2024年1月5日金曜日

龍の俳句など

今年は辰年である。まず柴田宵曲の『俳諧博物誌』(岩波文庫)から龍の俳句を紹介しておこう。

芋糊や龍を封じてけふの月  由々
龍神のくさめいく度おそ桜  友水
龍宮もけふは江戸なり塩干潟 政信
海老上臈龍の都や屠蘇の酌  如蛙
五月雨や小龍の合羽浮海月  山夕
龍の駒卦引の道をむかへけり 似巻

談林の句である。陸上に祀られた龍神もあるが、多くは龍宮を詠んでいる。龍を封じるのは雨を降らせないためで、名月なのに雨が降っては困る。最後の句は将棋の龍(飛車)。談林の句はいろいろ趣向をこらしたものになっている。次は芭蕉以後の龍の句。

龍宮の鐘のうなりや花ぐもり 許六
龍宮に三日居たれば老の春  支考
空は墨に画龍のぞきぬ郭公  嵐雪
釜に立つ龍をつらつら雲の峯 野坡
京の町で龍がのぼるや時鳥  鬼貫

龍を詠んだ川柳も探してみたが、適当な句が見つからない。
歳旦三つ物を作ってみた。

みをつくし諸人集ふ今年かな
 屠蘇を含めばよき日よきこと
バーチャルとリアルのはざま麗らかに

2024年は大阪を会場とした連句大会がいくつか開催される。3月17日には日本連句協会の総会・連句大会が上本町・たかつガーデンで開催。前日の16日午後から誓願寺(西鶴墓)・高津宮・生玉神社などの俳諧史蹟をまわる予定。日本連句協会の会員が対象だが(16日の方は誰でも参加できる)、5月には同じ上本町で誰でも参加できる連句イベント(「関西連句を楽しむ会」仮称)が計画されている。関西連句の活性化をはかりたい。

元日に地震が起こり、正月気分が吹っ飛んだ。昨年、和倉温泉に行って能登島の水族館も見て来たので、そのときの風景が重なる。また、昨年は国民文化祭の連句の祭典が加賀市で開催されたことも思い浮かべる。
おろおろとして、『方丈記』をとりだしてきて読んでいる。人間にとっての危機的災厄は戦争・飢饉・疫病だが、天変地異も恐ろしい。『方丈記』には安元の大火・治承の旋風・養和の飢饉・元暦の大地震が描かれている。これらは自然災害だが、平家による福原遷都は人為的なものだ。京は荒廃するが、福原はまだ完成しない。「古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず」とは確か堀田善衛の『方丈記私記』にも引用されているフレーズだ。
昨年読んだ本のなかにトゥキュディデスの『戦史』がある。アテネとスパルタが覇権を争そったペロポネソス戦争の記録だが、民主制のアテネと寡頭政治のスパルタが戦って民主制が敗れたというような単純な話ではなかった。アテネは国内では民主制だが、他のポリスに対しては抑圧的なところがあり、アテネ帝国主義という面があるようだ。第五巻のメロス遠征のところに典型的に表れている。メロスは中立を守りたいと主張したが、アテネはそれを許さず、相手を滅ぼしてしまう。その際の両者の外交演説合戦がすごい。
この戦争には現代にも通じるところがあって、開戦後アテネで疫病が流行した話は有名だ。疫病によって明日がどうなるか分からない人々のモラルが崩壊してゆくありさまをトゥキュディデスは描いている。
ペリクレスの死後リーダーとなったクレオンは、喜劇作家・アリストパネスが痛烈に風刺した人物だ。アリストパネスは平和主義者である。『蛙』はアイスキュロスとエウリピデスのどちらが優れているかについて決着をつけようと、ディオニュソスと奴隷が黄泉の国を訪れる話だが、この二人のやり取りはまるで吉本の漫才を見ているようで笑える。
年頭に読む本は大切だから、今年は芭蕉の「野ざらし紀行(甲子吟行)」を読むことにした。「野ざらしを心に風のしむ身かな」で有名なアレである。富士川の捨子のエピソードも衝撃的だ。

猿を聞く人捨子に秋の風いかに 芭蕉 

漢詩では猿声(ニホンザルではなくてテナガザル)は詩心をそそるモチーフだが、漢詩人はこの国の捨子の泣くのをどのように聞くのだろう、というのである。芭蕉自身も食い物を与えるだけで立ち去っている。この話が事実かフィクションかという議論もあるが、風雅と現実のはざまで揺れ動く挿話なのだろう。
こんな句もある。

道のべの木槿は馬にくはれけり 芭蕉

『芭蕉紀行文集』(岩波文庫)では「馬上吟」だが、『芭蕉文集』(日本古典文学大系)では「眼前」となっている。「眼前」とは「嘱目」という意味だろうが、見たものがそのまま句になるという書き方である。私は言葉を構成して川柳を書いているので、違う書き方だと思う。

最後に堀田季何の句集『人類の午後』(邑書林)から次の句を紹介しておく。

戰争と戰争の閒の朧かな   堀田季何
息白く國籍を訊く手には銃

今年も現実と言葉のせめぎあいは続いてゆく。

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