山中千瀬の歌集『死なない猫を継ぐ』(典々堂)が発行された。
私は『さよならうどん博士』のころから山中のファンで、「川柳スパイラル」18号のゲスト作品に川柳10句を寄稿してもらったこともあり、今度の歌集を楽しみにしていた。
巻頭に次の歌が置かれている。
宇宙服を脱がないでここは夜じゃない部屋じゃない物語を続けて
宇宙服というのだからここは宇宙なのか。あるいは宇宙から帰還してすぐのときなのか。でも夜でもないし部屋でもない。物語が続くことだけが望まれている。一首全体が喩だとも読めるけれど、この歌ではじまる章は「ノンフィクション」と題されている。
山中は「あとがき」で小学生のころの遠足の記憶について書いている。小さい森に行った子どもの「私」は「トトロを見た」と報告した。森に行った子どもはそんなふうに言うべきだと彼女は考えた。しかし、周囲の人はそれを「嘘」と受け取る微妙な雰囲気になったという。「本当のことは書かなくてもいい」という中学の国語教師の言葉も紹介されているが、ここにはリアルとフィクションの微妙な関係がある。
非実在の引き金を引く仕草してそして始まる雨を見ている
銃の引き金を引くのだが、それは仕草だけである。しかも引き金は実在しない。雨を見ている日常に非実在の心理がかぶせられてゆく。
この違和感や世界とのズレの感覚は、たとえば次のような歌にも見られる。
でもきみでなくてもよかったということ暮れる川辺でいつか話そう
交換可能な世界のなかで「きみ」は偶然選ばれたのか。運命というようなものはないとしても、偶然を運命にすることができるかもしれないけれど、別の人や事であった可能性は残る。そういうことを話すのはいまではなく「いつか」であって、むしろ話さない方がよいのかもしれない。
平岡直子は「栞」のなかで山中について「でも短歌でなくてもよかった」のだろうなという感じを語っている。山中にとって短歌とは別の可能性の感覚があったのかもしれないが、短歌でなくてもよかったとも言い切れない。
短歌とは別の形式として、この歌集には川柳作品が四か所収録されている。「はるちる」「バラかわく」「わらびもち」は川柳フリマや文学フリマで配布された冊子『SH2』『SH3』『SH4』に、「霧笛」は「川柳スパイラル」18号に掲載されたものである。
でも行かなきゃって思うとき覚める夢
火をつけて逃げて彼らはそれっきり
薔薇が乾いてチョコの箱にぴったり
どのことばを捨てたか捨てたから言えない
ほんとうのわらびもち うそのわらびもち
「ばらがわく」のあと「薔薇が乾いて」はじめて箱にぴったり収まる。おいしいわらび餅とおいしくないわらび餅のペアではなくて、本当のわらび餅と嘘のわらび餅がある。現実とは異なる次元で、リアルとフィクションの関係が成立する。
おうどんに舌を焼かれて復讐のうどん博士は海原をゆく
短歌作品に戻ると、『さよならうどん博士』の歌がさりげなく収録されているのが嬉しい。また「花図鑑」では山中が得意とする折句が使われている。カキツバタの折句を『伊勢物語』の有名歌と並べて紹介しよう。
帰らない気がした星も月もない晩、衝動を確かめようじゃん 山中千瀬
唐衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞ思ふ 在原業平
山中の歌集にはさまざまな要素があって楽しめるが、最後にメッセージ性のある二首を引いて終わりにしたい。
きみはきみにやつらの語彙で語ることを生涯かけて許さなかった
またきみが去ってやつらが残るのを一〇〇年を二〇〇年を見ていた
週刊「川柳時評」
2025年1月31日金曜日
2025年1月26日日曜日
日日是好日
1月×日
前回のこの欄で中勘助の「島守」のことを取り上げたが、勘助の初期の随筆に「夢の日記」(明治45年)がある。漱石の「夢十夜」や内田百閒の悪夢のような小説が連想されるが、それらとも少し違う中勘助の世界が感じられる。明恵上人の「夢記」も有名だが、中勘助の「夢の日記」はこんふうに書かれている。
「あらしの夜、今にも崩れようとして洞のやうになつた大波のうへにひとりの天童が小さな唇に笑みをふくんで静かに眠つてゐる。波を枕に天にむかつた額にふさふさと髪がかかつて波風の音のうちにかすかな息がきこえるかと思はれた」
「旅から旅と歩くうちにどこともしらぬ国のはての淋しい白浜へ出た。そこには小さなお宮があつて古い松原に絹糸のやうなさざ波がよつてゐる。誰ともしれず
『あはれな鳥の魂をまつる鳥の宮』
といつた。松のあひだの細路をお宮のはうへゆく。お宮のあたりには野菊、りんだう、萩、すすき、桔梗、をみなへしなど秋草が霧のなかに路を埋めてさきみだれ、使はしめの千鳥ヶ幾千羽となく海にも陸にも、ひりひり ひりひり となく。私は紅白の鈴の紐をふつてお詣りをしたのちお宮のまへの店で豆人形やおや指の頭ほどの面などを買つて帰らうとして夢がさめた」
1月×日
「井泉」109号が届く。リレー評論「今、私がアンソロジーをつくるなら」というテーマで辻聡之、江村彩、大熊桂子が書いている。辻の「不思議な弟たち」に注目した。「弟」を詠んだ短歌が12首集められている。
うつそみの 人にある我や 明日よりは 二上山を 弟背と我れ見む 大伯皇女
月足らずで生まれたらしい弟を補うようにつきのひかりは 笹井宏之
弟に奪はれまいと母の乳房をふたつ持ちしとき自我は生まれき 春日井建
雨の日に義弟全史を書き始めわからぬ箇所を@で埋める 土井礼一郎
今年は現代川柳でもアンソロジーや句集が刊行されることが期待される。
1月18日
「川柳スパイラル」大阪句会。参加者7人。兼題「新」と雑詠、それぞれ1句出句。参加者が少ないので次回からは2句出しにしようと思う。
兵頭全郎の第二句集『白騎士』(私家本工房)をもらう。今年刊行されるであろう現代川柳句集の口火を切ったかたちである。
【ホワイトナイト】について「敵対的買収を仕掛けられた対象会社を、買収者に対抗して、友好的に買収または合併する会社のこと。白馬の騎士になぞらえて、このように呼ばれる」という説明が最初に掲げられているが、句集に出てくる「白騎士」の句とどの程度の関係性があるのかは分からない。
前句付亜種(50音順)とあり、「あ」から「ん」までの50のタイトルそれぞれに4句のセットが付いている。タイトル+4句というスタイルは、「あとがき」にある通り、渡辺隆夫の『亀れおん』などに倣ったもの。渡辺隆夫と兵頭全郎を並べて引用してみよう。
「富士」 渡辺隆夫
田子の浦ゆ富士を仰げばタオル落つ
富士を見た人から税がとれないか
あれは一富士だったか武富士だったか
金のない日は富士さえ見えぬ
「映画化により」 兵頭全郎
買取に出す白騎士に欠けたもの
絵馬よりもせつない絵馬の行動力
曇天を待つ置き傘のたたずまい
マ行から身を引く人のオーディション
1月19日
みやこメッセで文学フリマ京都が開催される。主催者発表によると、来場者5541人、その内訳は出店者1313人、一般来場者4228人。「川柳スパイラル」もブースを出して参加。もう何回目になるだろう。
川柳からは「ゆに」も出店している。ゆに会員一人一句「川柳いいかも」をいただいたのでご紹介。
露草のそばを鯨の通り過ぎ おおさわほてる
寂しくはないというのにみんな来る 小原由佳
雹は降りつづき十年経っている 重森恒雄
雨脚をつかめば握りかえす雨 西田雅子
眼科まずしんと気球を見る検査 芳賀博子
どの淵もひそかに臨時バスが出る 山崎夫美子
当日ブースを出していた鈴木雀の『せいいっぱいの花柄』からも引用しておこう。
日時計のくるったままの夏至がくる
ママだった人がわたしと自称する
病名がついたらなんて歌ってた
バーチャルなからだがほしいビデオ4
1月×日
川柳の技術とは何だろう。技術的に上手な句であるのに越したことはないが、「上手い句」と「良い句」とは違うという言い方もある。中村冨二は「川柳に残されたものは技術しかない」と言った。この言葉は謎であるが、正しくは「川柳という名に残されたモノは、技術だけである」とも「川柳に残されたものは、川柳的技術だけだ」とも伝えられていて、それぞれ若干のニュアンスの違いが感じられる。
冨二の句で言えば。
美少年 ゼリーのように裸だね (直喩)
病院を挟む大きなピンセット (誇張)
パチンコ屋 オヤあなたにも影がない(会話体)
セロファンを買いに出掛ける蝶夫妻 (擬人法)
などの技法が使われているが、技術の裏付けがあるとしても、技術だけで成り立っているわけでもなさそうだ。一時、川柳でもメタファーが流行ったが、既成の技法を使うとしても、そこに新鮮な領域を付け加えることが必要だ。
前回のこの欄で中勘助の「島守」のことを取り上げたが、勘助の初期の随筆に「夢の日記」(明治45年)がある。漱石の「夢十夜」や内田百閒の悪夢のような小説が連想されるが、それらとも少し違う中勘助の世界が感じられる。明恵上人の「夢記」も有名だが、中勘助の「夢の日記」はこんふうに書かれている。
「あらしの夜、今にも崩れようとして洞のやうになつた大波のうへにひとりの天童が小さな唇に笑みをふくんで静かに眠つてゐる。波を枕に天にむかつた額にふさふさと髪がかかつて波風の音のうちにかすかな息がきこえるかと思はれた」
「旅から旅と歩くうちにどこともしらぬ国のはての淋しい白浜へ出た。そこには小さなお宮があつて古い松原に絹糸のやうなさざ波がよつてゐる。誰ともしれず
『あはれな鳥の魂をまつる鳥の宮』
といつた。松のあひだの細路をお宮のはうへゆく。お宮のあたりには野菊、りんだう、萩、すすき、桔梗、をみなへしなど秋草が霧のなかに路を埋めてさきみだれ、使はしめの千鳥ヶ幾千羽となく海にも陸にも、ひりひり ひりひり となく。私は紅白の鈴の紐をふつてお詣りをしたのちお宮のまへの店で豆人形やおや指の頭ほどの面などを買つて帰らうとして夢がさめた」
1月×日
「井泉」109号が届く。リレー評論「今、私がアンソロジーをつくるなら」というテーマで辻聡之、江村彩、大熊桂子が書いている。辻の「不思議な弟たち」に注目した。「弟」を詠んだ短歌が12首集められている。
うつそみの 人にある我や 明日よりは 二上山を 弟背と我れ見む 大伯皇女
月足らずで生まれたらしい弟を補うようにつきのひかりは 笹井宏之
弟に奪はれまいと母の乳房をふたつ持ちしとき自我は生まれき 春日井建
雨の日に義弟全史を書き始めわからぬ箇所を@で埋める 土井礼一郎
今年は現代川柳でもアンソロジーや句集が刊行されることが期待される。
1月18日
「川柳スパイラル」大阪句会。参加者7人。兼題「新」と雑詠、それぞれ1句出句。参加者が少ないので次回からは2句出しにしようと思う。
兵頭全郎の第二句集『白騎士』(私家本工房)をもらう。今年刊行されるであろう現代川柳句集の口火を切ったかたちである。
【ホワイトナイト】について「敵対的買収を仕掛けられた対象会社を、買収者に対抗して、友好的に買収または合併する会社のこと。白馬の騎士になぞらえて、このように呼ばれる」という説明が最初に掲げられているが、句集に出てくる「白騎士」の句とどの程度の関係性があるのかは分からない。
前句付亜種(50音順)とあり、「あ」から「ん」までの50のタイトルそれぞれに4句のセットが付いている。タイトル+4句というスタイルは、「あとがき」にある通り、渡辺隆夫の『亀れおん』などに倣ったもの。渡辺隆夫と兵頭全郎を並べて引用してみよう。
「富士」 渡辺隆夫
田子の浦ゆ富士を仰げばタオル落つ
富士を見た人から税がとれないか
あれは一富士だったか武富士だったか
金のない日は富士さえ見えぬ
「映画化により」 兵頭全郎
買取に出す白騎士に欠けたもの
絵馬よりもせつない絵馬の行動力
曇天を待つ置き傘のたたずまい
マ行から身を引く人のオーディション
1月19日
みやこメッセで文学フリマ京都が開催される。主催者発表によると、来場者5541人、その内訳は出店者1313人、一般来場者4228人。「川柳スパイラル」もブースを出して参加。もう何回目になるだろう。
川柳からは「ゆに」も出店している。ゆに会員一人一句「川柳いいかも」をいただいたのでご紹介。
露草のそばを鯨の通り過ぎ おおさわほてる
寂しくはないというのにみんな来る 小原由佳
雹は降りつづき十年経っている 重森恒雄
雨脚をつかめば握りかえす雨 西田雅子
眼科まずしんと気球を見る検査 芳賀博子
どの淵もひそかに臨時バスが出る 山崎夫美子
当日ブースを出していた鈴木雀の『せいいっぱいの花柄』からも引用しておこう。
日時計のくるったままの夏至がくる
ママだった人がわたしと自称する
病名がついたらなんて歌ってた
バーチャルなからだがほしいビデオ4
1月×日
川柳の技術とは何だろう。技術的に上手な句であるのに越したことはないが、「上手い句」と「良い句」とは違うという言い方もある。中村冨二は「川柳に残されたものは技術しかない」と言った。この言葉は謎であるが、正しくは「川柳という名に残されたモノは、技術だけである」とも「川柳に残されたものは、川柳的技術だけだ」とも伝えられていて、それぞれ若干のニュアンスの違いが感じられる。
冨二の句で言えば。
美少年 ゼリーのように裸だね (直喩)
病院を挟む大きなピンセット (誇張)
パチンコ屋 オヤあなたにも影がない(会話体)
セロファンを買いに出掛ける蝶夫妻 (擬人法)
などの技法が使われているが、技術の裏付けがあるとしても、技術だけで成り立っているわけでもなさそうだ。一時、川柳でもメタファーが流行ったが、既成の技法を使うとしても、そこに新鮮な領域を付け加えることが必要だ。
2025年1月11日土曜日
これからの連句
謹賀新年。今年もよろしくお願いします。
年頭の読み初めは『芭蕉文集』で、「野ざらし紀行」「笈の小文」「おくのほそ道」などを再読。芭蕉の転機となったのは、深川への隠棲である。
柴の戸に茶を木の葉掻く嵐かな 芭蕉
詫びて澄め月侘斎が奈良茶歌
芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな
昨年12月、深川の芭蕉記念館で「俳諧時雨忌」が開催された。コロナの影響でしばらく開催が見送られていたが、久しぶりの開催となった。主催も草門会から日本連句協会に移行した。
市中を離れて独居生活の中で文学表現をめざすというスタイルは、小豆島における尾崎放哉や其中庵の種田山頭火などがあるが、近代小説のなかでは中勘助が野尻湖の琵琶島で暮らしていた時期のことが思い浮かぶ。
「これは芙蓉の花の形をしてるといふ湖のその花びらのなかにある住む人もない小島である。この山国の湖には夏がすぎてからはほとんど日として嵐の吹かぬことがない。さうしてすこしの遮るものもない島はそのうへに鬱蒼と生ひ繁つた大木、それらの根に培ふべく湖のなかに蟠つたこの島さへがよくも根こそぎにされないと思ふほど無残に風にもまれる」(中勘助「島守」)
芙蓉の花の形をした湖が野尻湖で、そのなかの小島が琵琶島(弁天島)である。この島には宇賀神社があり、祭礼のとき以外は無人である。中勘助はこの離れ島にひとり島守として過ごして、『銀の匙』を書いた。明治44、45年ごろのことである。
さて、昨年発行された連句集に『爛柯』(幻戯書房、2024年12月)がある。別所真紀子と佐久間鵠舟の両吟連句集である。別所の主宰する「解纜」は昨年解散し、後継グループの「泉声」が現在は連句会を開催しているが、佐久間は「解纜」の会員として、別所の指導のもと連句の研鑽につとめた。『爛柯』はクオリティの高い連句集であると同時に、現代連句の指針・入門書としても有益である。連句形式も歌仙・半歌仙だけでなく、ソネット、胡蝶、二十八宿、短歌行、賜餐、獅子、箙・二十韻、テルツァ・リーマ、非懐紙、十八公、十三佛行、重伍など新旧の多様な形式が網羅されている。次に紹介するのは、別所の創案になる七曜という形式。日から土までを各4句ずつ、計28句並べた形式で、その火曜の部分から。
曼殊沙華野原いちめん火事となり 真紀
折った頁に愛のメタファー 鵠舟
王宮をひそかに抜けし三の姫 真紀
天衣無縫も齟齬は隠せず 鵠舟
堀田季何の主宰する「楽園俳句会」は連句にも理解があるが、昨年11月に『楽園』第三巻が発行されている。俳句だけではなくて、「猫の目連句会」の作品も掲載されている。連句人の静寿美子が参加しているほか、若手の日比谷虚俊も活躍している。ここではアントニオ猪木追悼連句興行「枯れぬ木」の巻の冒頭部分を紹介する。
蔵前に枯れぬ木もあり秋の暮 小田狂声
獅子征く道に欠けぬ月あり 日比谷清至
稲妻と弓矢と痛み携へて 狂
お花畠で延髄を斬る 虞里夢
夢を見て地平に兆す鷹となれ 高坂明良
激化してゆく弟子の問答 至
昨年10月27日に開催された国民文化祭ぎふ2024「連句の祭典」の実作会作品集が届いたので、紹介しておく。岐阜は美濃派(獅子門)の本拠地なので、形式は各務支考の創案になる短歌行。「信長の人魚」の巻から。
信長の人形纏ふ菊赫し 佐々木有子
落ちゆく鮎の城を見上ぐる 尾崎志津子
残る月投票場に急ぐらん 近藤とみ子
鬢のほつれを映す手鏡 米林真
フィアンセとホットドリンクゆつたりと 津田公仁枝
風邪移しあふ睦まじき仲 志津子
サザンカネット句会のアンソロジー2024「Montage」。これは自由律俳句のアンソロジーだが、その中に自由律連句が掲載されているので紹介しよう。半歌仙「ふわふわ」の巻(高松霞・捌)。
本心つるりと剥ける居酒屋きぬかつぎ 聡
杯に月光飲み干す はるか
垂直に飛ぶ黒猫草の穂 崇譜
ふわふわをひたすら求める はるか
乾燥機轟音のタイマー 崇譜
凍ったままの嘘の窓 はるか
今年は現代川柳のフィールドで様々な動きがありそうだが、現代連句の世界でも多彩な言葉の付け合いが生れている。受信するためのアンテナの感度を上げることが必要だ。
年頭の読み初めは『芭蕉文集』で、「野ざらし紀行」「笈の小文」「おくのほそ道」などを再読。芭蕉の転機となったのは、深川への隠棲である。
柴の戸に茶を木の葉掻く嵐かな 芭蕉
詫びて澄め月侘斎が奈良茶歌
芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな
昨年12月、深川の芭蕉記念館で「俳諧時雨忌」が開催された。コロナの影響でしばらく開催が見送られていたが、久しぶりの開催となった。主催も草門会から日本連句協会に移行した。
市中を離れて独居生活の中で文学表現をめざすというスタイルは、小豆島における尾崎放哉や其中庵の種田山頭火などがあるが、近代小説のなかでは中勘助が野尻湖の琵琶島で暮らしていた時期のことが思い浮かぶ。
「これは芙蓉の花の形をしてるといふ湖のその花びらのなかにある住む人もない小島である。この山国の湖には夏がすぎてからはほとんど日として嵐の吹かぬことがない。さうしてすこしの遮るものもない島はそのうへに鬱蒼と生ひ繁つた大木、それらの根に培ふべく湖のなかに蟠つたこの島さへがよくも根こそぎにされないと思ふほど無残に風にもまれる」(中勘助「島守」)
芙蓉の花の形をした湖が野尻湖で、そのなかの小島が琵琶島(弁天島)である。この島には宇賀神社があり、祭礼のとき以外は無人である。中勘助はこの離れ島にひとり島守として過ごして、『銀の匙』を書いた。明治44、45年ごろのことである。
さて、昨年発行された連句集に『爛柯』(幻戯書房、2024年12月)がある。別所真紀子と佐久間鵠舟の両吟連句集である。別所の主宰する「解纜」は昨年解散し、後継グループの「泉声」が現在は連句会を開催しているが、佐久間は「解纜」の会員として、別所の指導のもと連句の研鑽につとめた。『爛柯』はクオリティの高い連句集であると同時に、現代連句の指針・入門書としても有益である。連句形式も歌仙・半歌仙だけでなく、ソネット、胡蝶、二十八宿、短歌行、賜餐、獅子、箙・二十韻、テルツァ・リーマ、非懐紙、十八公、十三佛行、重伍など新旧の多様な形式が網羅されている。次に紹介するのは、別所の創案になる七曜という形式。日から土までを各4句ずつ、計28句並べた形式で、その火曜の部分から。
曼殊沙華野原いちめん火事となり 真紀
折った頁に愛のメタファー 鵠舟
王宮をひそかに抜けし三の姫 真紀
天衣無縫も齟齬は隠せず 鵠舟
堀田季何の主宰する「楽園俳句会」は連句にも理解があるが、昨年11月に『楽園』第三巻が発行されている。俳句だけではなくて、「猫の目連句会」の作品も掲載されている。連句人の静寿美子が参加しているほか、若手の日比谷虚俊も活躍している。ここではアントニオ猪木追悼連句興行「枯れぬ木」の巻の冒頭部分を紹介する。
蔵前に枯れぬ木もあり秋の暮 小田狂声
獅子征く道に欠けぬ月あり 日比谷清至
稲妻と弓矢と痛み携へて 狂
お花畠で延髄を斬る 虞里夢
夢を見て地平に兆す鷹となれ 高坂明良
激化してゆく弟子の問答 至
昨年10月27日に開催された国民文化祭ぎふ2024「連句の祭典」の実作会作品集が届いたので、紹介しておく。岐阜は美濃派(獅子門)の本拠地なので、形式は各務支考の創案になる短歌行。「信長の人魚」の巻から。
信長の人形纏ふ菊赫し 佐々木有子
落ちゆく鮎の城を見上ぐる 尾崎志津子
残る月投票場に急ぐらん 近藤とみ子
鬢のほつれを映す手鏡 米林真
フィアンセとホットドリンクゆつたりと 津田公仁枝
風邪移しあふ睦まじき仲 志津子
サザンカネット句会のアンソロジー2024「Montage」。これは自由律俳句のアンソロジーだが、その中に自由律連句が掲載されているので紹介しよう。半歌仙「ふわふわ」の巻(高松霞・捌)。
本心つるりと剥ける居酒屋きぬかつぎ 聡
杯に月光飲み干す はるか
垂直に飛ぶ黒猫草の穂 崇譜
ふわふわをひたすら求める はるか
乾燥機轟音のタイマー 崇譜
凍ったままの嘘の窓 はるか
今年は現代川柳のフィールドで様々な動きがありそうだが、現代連句の世界でも多彩な言葉の付け合いが生れている。受信するためのアンテナの感度を上げることが必要だ。
2024年12月28日土曜日
2024年回顧(川柳)
毎年この時期になると一年を振り返る文章を書いているが、川柳界全体を見渡して展望するのは情報収集上の困難があることだし、特に今年は従来に比べて現代川柳が話題に上ることが増えてきたので、管見に入った限られたものについて思いつくままに書きとめておきたい。
現代川柳が対外的に話題になったケースとして、まず「BRUTUS」1008号(2024年6月1日)が「一行だけで」という特集を組んでいる。「明日のための言葉300」と銘うって短歌・詩・俳句・川柳・歌詞などから言葉が選出されている。川柳では次のような作品が掲載されている。
春を待つ鬼を 瓦礫に探さねば 墨作二郎
お別れに光の缶詰を開ける 松岡瑞枝
うつくしいとこにいたはったらええわ 久保田紺
鉄棒に片足かけるとき無敵 なかはられいこ
できるようになってできないようになる 佐藤みさ子
紀元前二世紀ごろの咳もする 木村半文銭
まつりぺきん編集の『川柳EXPO2024』(発行・川柳EXPO制作委員会)も川柳界隈では評判になった。これは投稿連作川柳アンソロジーで、2023年の『川柳EXPO』に続く第二集になる。ひとり20句の投句で68名、1360句の川柳作品が収録されている。
日記には「トロイメライ事故」と記す 笹川諒
こえ、発しないで、ののしり、口づけて 林やは
きれいな目してるナマコがきてくれた 森砂季
蟹死んですべてのモナド光射せ 川合大祐
針が振れだしたらそらの肉離れ 蔭一郎
来年は『川柳EXPO2025』も予定されていて、二分冊になるという。現在作品募集中。
「川柳スパイラル」は今年3冊が発行され、20号が特集「川柳を見つけて」、21号が「現代川柳Q&A」、22号が「現代川柳と短詩」。「川柳を見つけて」は2023年11月19日に開催された『ふりょの星』『馬場にオムライス』批評会の記録。その際、川柳についての基本的知識があまり浸透していないように感じたので、21号「現代川柳Q&A」では問答形式でまとめてみた。22号「現代川柳と短詩」は現代川柳史の視点から現代川柳と短詩との関係を略述した。また22号では、まつりぺきんが『川柳EXPO』について書き、西脇祥貴が太代祐一の川柳と林やはの『90‘S』を取り上げている。
太代祐一は第9回攝津幸彦記念賞の准賞を受賞し、「豈」67号に作品が掲載されている。
飛行機は森だった見抜けなかった 太代祐一
野蛮だね大縄跳びの目的地
片恋が林檎だなんて静電気
現代詩に目を移すと、水城鉄茶は現代詩と川柳を書く表現者だが、第一詩集『ジャキジャキ』(思潮社)が発行された。「魚の口」から。
それでおれはみなさんに言います
今日は突風が吹く
馬の魚はすぐ乾くでしょう
雨にもかかわらず おれたちの高熱
本物の太陽を知っている 震えたりしないし
脂ぎっている 宣言する魚は宣言する
宣言する馬の強靭な脚!
暴れる舌のおれの腕はホチキス
爛れる寿司の拍手をナイフで獲得する
別荘になっていく!
詩の一部分だけを抜き出すのは意味がないかもしれないが、抒情詩ではなく、ひとつの連がひとつのイメージ表現するという書き方でもなく、屹立したイメージを与える一行一行が次々に繰り出されるスピード感が心地よい。
水城は「川柳スパイラル」に12号から17号まで投句している。17号の会員欄から。
シーマンのままで面接してしまう 水城鉄茶
親からも止められているハッキング
レックウザからメイリオのメール来た
一行の屹立性は川柳にも通じるところがあるのだろう。『ジャキジャキ』、「彼方へ」の一節。
鳩が思考を絶して歩いている
鳩が共感を絶して歩いている
鳩が戦争を絶して歩いている
鳩がただ歩いている
この四行の中で、川柳人であれば三行を捨て、一句に賭けることになるはずだ。
複数の形式を実作する表現者は従来もいたが、その多くは俳句と短歌、現代詩と短歌という組み合わせであった。最近はそこに川柳も加わるようになって、歌人の平岡直子が川柳句集『Ladies and』(左右社、2022年)を出したのが先駆的であった。今後、歌人や詩人が川柳句集を上梓する機会が増えていくことが希望的に予測される。川柳、特に現代川柳の可能性が認識されるようになってきたのだろう。
川柳プロパーの動きでは、2021年6月にウェブ句会として立ち上げられた「ゆに」が6月に紙媒体の冊子『ゆにアンソロ』(発行人・芳賀博子)を出している。リモート句会での作品をある時点に紙媒体で発行するという、ひとつのパターンかと思う。
退却をさせにくる馬蹄形磁石 岩田多佳子
身に覚えないのに水が漏れている 笠嶋恵美子
くるぶしのこなゆき二十歳のほうれん草 河野潤々
モナリザの後で穴を掘っている 重森恒雄
雨脚をつかめば握りかえす雨 西田雅子
革命に火をつけられぬ缶ビール 橋元デジタル
地上絵は未完 戻ってくるはずだ 芳賀博子
「川柳カモミール」はオンラインで川柳を発信する場として「川柳アンジェリカ」の名で再出発している(代表・笹田かなえ)。ウェブ句会のほか冊子も発行されている。
本能寺の煙に今もむせている 金瀬達雄
卵割る 卵は痛くないでしょうか 笹田かなえ
どの指の蜜語をふさぐクラリネット 澤野優美子
打ち明けはサマルカンドの古書店で 四ッ屋いずみ
かなったら歯形の記憶ごと沈む 藤田めぐみ
既成の川柳社では、川柳塔社が『川柳雑誌・川柳塔100年の記録』を発行。100年の履歴、座右の句、著作一覧など資料的価値が高い。
「水脈」(編集発行人・浪越靖政)が現在68号まで発行されているが、来年の70号で終刊が決まっている。現代川柳の一翼を担っていた川柳誌だけに惜しまれる。
京都の「凛」はこのほど100号を迎えた。川柳誌を持続するのは大変な作業だということが分かるだけに、その労力に敬意を表したい。
10月以降の郵送料の値上げは川柳誌に大きな打撃となっている。「川柳スパイラル」の場合も郵送料を節約するために、句会などでできるだけ手渡しするようにしている。青森の「おかじょうき」は紙の雑誌を廃止して、デジタルだけにするという。こういうかたちも増えていくのだろう。
短歌誌「かばん」12月号は特集「私家版歌集・歌書」を掲載している。牛隆佑の「私家版歌集はより深く潜る」では、三国志の天下三分になぞらえて、歌集を「商業出版歌集」「短歌出版歌集」「私家版歌集」に分けている。「商業出版歌集」は多くの読者に購読されることを目指す歌集、「短歌出版歌集」は主として歌壇や歌人からの評価を求めて出版する歌集、「私家版歌集」は「売れる・読まれる」より作者の価値観・欲求に基づいて制作される歌集、ということのようだ。
川柳の場合は自費出版・私家版が主だったので、短歌のような選択肢は少ないが、今後いろいろなかたちで川柳句集が発行されていく気配が感じられる。
リアル句会とネット句会の関係も多彩になってきている。
リアル句会を主とする川柳人
ネット句会を主とする川柳人
リアル句会を主とするが、ネット句会も取り入れて活動する川柳人
ネット句会を主とするが、リアル句会にも参加するハイブリッド型の川柳人
表現者各個人の資質や信条にしたがって、それぞれの作品発表形態があってよいと思われるが、少数の読者に刺さる句が書ければそれでよいのか、句集というかたちで世に問う方がよいのかの判断は必要だろう。
来年もさまざまな川柳句集やアンソロジーが出ることだろうが、過渡期の混沌とした状況の中からどのような作品が生まれてゆくのか楽しみである。
現代川柳が対外的に話題になったケースとして、まず「BRUTUS」1008号(2024年6月1日)が「一行だけで」という特集を組んでいる。「明日のための言葉300」と銘うって短歌・詩・俳句・川柳・歌詞などから言葉が選出されている。川柳では次のような作品が掲載されている。
春を待つ鬼を 瓦礫に探さねば 墨作二郎
お別れに光の缶詰を開ける 松岡瑞枝
うつくしいとこにいたはったらええわ 久保田紺
鉄棒に片足かけるとき無敵 なかはられいこ
できるようになってできないようになる 佐藤みさ子
紀元前二世紀ごろの咳もする 木村半文銭
まつりぺきん編集の『川柳EXPO2024』(発行・川柳EXPO制作委員会)も川柳界隈では評判になった。これは投稿連作川柳アンソロジーで、2023年の『川柳EXPO』に続く第二集になる。ひとり20句の投句で68名、1360句の川柳作品が収録されている。
日記には「トロイメライ事故」と記す 笹川諒
こえ、発しないで、ののしり、口づけて 林やは
きれいな目してるナマコがきてくれた 森砂季
蟹死んですべてのモナド光射せ 川合大祐
針が振れだしたらそらの肉離れ 蔭一郎
来年は『川柳EXPO2025』も予定されていて、二分冊になるという。現在作品募集中。
「川柳スパイラル」は今年3冊が発行され、20号が特集「川柳を見つけて」、21号が「現代川柳Q&A」、22号が「現代川柳と短詩」。「川柳を見つけて」は2023年11月19日に開催された『ふりょの星』『馬場にオムライス』批評会の記録。その際、川柳についての基本的知識があまり浸透していないように感じたので、21号「現代川柳Q&A」では問答形式でまとめてみた。22号「現代川柳と短詩」は現代川柳史の視点から現代川柳と短詩との関係を略述した。また22号では、まつりぺきんが『川柳EXPO』について書き、西脇祥貴が太代祐一の川柳と林やはの『90‘S』を取り上げている。
太代祐一は第9回攝津幸彦記念賞の准賞を受賞し、「豈」67号に作品が掲載されている。
飛行機は森だった見抜けなかった 太代祐一
野蛮だね大縄跳びの目的地
片恋が林檎だなんて静電気
現代詩に目を移すと、水城鉄茶は現代詩と川柳を書く表現者だが、第一詩集『ジャキジャキ』(思潮社)が発行された。「魚の口」から。
それでおれはみなさんに言います
今日は突風が吹く
馬の魚はすぐ乾くでしょう
雨にもかかわらず おれたちの高熱
本物の太陽を知っている 震えたりしないし
脂ぎっている 宣言する魚は宣言する
宣言する馬の強靭な脚!
暴れる舌のおれの腕はホチキス
爛れる寿司の拍手をナイフで獲得する
別荘になっていく!
詩の一部分だけを抜き出すのは意味がないかもしれないが、抒情詩ではなく、ひとつの連がひとつのイメージ表現するという書き方でもなく、屹立したイメージを与える一行一行が次々に繰り出されるスピード感が心地よい。
水城は「川柳スパイラル」に12号から17号まで投句している。17号の会員欄から。
シーマンのままで面接してしまう 水城鉄茶
親からも止められているハッキング
レックウザからメイリオのメール来た
一行の屹立性は川柳にも通じるところがあるのだろう。『ジャキジャキ』、「彼方へ」の一節。
鳩が思考を絶して歩いている
鳩が共感を絶して歩いている
鳩が戦争を絶して歩いている
鳩がただ歩いている
この四行の中で、川柳人であれば三行を捨て、一句に賭けることになるはずだ。
複数の形式を実作する表現者は従来もいたが、その多くは俳句と短歌、現代詩と短歌という組み合わせであった。最近はそこに川柳も加わるようになって、歌人の平岡直子が川柳句集『Ladies and』(左右社、2022年)を出したのが先駆的であった。今後、歌人や詩人が川柳句集を上梓する機会が増えていくことが希望的に予測される。川柳、特に現代川柳の可能性が認識されるようになってきたのだろう。
川柳プロパーの動きでは、2021年6月にウェブ句会として立ち上げられた「ゆに」が6月に紙媒体の冊子『ゆにアンソロ』(発行人・芳賀博子)を出している。リモート句会での作品をある時点に紙媒体で発行するという、ひとつのパターンかと思う。
退却をさせにくる馬蹄形磁石 岩田多佳子
身に覚えないのに水が漏れている 笠嶋恵美子
くるぶしのこなゆき二十歳のほうれん草 河野潤々
モナリザの後で穴を掘っている 重森恒雄
雨脚をつかめば握りかえす雨 西田雅子
革命に火をつけられぬ缶ビール 橋元デジタル
地上絵は未完 戻ってくるはずだ 芳賀博子
「川柳カモミール」はオンラインで川柳を発信する場として「川柳アンジェリカ」の名で再出発している(代表・笹田かなえ)。ウェブ句会のほか冊子も発行されている。
本能寺の煙に今もむせている 金瀬達雄
卵割る 卵は痛くないでしょうか 笹田かなえ
どの指の蜜語をふさぐクラリネット 澤野優美子
打ち明けはサマルカンドの古書店で 四ッ屋いずみ
かなったら歯形の記憶ごと沈む 藤田めぐみ
既成の川柳社では、川柳塔社が『川柳雑誌・川柳塔100年の記録』を発行。100年の履歴、座右の句、著作一覧など資料的価値が高い。
「水脈」(編集発行人・浪越靖政)が現在68号まで発行されているが、来年の70号で終刊が決まっている。現代川柳の一翼を担っていた川柳誌だけに惜しまれる。
京都の「凛」はこのほど100号を迎えた。川柳誌を持続するのは大変な作業だということが分かるだけに、その労力に敬意を表したい。
10月以降の郵送料の値上げは川柳誌に大きな打撃となっている。「川柳スパイラル」の場合も郵送料を節約するために、句会などでできるだけ手渡しするようにしている。青森の「おかじょうき」は紙の雑誌を廃止して、デジタルだけにするという。こういうかたちも増えていくのだろう。
短歌誌「かばん」12月号は特集「私家版歌集・歌書」を掲載している。牛隆佑の「私家版歌集はより深く潜る」では、三国志の天下三分になぞらえて、歌集を「商業出版歌集」「短歌出版歌集」「私家版歌集」に分けている。「商業出版歌集」は多くの読者に購読されることを目指す歌集、「短歌出版歌集」は主として歌壇や歌人からの評価を求めて出版する歌集、「私家版歌集」は「売れる・読まれる」より作者の価値観・欲求に基づいて制作される歌集、ということのようだ。
川柳の場合は自費出版・私家版が主だったので、短歌のような選択肢は少ないが、今後いろいろなかたちで川柳句集が発行されていく気配が感じられる。
リアル句会とネット句会の関係も多彩になってきている。
リアル句会を主とする川柳人
ネット句会を主とする川柳人
リアル句会を主とするが、ネット句会も取り入れて活動する川柳人
ネット句会を主とするが、リアル句会にも参加するハイブリッド型の川柳人
表現者各個人の資質や信条にしたがって、それぞれの作品発表形態があってよいと思われるが、少数の読者に刺さる句が書ければそれでよいのか、句集というかたちで世に問う方がよいのかの判断は必要だろう。
来年もさまざまな川柳句集やアンソロジーが出ることだろうが、過渡期の混沌とした状況の中からどのような作品が生まれてゆくのか楽しみである。
2024年12月13日金曜日
「川柳スパイラル」22号
「川柳スパイラル」は22号から誌面が刷新された。飯島章友が同人を降り、新たに6名が新同人として加わった。
宿題でドラ・ハッ・パーを埋める刑 まつりぺきん
屯する稚魚よウィリーで走るのだ 宮井いずみ
まただよ 踊らない貝の絶滅 林やは
整理券もらった順に孵卵器へ 小沢史
これからの夢が怖くて眠れない 猫田千恵子
雪の数百ショット(いま・ここ・だれか) 西脇祥貴
特集は「現代川柳と短詩」(小池正博)。河野春三と山村祐の出会いのエピソードを話の枕に置いて、山村祐の雑誌「短詩」や津久井理一の「私版・短詩型文学全書」などについて紹介している。新たに川柳をはじめる人が増えてきたのにともなって、現代川柳史を振り返る作業が必用になってきている。
すでに雨季 延命のナイフに指紋がひとつ 道上大作
朝 窓を開けると眼前で「形」がすべて流れていた 担ケ真理子
あじさいの息の根とめて「ママ 花束よ!」 吹田まどか
同号では、まつりぺきんが「『川柳EXPO』いかがですか?」を書いている。『川柳EXPO』は、まつりぺきんがインターネット上で呼びかけて、集まった20句の川柳連作を掲載したアンソロジーだが、現在『川柳EXPO』『川柳EXPO2024』の二冊が発行されている。さらに来年は『川柳EXPO2025』も予定されていて、すでに募集が告知されている。早くも応募作品を送った人もいるらしい。2025年版の特徴は二冊に分けて発行することで、それぞれ湊圭伍と川合大祐が選評を書くことが決まっている。なぜ二冊に分けるのか、経緯とねらいについては、まつりぺきんがnoteで発表している。
西脇祥貴の「天網快快TimeLine」では第九回攝津幸彦記念賞・准賞を受賞した太代祐一のことや林やは編集の合同誌「90’s」について取り上げている。この時点では受賞作は未公開だったが、その後発表誌が届いたので、「豈」67号から太代の作品を紹介する。
飛行機は森だった見抜けなかった
注がれて僕の代わりに悶えてよ
片恋が林檎だなんて静電気
選者のうち城貴代美が3点、筑紫磐井が2点を入れている。選評から。
「若い人らしく、口語表現をうまく使って現代の心理をうまく言い留めている」(筑紫)
「ことばのきらめき、眩しいくらいの作品群でした。作者は28歳、さらに言葉の安定に捉われず実験をされることを求めます」(城)
筑紫、城の両人が引用しているのが「片恋が林檎だなんて静電気」の句。俳句の季語に当たるのは「林檎」だが、止めの言葉「静電気」が効果的。俳句としても読めるところが選者の眼にとまった所以だろう。
宿題でドラ・ハッ・パーを埋める刑 まつりぺきん
屯する稚魚よウィリーで走るのだ 宮井いずみ
まただよ 踊らない貝の絶滅 林やは
整理券もらった順に孵卵器へ 小沢史
これからの夢が怖くて眠れない 猫田千恵子
雪の数百ショット(いま・ここ・だれか) 西脇祥貴
特集は「現代川柳と短詩」(小池正博)。河野春三と山村祐の出会いのエピソードを話の枕に置いて、山村祐の雑誌「短詩」や津久井理一の「私版・短詩型文学全書」などについて紹介している。新たに川柳をはじめる人が増えてきたのにともなって、現代川柳史を振り返る作業が必用になってきている。
すでに雨季 延命のナイフに指紋がひとつ 道上大作
朝 窓を開けると眼前で「形」がすべて流れていた 担ケ真理子
あじさいの息の根とめて「ママ 花束よ!」 吹田まどか
同号では、まつりぺきんが「『川柳EXPO』いかがですか?」を書いている。『川柳EXPO』は、まつりぺきんがインターネット上で呼びかけて、集まった20句の川柳連作を掲載したアンソロジーだが、現在『川柳EXPO』『川柳EXPO2024』の二冊が発行されている。さらに来年は『川柳EXPO2025』も予定されていて、すでに募集が告知されている。早くも応募作品を送った人もいるらしい。2025年版の特徴は二冊に分けて発行することで、それぞれ湊圭伍と川合大祐が選評を書くことが決まっている。なぜ二冊に分けるのか、経緯とねらいについては、まつりぺきんがnoteで発表している。
西脇祥貴の「天網快快TimeLine」では第九回攝津幸彦記念賞・准賞を受賞した太代祐一のことや林やは編集の合同誌「90’s」について取り上げている。この時点では受賞作は未公開だったが、その後発表誌が届いたので、「豈」67号から太代の作品を紹介する。
飛行機は森だった見抜けなかった
注がれて僕の代わりに悶えてよ
片恋が林檎だなんて静電気
選者のうち城貴代美が3点、筑紫磐井が2点を入れている。選評から。
「若い人らしく、口語表現をうまく使って現代の心理をうまく言い留めている」(筑紫)
「ことばのきらめき、眩しいくらいの作品群でした。作者は28歳、さらに言葉の安定に捉われず実験をされることを求めます」(城)
筑紫、城の両人が引用しているのが「片恋が林檎だなんて静電気」の句。俳句の季語に当たるのは「林檎」だが、止めの言葉「静電気」が効果的。俳句としても読めるところが選者の眼にとまった所以だろう。
2024年11月29日金曜日
蕉風の付け方
10月27日に国民文化祭ぎふ「連句の祭典」が岐阜市の「じゅうろくプラザ」で開催された。国文祭には例年、川柳ではなくて連句のイベントの方に参加している。
その前日、大垣の「奥の細道むすびの地記念館」を訪れた。芭蕉は大垣に四度来ている。『奥の細道』の終着が大垣で終っているのはよく知られているが、それは三度目の旅でのことだった。大垣には谷木因(たに・ぼくいん)という俳諧師がいて、芭蕉とは交流があった。木因は大垣蕉門の中心人物で、「むすびの地記念館」のそばに芭蕉と木因の二人が並び立っている像がある。
芭蕉の第一回大垣来遊は貞享元年(1684年)晩秋、『野ざらし紀行』の旅のときである。木因を訪問したあと、芭蕉は名古屋に向かい「尾張五歌仙」(『冬の日』)を巻く。名古屋は蕉風発祥の地といわれている。
「大垣に泊りける夜は、木因が家をあるじとす。武蔵野を出づる時、野ざらしを心に思ひて旅立ければ
死にもせぬ旅寝の果てよ秋の暮」(『野ざらし紀行』)
この旅の冒頭の句「野ざらしを心に風のしむ身哉」と比べると余裕が感じられ、木因と会うことが旅のひとつの目的だったことが分かる。
さて、「むすびの地記念館」の展示の監修もしている俳文学者の佐藤勝明は、「江古田文学」113号(特集・連句入門)で蕉風の付け方について、見込・趣向・句作の三工程があったと述べている。
作者の頭のなかでは、前句への理解である「見込」と、それに基づいて次の句では何を取り上げようかなという「趣向」、さらに実際に素材や表現を選んで整える「句作」の三工程があって、見込から趣向を導く際には、一種の自問自答のようなものがあったのではないか、と私は考えています。(特別講座「芭蕉連句入門書」入門)
具体例として佐藤が挙げているのは、『去来抄』の次のエピソードである。
「あやの寝巻にうつる日の影」という前句に一座のみなが付けあぐんでいたときに、芭蕉が「よき上臈の旅なるべし」と助言したところ、去来がたちまち「なくなくも小さき草鞋求めかね」と付けることができた、というのである。
前句の「あやの寝巻」は女性だろうが、深窓の令嬢であれば日光の当たる部屋ではなく、奥まったところにいるはずだから、これは日常ではなく旅だろうと芭蕉は考えた(見込)。というのが佐藤の解釈である。去来はこの見込を受けて、泣いてみても小さい草鞋は手に入らないという句を付けた(趣向、句作)。
この話は芭蕉流の付け方の骨法を伝えていると佐藤は言う。前句はどういう場か、どんなひとなのだろうかを考え、それに位を合わせる付け方である。
この付け方を現代連句の実作の場で可視化しようとしたのが鈴木千惠子である。鈴木の『杞憂に終わる連句入門』(文学通信、2020年)に収録されている歌仙「老が恋」の巻は蕪村を発句とした脇起りであるが、最初の四句だけ引用する。
老が恋わすれんとすればしぐれかな 与謝蕪村
ちりちり痛む胸の埋火 鈴木千惠子
迷ひ犬人混み分けてさがすらん 玉城珠卜
ニュースを流す壁のあちこち 佐藤勝明
佐藤勝明が連衆に入っているのが注目されるが、この作品には解説が付いていて、こんなふうになっている。
ちりちり痛む胸の埋火
見込 発句にはわすれようとしても諦められない恋心が詠まれている
趣向 その未練を、埋火に喩えた
句作 恋心を「とりとり痛む」と表現した
迷ひ犬人混み分けてさがすらん
見込 脇は恋に身を焦す人物の胸のうちが詠まれている
趣向 恋の焦燥感を迷子になった犬をさがす愛犬家の心情に転じた
句作 必死の様子を「人混み分けて」と表現した
ニュースを流す壁のあちこち
見込 前句を都会の雑踏と見て
趣向 その中で目にしそうな光景を想像し
句作 電光掲示板に情報が流れるとした
理屈通りに句作ができるわけではないだろうが、注目すべき試みかと思う。
最後に国民文化祭ぎふ「連句の祭典」で文部科学大臣賞を受賞した短歌行「実朝忌」の巻の表四句を紹介しておこう。和漢連句が文科大臣賞を受賞するのは画期的なことである。
梅東風や海のとどろく実朝忌 服部秋扇
孟春射剛弓 石上遥夢
蜜蜂のハニカム構造模作して 西川菜帆
猫の家には丁度よき箱 岡部瑞枝
その前日、大垣の「奥の細道むすびの地記念館」を訪れた。芭蕉は大垣に四度来ている。『奥の細道』の終着が大垣で終っているのはよく知られているが、それは三度目の旅でのことだった。大垣には谷木因(たに・ぼくいん)という俳諧師がいて、芭蕉とは交流があった。木因は大垣蕉門の中心人物で、「むすびの地記念館」のそばに芭蕉と木因の二人が並び立っている像がある。
芭蕉の第一回大垣来遊は貞享元年(1684年)晩秋、『野ざらし紀行』の旅のときである。木因を訪問したあと、芭蕉は名古屋に向かい「尾張五歌仙」(『冬の日』)を巻く。名古屋は蕉風発祥の地といわれている。
「大垣に泊りける夜は、木因が家をあるじとす。武蔵野を出づる時、野ざらしを心に思ひて旅立ければ
死にもせぬ旅寝の果てよ秋の暮」(『野ざらし紀行』)
この旅の冒頭の句「野ざらしを心に風のしむ身哉」と比べると余裕が感じられ、木因と会うことが旅のひとつの目的だったことが分かる。
さて、「むすびの地記念館」の展示の監修もしている俳文学者の佐藤勝明は、「江古田文学」113号(特集・連句入門)で蕉風の付け方について、見込・趣向・句作の三工程があったと述べている。
作者の頭のなかでは、前句への理解である「見込」と、それに基づいて次の句では何を取り上げようかなという「趣向」、さらに実際に素材や表現を選んで整える「句作」の三工程があって、見込から趣向を導く際には、一種の自問自答のようなものがあったのではないか、と私は考えています。(特別講座「芭蕉連句入門書」入門)
具体例として佐藤が挙げているのは、『去来抄』の次のエピソードである。
「あやの寝巻にうつる日の影」という前句に一座のみなが付けあぐんでいたときに、芭蕉が「よき上臈の旅なるべし」と助言したところ、去来がたちまち「なくなくも小さき草鞋求めかね」と付けることができた、というのである。
前句の「あやの寝巻」は女性だろうが、深窓の令嬢であれば日光の当たる部屋ではなく、奥まったところにいるはずだから、これは日常ではなく旅だろうと芭蕉は考えた(見込)。というのが佐藤の解釈である。去来はこの見込を受けて、泣いてみても小さい草鞋は手に入らないという句を付けた(趣向、句作)。
この話は芭蕉流の付け方の骨法を伝えていると佐藤は言う。前句はどういう場か、どんなひとなのだろうかを考え、それに位を合わせる付け方である。
この付け方を現代連句の実作の場で可視化しようとしたのが鈴木千惠子である。鈴木の『杞憂に終わる連句入門』(文学通信、2020年)に収録されている歌仙「老が恋」の巻は蕪村を発句とした脇起りであるが、最初の四句だけ引用する。
老が恋わすれんとすればしぐれかな 与謝蕪村
ちりちり痛む胸の埋火 鈴木千惠子
迷ひ犬人混み分けてさがすらん 玉城珠卜
ニュースを流す壁のあちこち 佐藤勝明
佐藤勝明が連衆に入っているのが注目されるが、この作品には解説が付いていて、こんなふうになっている。
ちりちり痛む胸の埋火
見込 発句にはわすれようとしても諦められない恋心が詠まれている
趣向 その未練を、埋火に喩えた
句作 恋心を「とりとり痛む」と表現した
迷ひ犬人混み分けてさがすらん
見込 脇は恋に身を焦す人物の胸のうちが詠まれている
趣向 恋の焦燥感を迷子になった犬をさがす愛犬家の心情に転じた
句作 必死の様子を「人混み分けて」と表現した
ニュースを流す壁のあちこち
見込 前句を都会の雑踏と見て
趣向 その中で目にしそうな光景を想像し
句作 電光掲示板に情報が流れるとした
理屈通りに句作ができるわけではないだろうが、注目すべき試みかと思う。
最後に国民文化祭ぎふ「連句の祭典」で文部科学大臣賞を受賞した短歌行「実朝忌」の巻の表四句を紹介しておこう。和漢連句が文科大臣賞を受賞するのは画期的なことである。
梅東風や海のとどろく実朝忌 服部秋扇
孟春射剛弓 石上遥夢
蜜蜂のハニカム構造模作して 西川菜帆
猫の家には丁度よき箱 岡部瑞枝
2024年11月22日金曜日
ねじまき句集を読む会
11月17日、イーブル名古屋で「ねじまき句集を読む会」が開催された。青砥和子『雲に乗る』(新葉館出版)と瀧村小奈生『留守にしております。』(左右社)の二句集を読む会である。
午前の部は青砥和子の句集について。なかはられいこ、米山明日香歌、笹田かなえの三人が句集からピックアップした作品を丁寧に読んでゆく。 なかはらは「家族や身近な人がモチーフになった初期だと思われる作品群」と「「書き続けることで進化あるいは深化した作品群」が混在していると述べ、「生活者青砥和子から川柳作家青砥和子まで」、章立てのあいまいさを指摘した。
それぞれの事情があってイオンまで (どんな川柳人・一般人にも〇な佳句)
母さんが最新兵器しょってくる (?な句=誉め言葉)
泡だったままで閉店いたします (なぞの主体)
夜の芯になろうと回る観覧車 (個性的な空間の捉え方)
米山明日歌は「青砥和子の雲の乗り方を探る」という視点から、第一章は「子の目を通して自分がどう写っているか。母として子にどう接したらいいか模索している」、第二章は「家族から離れ父母、弟、妹と自分の関係を今の自分が、見つめ直し新たな発見をする」、第三章は「作者の中で一章と二章がつながり、力の抜けた言葉があふれだす」とまとめた。
手の中の海を息子が見せにくる (第一章)
父はただ穴を掘ったとしか言わぬ (第二章)
善人って砂をまぶして出来上がる (第三章)
笹田かなえは「何か」をその句に対して言いたくなる」句を選んだとして次のように分類した。
猫を抱く桃井かおりの顔で抱く (時代性・同年代としての共感)
こめかみをグリグリ八合目ですね(生活の中での川柳的な視線を感じた句)
サーカスの虎の気だるい肩の骨 (発見のある句)
しあわせってこんなんぎんなん見つけた(内在律の優れていると感じた句)
仮に地球だったらと青蜜柑剥く (青砥和子の個性を感じた句)
「ねじまき句会」のメンバーによる『雲に乗る』からの一句選も発表されていて、人気のあった推奨句として次の二句を挙げておく。
父はただ穴を掘ったとしか言わぬ
吊るされるだけでこんなに美しい
それぞれのパネラーが丁寧に句を読み込んでいて、句集を通読したときには見逃していた中にもいい句が多いことに気づいた。句の読みが充実しているのも、ふだんの「ねじまき句会」での読みの積み重ねによるのだろう。配付されたレジュメにあげられていない句で、私がいいと思ったのを二句挙げておく。
交番でモーゼの長き旅終わる
房長き藤すれすれの逃げやすさ
休憩をはさんで、午後は瀧村小奈生の句集について。パネラーは、おかださなぎ、猫田千恵子、八上桐子の三人である。
まず、おかだの選んだ句から。
きょうもまだ雨音になれなかったな (水のさまざまなすがた)
ひっぱると夜となにかが落ちてくる (なにかを見ている)
夏よ!(曖昧さを回避していない) (活きている口語表現)
わたしたち海と秋とが欠けている (たしかな抒情)
次に猫田千恵子の選句から。
降る雨のところどころが仏蘭西語 (全身で感じる)
愛じゅせよジュークボックスからじゅせよ (音を楽しむ)
靴踏んで、ねえ、白すぎるから踏んで (いたずらっぽく笑う少女)
ばあちゃんは走ったことのない系譜 (絵のないしかけ絵本)
八上桐子は「『留守にしております。』は、なぜ気持ちいいのか?」という観点から次のような句を抽出した。
長い夜そっと剥がしている音だ (響かせる音・耳の作家)
雨が海になる瞬間の あ だった(すぐ乾く雨・ささやかな偶然)
春楡のように家族であったこと (ささやかな偶然)
参加者は「ねじまき句会」のメンバーだけでなく、川柳観も多様であり、いろいろな意見が聞けて有益だった。川柳の句会では選だけがあって、作品の読みがほとんどなく、「ねじまき句会」が読みを重視する句会であることが実感された。終わりの挨拶で、なかはられいこが「ここまで来るのに二十年かかった」と語ったのが印象的だった。
最後に、当日の司会を担当した俳人の二村典子が今年三月に上梓した句集『三月』(黎明書房)から好きな句を紹介しておきたい。
野遊びの誰の話も聞いてない 二村典子
蝶の昼鏡の昼におくれつつ
たんぽぽの料理に欠かせない弱気
あっ足をふっ踏まないであめんぼう
否と応 蓮の浮葉の間には
午前の部は青砥和子の句集について。なかはられいこ、米山明日香歌、笹田かなえの三人が句集からピックアップした作品を丁寧に読んでゆく。 なかはらは「家族や身近な人がモチーフになった初期だと思われる作品群」と「「書き続けることで進化あるいは深化した作品群」が混在していると述べ、「生活者青砥和子から川柳作家青砥和子まで」、章立てのあいまいさを指摘した。
それぞれの事情があってイオンまで (どんな川柳人・一般人にも〇な佳句)
母さんが最新兵器しょってくる (?な句=誉め言葉)
泡だったままで閉店いたします (なぞの主体)
夜の芯になろうと回る観覧車 (個性的な空間の捉え方)
米山明日歌は「青砥和子の雲の乗り方を探る」という視点から、第一章は「子の目を通して自分がどう写っているか。母として子にどう接したらいいか模索している」、第二章は「家族から離れ父母、弟、妹と自分の関係を今の自分が、見つめ直し新たな発見をする」、第三章は「作者の中で一章と二章がつながり、力の抜けた言葉があふれだす」とまとめた。
手の中の海を息子が見せにくる (第一章)
父はただ穴を掘ったとしか言わぬ (第二章)
善人って砂をまぶして出来上がる (第三章)
笹田かなえは「何か」をその句に対して言いたくなる」句を選んだとして次のように分類した。
猫を抱く桃井かおりの顔で抱く (時代性・同年代としての共感)
こめかみをグリグリ八合目ですね(生活の中での川柳的な視線を感じた句)
サーカスの虎の気だるい肩の骨 (発見のある句)
しあわせってこんなんぎんなん見つけた(内在律の優れていると感じた句)
仮に地球だったらと青蜜柑剥く (青砥和子の個性を感じた句)
「ねじまき句会」のメンバーによる『雲に乗る』からの一句選も発表されていて、人気のあった推奨句として次の二句を挙げておく。
父はただ穴を掘ったとしか言わぬ
吊るされるだけでこんなに美しい
それぞれのパネラーが丁寧に句を読み込んでいて、句集を通読したときには見逃していた中にもいい句が多いことに気づいた。句の読みが充実しているのも、ふだんの「ねじまき句会」での読みの積み重ねによるのだろう。配付されたレジュメにあげられていない句で、私がいいと思ったのを二句挙げておく。
交番でモーゼの長き旅終わる
房長き藤すれすれの逃げやすさ
休憩をはさんで、午後は瀧村小奈生の句集について。パネラーは、おかださなぎ、猫田千恵子、八上桐子の三人である。
まず、おかだの選んだ句から。
きょうもまだ雨音になれなかったな (水のさまざまなすがた)
ひっぱると夜となにかが落ちてくる (なにかを見ている)
夏よ!(曖昧さを回避していない) (活きている口語表現)
わたしたち海と秋とが欠けている (たしかな抒情)
次に猫田千恵子の選句から。
降る雨のところどころが仏蘭西語 (全身で感じる)
愛じゅせよジュークボックスからじゅせよ (音を楽しむ)
靴踏んで、ねえ、白すぎるから踏んで (いたずらっぽく笑う少女)
ばあちゃんは走ったことのない系譜 (絵のないしかけ絵本)
八上桐子は「『留守にしております。』は、なぜ気持ちいいのか?」という観点から次のような句を抽出した。
長い夜そっと剥がしている音だ (響かせる音・耳の作家)
雨が海になる瞬間の あ だった(すぐ乾く雨・ささやかな偶然)
春楡のように家族であったこと (ささやかな偶然)
参加者は「ねじまき句会」のメンバーだけでなく、川柳観も多様であり、いろいろな意見が聞けて有益だった。川柳の句会では選だけがあって、作品の読みがほとんどなく、「ねじまき句会」が読みを重視する句会であることが実感された。終わりの挨拶で、なかはられいこが「ここまで来るのに二十年かかった」と語ったのが印象的だった。
最後に、当日の司会を担当した俳人の二村典子が今年三月に上梓した句集『三月』(黎明書房)から好きな句を紹介しておきたい。
野遊びの誰の話も聞いてない 二村典子
蝶の昼鏡の昼におくれつつ
たんぽぽの料理に欠かせない弱気
あっ足をふっ踏まないであめんぼう
否と応 蓮の浮葉の間には
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