2017年1月13日金曜日

ちぐはぐに時は流れて‐俳誌・川柳誌逍遥

今年は年賀状も書けないまま、松の内が終わろうとしている。年末年始、俳句・川柳の句集や雑誌を送っていただいたので、いくつか紹介しておきたい。

高橋龍句控『名都借』(発行・高橋人形舎)。名都借は「なづかり」と読むそうだ。著者の生地、千葉県流山市の字名である。

ちぐはぐに時は流れてうめの花    高橋龍
韃靼へ手妻の蝶も渡り行く
源氏名は夕顔雀蛾(来てね)
鶺鴒に超絶技巧をそはりぬ
鳶去るをAmbarvald忌といへり

三句目の「蛾」には「ひとりむし」、四句目の「超絶技巧」には「ハイテクニック」のルビがふられている。「あとがき」に曰く。
「当初、俳句も詩であると思い、その後、俳句は詩であると思ってきたが、最近は、詩であるにしても随分とひねくれた詩であると思うようになった」
「俳諧については、まだわからないが、子規以降のいわゆる現代俳句が俳諧とともに諧謔までも捨ててしまったのは惜しいことだと思うようになった。そして徐々にわたしを諧謔に近付けてくれたのは西脇順三郎先生である」
ここでいう「俳諧」とは言うまでもなく「連句」のことである。

年末に関西の若手俳人の受け皿として「奎」が創刊された。「奎」(けい)は天球二十八宿の一つで、文芸開始の吉兆とされる。代表・小池康生、編集長・仮屋賢一、副編集長・野住朋可。12月に発行された「奎」0号は創刊準備号ということになるだろうか。小池康生が「創刊の言葉」を書いている。
「関西の若手とともに、俳句雑誌『奎』を立ち上げることになりました。
 以前から関西に若手の受け皿がないとの声を聞き、それは漠然としたつぶやきなのか、わたしに向けた声なのか判断に迷いつつ、身近な若者の声とあらば、気になるところでもありました」
「俳句は運動です。互いに刺激しあいコミュニティとしてのうねりが個々の意欲や作品を高める未来を想像し、外への発信を含めての運動をはじめることにしました。小さくスタートを切り、さらなる仲間との出会いを待ちつつゼロ号を発行します」

障子貼る鳥の声のみ通すやう    小池康生
白状せよ懸崖菊を見てゐたと    仮屋賢一
おはやうの代はりに餅の数を問ふ  野住朋可

野住による葉ね文庫の探訪記が掲載されている。第一号が楽しみだ。

「里」1月号、特集は瀬戸正洋句集『へらへらと生まれ胃薬風邪薬』、北大路翼の書評のほか10人が一句鑑賞。
あと、「この人を読みたい」という企画では、天宮風牙が西川火尖を取り上げている。

向日葵に人間のこと全部話す     西川火尖
薄羽蜉蝣エウロパへ行きたさう
山茶花の蕊を言葉の名残とす

最後に川柳も取り上げておきたい。
「川柳杜人」252号から。

枕並べて寝ている人は誰だろう   佐藤みさ子

隣で寝ているのは家族か恋人に決まっているはずだが、その人がふと理解できない人間に変貌することがある。
必要があって夏目漱石の『こころ』を読み直しているが、主人公の「私」とKは親友で理解していたはずなのに、「私」には不意に彼のことが分からなくなる瞬間が訪れる。漱石はこんなふうに書いている。
「私には第一に彼が解しがたい男のようにみえました。どうしてあんなことを突然私に打ち明けたのか、またどうして打ち明けなければいられないほどに、彼の恋が募ってきたのか、そうして平生の彼はどこに吹き飛ばされてしまったのか。すべて私には解しにくい問題でした」
変貌はKの恋を契機として起こったのだが、二人は襖を隔てて隣室にいる。その襖はいつまでたっても開くことがないのである。
隣室ではなくて、同じ部屋で寝ている人が誰だか解らないというのは、いっそうコワイ状況だろう。よく知っている人のはずなのに、誰だか思い出せないとしたら、恐怖は一層つのってゆく。
「川柳杜人」は今年創刊70周年を迎える。11月4日に仙台で記念句会が開催されるようだ。

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