2017年1月27日金曜日

新感覚非日常派―田島健一句集『ただならぬぽ』

先日1月22日に参加した「文学フリマ京都」の感想から述べておこう。
京都ではじめての開催だったが、詩歌部門の参加がやや少なかった印象を受けた。短歌結社では「塔短歌会」がブースを出しており、「同志社短歌」「京大短歌」「神大短歌」「阪大短歌」「立命短歌」などの学生短歌のほか、同人誌では「率」「一角」が出店していた。俳句では「庫内灯」、川柳では「川柳サイドSpiralWave」が出店。全体的に結社より個人出店が多かったようである。京都は第一回目なので様子を見て出店を見合わせている向きもあったのだろうか。
川柳からは「川柳サイドSpiralWave」が唯一の出店と思っていたが、阪本きりりが個人出店していた。当日、京都で「凜」の句会があったので、句会前の午前中に来店する方もあった。合同句集『川柳サイドSpiralWave』に「現代川柳百人一句」を付けたのは、川柳の全体像を俯瞰してほしかったからで、飯島章友が「川柳スープレックス」で取り上げてくれた。本書は葉ね文庫にも置いてもらっているし、5月の「文フリ東京」でも販売する予定である。

当日購入した雑誌のなかでは「率 幕間」の次の短歌が印象に残った。

後ろ手に兎の脚をつかんでる気配のままで立っているのね    平岡直子

後ろ手に何かつかんで立っている人がいる。それが何かは分からないのだが、兎をつかんでいる気配だけが分かる。脚をつかんでいるのだから、死んだ兎を逆さにぶらさげているのだろう。その人の姿勢や構えと同時に、その気配を察する「私」の感覚が詠まれている。隠しているものが例えばナイフなら意味性が強くなる。「背中に隠したナイフの意味を問わないことが友情だろうか」(中島みゆき「友情」)というのは、すでに陳腐な表現である。兎だからいいのだ。

文フリの話題はこれくらいにして、今月送っていただいた句集のなかから、田島健一句集『ただならぬぽ』(ふらんす堂)を取り上げたい。
田島の俳句は「豆の木」「オルガン」でときどき読んでいるが、「オルガン」の同人作品の中では田島の句に印象句のチェックを入れることが多かった。物を見る眼と詩的飛躍感が川柳人にも相通じるところがあると思ったのだ。だが、句集一冊を読んで少し印象が変わったのは、句集の背後に一種の世界観のようなものが読み取れたからかもしれない。
いま「句集の時代」が来ている。一句一句の作品ではなくて、句集一冊でひとつの世界を提示する傾向が強くなってきているのだ。
田島の句集には写生の俳句が書かれているわけではなくて、ここにはさまざまなレベルの作品が収録されている。

蛇衣を脱ぐ心臓は持ってゆく
風船のうちがわに江戸どしゃぶりの
不純異性交遊白魚おどり食い
胃に森があり花守が泣いている
蟻が蟻越え銀行が痩せてゆく

「蛇衣を脱ぐ」という季語に対して心臓は抜け殻ではなく本体にあるという機知。風船の内側というありえない空間に土砂降りの江戸がある。「不純異性交遊」と「白魚」の取り合わせの距離感。「森」から「花守」につなげる音の連鎖。「蟻」と「銀行」とのメタファーっぽい組合せ。これらのウイットに富んだ表現は川柳フィールドでも別に違和感なく受け取れる。

類型の蜘蛛が忌日の窓に垂れ
架空より来て偶然の海へ蝶

「類型」とか「架空」「偶然」などの抽象語を使うんだなと思った。「蝶」って愛用語なのかな。何句かあった。

月と鉄棒むかしからあるひかり
鶴が見たいぞ泥になるまで人間は

「ひかり」という語もよく出てくる。芭蕉の「物の見えたるひかり」を連想する。関係ないのかも知れないが。作者の世界観が出てきている。

接吻のまま導かれ蝌蚪の国
見えているものみな鏡なる鯨

接吻しているのは現実の話だが、そのまま別の世界に変容する。見えているものがすべてではなく、それは鏡にうつった鯨なのだという。こういう人が写生句を書くはずがなく、世界が二重に見えているのだろう。一種のイデア論なのかなと思った。現実の鯨を表現しながら鏡の中の鯨をつかまえようとする。つかまえきれないときはまた次の句を書く。そんな精神と言葉のダイナミズムと変容をこの句集から感じた。
句集の序に石寒太は「無意味之真実感合探求/新感覚非日常派真骨頂」と書いている。

2017年1月20日金曜日

文フリ京都をひかえて

来たる1月22日に「文学フリマ京都」が開催される。すでに東京では23回、大阪では4回開催されている文フリだが、京都では初めての開催になる。
川柳人にとって「文フリ」そのものがあまり認知されていない。したがって、川柳から出店するグループもほとんどない。私は今回、「川柳サイド Spiral Wave」の名で出店するが、文フリのカタログには「川柳カード」の名で掲載されている。申し込み時にはその名前だったが、新しく冊子を作ったので、会場のブースでは「川柳サイド Spiral Wave」で表示することになる。川柳にご関心のある方々は目にとめていただければ幸いである。文フリは小説、評論、ノンフィクション、詩歌などのジャンル別に出店される。詩歌の短歌・俳句・川柳のうち、当店は「川柳サイド」からの発信というつもりである。
冊子「川柳サイド Spiral Wave」には、飯島章友・川合大祐・小池正博・榊陽子・兵頭全郎・柳本々々の六人が参加している。それぞれ30句ずつ収録、1ページに3句、ひとり10ページというかたち。一人一句ずつ紹介しておく。

殴ると光るんです蹴ると燃えるんです   柳本々々「そういえば愛している」
税金で明るい暮らしトルメキア      川合大祐「インブリード」
さあ我の虫酸を君に与えよう       榊陽子「ユイイツムニ」
括弧つき無呼吸だから取る括弧      飯島章友「徘徊ソクラテス」
吊るされて一尾一肝ゆるす海       兵頭全郎「天使降る」
肉食であれ草食であれぷよぷよ      小池正博「人体は樹に、樹は人体に」

川合は3句セットの連作で、掲出句は「風の谷のナウシカ」による。先日、テレビで放送されていたのを私も改めて見た。兵頭も3句セットで趣向を凝らしている。会場で手にとってご覧いただきたい。95ページ、定価500円。
この六人の作品のほかに、「現代川柳百人一句」(小池正博・選出)を付けている。一昨年の「川柳フリマ」で紹介したものの改訂版で、葵徳三から渡辺蓮夫まで作者アイウエオ順の配列。現代川柳にどんな作品があるのか全体を見渡すことが困難だという声をよく聞くので、発信の第一歩として選出した。今後、「新興川柳百句」とか「自由律川柳百句」とか、さまざまなテーマで選出してゆきたいと思っている。

川柳にとって文フリはどのような意味をもつだろうか。
瀬戸夏子は角川「短歌」1月号の時評で文フリについて書いていたが、歌人にとって文フリは作品発信の場として一定の役割を果たしているようだ。それに比べて、川柳人にとってこのイベントはほとんど関心をもたれていない。句集・雑誌を売る場としては、川柳の大会や句会に本を持っていった方が効率的だと考えられている。そこに集まるのはすべて川柳人であるからだ。けれども、それでは川柳作品を発信する範囲が極めて限定的なものになってしまう。特に若い世代に対して川柳作品はまったく届いていない。既成の川柳人という限定された読者ではなく、川柳に関心があっても作品に触れる機会がこれまでなかった未知の読者に私たちの作品を読んでほしいと思っている。
今年は「文フリ京都」のほか5月の「文フリ東京」、9月の「文フリ大阪」の三か所に参加する。文フリが川柳発信の場としてどれだけ機能するか分からないが、今後出店する川柳グループが増え、蛸壺型の閉鎖的な川柳界が外部の風に触れる機会となれば幸いである。

昨年末には、私の川柳の師である墨作二郎が亡くなり、現代川柳のひとつの時代が終わった感がある。3月30日には堺市で「墨作二郎を偲ぶ会」が予定されている。作二郎についてはいつか改めて触れることにしたい。

あと、川柳誌「触光」で募集している「第7回高田寄生木賞」の締切が1月31日に迫っている。今回の募集は「川柳に関する論文・エッセイ」である。文芸において実作と評論は車の両輪であるはずなのに、川柳では評論に見るべきものが少ない。この賞は川柳では珍しい評論賞となるので、みなさん応募していただきたい。川柳の活性化につながることと思う。

2017年1月13日金曜日

ちぐはぐに時は流れて‐俳誌・川柳誌逍遥

今年は年賀状も書けないまま、松の内が終わろうとしている。年末年始、俳句・川柳の句集や雑誌を送っていただいたので、いくつか紹介しておきたい。

高橋龍句控『名都借』(発行・高橋人形舎)。名都借は「なづかり」と読むそうだ。著者の生地、千葉県流山市の字名である。

ちぐはぐに時は流れてうめの花    高橋龍
韃靼へ手妻の蝶も渡り行く
源氏名は夕顔雀蛾(来てね)
鶺鴒に超絶技巧をそはりぬ
鳶去るをAmbarvald忌といへり

三句目の「蛾」には「ひとりむし」、四句目の「超絶技巧」には「ハイテクニック」のルビがふられている。「あとがき」に曰く。
「当初、俳句も詩であると思い、その後、俳句は詩であると思ってきたが、最近は、詩であるにしても随分とひねくれた詩であると思うようになった」
「俳諧については、まだわからないが、子規以降のいわゆる現代俳句が俳諧とともに諧謔までも捨ててしまったのは惜しいことだと思うようになった。そして徐々にわたしを諧謔に近付けてくれたのは西脇順三郎先生である」
ここでいう「俳諧」とは言うまでもなく「連句」のことである。

年末に関西の若手俳人の受け皿として「奎」が創刊された。「奎」(けい)は天球二十八宿の一つで、文芸開始の吉兆とされる。代表・小池康生、編集長・仮屋賢一、副編集長・野住朋可。12月に発行された「奎」0号は創刊準備号ということになるだろうか。小池康生が「創刊の言葉」を書いている。
「関西の若手とともに、俳句雑誌『奎』を立ち上げることになりました。
 以前から関西に若手の受け皿がないとの声を聞き、それは漠然としたつぶやきなのか、わたしに向けた声なのか判断に迷いつつ、身近な若者の声とあらば、気になるところでもありました」
「俳句は運動です。互いに刺激しあいコミュニティとしてのうねりが個々の意欲や作品を高める未来を想像し、外への発信を含めての運動をはじめることにしました。小さくスタートを切り、さらなる仲間との出会いを待ちつつゼロ号を発行します」

障子貼る鳥の声のみ通すやう    小池康生
白状せよ懸崖菊を見てゐたと    仮屋賢一
おはやうの代はりに餅の数を問ふ  野住朋可

野住による葉ね文庫の探訪記が掲載されている。第一号が楽しみだ。

「里」1月号、特集は瀬戸正洋句集『へらへらと生まれ胃薬風邪薬』、北大路翼の書評のほか10人が一句鑑賞。
あと、「この人を読みたい」という企画では、天宮風牙が西川火尖を取り上げている。

向日葵に人間のこと全部話す     西川火尖
薄羽蜉蝣エウロパへ行きたさう
山茶花の蕊を言葉の名残とす

最後に川柳も取り上げておきたい。
「川柳杜人」252号から。

枕並べて寝ている人は誰だろう   佐藤みさ子

隣で寝ているのは家族か恋人に決まっているはずだが、その人がふと理解できない人間に変貌することがある。
必要があって夏目漱石の『こころ』を読み直しているが、主人公の「私」とKは親友で理解していたはずなのに、「私」には不意に彼のことが分からなくなる瞬間が訪れる。漱石はこんなふうに書いている。
「私には第一に彼が解しがたい男のようにみえました。どうしてあんなことを突然私に打ち明けたのか、またどうして打ち明けなければいられないほどに、彼の恋が募ってきたのか、そうして平生の彼はどこに吹き飛ばされてしまったのか。すべて私には解しにくい問題でした」
変貌はKの恋を契機として起こったのだが、二人は襖を隔てて隣室にいる。その襖はいつまでたっても開くことがないのである。
隣室ではなくて、同じ部屋で寝ている人が誰だか解らないというのは、いっそうコワイ状況だろう。よく知っている人のはずなのに、誰だか思い出せないとしたら、恐怖は一層つのってゆく。
「川柳杜人」は今年創刊70周年を迎える。11月4日に仙台で記念句会が開催されるようだ。

2017年1月6日金曜日

八上桐子の世界 ―「凜」68号

京都から出ている川柳誌「凜」68号の巻頭言に、発行人・桑原伸吉が「川柳平安」について書いている。

「かつて京都に存在した『川柳平安』誌の二十年は、川柳界に確かな足跡を残してきたが、そういえば良くも悪くも〈平安調〉なる言葉はそこから生まれた。足腰の定かでなかった私などは難解作品に四苦八苦、作家のもつ川柳観に振り回されていたのも思えば懐かしい」

戦前の京都には京都川柳社があって「京」という川柳誌を発行していたらしい。40年続いた京都川柳社を発展的解消して、1957年京都川柳界の大同団結をはかったのが「平安川柳社」。機関誌「平安」は20年続いたあと、1977年に突然解散する。その後、「京かがみ」(福永清造・伊藤入仙など)、「都大路」(田中秀果・西沢青二など)、「新京都」(北川絢一郎など)の三誌が誕生した。北川絢一郎の逝去にともない、「新京都」は終刊、「川柳黎明」と「凜」ができた。「黎明」は昨年解散。一方、「都大路」にいた筒井祥文は「川柳倶楽部%」を立ち上げ、現在の「ふらすこてん」へと続いてゆく。「都大路」は終刊したあと、後継誌として「草原」が発行されている。
以上、変転する京都川柳界の歴史をたどったが、そのなかで大きな存在だったのが北川絢一郎である。いま手元に北川絢一郎句集『泰山木』(1995年)があるので、何句か抜き出してみよう。

百冊の本をまたいでなお飢えに   北川絢一郎
庶民かな同心円をぬけられぬ
どの糸からもマリオネットは血を貰う
草いきれ一揆の性をもっている
川の向こうの影がときどき討ちにくる
灯を消せばきっと溺れるさかなたち

さて、「凜」68号に話を戻すと、今号には招待作品として兵頭全郎と八上桐子の川柳作品がそれぞれ16句ずつ掲載されている。ここでは八上桐子の方を取り上げることにする。
八上桐子といえば、昨年、葉ね文庫の壁に飾られた「有馬湯女」が評判になった。ハリガネ画の升田学とのコラボであるが、八上の句はこんなふうに書かれていた。

ね、雨もお湯の匂いがするでしょう
するでしょうあふれる水も息継ぎを
息継ぎを惜しんで呼べば鳥の頸
鳥の頸ちいさい橋を渡るとき
渡るとき縦に伸縮する時間 (後略)

今回の「凜」の作品は「その岬の、春の」というタイトルだが、「水」の世界を基調とし、キイ・イメージにも「有馬湯女」と共通するところが多い。

青がまた深まる画素の粗い海
ぬれてかわいてぬれてかわいて岬まで
舟底のカーブなつかしい口もと

海でありながら、デジタルの海が重ねあわされている。
画素が粗いと美しい像にならないはずだが、そのぶん見る者の想像力を刺激して色が深まるのかもしれない。
風景というものが人間の身体と重ねあわされていて、たとえば舟の曲線と誰かの口元の曲線が連想で結びついている。

てのひらにあまりにあっけなく消えて
一体を棄てるかすかな水の音
うっとりとひとりの泡を聴いている

八上は風景にうっすらと人情を重ねあわせながら、抒情的な世界を構築している。
ここには書かずに省略されているものがある。氷山の水面に出ている部分はわずかであって、水面下には見えない実体が潜んでいる。それは、あるいは喪失感であったり孤独であったり人間の実存であったりするのだろうが、八上はそれを直接表現しようとはしない。人間のドロドロした思いをつかみだして明るみに見せるやり方ではないのだ。
かつて私は人間がひとりも出てこない川柳を夢想したことがあった。あまりにも人間臭の濃い従来の川柳作品に辟易したからだ。
人間の匂いを消しながら、しかし川柳が人間を詠むとすれば、八上のような書き方はひとつの方向性かもしれない。

くるうほど凪いで一枚のガラス

「くるうほど凪いで」というのは矛盾する表現である。静かな風景の底には凶暴なものが隠されている。二律背反的なのだ。
ノイズは美しい水の世界から少しだけ姿をのぞかせている。
ノイズそのものをもっと直接的に書く川柳というものはありうるだろうし、読者によってはもっと力闘的な人間関係や現実を読みたいと思う向きもあるだろうが、そういう激化・劇化から少し距離を置いたところで作品が書かれている。「一体を棄てるかすかな水の音」というのは何を棄てたのだろう。これらの作品は微妙なバランスのうえに成り立っている。八上桐子の現在位置だろう。