仲戸を軒下へ出す 眠
名月も正直いはば内がよし 冬
毛脚の露を鼻紙でふく 声
三河蕉門のもう一つの中心地、東三河の新城のリーダーだったのが太田白雪。元禄四年十月、白雪は自宅に芭蕉を迎えている。白雪は新城の庄屋・太田金衛門で、14歳の長男・重英と11歳の次男・孝知に芭蕉はそれぞれ「桃先」「桃後」の号を与えた。そのとき詠まれたのが次の発句である。
その匂ひ桃より白し水仙花 芭蕉
少年たちの純粋な詩心を水仙にたとえ、「私」=「桃青」より清らかだという挨拶である。その後の白雪父子の句を挙げておく。
刈りしほの麦吹く風や鳴海潟 白雪
行き暮れて蚊の声すごし羅生門 桃先
しがみついて砂に流るる蛙かな 桃後
やがて享保年間に入り、三河蕉門は静かに終焉を迎えることになる。
尾張俳壇は横井也有や加藤暁台などの活動が続くが、天保期に入って井上士朗の門人によって三河俳壇がやや活況を取り戻すことになる。『東海の俳諧史』の「天保俳諧」のページには三河について次のように書かれている。
「士朗門の逸材で、天保まで生きながらえて、その衣鉢を十分に伝え、岡崎正風を提唱したのが岡崎の青々処鶴田卓池だ。この人あるによって三河の俳界は統一せられている。彼はいまの菅生町辺に住んでいた紺屋の主人」「士朗在世中からよく旅に同行してるし、一人立ちしてからは門葉をつれて遠方まで俳行脚している。その為広く顔が売れていた」
『化政天保俳諧集』(古典俳文学大系16)に『青々処句集』が収録されているので、卓池の句を紹介していこう。
正月十二日朱芳亭句会
梅の気力ひらくばかりになりにけり
水竹別荘
蚊ひとつに夕ぐれを知るさくらかな
朱樹翁十三回忌の追福をいとなむ日
今日こゝにちなみわすれず閑古鳥
朱芳は士朗門の俳人。水竹は卓池の門人である。ちなみに水竹、塞馬、蓬宇が卓池門の三羽烏である。朱樹翁は士朗の号。士郎十三回忌に卓池は『安居鐘』を編んでいる。
卓池の俳諧行脚は各地に及んでいて、旅吟も多いので抜き出しておく。
月仏信濃へ花のころに来て (善光寺)
目にさはるさくらいやしやわかの浦(和歌浦)
しら川やこゝろとむればなく水鶏 (白河の関)
朱鷺の羽に日影さしけり皐月雨 (新潟)
橋だてやすゞみながらの人通り (天橋立)
とかくして芦に日の入るわかれ哉 (浪花・玉造)
『青々処句集』は水竹の序、塞馬の跋で卓池の七回忌追善として刊行された。塞馬の跋文には卓池の人柄が次のように書かれている。 「其性温順敦厚にしてよく人を究る故に、風雅を以て来訪する門人遊客日々に十を以て算ふ。其の盛莚思ふべし」
春の雪ゆきの遠山見えて降る 卓池
2026年2月27日金曜日
連句の諸形式
国民文化祭・長崎(ながさきピース文化祭2025)「連句の祭典」の入選作品集が届いたので紹介しておきたい。形式は半歌仙で、485巻の応募があった。一般の部、文部科学大臣賞は半歌仙「潮騒」の巻(奈良県、捌・嵯峨澤衣谷)。
潮騒も静寂となりぬ憂国忌 嵯峨澤衣谷
紅葉挟んだ読みかけの本 春野 彼方
窓を開け名残りの月を眺むらん 衣谷
微かに揺れる軒の鳥籠 彼方
(以下略)
五人の選者のうち二人が特選に選んでいる。
高尾秀四郎は選の観点として、次の六点を挙げている。
①発句の訴求力、完成度
②オモテ六句のオモテぶり
③ウラに入る転じの上手さとその後の暴れぶり
④琴線に触れるような情のある恋の場面展開
⑤味わいの佳句の有無
⑥見事で爽やかなエンディング
また、鈴木千惠子は半歌仙のあり方について、一花二月で構成されるが、応募作のなかには正花が二つ詠まれているもの・月が面ごとに一つずつが守られていないものがあり、許容できない。また応募作全体について、発句に一巻の牽引力があり、表六句が穏やかでありながら魅力的なものに惹かれる。月・花・恋の句にも注目、付けと転じの妙が大切、半歌仙を十八歩と考え一歩も後に帰る心のないものを選んだと述べている。
国民文化祭実行委員会会長賞は半歌仙「ゆゆゆ」の巻(愛知県、捌・瀧村小奈生)
光ゆゆ風もゆゆゆの猫柳 瀧村小奈生
くすぐつたくて笑ふ山々 清水ましろ
トラックの荷ほどきの声うららかに 金子 ユリ
地図を片手に歩く路地裏 小奈生
(以下略)
「発句や付句の感覚がおもしろく、フィーリング付という感じ」(小池正博の選評)
選者によって連句観は異なるとしても、連句評価の基準はそれほど違わないと思われるが、基準を適用するするときの感覚の差はどうしても表れてしまうようだ。
徳島の連句グループ「花音」(はなおと)から連句集『花音』第十二集が届いた。
「花が開く時、人の耳には聴こえなくても、きっと小さな小さな音がしているのではないか。それを聴いてみたいものである」(三輪和「はじめに」)
新形式「花音」は「箙」(六・六・六・六の二十四句形式)を基本とするが、各面に花と音、正花は一つ、月は二としている。
パワハラがスポーツ界に蔓延し
自然の秩序守り月冴ゆ
蝋梅は一斉に咲き香り立ち
写真撮影フラッシュを焚く
ルンルンの婚前旅行ハワイへと
泡のごとく消ゆるときめき
三句目が正花ではない花、四句目が音になっている。
これをさらに発展させて、最後に二句のコーダを付けたり、一連の句数を六句から四句へとコンパクトにするなどの試みをしているのは興味深い。
徳島県連句協会からは「ロータス」No.22が届いた。ここにはさまざまな連句形式が掲載されていて、半歌仙、二十韻のほか花音、非懐紙、山茶花、賜餐、オン座六句、ソネット、獅子など新形式を実作する際に参考になる。
最後に、「第27回大分県民文化祭連句大会実作作品集」について。昨年11月に大分県の中津市(中津文化会館)で開催された連句大会の記録である。中津は福沢諭吉のよかりの地で、中津城もあり、鱧料理でも有名。連句会の前の講演「中津の食と文学散歩」は興味深いものだった。
冬の城朝の光を浴びて建つ
再訪するは紅葉散るころ
料亭の来歴長く記されて
座の文芸としての連句は、各地で開催されているのだ。
潮騒も静寂となりぬ憂国忌 嵯峨澤衣谷
紅葉挟んだ読みかけの本 春野 彼方
窓を開け名残りの月を眺むらん 衣谷
微かに揺れる軒の鳥籠 彼方
(以下略)
五人の選者のうち二人が特選に選んでいる。
高尾秀四郎は選の観点として、次の六点を挙げている。
①発句の訴求力、完成度
②オモテ六句のオモテぶり
③ウラに入る転じの上手さとその後の暴れぶり
④琴線に触れるような情のある恋の場面展開
⑤味わいの佳句の有無
⑥見事で爽やかなエンディング
また、鈴木千惠子は半歌仙のあり方について、一花二月で構成されるが、応募作のなかには正花が二つ詠まれているもの・月が面ごとに一つずつが守られていないものがあり、許容できない。また応募作全体について、発句に一巻の牽引力があり、表六句が穏やかでありながら魅力的なものに惹かれる。月・花・恋の句にも注目、付けと転じの妙が大切、半歌仙を十八歩と考え一歩も後に帰る心のないものを選んだと述べている。
国民文化祭実行委員会会長賞は半歌仙「ゆゆゆ」の巻(愛知県、捌・瀧村小奈生)
光ゆゆ風もゆゆゆの猫柳 瀧村小奈生
くすぐつたくて笑ふ山々 清水ましろ
トラックの荷ほどきの声うららかに 金子 ユリ
地図を片手に歩く路地裏 小奈生
(以下略)
「発句や付句の感覚がおもしろく、フィーリング付という感じ」(小池正博の選評)
選者によって連句観は異なるとしても、連句評価の基準はそれほど違わないと思われるが、基準を適用するするときの感覚の差はどうしても表れてしまうようだ。
徳島の連句グループ「花音」(はなおと)から連句集『花音』第十二集が届いた。
「花が開く時、人の耳には聴こえなくても、きっと小さな小さな音がしているのではないか。それを聴いてみたいものである」(三輪和「はじめに」)
新形式「花音」は「箙」(六・六・六・六の二十四句形式)を基本とするが、各面に花と音、正花は一つ、月は二としている。
パワハラがスポーツ界に蔓延し
自然の秩序守り月冴ゆ
蝋梅は一斉に咲き香り立ち
写真撮影フラッシュを焚く
ルンルンの婚前旅行ハワイへと
泡のごとく消ゆるときめき
三句目が正花ではない花、四句目が音になっている。
これをさらに発展させて、最後に二句のコーダを付けたり、一連の句数を六句から四句へとコンパクトにするなどの試みをしているのは興味深い。
徳島県連句協会からは「ロータス」No.22が届いた。ここにはさまざまな連句形式が掲載されていて、半歌仙、二十韻のほか花音、非懐紙、山茶花、賜餐、オン座六句、ソネット、獅子など新形式を実作する際に参考になる。
最後に、「第27回大分県民文化祭連句大会実作作品集」について。昨年11月に大分県の中津市(中津文化会館)で開催された連句大会の記録である。中津は福沢諭吉のよかりの地で、中津城もあり、鱧料理でも有名。連句会の前の講演「中津の食と文学散歩」は興味深いものだった。
冬の城朝の光を浴びて建つ
再訪するは紅葉散るころ
料亭の来歴長く記されて
座の文芸としての連句は、各地で開催されているのだ。
2026年2月22日日曜日
ココシュカ「風の花嫁」
マーラーの交響曲はちゃんと聞いたことがないが、「大地の歌」だけはレコードを持っていて繰り返し聞いている。私が持っているのはワルターの指揮ではなくて、バーンスタイン指揮、ウイーン・フィルハーモニー管弦楽団、フィッシャー・ディースカウのバリトン。第6楽章「告別」の最後はこんなふうに終っている。
春になれば
愛する大地は再びいたるところ花が咲き乱れ
樹々は緑に覆われて
永遠に、世界の遠き果てまでも青々と輝きわたる
永遠に… 永遠に…(ewig…)
マーラーはベートーベンなどが第9交響曲まで書いて死んだことを恐れて、彼の9番目の交響曲には番号を付けずに「大地の歌」としたという。また彼は『カラマーゾフの兄弟』を愛読していて、イワンとアリョーシャのどちらが正しいのだろうかと繰返し言っていたそうだ。
私が「大地の歌」を聞くのはこのようなマーラーの文学的イメージからなので、福永武彦も「告別」という小説の末尾で「大地の歌」を用いている。
さて、このマーラーの妻がアルマ・マーラーで、彼女は21歳のときにマーラーと結婚し、31歳で死別している。二人の最初の出会いは1901年で、アルマはこんなふうに書いている。
「1901年の11月のある午後のこと、友だちと環状通りを歩いていた私は、たまたまツッゲルカンドル夫妻に出会った。こおのツッケルカンドルという人は、すぐれた解剖学者であると同時に、洗練された趣味を持ち、ユーモアのセンスに富んだ人だった。
『今日マーラーがわが家に来るんですよ。いらっしゃいませんか』
私はお断わりだった。マーラーなどに会いたくなかった。実際のところその夏は、私は故意に、しかも、マーラーと顔を合わせる機会を避けてきたのであった。というのは、彼の評判が悪かったからである」(『グスタフ・マーラー 愛と苦悩の回想』)
その一週間後、再度誘われたアルマはマーラーと会う。マーラーは彼女に関心を示し、ふたりは結婚する。アルマは21歳、マーラーは39歳。マーラーはウイーン王立オペラ劇場(現在の国立歌劇場)の指揮者だった。
アルマはたいへん魅力的な女性だったらしく、31歳でマーラーと死別したあと、バウハウスの巨匠として有名な建築家のグロピウスと再婚、グロピウスと離婚したあと作家で詩人のフランツ・ウェルフェルと結婚、ナチスから逃れてアメリカに亡命する。恋人も多く、画家のココシュカが描いた「風の花嫁」はアルマをモデルにしたと言われる。彼女は音楽家、建築家、作家、画家をそれぞれとりこにした運命の女性である。
ココシュカはドイツ表現主義の画家で、「風の花嫁」は1914年の作。現在はバーゼルの美術館が所蔵している。船の中に男女が横たわっていて、女の方は眼をつぶっている。この絵は「風の花嫁」とも「突風」とも呼ばれていて、なぜタイトルが二つもあるのか不思議に思っていたが、ドイツ語の原題は「Windsbraut」で突風という意味になるが、WindとBrautに分けると「風の花嫁」になる。
ドイツの詩人で若くして死んだゲオルク・トラークルに「夜」という詩がある。トラークルはウイーンの滞在中、しばしばココシュカの仕事場を訪れて、この作品を見る機会があったという。「夜」はこんな詩だ(吉村博次訳)。
おまえ、荒あらしい裂け目をぼくは歌う、
夜の嵐のなかに
高くそそりたつ山脈を。
灰色をしたおまえたちの塔は
氾濫している、地獄の悪童どもで、
火をふく獣たちで、
ささくれた羊歯や唐檜で、
水晶のような花花で。
(中略)
黒ずんだ断崖をこえて
灼熱した突風が
氷河の
青い波が
死に酔ってなだれ落ち、
そして谷間では、鐘の音が
ごうごうと鳴りわたるー
(後略)
アルマはココシュカの七歳上。アルマとの生活をココシュカは「思い出すのも嫌な、落ち着きのなかった日々」と語っている。突風と結婚することはできない、ただ描くことができるだけだ、と言われるが、うなずけるところである。
さて、笹川諒の歌集『眠りの市場にて』(書肆侃侃房)に「風の花嫁」を詠んだ歌があるので、最後に紹介しておく。
ココシュカの《風の花嫁》を飾るだろう死後の白くて無音の部屋に 笹川諒
春になれば
愛する大地は再びいたるところ花が咲き乱れ
樹々は緑に覆われて
永遠に、世界の遠き果てまでも青々と輝きわたる
永遠に… 永遠に…(ewig…)
マーラーはベートーベンなどが第9交響曲まで書いて死んだことを恐れて、彼の9番目の交響曲には番号を付けずに「大地の歌」としたという。また彼は『カラマーゾフの兄弟』を愛読していて、イワンとアリョーシャのどちらが正しいのだろうかと繰返し言っていたそうだ。
私が「大地の歌」を聞くのはこのようなマーラーの文学的イメージからなので、福永武彦も「告別」という小説の末尾で「大地の歌」を用いている。
さて、このマーラーの妻がアルマ・マーラーで、彼女は21歳のときにマーラーと結婚し、31歳で死別している。二人の最初の出会いは1901年で、アルマはこんなふうに書いている。
「1901年の11月のある午後のこと、友だちと環状通りを歩いていた私は、たまたまツッゲルカンドル夫妻に出会った。こおのツッケルカンドルという人は、すぐれた解剖学者であると同時に、洗練された趣味を持ち、ユーモアのセンスに富んだ人だった。
『今日マーラーがわが家に来るんですよ。いらっしゃいませんか』
私はお断わりだった。マーラーなどに会いたくなかった。実際のところその夏は、私は故意に、しかも、マーラーと顔を合わせる機会を避けてきたのであった。というのは、彼の評判が悪かったからである」(『グスタフ・マーラー 愛と苦悩の回想』)
その一週間後、再度誘われたアルマはマーラーと会う。マーラーは彼女に関心を示し、ふたりは結婚する。アルマは21歳、マーラーは39歳。マーラーはウイーン王立オペラ劇場(現在の国立歌劇場)の指揮者だった。
アルマはたいへん魅力的な女性だったらしく、31歳でマーラーと死別したあと、バウハウスの巨匠として有名な建築家のグロピウスと再婚、グロピウスと離婚したあと作家で詩人のフランツ・ウェルフェルと結婚、ナチスから逃れてアメリカに亡命する。恋人も多く、画家のココシュカが描いた「風の花嫁」はアルマをモデルにしたと言われる。彼女は音楽家、建築家、作家、画家をそれぞれとりこにした運命の女性である。
ココシュカはドイツ表現主義の画家で、「風の花嫁」は1914年の作。現在はバーゼルの美術館が所蔵している。船の中に男女が横たわっていて、女の方は眼をつぶっている。この絵は「風の花嫁」とも「突風」とも呼ばれていて、なぜタイトルが二つもあるのか不思議に思っていたが、ドイツ語の原題は「Windsbraut」で突風という意味になるが、WindとBrautに分けると「風の花嫁」になる。
ドイツの詩人で若くして死んだゲオルク・トラークルに「夜」という詩がある。トラークルはウイーンの滞在中、しばしばココシュカの仕事場を訪れて、この作品を見る機会があったという。「夜」はこんな詩だ(吉村博次訳)。
おまえ、荒あらしい裂け目をぼくは歌う、
夜の嵐のなかに
高くそそりたつ山脈を。
灰色をしたおまえたちの塔は
氾濫している、地獄の悪童どもで、
火をふく獣たちで、
ささくれた羊歯や唐檜で、
水晶のような花花で。
(中略)
黒ずんだ断崖をこえて
灼熱した突風が
氷河の
青い波が
死に酔ってなだれ落ち、
そして谷間では、鐘の音が
ごうごうと鳴りわたるー
(後略)
アルマはココシュカの七歳上。アルマとの生活をココシュカは「思い出すのも嫌な、落ち着きのなかった日々」と語っている。突風と結婚することはできない、ただ描くことができるだけだ、と言われるが、うなずけるところである。
さて、笹川諒の歌集『眠りの市場にて』(書肆侃侃房)に「風の花嫁」を詠んだ歌があるので、最後に紹介しておく。
ココシュカの《風の花嫁》を飾るだろう死後の白くて無音の部屋に 笹川諒
2026年2月13日金曜日
須磨における芭蕉と放哉
「関西連句懇話会」は偶数月の第一日曜に大阪・上本町で開催している。今月2月で第51回になった。5月に須磨寺で連句のイベントを予定していて、その予習を兼ねて、芭蕉の「笈の小文」の須磨の部分と、須磨寺の大師堂で堂守をしていた尾崎放哉について報告をした。
須磨は文学的イメージの濃厚な地で、在原行平の流謫(光源氏の須磨流離譚のモデルと言われる)、『平家物語』の平敦盛の悲話など歴史的エピソードに事欠かない。
『笈の小文』は『野ざらし紀行』『おくのほそ道』とともに芭蕉の三大紀行文だが、須磨の場面で終っている。4月19日、芭蕉は尼崎から船で兵庫に着き、清盛の遺跡などを見たあと兵庫に一泊。翌20日に須磨寺周辺を訪れ、須磨に一泊。21日には布引の滝を経て京都へ向っている。
須磨
月はあれど留守のやう也須磨の夏
月見ても物たらはずや須磨の夏
「須磨にはいとど心づくしの秋風に~」(『源氏物語』須磨)とあるように、須磨といえば秋のイメージだが、芭蕉が須磨を訪れたのは卯月(旧暦四月・初夏)だった。月は出ているけれど、留守のようだというのである。ここでは現実の風景をありにままに見るのではなくて、文学的伝統や本説と重ねあわせて眺められている。しかし、月はあるけれど留守のようだというのは違和感のある表現である。芭蕉の真蹟懐紙では「夏はあれど留守のやう也須磨の月」となっていて、この方が理屈には合うが、いずれにしてもおもしろい句ではない。とにかく須磨ではまず月を出したかったのだろうし、伝統的なイメージと現実との落差そのものが俳諧なのだろう。
明石夜泊
蛸壺やはかなき夢を夏の月
艘七宛の芭蕉書簡には「あかしより須磨に帰りて泊る」とあるから、明石夜泊は虚構で、実際には須磨に泊まっている。「おくのほそ道」でも曾良の随行日記と照らし合わせると虚構が見られるのと同様の操作である。詠まれているのは蛸壺で、明石では二千年前(弥生時代)から蛸が獲られていたという。蛸といえば明石なのだ。「須磨夜泊」ではイメージが合わないし、須磨の月はすでに本文では前に出ている。
須磨寺では「須磨寺やふかぬ笛きく木下闇」の句が詠まれていて、句碑になっている。いったい須磨寺には句碑・文学碑が多い。山本周五郎の『須磨寺付近』の文学碑もあって、この小説は時代小説とは異なる周五郎の一面をうかがうことができる。
尾崎放哉は一時期、須磨寺の大師堂で堂守をしていたことがある。放哉の句集『大空』(放哉没後、荻原井泉水が編んだ遺稿集)の「須磨寺にて」の章には「大正十三年六月より十四年三月まで、兵庫須磨寺内大師堂の堂守として住み、五月若狭国小浜常高寺に移り、七月京都に来る」とある。放哉は『層雲』の荻原井泉水に師事していたが、須磨寺に入ってから月に30句ほど投句していて、彼の転機となった。
あすは雨らしい青葉の中の堂を閉める
一日物云はず蝶の影さす
雨の日は御灯ともし一人居る
井戸の暗さにわが顔を見出す
沈黙の池に亀一つ浮き上る
鐘ついて去る鐘の余韻の中
たつた一人になりきつて夕空
蟻を殺す殺すつぎから出てくる
小さい時の自分が居つた写真を突き出される
こんなよい月を一人で見て寝る (この句が句碑になっている)
須磨寺での生活は食事と住むところの心配はないが、社会との交流は限られる。句材となるのは小動物と自己の内面である。須磨寺を出たあと放哉は小浜、そして小豆島へ行くことになる。小豆島の南郷庵での生活は吉村昭の小説『海は暮れきる』に描かれている。
さて、5月17日に須磨寺の青葉殿で「第三回関西連句を楽しむ会」を開催する。薩摩琵琶「敦盛」の演奏があり、連句の実作も楽しめる。ご興味のある方はご予定いただきたい。
須磨は文学的イメージの濃厚な地で、在原行平の流謫(光源氏の須磨流離譚のモデルと言われる)、『平家物語』の平敦盛の悲話など歴史的エピソードに事欠かない。
『笈の小文』は『野ざらし紀行』『おくのほそ道』とともに芭蕉の三大紀行文だが、須磨の場面で終っている。4月19日、芭蕉は尼崎から船で兵庫に着き、清盛の遺跡などを見たあと兵庫に一泊。翌20日に須磨寺周辺を訪れ、須磨に一泊。21日には布引の滝を経て京都へ向っている。
須磨
月はあれど留守のやう也須磨の夏
月見ても物たらはずや須磨の夏
「須磨にはいとど心づくしの秋風に~」(『源氏物語』須磨)とあるように、須磨といえば秋のイメージだが、芭蕉が須磨を訪れたのは卯月(旧暦四月・初夏)だった。月は出ているけれど、留守のようだというのである。ここでは現実の風景をありにままに見るのではなくて、文学的伝統や本説と重ねあわせて眺められている。しかし、月はあるけれど留守のようだというのは違和感のある表現である。芭蕉の真蹟懐紙では「夏はあれど留守のやう也須磨の月」となっていて、この方が理屈には合うが、いずれにしてもおもしろい句ではない。とにかく須磨ではまず月を出したかったのだろうし、伝統的なイメージと現実との落差そのものが俳諧なのだろう。
明石夜泊
蛸壺やはかなき夢を夏の月
艘七宛の芭蕉書簡には「あかしより須磨に帰りて泊る」とあるから、明石夜泊は虚構で、実際には須磨に泊まっている。「おくのほそ道」でも曾良の随行日記と照らし合わせると虚構が見られるのと同様の操作である。詠まれているのは蛸壺で、明石では二千年前(弥生時代)から蛸が獲られていたという。蛸といえば明石なのだ。「須磨夜泊」ではイメージが合わないし、須磨の月はすでに本文では前に出ている。
須磨寺では「須磨寺やふかぬ笛きく木下闇」の句が詠まれていて、句碑になっている。いったい須磨寺には句碑・文学碑が多い。山本周五郎の『須磨寺付近』の文学碑もあって、この小説は時代小説とは異なる周五郎の一面をうかがうことができる。
尾崎放哉は一時期、須磨寺の大師堂で堂守をしていたことがある。放哉の句集『大空』(放哉没後、荻原井泉水が編んだ遺稿集)の「須磨寺にて」の章には「大正十三年六月より十四年三月まで、兵庫須磨寺内大師堂の堂守として住み、五月若狭国小浜常高寺に移り、七月京都に来る」とある。放哉は『層雲』の荻原井泉水に師事していたが、須磨寺に入ってから月に30句ほど投句していて、彼の転機となった。
あすは雨らしい青葉の中の堂を閉める
一日物云はず蝶の影さす
雨の日は御灯ともし一人居る
井戸の暗さにわが顔を見出す
沈黙の池に亀一つ浮き上る
鐘ついて去る鐘の余韻の中
たつた一人になりきつて夕空
蟻を殺す殺すつぎから出てくる
小さい時の自分が居つた写真を突き出される
こんなよい月を一人で見て寝る (この句が句碑になっている)
須磨寺での生活は食事と住むところの心配はないが、社会との交流は限られる。句材となるのは小動物と自己の内面である。須磨寺を出たあと放哉は小浜、そして小豆島へ行くことになる。小豆島の南郷庵での生活は吉村昭の小説『海は暮れきる』に描かれている。
さて、5月17日に須磨寺の青葉殿で「第三回関西連句を楽しむ会」を開催する。薩摩琵琶「敦盛」の演奏があり、連句の実作も楽しめる。ご興味のある方はご予定いただきたい。
登録:
投稿 (Atom)