2014年7月26日土曜日

大阪短歌チョップと聖地・木津

7月19日(土)、大阪難波の「まちライブラリー」で開催された「大阪短歌チョップ」に行った。この日は神戸でも現代歌人集会春季大会があって、どちらに行くか迷ったのだが、神戸の方はすでに歌壇で評価の定まった歌人たちがパネラーなので、ネット歌人の多く集まる大阪の方に参加することにした。
会場は大阪木津卸売市場の近くにあった。
一日通して様々なイベントが行われているが、まず11時30分からの「むしたけのぞき」を聞く。Ustream番組「むしたけのぞき」の虫武一俊と「塔」短歌会の江戸雪とのトーク。江戸雪の話は以前一度聞いたことがあるが、そのとき彼女は複数パネラーのひとりだった。今回は短歌をはじめたきっかけや江戸雪の短歌に対する考え方を詳しく知ることができた。
「歌人は短歌からいかに離れるかが勝負(短歌を作っていない時間に)」
「言ったことは伝わらない、逆に言わないことが(読者に)伝わる」
「大事なことは自分以外のところにある」
「短歌は自己肯定の文学。しかし、そこから(自己肯定から)離れようとすることが大切」
などの言葉が印象に残った。
もうひとつ、田中ましろ(「かばん」)司会の「ネット短歌はどこへゆく?」も聴講。
まず、五、六年前のネット短歌の環境として次のようなものが挙げられていた。

夜ぷち(夜はぷちぷちケータイ短歌)
mixi GREE
ブログ
うたのわ
題詠マラソン
短歌道(たんかどう)
かんたん短歌
笹短歌ドットコム
短歌サミット

いくつか聞いたことのあるものもあるが、私にはこの全部は分からない。
次に、最近のキーワードとしては次のようなものが挙げられた。

ツイッター
オンライン・オフライン
結社のツイッター進出
Ustream
同人誌
学生短歌
文学フリマ
ネットプリント
うたの日

こういうツールの変遷にともなって、五年前と今とでは何がどう変わったのかというのが話の流れだったようだ。
ただ、個人的体験に基づいた雑駁な話が多かったので、私にはついてゆけない部分があった。「かばん」6月号に「田中ましろインタビュー」が掲載されているので、そちらの方から引用してみたい。

「投稿を続けていた、NHKラジオ『夜はぷちぷちケータイ短歌』が終了になったことがきっかけです。締め切りがないと短歌を詠まない日々だったので、番組が終わった後も、自分が短歌を定期的に詠むための場を必要と感じていました」
「短歌を始めた当時は桝野浩一さんの『かんたん短歌』の作品を多く読んでいてその影響を受けていましたが、『かんたん短歌』の作歌方法に自分の限界を感じて、少しずつ現在の詠み方に近いものにシフトしていきました」
「短歌、すごく面白いのに俳句とかに比べてどこかマイナーなんですよね、世間的に。当時は結社に対して誤解を持っていてクローズドな場で切磋琢磨してるから短歌がメジャーにならないんだと思ったりもしてました。それで、少しでも多くの人にその楽しさを知ってほしいと思って始めたのが『うたらば』です」
「ネットの魅力はやはり超結社であることだと思います。所属内だけでの短歌活動では作風や評の傾向に偏りが生まれる可能性がありますが、超結社の歌会(オンライン・オフライン問わず)に参加していると常に新しい作風や評の切り口などに出会えます。所属内での『正しいこと』が一般的には正しくない可能性もあるわけでそのあたりの補正を常に行えることがネットを利用することのメリットだと思っています」

同誌には「ネットで広げよう短歌の輪」というページがあって、「空き瓶歌会」「空き地歌会」「さまよえる歌人の会」「空き家歌会」「借り家歌会」「うたらば」「うたつかい」などが紹介されている。この日の話を聞いて、どういう人たちが運営しているのか、少し実感できた。
「昔、『短歌ヴァーサス』という雑誌がありまして…」という発言があった『短歌ヴァーサス』6号(2004年12月)を帰宅してから久しぶりに書棚から取り出してみた。「ネット短歌はだめなのか?」という特集が組まれていて、吉川宏志と荻原裕幸の対談、司会は江戸雪。五年以上たつとすべて昔話扱いされるのは、スピーディな短歌界とはいえ驚いてしまう。

会場の付近、木津卸売市場の周辺には、海鮮丼やたこ焼きなどのおいしい食べ物がいろいろある。
食事しているうちに、この近くに折口信夫の生家跡があることを思い出した。かなり以前に一度行ったことがあり、記憶を頼りに歩いていると、大国主神社を発見。木津の大国さんと呼ばれていて、境内には折口信夫の歌碑がある。そういえば、地下鉄の最寄駅は「大国町」だった。そのあと少し迷ったが、目指す公園にたどりつく。
公園の一隅に「折口信夫生誕の地」の碑があり、その傍らに歌碑が建立されている。

ほい駕籠を待ちこぞり居る人なかにおのづからわれも待ちごゝろなる

宝恵駕籠(ほえかご・ほいかご)は芸妓さんを乗せて今宮戎神社の十日戎に参詣する駕籠。新年の季語になっている。
高校生のころ、『死者の書』がとても好きだった。ぎらぎら照りつける真夏の陽光のもと木津のこの地が聖地のように思えたのは白日夢のたぐいだったろう。

2014年7月18日金曜日

『たむらちせい全句集』

『たむらちせい全句集』(沖積社)が発行された。
第一句集『海市』から第六句集『菫歌』までが収録され、さらに未完句集として2011年から2013年までの句を収めた『日日(にちにち)』が付けられている。
『菫歌』については、以前このブログで触れたことがあるが(2011年7月1日)、そのとき書いたことは、たむらちせいの全体像のほんの一部にすぎなかったのだということに改めて気付かされる。

海渡る 贋造真珠で妻を飾り
酒壜に封ずる蝮 孤島に教職得て

第一句集『海市』巻頭の二句である。
昭和35年、たむらちせいは高知県で教職についていたが、当時、石川達三の『人間の壁』に描かれているような勤務評定闘争が巻き起こった。高知でも闘争は激しかったようで、ちせいは懲罰人事で孤島・沖ノ島の中学校に転勤を命じられる。『海市』はこの島での句を収録している。
四国本島への転勤を打診されたときに、「もう少し島の俳句を作りたいから」と言って断り、さらに三年間、在島したというから凄い。

第二句集『めくら心経』では土佐の風土という主題が顕著にあらわれる。
中でも「流人墓地」は圧巻である。

流人墓地へと遮二無二岬さす 霧中
もはや霧にめしいる流人墓地遠く

「流人墓地」は人の眼をひく作品であるが、次の「落椿」の句にも心ひかれた。

落椿 鬼面童子の通せんぼ
生国をゆき 悪相の落椿

第三句集『兎鹿野抄』の、たとえば家族を詠んだ句は何と境涯詠から遠く離れていることだろう。

水餅の甕とは別の母を置く
鈴虫になるまで母を密封す
赤紐で五体を縛り風邪の妻
茎立ちてより兄たちの行方知れず
地芝居の狐忠信は姉ならむ


味元昭次の解説「たむらちせい俳句ノート」も読みごたえがある。
その中に、ちせいの親友で「青玄」の俳人である森武司のことが出てくる。森は「おとしまえはどうつけたか」という趣旨のエッセイを書き、ちせい俳句を批判した。
味元はこんなふうに書いている。
「美や個に閉じこもって現実をそ知らぬものとしたがる俳人たち。そういった危険性をちせいの俳句に見たのだろう。その危険性はまさしくあったし、今も在るといわねばならないだろう。ちせいも当然そうしたことはよく知っていたはずである。武司の批判は一方でちせいへのはげましでもありまた自分自身への問いかけでもあり、さらに今思えば、ちせい俳句の美や虚構の面白さの方向だけを見た私たち後続世代への、良くない影響を考えていたようにも思われるのである」

少し余談を加えたい。
たむらちせいの活躍した「青玄」に一人の川柳人が晩年に投句していた。
現代川柳連盟の会長をしていた今井鴨平である。
鴨平は昭和39年、急逝した。「現川連」の雑務を一手に引き受けた末の死であった。それはある意味で「川柳に殺された」ものであった。
私の手元には「川柳現代」17号があり、これは「今井鴨平追悼号」である。
鴨平は「青玄」147号から160号まで投句しているが、最後となった160号から5句紹介しておく。

黒猫が一塊となる 屋根裏の思惟     今井鴨平
女工ら離郷 屋根に石置く山峡経て
やがて手中の女 湿っぽい潮風吹き
二人きりの食卓 手がかりのない海昏れて
同じ過去持ち合う 沖に漁火燃え

鴨平がどういう気持で「青玄」に投句していたのか、今まで私にはよくわかっていないところがあった。川柳に絶望して俳句に行ったとか、そういうことではないのだ。「青玄」には信頼できる表現者がいたのである。

「蝶」208号(2014年7・8月)から、たむらちせいの近作を紹介しておこう。

七つ渕一の渕より樹雨降り     たむらちせい
近景黄薔薇紅薔薇遠景殺戮図
地梨噛んだる渋面隠し了せけり

隣のページには森武司の句が並んでいるので紹介しておく。

信長忌の水暗緑に泡立てり     森武司
朝空叩く拳銃試射音ヒトラー忌

2014年7月11日金曜日

渡辺隆夫句集『六福神』

「ぶるうまりん」という俳誌がある。須藤徹が発行人となって2004年12月に創刊されたが、須藤の死によって前回の27号は須藤の追悼号となった。今号の28号から「第二次ぶるうまりん」というべきもので、発行所は松本光雄になっている。
特集として「まるかじりインタヴュー 渡辺隆夫の世界」。
渡辺隆夫の第六句集『六福神』(角川学芸出版)は今年1月に発行されたが、今までこの時評では取り上げる機会がなかった。この特集を契機に、改めて隆夫の川柳について考えてみたい。まず、渡辺隆夫のプロフィールを紹介しておく。
1937年、愛媛県生まれ。
1988年以降、川柳グループ「わだちの会」(石川重尾)、「点鐘の会」(墨作二郎)「宇宙船」(福田弘)「短詩サロン」(吉田健治)「バックストローク」(石部明)などに参加。俳句グループ「船団京都句会」「逸の会」(花森こま)「水の会」(森田緑郎)「ぶるうまりん」(須藤徹)などにも参加。川柳の枠にとらわれず、短詩型のさまざまな表現者と交流していることがわかる。
「川柳は何でもありの五七五」「人間というものは気をつけていないと、すぐ真面目になってしまう」「川柳にはスンバラシイ伝統などなーんもない」などの言葉が強烈な印象を残している。
私は隆夫とは「点鐘の会」で顔を合わせたが、「バックストローク」同人としても交流があった。2011年に隆夫の第五句集『魚命魚辞』(邑書林)が上梓されたときに、私の句集『水牛の余波』と合同で句評会を行っている。
さて、「ぶるうまりん」のインタヴューは歌人・武藤雅治との対談になっている。
隆夫の発言の中で次の部分に注目した。

「わたしが川柳はじめた時にはね、川柳はポエジーでなければダメだというのが僕らの師匠のやり方でね。お前の川柳は下品過ぎる、川柳は俳句と太刀打ちできる位のポエジーがないといかんと言われ、これは困ったな、僕はもともとそういうポエジーのない男で、どっちかというと詩というより歌・ソングの方が合っている、そういう風に川柳を持っていけないかな、と思っておったのですけど…」

「基本的にはね、僕は川柳は何かと言われた時に、なんでもありの五七五だと言ってます。季語あり俳句もありみんな含めて川柳だという所から出発せんといかん、グングン狭まって行かないで、出発点から広いんだという線で言ってきたんだけれど、じゃあどれが川柳なんだと言われて、これが川柳だというものがないぞと思って、じゃんじゃんわしは句集を出してやるぞとやってきて、ふと振り向いたら僕の後を誰もついて来ないなあと気がついてね」

さて、『六福神』は次の句で始まっている。

キミたち曼珠沙華ミャオミャオ
ボクたち落玉華バウワウ

「落玉華」(おったまげ)は隆夫の造語である。
『魚命魚辞』のあとがきに次のように書いてある。「さて、『魚命魚辞』を読んで、代り映えしないとオナゲキの皆さまには、次回こそ、必ずオッタマゲルゾと予告して、ごあいさつに代えます」
このあとがきとの関係の有無は定かではないが、「曼珠沙華」「落玉華」と対にして、猫と犬の鳴き声をくっつけている。郷ひろみの「男の子女の子」の節で歌ってみると茶化しはいっそう強力になる。

君が代を素直に唄う浪花のポチ
ポチが唄えばタマも唄うか

「君が代」は国家権力と結びついた歌である。
タマは猫の名だが、かつてタマちゃんというアザラシがいたから、東京の猫ということになるだろう。
郷ひろみも君が代も茶化されているのだ。セックスと政治はともに隆夫にとって諷刺対象である。
女と男、猫と犬、大阪と東京などの対の発想によってヴァリエーションがどんどん展開してゆくおもしろさがある。セックスの話かと思って読んでいると政治諷刺に展開するから気をつけていなければならない。隆夫は「社会性川柳」の最後の作家である。
第二章では「老いらくの恋」が主題として取り上げられる。

老いらくの恋のエリマキトカゲかな
そうだ京都キミの紅葉も見てみたいし
芒野は不義密通の細道じゃ
高齢者のための密通相談所

「老いらくの恋」というと歌人の川田順のことなどが思い浮かぶ。
ひょっとすると隆夫は川柳における「高齢者とセックス」という表現領域を切り開いたのかもしれない。

なあ芒おれの女にならないか
ススキさんから電話、否(ノー)だってよ

私は隆夫とは川柳観が異なるが、彼の批評性や諷刺を貴重なものと思い続けてきた。隆夫はポエジー否定であるが、肝心なのは何がポエジーかということだ。
『六福神』を読みながら、私は花田清輝の「放蕩無頼のやぶれかぶれもあれば、品行方正のやぶれかぶれもある」という言葉を思い出していた。私もそろそろ次の句集の準備をしなければならないのかも知れない。
最後に『六福神』のなかでもっとも気に入った句を挙げておこう。

首括る前にオシッコしておこう   渡辺隆夫