2022年9月4日日曜日

現代川柳とモダニズム

「ねむらない樹」9号の特集は「詩歌のモダニズム」である。川柳からは小池正博が「現代川柳におけるモダニズム」を寄稿し、小樽の田中五呂八、大阪の木村半文銭、堺の墨作二郎などの作品を紹介している。
モダニズムとは何かという定義について、中井亜佐子は特有の美的様式(広義)と文学史上の時代区分(狭義)という二つのやり方があるという。前者には韻律を破壊した自由な形式や前衛的な語法やイメージがある。後者はたとえば1910年ごろから両世界大戦の間の期間までというような時代区分で、ヨーロッパ文学ではジョイスやエリオットなどの活躍した時期である。
「ねむらない樹」に収録されている論考でも、この二つの定義が錯綜していて、広義のモダニズムととらえて新興短歌から現代までを見渡している文章もあれば、狭義のモダニズム短歌の、たとえば前川佐美雄に焦点をしぼった文章もある。
広義のモダニズムについては話が拡散するので、以下、狭義のモダニズムについて触れていきたい。大正末年から昭和初年にかけて短詩型文学の世界で新興文学運動が起こった。新興短歌、新興俳句、新興川柳がそれぞれのジャンルで生れている。
特集の文章で三枝昻之は「モダニズムの既成の価値の否定という特徴からは、プロレタリア短歌も広い意味でのモダニズム短歌といえる」と書いている。昭和3年に結成された新興歌人連盟は両者の統一戦線だったが、結成したかと思ったらすぐに解散。「なぜ新興短歌は直後に分裂したか。既成の価値と伝統短歌の否定という点では共通するが、表現の芸術性を重視するのがモダニズム短歌、階級意識からの社会改革を意図するのがプロレタリア短歌。短く言うと、文学か政治か、その力点の置き方で分かれた」というのが三枝の見方。さらに、モダニズム短歌も文語か口語か、定型か自由律かに分かれ、主流は口語自由律であったという。
以前はプロレタリア文学とモダニズム文学を対立的にとらえるのが普通であり、実際、両者は対立していたのだが、都市文学という視点から統一的にとらえようという見方が出てきている。これに口語短歌や自由律がからんで、話が錯綜してくる。
私はこの時期の口語短歌の歌人では西村陽吉の作品に注目しているので、この機会に紹介しておく。

モウパツサンは狂つて死んだ 俺はたぶん狂はず老いて死ぬことだらう  西村陽吉
何か大きなことはないかと考へる空想がやがて足もとへかへる
他人のことは他人のことだ 自分のことは自分のことだ それきりのことだ

西村陽吉の歌集『晴れた日』(昭和2年)から。大正14年、西村を中心として口語短歌運動の機関誌「芸術と自由」が創刊。翌15年には全国口語歌人の統一団体として「新短歌協会」が結成された。しかし、文語によって成立した定型を口語短歌はとるべきではないという自由律派が台頭して協会は分裂した。西村は定型派であり、文学観上は啄木以来の生活派だったので、やがてプロレタリア短歌の陣営からも攻撃されることになる。
プロレタリア短歌に関して、私が利用しているのは「日本プロレタリア文学全集」(新日本出版社)の『40 プロレタリア短歌・俳句・川柳集』で、三つのジャンルを見渡すことができるので便利だ。新興歌人連盟が分裂したあとプロレタリア派は「無産者歌人連盟」を結成し、昭和4年には「プロレタリア歌人同盟」ができる。「プロレタリア歌人同盟」は短歌が詩の方向に向かって解消の道を歩むことによって封建性を克服することができるという短歌否定論をかかえていたが、そのような考え方に対する批判も生まれてゆく。短詩型と詩の関係には紆余曲折がある。
モダン都市という観点から興味深いと思ったのは、「ねむらない樹」の特集で黒瀬珂瀾が紹介している石川信雄だ。

わが肩によぢのぼつては踊りゐたミツキイ猿を沼に投げ込む  石川信雄
シネマ・ハウスの闇でくらした千日のわれの眼を見た人つひになき

歌集『シネマ』(昭和11年)に収録されているが、制作されたのは昭和5・6年ごろだという。こういう作品を読むと、私は日野草城の次のような句を思い出す。

春の夜の自動拳銃夫人の手に狎るる  日野草城
白き手にコルト凛凛として黒し
夫人嬋娟として七人の敵を持つ
愛しコルト秘む必殺の弾丸(たま)を八つ
コルト睡(い)ぬロリガンにほふ乳房(ちち)の蔭

日野草城の句集『転轍手』(昭和13年)に収録されている「マダム コルト」という連作。一句目の「自動拳銃」には「コルト」とルビが付けられていて「コルト夫人」と読ませる。元になるのが映画なのか小説なのか確認できていないが、B級映画の雰囲気がある。
川柳では川上三太郎が映画「未完成交響楽」をもとに連作川柳を書いている。昭和10年の作品で10句のうち4句だけ引用する。

およそ貧しき教師なれども譜を抱ゆ  川上三太郎
わが曲は街の娘の所有(もの)でよし
りずむーそれは貴女の顫音(こえ)のその通り
アヴエマリアわが膝突いて手を突いて

個々の作者には作風や文学観の変遷があり、プロレタリア派とか芸術派とか一概に言えないのだが、大正末年から昭和初年にかけての新興文学運動にはジャンルを越えた時代精神があり、それらを共時的にとらえる必要があるだろう。「ねむらない樹」の特集では川柳について田中五呂八や木村半文銭などの芸術派を中心に紹介しているが、プロレタリア派も含めてモダニズムをとらえるなら、鶴彬などの存在も視野に入れなければならない。木村半文銭と鶴彬の激しい論争もあったのだが、それはまた別の話題である。

2022年8月19日金曜日

「川柳スパイラル」創刊5周年の集い

8月も後半に入り、すこしずつ季節が移り変わってゆく。
瀬戸夏子から「一夏蕩尽」という冊子を送ってもらった。2019年11月26日の日付のある文章と「2022、短歌についておもうこと」の二つが収められている。二つの文章の最初に同じ短歌が引用されている。

吹きとほる夜の草生のぴあにしも一夏蕩尽一世蕩尽  苑翠子

私は川柳を「蕩尽の文芸」と呼んだことがあるが、「一夏蕩尽」という言葉が心に刺さる。

8月5日
東京行。年内に発行予定の『現代連句集Ⅳ』(日本連句協会創立40周年記念誌)の編集会議を九段生涯学習館で行う。連句協会の歴史や座談会の原稿のほか、各地の連句グループからの作品が出そろい、印刷所に回すための打合せである。
会議終了後、近くの竹橋まで歩いて、国立近代美術館の常設展を見る。何度か来たことがあるが、まず原田直次郎の「騎龍観音」の前へ。この画家は森鷗外のドイツ留学時代の友人。ちなみに今年は鷗外没後100年にあたるが、鷗外の「妄想」に次の一節がある。「自分がまだ二十代で、まったく処女のような官能をもって、外部のあらゆる出来事に反応して、内にはかつて挫折したことのない力を蓄えていた時のことであった。自分は伯林(ベルリン)にいた」
荻原守衛の彫刻「女」や中村彝の「エロシェンコ氏の肖像」などもあった。新宿中村屋のかあさんと呼ばれた相馬黒光の周辺に集まった芸術家たちである。以前はこれらの前に立つと涙が出るほど感動したものだが、すでにそういう感覚は戻ってこない。
銀座に出たあと、両国のホテルに向かう。

8月6日
両国は芥川龍之介ゆかりの街で、散策してみる。「杜子春」の文学碑もあった。
イベントの会場・北とぴあに早い目に着く。午前中は川柳フリマを開催する予定だったが、コロナ禍のため中止。句会の準備をし、「川柳スパイラル」関係の書籍を並べる。12時を過ぎると人が集まり始める。当日の参加者は19名。
「川柳スパイラル」創刊5周年の集いは三部構成で、第一部は暮田真名・平岡直子の対談「川柳、わたしたちの無法地帯」。第二部は飯島章友・川合大祐「現代川柳のこれから」。
第三部の句会は暮田真名・平岡直子・浪越靖政・いなだ豆乃助・飯島章友・小池正博の選。詳しいことは「川柳スパイラル」16号(11月下旬発行)に掲載の予定だが、ここでは小池選の雑詠だけ紹介しておく。

花火からこぼれる指は誰だっけ     二三川練
机から椅子が引かれてしまう星      蔭一郎
阿炎およぐ偽の水平線のなか      川合大祐
ごせいばいしきもくの胴なさいます   中西軒わ
ノワールとメモワールのちにわか雨 いなだ豆乃助
川だった幅でお告げを待っている    兵頭全郎
スケルトン電卓という魂だ       平岡直子
リビングの小宇宙へとあくびする  いわさき楊子
かごめかごめ息継ぎの間の転生     浪越靖政
つめものとかぶせものから暮れてゆく 北野抜け芝
最新の縄文土器で煮炊きする      下城陽介
形式はくり返される敗戦日     いわさき楊子
自堕落の神は案外いそがしい      下城陽介
銀行 庭でサンダルをなくした      平英之
賭博でも氷で多少工夫する      今田健太郎
広告の顔らしいまま手を離す      兵頭全郎
義賊から盗み笑いを恵まれる      飯島章友
非通知で蝶がつぶれてしまったわ    平岡直子
わびさびの引き出し開けて都市を撃つ ササキリユウイチ
前屈でサラダに届くレイトショー    青沼詩郎
特選 蟹味噌の醜さだけが国語辞書   二三川練
軸吟 五年目の花火の位置を見定める  小池正博

懇親会は行わないことにしていたので、終了後はそのまま解散。両国に戻り、ちゃんこ鍋で、ひとりご苦労さん会。懇親会は川柳イベントが成功したかどうかのバロメーターで、宴会に残る人数が多ければイベントが成功だったことの証明とも言える。今回はそういうこともなく、達成感もそれほど得られなかったのはやむを得ない。シンポジウム・座談会+句会というかたちの川柳イベントを「バックストローク」「川柳カード」「川柳スパイラル」と続けてきたが、別のかたちを模索するべき時期に来ているかもしれない。

8月7日
国民文化祭おきなわの応募作品選考会議が午後からあるので、早朝の新幹線に乗り大阪に帰る。リモート会議なので東京にいてもできるのかもしれないが、自宅のパソコンからでないと不安なのだ。
国文祭「連句の祭典」の応募は一般の部とジュニアの部に分かれているが、私の担当はジュニアの部。大賞・入賞作品が决まる。
コロナに感染することもなく、無事三日間を乗り切ることができた。

あと、送っていただいた雑誌や本のご紹介。
「江古田文学」110号の特集は石ノ森章太郎。宮城県登米市にある「石ノ森章太郎ふるさと記念館」が紹介されているが、ここは朝ドラの「おかえりモネ」でも出てきた場所である。
浅沼璞が評論「『さんだらぼっち』にみる西鶴的方法」を書いている。私は「佐武と市捕物控」は読んだことがあるが、人情噺「さんだらぼっち」は読んだことがない。主人公とんぼは吉原大門前の玩具屋の住み込み職人。浅沼は石ノ森の映画的手法を指摘していて、それは連句にも通じるものだ。浅沼が「さんだらぼっち」の場面を連句化しているのは興味深い。

 身振り手振りで明かす段取り
持参金めあてに掛けを済ますらん
 もぬけの殻の広きお屋敷

「楽園」第一巻(湊合版)は楽園俳句会の創刊号から第6号までを合冊したもの。俳句作品のほか堀田季何の連載「呵呵俳話」が〈「わかる」とか「わからない」とか〉〈俳句の「私」は誰かしら〉〈リアルとリアリティ〉〈俳句と川柳の境界〉など、現在問題になっているテーマを扱っている。あと、連句作品も掲載されていて、連句界からは静寿美子が参加している。歌仙「ビオトープ」から。

帰りには栗売り切れてしまひさう   マリリン
 慌てふためき待ち合はせ場所    小田狂声
イケメンの自信過剰がいのちとり   静寿美子
 キーホルダーの合鍵はづす    市川綿帽子

2022年8月13日土曜日

「川柳スパイラル」15号と大阪句会

時評を更新する時間がとれないままに、ものごとがそれなりに進んでゆく。いろいろな想念が浮かんでは消えてゆくが、何もかも書くことはできないし、何が本質的なことなのか後になってみないと分からないことも多い。

暮田真名の発信力が目覚ましい。「ユリイカ」8月号の特集「現代語の世界」に暮田は「川柳のように」を寄稿している。現代語というテーマに関連して、短歌からは初谷むいが、川柳からは暮田真名の文章が掲載されているから、この両人が新しい表現者として注目されているのだろう。暮田は「現代川柳」というときの「現代」の意味、「現代川柳」と「詩」との関係について暮田自身の立場を述べたあと、何人かの川柳人の作品を紹介している。この文章から感じとれるのは暮田の「川柳愛」である。「詩」ではなくて「川柳」を書きたいということで、「川柳スパイラル」創刊5周年の集いでも、川柳が好きだという発言があった。現代川柳と詩との関係(いわゆる「詩性川柳」)には歴史的な経緯があるので、二者択一できる問題でもない。

7月23日に神戸で「現代歌人集会」が開催された。
村松正直の講演のほかパネルディスカッションに平岡直子・笹川諒・山下翔が出るので聞きにいった。短歌の読み方・読まれ方についてなのだが、作者に関するデータが作品の読みに影響するか、しないかの出口の見えない議論が続いている。当日のレジュメで笹川が「人生派」「言葉派」という分け方に疑問を呈しているのが印象に残った。「現代歌人集会会報」55号に笹川は「テーマに関連して最近思うこと」を書いているが、歌会で「短歌というより詩として読みました」という発言をする人があるらしい。このことも気になっている。

「川柳スパイラル」15号の特集は「暮田真名と平岡直子」。暮田の句集『ふりょの星』の句集評を我妻俊樹が書いているほか、一句鑑賞を8人の評者が執筆している。それぞれが取り上げた暮田の句を挙げておこう。

柳本々々   星のかわりに巡ってくれる
榊原紘    選球眼でウインクしたよ
笹川諒    ☆定礎なんかしないよ ☆繰り返し
湊圭伍    クリオネはドア・トゥ・ドアの星だろう
三田三郎   生い立ちの代わりに脱脂綿がある
大塚凱    やがて元通りに嘘になるだろう
瀬戸夏子   おそろいの生没年をひらめかす
中山奈々   飲食はみんながいなくなってから

編集人の方で調整したわけではないが、それぞれが取り上げた句が一句も重ならなかったのはおもしろい。また、柳本、笹川、湊の選んだ句に「星」が入っているのも後から気づいたことである。創刊5周年の集いで暮田が指摘したことだが、榊原の一句鑑賞では本文の中に「星」という言葉が出てくるのだった。
ゲスト作品も紹介しておこう。
佐伯紺「非常口」10句は「ここまでは闇ここからは暗い闇」ではじまり、「さいごまであかるいままの非常口」で終わる。闇から光へという構成である。特におもしろいと思ったのは次の句。

どの略歴もあなたは同じ年生まれ  佐伯紺

当たり前のことを敢えて書くことによって不思議な感覚が生まれる。佐伯紺はネットプリント「Ink」でも川柳を発表していて、現在3号まで出ている。

かきあげのアイデンティティ・クライシス 佐伯紺
目には目の歯にははるかなパンまつり
青魚の青さくらいで名乗りたい

もうひとりのゲスト、多賀盛剛はナナロク社の「第2回あたらしい歌集選考会」で岡野大嗣に選ばれている。「川柳スパイラル」には定型・自由律を取り混ぜて掲載。

こっちこないでください右の耳から橋が見えてて  多賀盛剛
口から出てくるその橋を渡る人についていった

不思議なユーモアがあり、長律作品に作者の本領があるのかなと思った。

現代歌人集会の翌日、7月24日に大阪・上本町で「川柳スパイラル」大阪句会が開催された。以下、句会作品の紹介。

兼題「踏む」
踏み倒すほどの未来のチョココロネ   中山奈々
星の生誕△金鳥の渦踏んで        金川宏
靴下の裏に貼り付く秘密基地      蟹口和枝
鐘の音を踏んでしまってからの棋士   宮井いずみ
猫たちよハイビスカスを踏みなさい   笹川諒
世へおいで靴のかかとを踏むために   橋詰志保
背表紙を踏んで八月やってくる     西田雅子
海の日に踏んづけ山の日に咲いた    芳賀博子
月面のコピー写真を踏んでいる     平岡直子
熱帯魚踏んでみたらばどうなるの    榊陽子
不法投棄された踏み絵の復讐劇     三田三郎
桔梗草踏めば昭和が盆踊り       まつりぺきん
蜘蛛の糸踏む蜘蛛がいて銀河の朝    兵頭全郎

雑詠
ビタミンのどれからも連絡が来ない   中山奈々
オーロラがゆっくり動く膝の裏     蟹口和枝
ゆるされず笑う間接照明        兵頭全郎
彗星です将来の夢は衝突です      三田三郎
七回も人間宣言したなんて       平岡直子
朝顔の顔から喉へかかる空       芳賀博子
カニ缶が全員亡霊だなんて       榊陽子
ぐりとぐらはなかよくそれをうめました 橋爪志保
流血をぬぐうぞうきん美術館      小池正博
ヒクイドリめくだんだら塾講師     宮井いずみ
この猫は雅語学校を逃げました     笹川諒
角砂糖の心中おまえが言うな      金川宏

「川柳スパイラル」の掲示板で紹介するべきだが、旧掲示板は7月末で終了し、新しい掲示板はまだ使い慣れていないので、この場で紹介しておくことにした。

2022年7月22日金曜日

小池康生句集『旧の渚』

俳誌「奎」には若手俳人の作品が掲載されているので、現代俳句の動向を知るのに便利だ。22号から同人三人の句を紹介する。

沈丁花病みても夜行性の母      中山奈々
行く春のあなたの声に角砂糖

煙ることにはじめから なっていた  細村星一郎
大木にいくつか窓がある恐怖

抜け落ちて五人囃子のだれかの鬢   木田智美
鳥ぐもり二次発酵の生地と寝る
ルピナスは摘めないそんな資格はない

「奎」の発行人・小池康生と知り合ったのは神戸で開催された「俳句Gathering」のイベントのときだった。2012年から3年連続で年末に神戸で開催されたもので、「俳句で遊ぼう」というコンセプトのもと、シンポジウムのほか地元アイドルとの句会バトルなどがあって、賑やかなイベントだった。全3回の日程と会場は以下の通り。

第一回 2012年12月22日 生田神社
第二回 2013年12月21日 生田神社
第三回 2014年12月20日 柿衞文庫

それぞれこの「川柳時評」で取り上げていて、第一回については2012年12月28日の時評、第二回については2013年12月27日の時評、第三回については2014年12月26日の時評で紹介している。小池康生と私が共演したのは第2回のときで、クロストーク「俳句vs川柳~連句が生んだ二つの詩型~」というコンテンツで、小池正博・小池康生のW小池による対談と連句実作のワークショップが行われている。事前の打ち合わせで、三宮センター街の地下の居酒屋に入り二人で飲んだことも思い出になる。
その後、小池康生は「奎」を創刊し、関西の若手俳人の求心力になった。第一句集『旧の渚』(ふらんす堂)は2012年4月に発行されているから、この時評は10年遅れの鑑賞となる。
『旧の渚』は「旧の渚」「風の尖」「新の渚」「風の骨」の四章にわかれているが、私のおもしろいと思った句は「旧の渚」の章に多い。

家族とは濡れし水着の一緒くた

家族とは何かという問いを洗濯機のイメージでとらえている。洗濯するときは親とは別々に洗ってほしいという向きもあるが、濡れた水着でも一緒くたに洗うのが家族だという。そうあってほしいという願望なのかも知れないが、句集の巻頭にこの句が置かれているのには作者の思い入れがあるのだろう。

滝壺を出て水音をやりなほす

滝壺の水音に最初・途中・最後という区別があるわけではないだろうが、滝の音をもう一度はじめからやり直そうという気持ちは、写生というより比喩的な状況を言い当てているようにも思われる。そういう気持ちになるのは、滝壺のなかにいたときではなく、滝壺を出たあとで振り返る余裕があるからなのだろう。

星飛んで人は痩せたり太つたり

流れ星と地上に生きる人間との対比。

竜胆のどこが嫌ひか考へる

どこが好きなのかではなく、嫌いなところを考えている。誰でも竜胆が好きとは限らなくて、好き嫌いは個人的なものである。ひとつの対象のなかには好きな部分があっても嫌いな部分も必ずあるから、そのことに意識的であるのは大人の態度と言うこともできる。

生まれつき晩年である海鼠かな

海鼠の句では「階段が無くて海鼠の日暮かな」(橋閒石)が有名だが、この句では日暮を通り越して晩年に至っている。それも生まれたときから晩年だと言うのだ。

セーターに出会ひの色の混ぜてあり

セーターに何を混ぜるか。デザインや模様や心情など、さなざまな発想が可能だろう。ここでは色を選んでいるが、「出会いの色」というかたちで人間関係のニュアンスを表現している。

蝶の名を黄泉の入口にて忘れ

現世で覚えた蝶の名を黄泉にゆく入口で忘れてしまう。次元の異なる世界では価値観も経験も通用しなくなる。現実世界で蝶の名が価値であるかどうかも疑問である。

生活の隣に枝垂桜かな

生活と枝垂桜がやや対立的にとらえられている。生活と枝垂桜は無関係ではないはずだが、現実の生活は力闘的なものだから、枝垂桜のことばかり考えて生活するわけにもいかない。けれども生活の隣には枝垂桜の姿が常に見えているのだ。
他の章からも何句か引用する。

かいつぶり沈みし空を見にゆけり
水仙に途切れとぎれの風の尖
きつかけはパセリが好きといふところ
筋書きのくるくる変はる水遊び

「竜胆のどこが嫌ひか考へる」「きつかけはパセリが好きといふところ」このような狭間で生活に自足するわけでもなく、文学に逃避するわけでもなく、折り合いをつけながら僕らは生きていくのだろう。

2022年7月15日金曜日

平岡直子句集『Ladies and』

朝日新聞の「短歌時評」に山田航の「歌人が川柳に驚く訳」が掲載されたのは2021年4月18日だった。山田は「最近、若手歌人のあいだに現代川柳ブームが訪れている」と述べ、その理由として次のようなことを挙げている。「短歌の中の〈私〉と作者が同一視される近代的な読まれ方に窮屈さを覚えていた現代の歌人たちにとって、それをすでに軽々と乗り越えていた川柳のメタ・フィクションは魅力的なものとして映ったのだろう」
この流れのなかで、川柳の読者にとどまらず、現代川柳の実作を発表する作者が増えてきている。平岡直子句集『Ladies and』(左右社)はその良質の成果である。
私は平岡の川柳句集を「歌人が書いた川柳」というような捉え方をしておらず、本格的な川柳句集だと思っているのだが、ここでは歌人が表現手段のひとつとして川柳を選んでいる潮流のなかで取り上げておく。
私が平岡直子の川柳をはじめて読んだのは『SH』(2015年5月)に掲載された20句だった。『Ladies and』では「12人」の章に収録されている。平岡の川柳歴が7年というのはこの時から数えてのことだろう。私は「12人」の章では「金色に泣かないで知らない女の子」という句が好きなのだが、なかはられいこがすでに句集の栞で取り上げているので、ここでは他の何句かを引用しておく。

一年とはロックスターが12人   平岡直子

一年12か月を12人のロックスターに置き換えている。具体名は挙げられていないので、読者は一月から十二月までお好みのシンガーの名を当てはめてみるのも一興だろう。「~とは」という題を呈示しておいて、それに想定外のものを取り合わせるのは川柳の基本形である。

右胸のあなたが放火したあたり
食べおえてわたしに踏切が増える

一句目は恋句とも読めるし、悪意やルサンチマンの方向でも読める。二句目はすこし手がこんでいて、食べる前に踏切があるのではなくて、食べ終えてから踏切が増えていることに気づいている。踏切は常にあったのだが、それが状況によって増えていくのだ。「踏切」は意味や隠喩として読まれやすい言葉だが、「食べおえて」との関係性で安直な意味に陥っていない。「あなた」「わたし」という人称代名詞が使われているところに、うっすら短歌的な匂いがする。

殴られた地球最後のつけまつげ

殴られたのは地球なのか、つけまつげなのか。あるいは両方なのか。地球がつけまつげをしているような変なイメージも思い浮かんで、おもしろい句だ。

階段になれたら虹をこぼれたい      平岡直子
サルビヤ登る 天の階段 から こぼれ  細田洋二

どちらも不思議な句だが、細田洋二が二つの文脈を混交させて詩的なイメージを生み出しているのに対して、平岡の方は「私」または作中主体の意志や願望をあらわしている。「虹」と「サルビヤ」のイメージも異なる。

平岡直子の句集については、今後いろいろ語られることと思うが、紀伊國屋国分寺店で開催された「こんなにもこもこ現代川柳」フェアにフリーペーパーとして我妻俊樹の『眩しすぎる星を減らしてくれ』にも触れておこう。これは川柳作品100句が収録された冊子である。

沿線のところどころにある気絶  我妻俊樹
足音を市民と虎に分けている
いいんだよ十二時ばかり知らせても
おにいさん絶滅前に光るろうか

佐伯紺はネットプリント「Ink」vol.2(7月1日発行)で川柳を発表している。

花びらにまぎれて強くなり方を    佐伯紺
仕上げてもいいよ五月の霜柱
かき揚げのアイデンティティ・クライシス
試供品で暮らして家が旅になる
目には目の歯にははるかなパンまつり

橋爪志保のネットプリント「千柳」vol.1から。

天使にはFのコードと寝煙草を    橋爪志保
かわいそう鳥の翼の列島は
「嫌なこと次々と思い出しマーチ」

7月2日に青森の「おかじょうき川柳社」の主催で「川柳ステーション2022」が開催された。句会は「祭」の題で、なかはられいこ、二村典子、瀧村小奈生が選をしている。すでにおかじょうきのホームページなどで入選句が発表されているので、何句か紹介しておく。

こんにゃくを担ぐよ貧血のぼくら     中山奈々
長靴が東映まんがまつり型        西沢葉火
ニンニクの芽が出て祭.com        笹田かなえ
「つらいのはきみだけじゃない」を流鏑馬 はちご仔拾
シャーマンはタナカさん似で憑依中    四ツ谷いずみ

彦坂美喜子は「井泉」104号の「評論の世界を拓く若い歌人たち」でこんなふうに書いている。「作品は批評にさらされ、論じられなくては、意味がない。特に若い世代の作品を論じる若い批評家が必要である。最近、短歌総合誌などに若い歌人の座談会や、評論などを読む機会が増え、教えられることが多々ある」 若い世代の作品を先行世代が論じたり評価したりすることがあってもいいと思うが、若い世代の感性は若い世代でないとわからない部分もあり、現代川柳においても新たにあらわれてきている表現を同時代の感性で論じてゆくことが必要になってくることと思う。

2022年7月9日土曜日

滋野さちと兵頭全郎―「現実」と「拡張現実」―

第12回高田寄生木賞は千春の「川柳とパートナーと私」が受賞した。この賞は野沢省悟の編集発行している「触光」が募集しているもので、当初は川柳作品が対象だったが、第7回から「川柳に関する論文・エッセイ」を募集するようになった。千春のエッセイは川合大祐句集『スロー・リバー』や千春自身の『てとてと』出版の経緯を述べたものである。選考は野沢自身が行っているが、傾向としては評論よりもエッセイに重心が置かれているようだ。千春の文章は「触光」74号に掲載されているので、そちらをお読みいただきたい。私もこの賞に二度応募したことがあり、今回は第8回(2018)のときに書いたものを再録しておきたい。少し以前の文章なので若干古くなっている部分があるが、基本的な問題意識はいまも変わっていない。

滋野さちと兵頭全郎―「現実」と「拡張現実」―

時代の変化が激しい。
グローバル化、金融資本主義、ネオリベなどによって格差や紛争が世界規模で広がっている。現実の急激な変化についてゆくことはむつかしい。また、インターネットやSNSの普及によって、従来の書物を中心とした教養体系が崩壊し、サブカルチャーだと思っていたコミックやアニメはいまや若者の常識となっていて、コミックやゲームの話についてゆくことが困難になった。
それではデジタルや仮想現実の世界だけが優位なのかというと、一方で現実回帰も進んでいる。たとえば、CDではなくてLPレコードが静かなブームになっているという。ジャケットを含め「情報」ではなくて「物」としての所有感を得ることができるからだそうだ。アイドルも以前のようなテレビやレコードで遠くから眺め憧れている存在ではなくて、ライブアイドルは握手したり実際に触れあったりすることができる存在になっている。虚構ではなくて現実の時代がやってきたのである。
文学は現実から独立した虚構の世界を構築するものだと私は思っていた。川柳が文学であるならば、川柳においても作者や環境から自立したテクストとして作品を作り、読むべきである。これがテクスト論の立場である。けれども、現実は虚構を超えて予想できないスピードで進んでいる。いま世界の各地で戦争や飢餓や病気によってたくさんの人が死んでいる。日本に住んでいるとそのような現実を直接目にする機会はない。けれども、インターネットやSNSからは悲惨な現実の映像が流れ込んでくる。ネットやSNSは現実から逃避する働きをすることもあるが、拡大された現実と向き合うツールでもある。現実は目に見えるものだけではなく、その上にバーチャルな情報を重ねることによって拡大される。このような現実を「拡張現実」と呼ぶ。
このような時代に川柳は現実と虚構をどうとらえ直すべきだろうか。本稿では滋野さちと兵頭全郎という二人の対極的な川柳人の作品を取り上げて考えてみたい。この二人に何の関係があるのかと思われる向きもあるだろう。けれども、この二人の対極的な表現者の作品を通して現代川柳の最先端の課題をさぐろうというのが本稿のテーマである。

ソマリアのだあれも座れない食卓 滋野さち

「杜人」創刊七十周年記念大会(2017年11月)での作品である。兼題「席」、選者は高橋かづき。
ソマリアは日本からは遠い国で、内戦とか海賊とか断片的な情報は入ってくるものの、この国の現実に向かいあう機会はほとんどない。けれども、滋野は川柳のかたちでソマリアの現実と向き合った。焦点は食卓にしぼられている。食卓に家族や人々が集まって食事をする。それは人間として生きる基本的に必要な情景である。まず食事ができるということが生存の出発点なのだ。けれども、ここでは食卓に誰も座れない。不在なのである。戦争や飢えや社会の混乱がその背後に提示され、「だあれもいない」という不在が強調される。
ソマリアに実際に行って現実を見ることはむつかしい。だから、川柳人は想像力をはたらかせて現実をとらえようとする。日本のテレビでは放映されなくても、海外のメディアやSNSなどによって、現代ではいろいろな映像を見ようとすれば見ることができるだろう。新聞の見出し程度のことばで残酷な現実をとらえようと思えれば、安易で薄っぺらな表現になってしまう。滋野さちはそのような陥穽におちいることなく、時事的なテーマを書くことのできる数少ない川柳人である。
滋野さち句集『オオバコの花』(2015年5月、東奥文芸叢書)から彼女の作品を抜き出してみよう。

川 流れる意味を探している   滋野さち
米を研ぐ昨日も今日も模範囚
落人の家系どこまで不服従
十本の指を何回生きるのか
相討ちの顔で朝食食っている
杉はドーンと倒れ私のものになる

滋野は川に託して流れる意味、人生の意味を問うている。米を研ぐ毎日を「模範囚」ととらえる感覚は、毎日の生活に対する違和感から生じるのであり、「不服従」の感覚をどこかで抱えていることになる。
日常の中に生きながら、日常を超える生の意味を問う、それが滋野の「私性」である。現実に埋没するのではなく、現実を見据え、現実を超える視線が社会や世界に向けられるとき、滋野の批評性が発揮されることになる。

雨だれの音が揃うと共謀罪    滋野さち
親知らず抜くと国家が生えてくる
戦争は卵胎生ときどきアルビノ
ペットです軍用犬に向きません
自分史が有害図書の棚にある
ステルスが来るってよゲンパツ飛び越えて

時事句は「消える川柳」と呼ばれることが多い。詠まれた時点ではインパクトがあるが、時間の経過とともに古くなり、忘れられてゆく。射程距離のきわめて短い作品になってしまうのだ。時事を詠みながら、普遍性をもつ作品を書くのは至難の業だといえる。
滋野の時事句が普遍性をもつのは、それが作者の「私性」とわかちがたく結びついているからだろう。第三者的な視点ではなく、滋野は「私」の視点から出発する。

着地するたび夢精するオスプレイ 滋野さち

この句が発表されたとき、私は秀句として注目した。人によっては「オスプレイ」の「オス」を「メス」に引っ掛けた言葉遊びと捉えて否定的に見る向きもあるかもしれない。けれども、私はそういうふうには受け取らなかった。一見するとオスプレイという凌辱する側の視点から書かれているように見えるが、この句は凌辱される側から書かれているのだ。受身形で書くとインパクトが弱くなるので能動形で書かれているが、決してオスプレイの側に立った句ではない。冷徹に詠むことによって基地の不条理さが際立つところに政治性と文学性を両立させる滋野の到達点がある。
このような滋野さちの川柳とは対極的な作品を書いているのが兵頭全郎である。

たぶん彼女はスパイだけれどプードル    兵頭全郎

「川柳スパイラル」創刊号(2017年11月)掲載の作品で、〈『悲しみのスパイ』小林麻美MVより〉というタイトルの十句のうちの一句である。 小林麻美は「雨音はショパンの調べ」などの曲で知られ、70年代から80年代にかけて活躍したアイドルである。全郎の句は彼女のミュージック・ビデオから連想して作った句になる。この句の作中主体である「彼女」は現実の彼女ではなく、「映像としての彼女」、「アイドルとしての彼女」である。だから、彼女がスパイであると同時にプードルであることに何の不思議もないのだ。
現実から出発するのではなくて映像などから触発されて作品を書くのは全郎のひとつの特徴である。全郎句集『n≠0 PROTOTYPE』(2016年3月、私家本工房)から何句か抜き出してみよう。

どうせ煮られるなら視聴者参加型 兵頭全郎
付箋を貼ると雲は雲でない
地球のない時代の青のインク壺
へとへとの蝶へとへとの蕾踏む
おはようございます ※個人の感想です

一句目、テレビなどの映像の世界を「視聴者参加型」と言っている。受動的に映像を見るのではなく、こちらからも参加しようというのだが、それはどっちみち煮られてしまうというペシミスティックな認識があるからだ。二句目、「雲」は「雲」であるはずなのに、付箋を貼ると別のものに変容するという。ここでは実体と名前が乖離している。三句目は「地球のない時代」に飛躍している。そんな時代にインク壺があるはずがないのだが、これは言葉のなかでだけ成立する世界である。四句目はナンセンスのようだが、「いろはにほへと」の「へと」を使った句であって、作句の出発点が現実ではなく言葉である。五句目はテレビ・ショッピングなどでよく聞くフレーズだが、「おはようございます」という挨拶さえ個人の感想に解消されてしまっている。
全郎の作品においては世界を批評する根拠である「私」というようなものはすでに解体・消失しており、むしろ「私性」というフィルターを通さないことによってとらえがたい現実の一端を切りとることに成功しているように見える。
現実を現実のままとらえる従来の方法ではすでに拡張された現実をとらえきることはできない。現実と虚構との関係は常に問われなければならないし、虚構を書けばそれですむというものでもない。変転する世界を川柳はどのように書くのかを考えるときに、滋野さちと兵頭全郎を統一的にながめる視線のなかに現代川柳の可能性があるのではないだろうか。

2022年7月1日金曜日

Z世代の川柳と短歌―暮田真名と初谷むい

暮田真名の『ふりょの星』と平岡直子の『Ladies and』が左右社から発行され、現代川柳の季節がやって来たという感じがする。これまでも先人たちの努力によって川柳は継承・発信されてきたのだが、従来の川柳界の枠を越えて現代川柳が盛り上がりを見せている。その直接的な転機となったのは2017年5月に中野サンプラザで開催されたイベント「瀬戸夏子は川柳を荒らすな」かもしれない。このときの句会で私ははじめて暮田真名に出合ったのだが、参加者の中には初谷むいもいた。

東京ははんこにどと会えないのかな  初谷むい
印鑑の自壊 眠れば十二月      暮田真名

兼題は「印」。小池正博と瀬戸夏子の共選で、上掲の二句は選者二人ともに選ばれている。暮田はこの少し前に現代川柳に関心をもったようだが、このイベントに参加したときのことを次のように書いている。
「そんな折、タイミング良く瀬戸夏子と小池正博の『川柳トーク 瀬戸夏子は川柳を荒らすな』が開催された。後半は瀬戸、小池に加え兵頭全郎、柳本々々という四名のパネリストが、各々の選んだ現代川柳の十句をもとに現代川柳の可能性を探るという内容だった。ここで川柳の鑑賞が扱われていたことは、川柳への抵抗を軽減させてくれた。特に柳本々々のスリリングな語りに惹きつけられたことを記憶している。また、このときミニ句会のために初めて川柳を作った。ビギナーズラックというべきか、その句が瀬戸、小池の両氏に抜かれ、調子に乗って句作を続けている」(「川柳人口を増やすには」、「杜人」263号、2019年9月)
その後の暮田真名の活躍はネットや雑誌などでよく知られている。暮田の句集『ふりょの星』はZ世代の川柳句集と言われているが、それでは暮田真名のどこが新しかったのだろうか。Z世代とは1990年代半ばから2000年代はじめにかけて生まれた世代をさすようで、ネットを駆使した情報収集・発信を得意とすると言われている。暮田は川柳をはじめてから二年後の2019年に句集『補遺』(私家版)をだしているし、ネットプリント「当たり」の発行、「こんとん句会」の参加者をネットで募るなど、従来の川柳人とは異質な発信の仕方をしている。それだけに句会を主戦場とする川柳人にはまだ十分認知されていないが、『ふりょの星』がベテランの川柳人たちによってどう評価されるかは、今後のことになるだろう。
今回はそういう発信の仕方についてではなくて、暮田の作品が従来の川柳と比べてどこが新しいのかを問うことにしたい。作品の新しさにもいろいろあって、川柳とは無関係の世界からいきなり川柳の世界に登場して作品を書き出すような表現者の新しさもあれば、川柳の遺産を知悉したうえで新しい作品領域を切り開いていくような表現者もある。ここではいささか恣意的ではあるが、暮田の作品と先行世代の川柳作品とを比べてみることにしたい。

ぎゅっと押しつけて大阪のかたち 久保田紺
県道のかたちになった犬がくる  暮田真名

「かたち」を詠んだ二句。久保田紺の「大阪のかたち」は具体的には表現されていないが、「大阪のかたち」からたとえば大阪寿司のイメージを思い浮かべることができる。暮田の「県道のかたち」は具体的な像を結ばないし、ましてその犬がどんな姿をしているのか分からない。言葉だけで成立しているナンセンスな世界なのだ。

多目的ホールを嫌う地霊なり     石田柊馬
本棚におさまるような歌手じゃない  暮田真名

この二句は発想が似ている。柊馬の句には強烈なメッセージ性があり、どんな目的にでもこだわりなく対応できるような存在に対する嫌悪感が顕わである。暮田の作品ではそのような自己主張は薄められている。

さびしくはないか味方に囲まれて  佐藤みさ子
恐ろしくないかヒトデを縦にして  暮田真名

発想ではなく文体が似ている。佐藤の作品には箴言に似た普遍性を感じるのだが、暮田の句からは感覚の独自性を感じる。本来ヒトデは横なのかどうかも定かではないが、それを縦にすることが楽しいか、それとも恐ろしいか。そんなことを考えた人は今までいなかっただろう。

都鳥男は京に長居せず       渡辺隆夫
京都ではくびのほきょうを忘れずに 暮田真名

暮田の作品にはめずらしく批評性を感じる句である。渡辺隆夫は句集『都鳥』で京都を諷刺対象にしたあと、さっさと関東に帰っていった。この場合は首の補強の方が嫌味の度合いはきついかもしれない。
恣意的に二句を並べてみただけなので確かなことは言えないのだが、暮田が先行する川柳作品を読み込んでいることが感じられる。「OD寿司」は石田柊馬の「もなか」連作と比較されるだろうが、その止めの句(最後の句)は次のようになっている。

山の向こうにやさしいもなかが待っている 石田柊馬
もし寿司と虹の彼方へ行けたなら     暮田真名

連作の最後をオプティムズムでしめくくりたいという気持ちはよくわかる。けれども、「虹の彼方」は暮田にしては甘すぎる。もし、この止めの句が柊馬の句のパロディであり、そこまで意識して詠まれているとすれば相当なものだ。

初谷むいの方に話を移そう。「瀬戸夏子は川柳を荒らすな」のあと、初谷は「川柳スパイラル」4号のゲスト作品に川柳10句を発表しているが、ここでは「ねむらない樹」6号に掲載された作品(川柳5句・短歌5首)のなかから二組紹介しておこう。

終末論うさぎに噛まれた跡がある
うさぎ屋さんがめっきり開店しなくなる 終末のうわさを信じてる

会いたくなるからおれは人には戻らない
変だよ 手紙も電話も手話も花火も会いたくなるからだめなんて変

初谷は川柳も書けるが、やはり歌人なのだなと思う。突き放した断言よりも「私性」の表現の方が彼女の本領なのだろう。掲出の二首は歌集『わたしの嫌いな桃源郷』では「終末概論」の章に収録されている。別の章にはこんな歌がある。

知らない町でパン屋を探すなきゃないでよかったけれどパン屋はあった 初谷むい

探しているパン屋はないならないでかまわない。けれども、あるならそれはちょっと嬉しいことだ。絶対的なものはすでになく、希望が実現することも特に期待されていない。桃源郷といえば陶淵明の「桃花源記」が有名で、李白の「桃李園」などが思い浮かぶ。文人たちは文芸の理想の場を求めたが、そのような場所は言葉の世界においても構築することがむずかしい。ユートピアとはどこにもない場所という意味だそうだ。

「川柳スパイラル」次号15号(7月25日発行予定)では暮田真名と平岡直子について特集する。『ふりょの星』句集評は我妻俊樹が執筆、一句鑑賞は柳本々々・榊原紘・笹川諒・湊圭伍・三田三郎・大塚凱・瀬戸夏子・中山奈々の8人が書いている。また、「川柳スパイラル」創刊5周年の集い(8月6日、東京・北とぴあ)では暮田と平岡の対談のほか、飯島章友・川合大祐・湊圭伍の座談会が予定されている。