2012年12月28日金曜日

未来へのGathering

12月22日(土)、三宮の生田神社会館で「俳句Gathering」が開催された。「俳句で遊ぼう」というコンセプトで、俳句を使った遊びやシンポジウムなど、硬軟とりまぜて何を見せてくれるのかという期待感があって、「現俳協青年部シンポジウム」のときに案内をもらってから楽しみにしていたものだ。生田神社という場所もよく、古来神社は人々が集まり猥雑なエネルギーを発散させる文芸の場でもあった。

第一部「五・七・五でPON」は天狗俳諧。三人一組で上五・中七・下五を別々に作るのでちぐはぐなおもしろさが出る。いきなり壇上に上がらされたのには驚いたが、見ると私・小池康生・野口裕のチームではないか。対戦相手は佐藤文香のチーム。佐藤側が勝利したのは言うまでもない。

第二部のシンポジウムは〈「俳句の魅力」を考える〉というテーマ。パネリストは小池康生・小倉喜郎・中山奈々。この部分については後で触れる。

第三部「選抜句相撲」。兼題「冬の星」で対戦する二句のどちらかが勝ち上がってゆく。勝ち進んでゆく句を聴衆は何度も耳にすることになるが、審査員の堺谷真人が述べたように、何度も聞いているうちにその句の新しい良さが発見されてゆく。

第四部「句会バトル」ではアイドルグループ「Pizzah♥Yah」の5人娘と「俺たちゃ俳句素人」の男性5人が「俳句甲子園」方式で対戦する。第一部が始まったときには30人程度だった聴衆もこの時点では60名を越え、この日の見せ場であったことに気づく。ツイッターなどでも参加者の感想が飛び交っていた部分だろう。ただひとつだけいただけなかったのは、アイドル側が相手の句を非難するときに「それって川柳でしょう」と発言したこと。まあ、目くじらをたてることもないか。

午後1時から6時まで盛りだくさんのイベントなので、ずっと聞いているのでは集中力が続かない。私も適当に廊下へ出て休憩したが、途中から参加する人も多く、それぞれの興味のある部分に参加すればよいことだ。イベントとして精選すべきだという意見はあるだろうが、第一回目だから小さく完成するのではなくて雑多な可能性があるところが魅力でもあるわけだ。
中身の問題とは別に見せ方をどうするかということは重要で、この日の集まりは「見せ方」を意識した構成になっていた。内向きではなくて外向的な集まりになっていたと思う。

ここで第二部のシンポジウムについて改めてレポートしておこう。
小倉喜郎は句会のおもしろさについて、「俳句自体は小さなもの。句会は俳句を出してそれぞれの価値観をぶつけあうところがおもしろい。他ジャンルの人とも議論が白熱する。たとえば一枚の絵画について議論するのは困難だが、俳句一句についてなら議論できる」と語った。小池康生は「句会は、俳句を作る、選をする、評する、が三位一体。句会に出ると評がうまくなる。次に俳句がうまくなる。最後が選」と述べた。
レジュメに3人のパネラーの句が挙がっていて、他の2人の句を読み合う。特にこの部分は話が具体的でおもしろかった。

アイスコーヒー美空ひばりがよく来たの    小池康生
白菜のいちばん外のやうな人

アロハシャツ着てテレビ捨てにゆく      小倉喜郎
筍をお父さんと呼んでみる

すべて分かつたふりして春の油揚げ      中山奈々
湯ざめせぬやうに若草物語

「俳句を作らせたい人はだれですか」という質問に対して中山奈々が「ブッダ(仏陀)」と答えたのには驚いた。中山は「意味わからへんおもしろさが俳句にはある」と言う。
実行委員のひとり久留島元のレポートが発表されているので、そちらもお読みいただければ当日の雰囲気がよくわかると思う。

曾呂利亭雑記    http://sorori-tei-zakki.blogspot.jp/

さて、今年の川柳時評は本日で終わりだが、今年一年の川柳の世界を振り返ってみると、未来につながる営為がどれほどあったか、考えると心もとない気がする。むしろ、失われたものの方が大きかったのではないかと思われるのである。

今年、川柳界は石部明を失った。
「バックストローク」の終刊後、石部は「BSおかやま句会」の機関誌「Field」誌の発行にエネルギーを注いでいた。その25号の巻頭言で石部はこんなふうに書いている。

「小池正博を編集人とし、樋口由紀子が発行人となる『川柳カード』が来月(11月)に創刊され、その記念句会も盛大だったようだ。ただ、革新誌を目指しながら、結局は中道的な誌に落ち着いてしまう過去の多くの前例に習わず、意識の高いお二人の責任において、前衛、革新ということばをおそれぬ集団であっていただきたいと思う」

この言葉は重く受け止めなければならない。
だだ、付け加えておきたいことは、「川柳カード」は川柳の表現領域の拡大を目指しているが、「前衛」「革新」を標榜するものではないということである。「前衛」「革新」を唱えることによって前へ進めたのは過去のことであり、そのことを石部ほどよく自覚していた川柳人はいないはずである。
必要なことは文芸で行われるべきことを川柳でもきちんと行うということである。句を作り、句集を出し、それを読み、句評・批評を推し進めていく。そして、川柳のおもしろさをきちんと発信してゆくこと。

「俳句Gathering」の懇親会では、高校生が俳人に交じって壇上で堂々と発言していた。驚くことはないのだろう。彼女は「高校生」ではなくて「俳人」なのである。「俳句甲子園」という俳句への通路があり、「俳句甲子園出身者のどこが嫌か」を語り合うだけの相対化の視点もあった。俳句の「内容」だけではなくて「俳句を他者に対してどう見せるか」ということに意識的なので、他ジャンルの者でも参加していて気持ちがよかった。

川柳人の中には句を作ることに専念したいと言う人が多い。狭い範囲の読者しか読んでくれない川柳同人誌でも、それを運営・継続してゆくには大変なエネルギーが必要だ。「投壜通信」と言えば聞こえがいいが、何のためにこのような無駄なことをしているのかと思わなかった川柳人がいるだろうか。
ニヒリズムとのたたかいは続くのだが、マーケットの成立しない川柳の世界で、川柳をもっと上手にプロデュースすることができれば、川柳にも元気がでてくるかもしれない。

次回の掲載は1月4日になります。では、みなさま、よいお年をお迎えください。

2012年12月21日金曜日

「川柳カード」創刊号・同人作品を読む

12月16日(日)に大阪・上本町の「たかつガーデン」で「川柳カード」創刊号の合評会が開催された。同人誌が発行されると合評会の機会が持たれるのは、他ジャンルでは当たり前のことである。川柳でも合評会がないわけではないが、「川柳カード」ではきちんとした合評会をおこないたいと思っていた。
当日の議論を踏まえて、改めて創刊号の同人作品を読んでいきたい。ただし、24人の同人作品のごく一部しか取り上げられないことをお断りしておく。

意は言えずそもそもヒトの位にあらず      きゅういち
貸しボート一艘離れゆく領土
すり足の一団旧い慰安所へ
皇国の野球を思う遠喇叭
パサパサの忍び難きが炊きあがる

連作10句の中から5句を抽出した。軍国主義日本のレトロな雰囲気の中に現代の出来事も混ぜながらひとつの世界を構築している。「昭和」と正面から向かい合った連作は川柳の世界では新鮮なのではないか。ただし、他ジャンルではすでに試みられていることであって、「皇国の野球を思う遠喇叭」などは「南国に死して御恩のみなみかぜ」(攝津幸彦)を連想させる。

鶯が鳴き出したので帰ります          松永千秋
生れてしまいましたずっと団子虫
すこし夜を分けてもらったのでハンコ

きゅういちの句と比べると、松永千秋の句は平明で何も解りにくいところはない。こういう作品を読むとほっとする。
けれども、合評会では「松永千秋の句の方が読みにくい」という湊圭史の発言があった。「読み」という点では「あたりまえ」すぎてそれ以上何も言うことができないというのである。俳句の場合は季語があるから読み方の見当がつくが、何もない川柳の場合「読み方」が分からないことになる。
ある意味で湊の指摘は新鮮であった。読みとは読み手の解釈を言語化することだから、作品そのものに何も付け加えることがない場合は、「分かる」ことはできても「読む」ことができない。私は松永千秋の作品は読みの対象になりうると思うが、「読めない」という受け取り方もありうるだろう。

くじ引きで貰う氷雨の請求書          井上一筒
ポンペイウスの白髪インドメタシン
胡麻豆腐一つ捻じれ場ば浄閑寺
尺骨は二十五弁の椿から
グレゴリオ暦では1月1日

「浄閑寺」は花又花酔の句「生れては苦界死しては浄閑寺」が有名。この句を連想してしまうだけに、「胡麻豆腐」の句は古風な感じがする。この句を真中に置くことによって他の句の言葉を引き立たせようとしたのかも知れない。
一筒の句は時空を飛翔してさまざまな言葉をつかみとってくる。シーザーと戦ったポンペイウスがインドメタシン(炎症止めの軟膏か何かだろう)を塗っている。動物の骨である「尺骨」が植物である椿から生える。「グレゴリオ暦では1月1日」の表現意図がよくわからなかったが、「もうすぐお正月ですね」という挨拶らしい。

開店と同時に膝が売れていく         榊陽子
つつがなく折られて鶴は最果てる
かあさんを指で潰してしまったわ
耳貸してください鼻お貸しいたします

動詞で終わる句が多いという文体の特徴がある。ただ、それが10句並べたときに単調さに陥る危険がある。「膝」「指」「耳」「鼻」などの身体用語も多く使われている。
「かあさんを指で潰してしまったわ」の句について樋口由紀子が「金曜日の川柳」で取り上げている。エレクトラ・コンプレックスがベースにあるようだ。

櫛につく白髪(いいえ繰糸です)       飯島章友

川柳ではこういう(  )の使用はあまり見かけない。俳句では多いのだろうか。短歌の影響だと言う人もあり、この句の場合は(いいえ繰糸です)は櫛が言っているのではないかという意見もあった。

夕焼けに箪笥の中の首に会う         くんじろう
粘膜をまさぐり合って赤トンボ
女先生も百足を食べている
液化した狐とぬくい飯を食う
主張せよ我は河童の子孫なり

インパクトの強い句が並ぶ。
今年話題になった本に『怖い俳句』(倉阪鬼一郎)があった。くんじろうの作品は「怖い川柳」をねらっている。何が怖いかは人によって異なるから、不条理な句、何げないけれどもじんわりと怖い句を混ぜてもよかったのでは。
最後の句「我は河童の子孫なり」に川柳人としての自負が感じられる。

さてはじめるか宇宙地図2000円       兵頭全郎
月からの俯瞰 引退会見乙
冥王は不在 卓袱台理路整然
オリオンの腰に回した手のやり場

「コスモス」というタイトル。秋桜ではなくて宇宙の方のコスモスである。
兵頭全郎は言葉から出発する。「月」「冥王」「オリオン」などの天体が並ぶ。その場合も「冥王は不在」のように「冥府の王」とも「冥王星」とも受け取れるような両義性を意識的に用いている。
「引退会見乙」の「乙」は「おつかれさま」という符牒でネットではよく使われるらしい。こんなのは私にはわかんない。

値がついてみかんの生の第二章        石田柊馬
オスプレーの正反対にあるみかん
人病んでみかんのへこみ眼について
五十年とぞ みかんぶつけてやらんかな
さてみかん私も歯周病である

「みかん」連作10句から5句掲出。
作者の石田柊馬によると、これは「群作」だという。きちんと構成されているのが「連作」、構成のないのが「群作」。そういう意味であれば、「みかん」という題で、あと何句でも作れるわけである。ただし、「連作」と「群作」の区別は微妙だと私は思う。
「みかん」を狂言回しとして様々な句に仕立て上げているが、技術の鮮やかさにとどまっていてそれ以上ではないところに物足りなさを感じる。

鰻ふと橋渡ろうと思うなり         樋口由紀子

「橋」は象徴的な意味をもつ言葉である。こちらから向うへ渡る通路であり、橋を渡ることが別の世界・新しい世界へと移行することにもつながる。渡る途中で危険を伴うこともある。
「人間は橋であって、目的ではない。人間が愛されるべき点は、人間が移行であり、没落であることだ」(ニーチェ『ツァラトゥストゥラ』)
鰻が橋を渡ろうと思ったという。橋を渡ってどこへ行こうとしたのだろうか。一大決心をしたというわけでもない。「ふと」思ったのである。鰻なのだから橋を渡らなくても泳いで対岸に行けるはずである。おかしな句であるが、何となく笑いを誘われる。
読者は「橋を渡ろうと思った鰻」という個性的なキャラクターに出会うのである。

次週は暮れの28日になりますが、休まずに続けますので、よろしくお願いします。

2012年12月14日金曜日

2012年・川柳作品ベストテン

今年発表された川柳作品の中から秀句10句を選んで、簡単なコメントを付けてみたい。
もとより私の読んでいる限られた範囲の中で選んでいるので、客観性もなく極私的なものであることを御断りしておく。

想い馳せると右頬にインカ文字   内田万貴(第63回玉野市民川柳大会)

時空を越えた過去のできごとに想いを馳せる。たとえば、インカ帝国の滅亡。スペイン人によって略奪され滅ぼされたインカの都。パチャカマの落日。さまざまなイメージが連想される。
けれども、この句は恋句としても読める。恋しい人に想いを馳せると、右頬に秘められた想いが文字となって浮かび上がってくるのだ。もちろん、それはインカ文字だから簡単には読めない。ひそかに解読されるのを待っている。
ここで私はふと歴史の知識を思い出す。確かインカには文字がなかったはずではないか。縄をくくってあらわす縄文字というのは聞いたことがあるが、インカは無文字社会なのだ。
そうするとインカ文字そのものが虚構に思えてくる。右頬に浮かんだのは何だろう。

ぎゅうっと空をひっぱっている蛹  加藤久子(「MANO」17号)

昆虫の蛹にはいろいろなタイプがあるが、蝶の蛹はおおむね草木に二本の糸を張って固定されている。そうでないと羽化するときにきちんと殻から抜け出して成虫になれないのだ。
そのような蝶の蛹はまるで空を引っ張っているように見える。
仙台在住の加藤久子は東日本大震災で被災した。この句にはその体験が反映されているようだ。

短律は垂れる分け合う空の景    清水かおり(「川柳カード」創刊準備号)

タの音の繰り返しが律を生みだしている。
「垂れる」「分け合う」の動詞の繰り返しに一瞬とまどうが、「短律は垂れる/分け合う空の景」という二句一章と読むとすっきりする。
「分け合う」というところに一句の主意があると読んだ。
川柳のフィールドで詩的イメージを書くことの多い清水が珍しく主情的になっていることに少し感動したりする。

キリンの首が下りてくるまでここに居る 佐藤みさ子(大友逸星・添田星人追悼句会・平成24年3月11日)

「低い」という兼題に対して「キリンの首」をもってくる。キリンの首は高いところにあって、いつまでもそのままかも知れない。けれども、「私」は低いところに居る。そこが自分の居る場所だからだ。キリンの首は下りてくるだろうか。別に下りてこなくてもいいのだ。「私」は「私」なのだから。

静脈注射静脈を避けて刺す     井上一筒(「ふらすこてん」22号)

悪意の句である。静脈注射なのに静脈を避けて注射して大丈夫なんだろうか。注射する側の視点に立つと、相手に致命的なダメージを与えるほどではないからストレス発散になるかも知れない。気づかれ咎められても、ちょっと失敗しましたと言えばいいのだろう。
注射をされる側から事態を眺めてみると、この看護師の注射は大丈夫だろうかと思うことはよくある。血管に空気でも入れられたら大変である。
この句、医療の場面を外れても通用するところがある。実際に行為に移さなくても人は頭の中でこの程度のことは考えているものである。

遠雷や全ては奇より孵化をした   きゅういち(「ふらすこてん」23号)

遠くで雷が鳴っている。「全ては奇より孵化をした」という認識がある。俳句の取り合わせの手法を取り入れつつ、断言の強さは川柳人のものである。「奇」は「奇妙」「奇人」「奇跡」「奇貨」などさまざまな語が考えられるが、ここではマイナス・イメージではなく、プラス・イメージでとらえられている。虫や鳥が卵からうまれるように、すべては「奇」から生まれるのだと。即ち、川柳も「奇」から生まれるわけだ。

マンドリンクラブで憩うモモタロー くんじろう(「川柳カード」創刊号)

(問い)桃太郎は鬼退治をしたあと、どうなったのでしょう。(答え)マンドリンクラブで憩っているところですよ。
けれども、主人公はあの桃太郎ではないかも知れない。モモタローという別のキャラクターかも知れないのだ。だから犬・猿・雉も見当たらない。このモモタローは萩原朔太郎のようにマンドリンが好きなのである。

紫の天使突抜六丁目        佐々馬骨(「ふらすこてん」句会・平成24年1月7日)

「天使突抜」は「てんしつきぬけ」と読むのだろう。
紫の天使が六丁目を突きぬけていった?
「天使突抜」という町名は京都に実在するという。地図で見ると三丁目・四丁目はあるが六丁目はない。「天使突抜六丁目」とは山田雅史監督の映画のタイトルである。存在しない異界に迷い込む話。
さて、この日の句会は「紫」という題だった。兼題と映画のタイトルを結びつけるところに馬骨の機知があった。

正方形の家見て帰る女の子     樋口由紀子(「川柳カード」創刊号)

「正方形の家」というものがあるのかどうか分らないが、その家の前まで来た女の子がただその家を見ただけで、その家の住人に会うこともなく帰ってゆく。「見て帰る」は外側から見ただけで中へ入ることもなく帰る、というふうに私には受け取れる。
女の子はその家の中には入れなかったのである。そもそも「正方形の家」などは嫌いなのである。ゆがみやいびつのない「正方形の家」なんて面白みがないのである。
読者はこの「女の子」の視点に同化する。
ポール・デルボーの絵では駅で汽車を見ている女の子の後ろ姿がよく描かれている。絵を見る者は後ろ姿の女の子に同化しているのだ。

血液は鋭く研いだ鳥の声      石部明(「川柳カード」創刊号)

石部明の最後の作品のひとつ。静脈瘤破裂をくり返し、闘病を続けた彼にとって、この句の認識は痛切なものであったろう。けれども、石部は体験をナマのままではなく、完成された作品として提出した。
血液からは鳥の声が聞こえる。それは病のためではない。川柳の血が鳥の声をあげさせるのだ。石部明の言葉の切れ味は最後まで衰えなかった。

2012年12月7日金曜日

鶴彬と大阪

鶴彬の生涯で大阪と関わりのある時期が二度ある。
一度目は鶴彬が17歳のとき、1926年(大正15年・昭和元年)の9月に職探しに大阪に出てきた時期である。もう一度は軍隊での赤化事件で大阪衛戍監獄に入ったときである。私は以前から鶴彬の大阪時代について関心があるので、何冊かの本を紹介しながら、ふりかえってみたい。

まず、17歳での大阪行きについてであるが、彼は四貫島の従兄弟を頼って、毎日職探しに明け暮れていた。喜多一二(きた・かつじ、鶴彬の本名)の名で発表された「大阪放浪詩抄」という詩がある。その冒頭の一節(引用は深井一郎著『反戦川柳家・鶴彬』日本機関紙出版センター、による)。

はじめて見た大阪の表情は
石炭坑夫の顔のやうに
くろずんでゐた
軽いちっそくをおぼえる空気の中に
あ、秋はすばやくしのびこみ
精神病者のごとき街路樹は
赤くみどりを去勢されてゐる

吉橋通夫の小説『鶴彬・暁を抱いて』(新日本出版社)は2009年3月に初版が出ているから最近の小説ではないが、先日読む機会があった。
第一章「初めての旅立ち―十七歳 大阪へ」では、喜多一二が故郷の高松町から大阪行きの汽車に乗る場面から始まる。彼の故郷は石川県の高松町で、四国の高松ではない。七尾線で津幡まで出て上り列車に乗り換え、大阪まで九時間。
大阪へ出た彼は職探しがうまくいかず、ある日、百貨店の屋上にあがってみる。「大阪放浪詩抄」では次のように書かれている。

高い高い百貨店の頂上にある
ひろい展望台の海です
ところところの白亜の大建造物は孤島の風景です
真下の街道とうごめく人人は、
蟻だ、蟻だ、
左様、
生活に思索を奪はれた都会人種は
みな極端な唯物主義者です
遠く瞳を放てば
郊外の工場地街は
もうえんたる 煙の底に
太陽を失念した
プロレタリア諸君が
便所のいじ虫の如くに
うごめいてゐるのです

小説では幼馴染の花枝という少女が登場する。手をにぎることさえしなかった幼い恋は、彼女が大阪へ去り、「新世界」で働くことになって終った。その彼女と大阪で再会する場面が小説ではこんなふうに描かれている。

「かっちゃん!」
「えっ?」
おどろいてふりむくと、はでな水色の銘仙を着た若い女が目を丸くして立っている。
「やっぱり、かっちゃんね!」
息をのんだ。
「もしかして…花枝ちゃん?」
こっくりうなずいた花枝が、一二の袷の袖を引っぱって道のはしへ誘う。
「もしかして、あたしを追いかけて大阪へ来てくれたん?」

この場面も「大阪放浪詩抄」からヒントを得ているようだ。小説のネタばらしのようで恐縮だが、原詩では次のように書かれている。

新世界を散策してゐると
とあるキネマ館の入口から
蝶蝶のやうに女が舞ひ出て来た
それはふるさとにゐるとき
熱心に僕を恋した女だった
『ここにゐるの』
『ええ あんたは』
『浪人してゐる』
女は銀貨を一つ僕の掌にのせた

そういう女性が本当にいたのであろうか。フィクションかも知れないとも思うが、小説化するとすれば、やはり外せないエピソードだろう。
喜多一二(鶴彬)がいた四貫島(しかんじま)はJR環状線「西九条」のあたりである。彼は小さな町工場で働きはじめるが、「パンを得なくして何の思索があらう。仕事につかなくて何の文学があらう」「頭脳で考えるよりも胃袋で直観した」(「田中五呂八と僕」)という認識に至るのである。
やがて彼は大阪を去って故郷へ帰る。東京へも行き井上剣花坊を訪れ、剣花坊の柳誌「川柳人」を中心に活躍が続くが、1930年(昭和5年)に金沢の第七連隊に入隊する。そこで「第七連隊赤化事件」が起こる。
入隊した喜多一二はナップ(全日本無産者芸術連盟)と連絡をとりつつ、「無産青年」(日本共産青年同盟の機関紙)を軍隊内に広めようとする。
治安維持法違反で懲役二年。彼は大阪の衛戍監獄(えいじゅかんごく)へ送られる。
吉橋の小説、第四章「抵抗への旅立ち」の獄中生活の場面では、こんなふうに描かれている。

「ここは大阪城内なので、街のざわめきは伝わってこない。だが、高い壁に穿たれたわずか五十センチ足らずの明かり窓が、鉄格子の向こうからたくさんのものを運んでくれる。
薄紅色の花びらがひらひらと舞い落ちてきたときは、夢かと思った。受け止めようとしたが足がふらつき、畳みの上に落としてしまった。そっとつまんで手のひらに乗せて香りをむさぼった。そのうち水分を失い、変色し始めたので口に入れると、まだ甘い花びらの味がした」

獄中生活は厳しく、一日中壁に向かって正座させられたり、真冬でも水風呂に五分間浸からなければならなかった。
陸軍衛戍監獄は大阪城内にあり、現在の豊国神社付近だと言われている。

2008年、鶴彬没後70年を記念して、この場所に「鶴彬顕彰碑」が建立された。場所は豊国神社の東側である。顕彰碑には次の句が刻まれている。

暁を抱いて闇にゐる蕾   鶴彬

この句は金沢市の卯辰山公園の句碑にも選ばれている。句碑について言えば、「手と足をもいだ丸太にしてかへし」の句碑が盛岡市(鶴彬の墓がある)に、「枯れ芝よ 団結をして春を待つ」が郷里の高松町にある。
1933年(昭和8年)、鶴彬は兵営を出る。木村半文銭と「大衆性論争」を激しく繰り広げたのは昭和11年のことである。昭和12年12月に「川柳人」に対する弾圧事件が起こり、鶴彬は特高に逮捕される。獄中で赤痢にかかり、昭和13年9月死去。享年29歳。

付け加えるべきかどうか迷うのだが、鶴彬と大阪との関係、実はもう一つある。鶴彬が「川柳人」に投句した作品を非国民的だとして当局に告発したと言われている川柳誌「三味線草」は大阪から発行されていたのである。ああ。

2012年11月30日金曜日

「川柳カード」創刊号

先週触れた「現俳協青年部シンポジウム」について補足しておく。
書斎のクリアーファイルを整理していると、10年前の第15回シンポジウム(2002年6月22日)の冊子資料が出てきた。「俳句形式の可能性―変貌するハイク・コミュニティーの中で―」というタイトルで、パネラーが江里昭彦、パネリストが浦川聡子・金山桜子・五島高資・堺谷真人・高橋修宏であるが、その内容をすっかり忘れてしまっていた。人間の記憶なんて当てにならないものである。
読み返してみると結構おもしろいので、パネリストの基調報告要旨を少し紹介しておく。

「俳句という文芸は、芸術性の高い作品から大衆性のあるものまで、幅広いキャパシティと可能性を持つものであると思う。今世紀はインターネットのさらなる発達により、句会のあり方や結社制度もしだいに変ってくることと思う。現在の俳句の世界は比較的閉ざされた空間であるが、これからの俳句は、もっともっと外へ向かって開かれたものであってもよいのではないかと思う」(浦川聡子)

「俳句を作っている人の多くは、いずれかの結社に属し作品もまた結社誌に発表しているというのが現状である。こうした結社制度は師弟間あるいは同志間による直接的な修練の場として重要である反面、部外者からは専門家集団として敬遠されたり、仲間内だけの閉鎖的組織となりがちである。そうした結社制度による旧来の俳句社会という意味で私は『俳壇』という言葉を捉えている。
ところが、近年における急激なインターネットの普及は、俳句創作にも大きい影響を与えている。結社に関係なく自由に自らの俳句を全世界に向けて発表することが可能になったのである。勿論、そのことによる弊害にも十分留意すべきであるが、インターネットによる情報革命が俳句に及ぼす影響は正岡子規による近代俳句革新に劣らない意義を持つものと考えられる。これからの俳句は『俳壇』の『壇』が示す段差や閉鎖性を超えた言語芸術としてその真価を問われる時期に来ている」(五島高資)

「メディア状況の変化は、俳諧・俳句の変化を先取りする。蕉門俳諧は、町人識字層の担う元禄出版文化の隆盛の上に花開いた。蕪村の活躍は、多色刷り版画普及と同期しており、子規・虚子の事業は、新聞・雑誌という情報インフラなしには考えられない。
近年、ITは情報の発信コストを低減させ、多様な俳句が価値自由的に流通することを許した。しかし、一見開かれたオンラインコミュニティも他者との摩擦を回避し、次第に蛸壺化してゆく傾向がある。批評言語が共有されず、他者と交わるプロトコルが不在なままだからである」(堺谷真人)

それぞれの問題意識は興味深いが、この10年間で状況はどのように変化したのか、さらに関心がもたれるところである。

俳句関係のイベントでは、12月22日(土)に神戸の生田神社で「第1回俳句Gathering」が開催される。「俳句で遊ぼう」という企画で、第1部「五・七・五でPON」では「天狗俳諧」に挑戦、第2部「俳句の魅力を考える」では少し真面目にシンポジウム、第3部「選抜句相撲」では作った俳句を一句ずつ取り上げて対戦。第4部「句会バトル」では芸能プロダクションに渡りをつけてアイドル・グループ「Pizza♡Yah」を呼び、俳句素人の男たち48人と対戦させる。よく分らんところもあるが、とにかくおもしろそうだ。

「川柳カード」創刊号が発行された。発行人・樋口由紀子、編集人・小池正博。3月・7月・11月の年3回発行予定。
巻頭言「読むところからはじまる」で樋口由紀子は、「ユリイカ」(2011年10月号)の川上弘美・千野帽子・堀本裕樹の鼎談を引用したあと、読みの魅力と困難さを語っている。
川柳界では石田柊馬が「川柳は読みの時代に入った」と宣言したものの、作品の読みはそれほど深められていない。私はその理由が川柳の句会形式そのものにあるのではないかと思っている。川柳の句会では一人の選者がひとつの兼題について出された句の選をする。選者が選ばなかった句はボツとなり、日の目を見ることはない。互選形式は少なく、なぜその句を選んだのかという理由を問われる機会もほとんどない。極言すれば、選は句を読まなくてもできるのだ。「選」と「読み」は次元の違う行為である。
句評の機会が少ないために「読み」が鍛えられることはなく、「批評」も生れないことになる。多くの川柳人は本音では「読み」はできなくても「選」が出来ればいいのだと思っているところがある。「読み」や「批評」は特定の人に任せて、自分たちは実作に励みたいという気持ちは分らないでもない。
ここで、樋口の巻頭言に戻ってみよう。樋口は「ウラハイ」に「金曜日の川柳」を連載しているが、その体験について次のように語っている。

「何度かに一度『読めた』と実感できたときは本当に嬉しい。世界がぱあっと拡がっていく。読みとは言葉の関連性を見抜くことであり、言葉の背後を知ることである。読めたら、それらが見えてくる。楽しさやおもしろさに確実に繋がっていく。そして、何よりも読むことによって川柳とは何かを知ることになる」

読みによって川柳に関わっている自己の深度が深まってゆく、そのおもしろさについて樋口は語っている。読みの深まりはその人の実作にも反映してゆくはずである。才能ある多くの川柳人が自己模倣をくり返し、成長をやめてしまうのは川柳テクストの読みから養分を汲み取るのを怠ったところにも原因があるのではないか。義務として読むのではつまらない。

樋口自身のエッセイ「御中虫という俳人」は「読み」の実践とも受け取れる。
御中虫の登場はインパクトがあったから、俳人たちは川柳に近いものを感じとったのか、樋口は感想を聞かれる機会が多かったという。
「私は川柳ではすでにある世界であり、そんなにめずらしいものではないと答えた」
あるフィールドで新鮮な表現であっても、別のフィールドでは陳腐な表現であることは短詩型文学の世界でよく見られることである。けれども、問題はその先にある。
「しかし、ここで御中虫の評価をやめてしまってはいけなかったのだ」
樋口自身の読みの深化については本誌をご覧いただきたい。

「特集・現代川柳の縦軸と横軸」として、評論が二本掲載されている。
文芸の「いま・ここ」〈naw・here〉は縦軸と横軸によって決定される。通時性と共時性であるが、川柳の場合はどうなっているのだろうか。
堺利彦の「川柳論争史(1)主観・客観表現論争」は明治40年代の川柳誌「矢車」を中心に、川柳に「主観句」が導入された経緯を詳論している。川柳にもかつては熱い論争があった時期があると私は思っているが、それを「論争史」と呼ぶのは語弊があるものの、堺利彦に無理を言って書いてもらったのであった。
明治44年の菅とよ子の川柳作品については、私もはじめて知った。女性川柳の先駆と言えるのではないか。

倦みはてて乳のおもみをおぼゆる日    菅とよ子
やがて君にすてらるる日をおもひ居ぬ
ひとり寝て蚊帳のにほひをなつかしむ

湊圭史の「言葉の手触り」は共時的に、短歌・俳句などとの比較の中で同時代の川柳の特質を論じてもらった。

「川柳カード」創刊記念大会の部分について、池田澄子と樋口由紀子の対談はライブ感覚の面白さを堪能できるのではないだろうか。
同人作品については引用する余裕はなくなったが、作品本位のシンプルな編集になっている。会員作品欄を「果樹園」と名づけているのは、かつての「川柳ジャーナル」で中村冨二が担当していた「果樹園」を思いおこさせ、「川柳カード」が現代川柳の伝統をそれとなく意識していることを示するものである。創刊と同時にホームページも立ち上げられている。

川柳カード http://senryucard.net/

2012年11月23日金曜日

第23回現俳協青年部シンポジウム

「伝統」と「前衛」の対立軸が無効になって久しい。
俳句では「伝統と前衛」と言われるが、同じ構図を川柳では「伝統と革新」と呼んでいた。いずれにせよ、このような図式が崩れたあと、現在の短詩型文学の状況はどうなっているだろうか。筑紫磐井著『伝統の探究〈題詠文学論〉』(ウエップ)は俳句フィールドにおける「伝統」の問題を追及していて、とても興味深い。筑紫はこんなふうに書いている。

「しかし、『伝統と前衛』が対となったものである以上、前衛が姿を消したとしたら伝統がどのようになったのかは確認しておく必要があるであろう。前衛が衰退したのならば、伝統が俳句を支えているのでなければ、理屈に合わないからである」
「しかし、今眺めてみると、前衛と伝統の対立の時代に、疑問もなく『伝統』と呼んできたものが一体何であるのか、頗る分かりにくくなっていることに気付かされた」

このような問題意識から筑紫は子規のつくった近代の句会に遡り、「題詠」に行き着くのである。
昭和45年ごろに書かれた「伝統」再評価の評論に草間時彦「伝統の黄昏」や能村登四郎「伝統の流れの端に立って」がある。前者について筑紫は、草間の敵は前衛俳句ではなかったと述べて、次のように指摘している。

「では、草間の真の敵は何かというと『わたしが憎むのは、伝統の危機をまったく感じていない楽天的な俳人達や結社である。…愚かな人々に怒りの眼を向けても仕方がない』。要するに有季定型に安住してしまって、特段の問題意識を持っていない人間こそ自分に一番遠いところにいるというのだ」

『 』の部分は草間の文章の引用なので、念のため。また、能村登四郎の次の文も引用されている。

「真の伝統作家というものは明日への創造をなし得る人であって、明日への方策のない者は真の伝統作家とは呼べない」

このような言葉に私は当時の俳人たちの本物の俳句精神を感じるが、さらに興味深いのは筑紫が江戸の句会と明治の句会の差異を論じているところである。近代に入って句会のどこが変わったのだろうか。

「江戸時代にあった発句の会は、『月次句合』であった。一言で言ってしまえば、不特定多数の詠草を集めて行う宗匠選の発表会である。催主は著名な宗匠に選者を依頼する。選は無記名で行うが、選をできるのは宗匠だけであり、一般大衆は選を行えないということである」

これに対して、子規が始めたのが互選句会である。全員が選をし、全員が批評しあうという句会形式は近代になって生れたものである。
このような視点で見ると、川柳の句会は前近代をひきずっていると言える。互選句会・句評会は句の読みへの第一歩であり、川柳において批評が成立しないのはふだんの句会で読みが鍛えられていないことに一因があるのだろう。筑紫の本は川柳人にとっても刺激的である。

11月17日(土)、京都の知恩院・和順会館で「第23回現代俳句協会青年部シンポジウム」が開催された。
このシンポジウムは東京で開催されることが多く、京都で開催されるのは10年ぶりである。前回は2002年6月に京都駅前のぱるるプラザ京都で開催された。そのときの司会は江里昭彦、パネラーは堺谷真人・浦川聡子など。懇親会で鈴木六林男・村木佐紀夫の姿を見かけたことを覚えている。
今回のテーマは「洛外沸騰―今、伝えたい俳句、残したい俳句」である。
以前にも紹介したことがあるが、宣伝チラシには「俳人は俳句にとっての他者に対して俳句の何を、どう伝えたいのか。俳句というジャンルを担ってゆく若者や後世に対して何を、どう残したいのか。俳句でしか伝えられないこと、残せないことはあるのか」とある。
総合司会の杉浦圭祐は「伝えたい俳句は水平軸として同時代に伝えたい俳句」「残したい俳句は垂直軸として後世に残したい俳句」と説明した。

基調報告の青木亮人は「選ぶ」行為の裏側には「選ばない」行為があり、「選ぶ/選ばない」によって価値観が発生することを具体的に説明した。
まず取り上げられたのは、「ホトトギス」第4巻7号で、巻頭には「蕪村句集講義」が掲載されている。ここには芭蕉に対して蕪村を称揚するという「アンチ芭蕉」の価値観が見て取れる。次の例は大正年間の「ホトトギス」で、虚子が雑詠欄で蛇笏を取り上げているのは、「アンチ碧梧桐」という価値観から。三つ目の例は「俳句研究」1977年3月号で「特集・新俳壇の展望Ⅲ」と「特集 後藤夜半研究」が並んでいる。意外な組み合わせだが、編集者・高柳重信の価値観があるのだろう。以上、グループであれ、結社の主宰であれ、俳誌の編集者であれ、それぞれの価値観によって残すべき俳句を発信していることになる。以上が青木の基調報告の概略である。

パネルディスカッションは司会・三木基史、パネラーが青木亮人・岡田由季・松本てふこ・彌栄浩樹。
「俳句と関わりはじめたきっかけ」「なぜ俳句とかかわり続けているのか」について、彌栄は電車にのっているときふと自分にも俳句を作りうることに気づき、今では「人生で大切なことは俳句から学んだ」という。彌栄が評論「一%の俳句」で群像新人賞を受賞したことは記憶に新しい。松本は大学で最初参加していたサークルと同じ部室を使用していたのが俳句研究会で、俳句を作ること・読むこと・俳句に関して文章を書くことが楽しく、「楽しくなくなったら俳句をやめる」と言いきる。岡田は何か新しいことを始めたいと思ったとき母の勧めで俳句を始め、特に「句会」が好きだから続けているという。青木は俳句研究者で、愛媛大学教育学部の准教授。高校生のときに『猿蓑』を読んだのがきっかけで、俳句に関心をもち、現在は子規を中心に研究している。他の三人の実作者に対して、彼の研究者の視点からの発言は議論の内容を相対化し、より広い文脈でとらえる役割を果たしていた。

パネルディスカッションの前半は結社と主宰の話であった。
俳人はなぜこんなに結社や主宰の話が好きなのだろう。
「新撰21」の竟宴の際に、アンソロジーに出す百句を主宰に事前に見てもらったかどうかがとても重大なこととして話題になったときにも私は違和感を持った。
「俳句」は個々の「俳人」によって人から人へ伝わるという面がある。主宰に向かって投句を続ける(主宰の選を受ける)なかで俳句精神を会得するということもよくわかる。存在感のある主宰のエピソードにはそれなりの面白さがあるのも事実である。しかし、正直言って、私はこの種の話が苦手である。俳壇ギルドの徒弟修業の話ならば、何もシンポジウムを開く必要はないのだ。

俳句を俳壇の枠を越えて作品・テクストとして発信するには、具体的な句そのものを語るほかない。シンポジウムの後半は「伝えたい俳句・残したい俳句」についてレジュメに従って進行した。このレジュメの中には「次の人々に向けてあなたなら具体的にどんな句を伝えますか」という質問にパネラーが答えている部分がある。「日本のことを知らない外国人に」「俳句を知らない小学6年生の子どもに」「恋をしている人に」「ここ一番の勝負を迎えている人に」などの相手が想定されている。
たとえば、「芭蕉に」「子規に」では次のような句が挙げられている。

Q 芭蕉に
青木(選) 桐一葉日当りながら落ちにけり    高浜虚子
岡田(選) 向日葵のその正面に誰も居ず     津川絵理子
松本(選) 柿の蔕みたいな字やろ俺(わい)の字や 永田耕衣

Q 子規に
青木   香を聞くすがたかさなり春氷     宇佐美魚目
岡田   かき氷この世の用のすぐ終る     西原天気
松本   船焼き捨てし
      船長は
      泳ぐかな              高柳重信

パネラーがなぜその句を選んだか、しかも相手(読者)を想定したときにどの句を選ぶか、という点にそれぞれの俳句観が顕在化してくる。この部分は興味深かったので、もうひとつ紹介しておこう。

Q 俳句に興味が無い若者世代に 例えば大島優子(AKB)に
青木  じゃんけんに負けて蛍に生まれたの   池田澄子
岡田  頭の中で白い夏野となっている     高屋窓秋
松本  ふはふはのふくろふの子のふかれをり  小澤實
彌栄  ひるがほに電流かよひゐはせぬか    三橋鷹女

懇親会が終わったころには激しかった雨もやや小降りになっていた。知恩院の三門がライトアップされて闇に浮かび上がっている。
俳句も川柳もそれぞれに前近代の残滓を引きずっている。
この日のシンポジウムに「他者」は存在したのだろうか。雨の知恩院で繰り返し問わずにはいられなかった。

2012年11月16日金曜日

バーチャル・シンガー「初音ミク」登場

11月13日(火)
江田浩司歌集『まくらことばうた』(北冬社)を読む。いろは順に配列され、666首が収録されている。666とは何やら黙示録的ではないか。枕詞といえば塚本邦雄の「春の夜の夢ばかりなる枕頭にあっあかねさす召集令状」を思い出すが、江田の枕詞はすべて初句に置かれている。
「い」ではじまる歌から5首紹介する。

いはばしる淡海の人は燃えたたす微笑の果てに咲く凍み明かり   江田浩司
いはそそく垂水の岩の月光に酔ひ酔ひて寒きパトス燃え立つ
いなみのの否といひつつ父の夜に光の肉やのどぼとけ燃ゆ
いもがいへに雪降れ降らば性愛のランプ渦まく二人なるらむ
いすくはしくぢらの眼あをくして夢かがやかす夢の栖ぞ

あまり聞きなれない枕詞の方が逆に印象が強いような気がする。

11月14日(水)
桂米團治独演会を聞きに心斎橋へ出かける。「心ブラ」という言葉は今でもあるのだろうか。久しぶりに心斎橋を散策する。大丸心斎橋劇場へは初めて行くが、寄席ではないので演芸場の浮き浮きした雰囲気とは少し勝手がちがう。
米團治は「稽古屋」「一文笛」「口入屋」の三席を語った。米朝が若いときに作ったという「一文笛」が特によかった。
米朝が桂米團治と正岡容に師事したことはよく知られている。小米朝が米團治を襲名したのも当然だろう。
私が以前から興味を持っているのは正岡容(まさおか・いるる)の方である。
正岡容は川柳とも関係があって、「川柳祭」という市販雑誌を創刊している。昭和21年11月から昭和24年まで27冊が刊行されたらしい。執筆陣が豪華で、徳川夢声・古川緑波・村松梢風・獅子文六などが参加した。私はこの雑誌の実物をまだ見たことがないが、ネットの古書などでも販売しているようなので、いつか手に入れたい。

「旧東京の市井に生育した私にとって、生涯このふるさとの伝統文明に萌芽した以外の文学を作製することは、困難であろう。私が宝暦の昔、南浅草の町役人柄井八右衛門に拠って創始された川柳と云う市井詩に、絶ちがたき親愛の情をおぼえるのも亦、全く同様の理由に他ならない」(正岡容『川柳の味い方と作り方』昭和23年)

打ち出しの太鼓聞えぬ真打はまだ二三度やりたけれども   正岡容
おもひ皆かなふ春の灯点りけり

後者の句碑が東京・下谷の玉泉寺にある。「バックストロークin東京」の翌日、私はこの句碑を見るために玉泉寺に足を運んだことを思い出す。

11月15日(木)
「きぬうら」という川柳誌がある。知多半島の半田市で発行されていて、発行人は浅利猪一郎。「ごんぎつねの郷」全国誌上川柳大会を毎年開催しており、今年は第5回。「きぬうら」347号はその発表誌である。「虫」という題で、印象に残った句を5句だけご紹介。

方丈記ですね うすばかげろうですね     吉岡とみえ
合い言葉はトーキョー 蟻とキリギリス    高瀬霜石
六列にならぶ蟻ならば 怖い         いわさき楊子
グレゴール・ザムザの朝がごろりと落ちている 阪本きりり
つまらないおとなになっていった虫      大嶋都嗣子

私は新美南吉(にいみ・なんきち)の「ごんぎつね」が大好きなのだが、来年は南吉生誕百年記念になるという。

11月16日(金)
短歌誌「井泉」48号(11月1日発行)の巻頭・招待作品に兵頭全郎の川柳作品15句が掲載されている。全郎は「ふらすこてん」「Leaf」のほか「川柳カード」にも同人参加、若手川柳人として多忙な日々を送っている。「ヴォイス/ノイズ」というタイトルで、最初の5句を紹介すると…

初音ミクに耳があるとか自由とか    兵頭全郎
鈴虫が電話に出ないままふける
知っている限りの唄を異を熱を
立ち上がると爆音の闇 しらす干し
効果音だけが歩いていく芝生

最初に「音」というテーマ設定があり、そこから作品を書いていくやり方だから、読者にとっては読みのとっかかりがないかも知れない。共感・感情移入がしにくいのだ。こういう書き方は少数の読者にしか理解されないことは、私も経験上よく知っている。言葉をひとり歩きさせる書き方で、どれだけ作品に説得力を持たせることができるだろうか。
「初音ミク」はバーチャル・シンガーである。現実の歌手ではなくて、コンピュータが作り出したキャラクターなのだ。これを最初の句に据えたということは、全句が意味や思いではなくて、実体のない言葉の世界で構築されていることを示している。実体がなく言葉だけで一句を成立させるためには、言葉の切れ味や力をさらにレベル・アップさせなければならない。
愛読している喜多昭夫の「ガールズ・ポエトリーの現在」、今号は「guca」と取り上げている。「guca」は太田ユリ、佐藤文香、石原ユキオの三名による期間限定短詩系女子ユニット(ちなみにユキオも女子)。4号を発行して、2年間の活動に終止符が打たれた。
喜多の文章は太田、佐藤に比べて石原についての紹介がやや少ないので、石原の句集『俳句ホステス』(電子書籍)から少し引用しておく。

初夢のガメラが母を噛み潰す    石原ユキオ
靴下に幼女を詰めている聖夜
ぶさいくに百年午睡してやろう

「井泉」は来年3月で50号を迎える。50号企画が楽しみである。

2012年11月9日金曜日

モツレクはモーツァルトのレクイエム

音楽、特にクラッシックは私の苦手分野だが、ふとモーツァルトが聴きたくなって、朝晩CDをかけている。また連想は自然に小林秀雄の「モオツァルト」に向かい、何十年ぶりかで読み直してみた。第二章に楽譜がでてくるが、これには当時の批評家が「楽譜なんか入れやがって」と羨望と嫉妬にかられたと言われる。そこにはこんなふうに書かれている。

「もう二十年も昔の事を、どういう風に思い出したらよいかわからないのであるが、僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。僕がその時、何を考えていたか忘れた。いずれ人生だとか文学だとか絶望だとか孤独だとか、そういう自分でもよく意味のわからぬやくざな言葉で頭を一杯にして、犬の様にうろついていたのだろう」

小林の頭の中に鳴り響いたのは、交響曲第40番の第4楽章らしい。いかにも小林らしい文章である。そして、かつてはこのような文章こそ「文学」だったのである。モーツアルトという天才が時代を作った。小林秀雄は批評を文学にし、時代をリードした。小林の文章はとても懐かしく感動をすら覚えるけれども、いまでは「文学」というものに実体はないし、誰もそんなものを信じてはいない。

川柳において英雄待望論が語られることがある。
時代をリードするようなスター性・カリスマ性をもった川柳人が久しく現れないのだ。私は川柳の現状を「過渡の時代」と呼び、そこにむしろ可能性を見出そうとした。だが、過渡の時代に耐え続けることも、それはそれでエネルギーが必要である。
時代を一変させるような個性的な表現者が現れて、川柳の表現領域を切り開き、晴れ晴れとするようなカタルシスを与えてくれないだろうか。そういう漠然とした期待が広がっているのを感じる。けれども、そのような表現者が一体どこにいるというのであろう。思いもよらない場から登場するという期待もロマン主義にすぎず、今いない者がどこかから現れるはずがない。
短詩型文学の世界では、すでにひとりの優れた表現者がひとつの時代を代表するというようなことは起こらないのかも知れない。特定の個人や結社が全体をリードするという状況ではないようだ。
次の世代を育てるということについても、最近よく耳にする。
かつての20代の川柳人がそのまま高齢化し、あとに続く世代が固まりとして育たなかった。
結局、川柳人は伝えるとか残すということに無関心だったと言うほかはない。俳句と比べて、残すことに対する歴然とした意欲の差があるのだ。

11月17日に京都で「第23回現俳協青年部シンポジウム」が開催される。「洛外沸騰」というタイトルで「今、伝えたい俳句、残したい俳句」というサブタイトルが付いている。宣伝のチラシには次のように書かれている。

「今日、情報技術の急速な発達を背景に俳句と俳句以外のものとの出会いが頻繁かつ容易になった。それにつれ、ジャンルを越境した相互的創発の潜在的可能性はかつてなく高まっている。そのとき俳人は俳句にとっての他者に対して俳句の何を、どう伝えたいのか。俳句というジャンルを担ってゆく若者や後世に対して何を、どう残したいのか。俳句でしか伝えられないこと、残せないことはあるのか。千年の王城の地・京都の秋深まる頃、気鋭の若手俳人及び研究者が洛外に会して熱く語りはじめる」

「情報技術の発達」「俳句と俳句以外のものとの出会い」「ジャンル越境」「他者」「俳句でしか伝えられないこと」などのキーワードが並び、俳句が他者と後世に対して何を伝えていくかというメッセージが強く発信されている。
また、「現俳協青年部」のホームページには青木亮人の基調報告要旨が掲載されている。

「多くの俳人は折に触れてある句を傑作と喧伝し、ある作品を後世に残すべき句と称賛してきた。それは明治時代の正岡子規から平成年間の『新撰21』等に至るまで変わることなく続いている。何を傑作と見なすか、どの作品を後世に残したいと願うかは評者の審美観や俳句史観等によって異なるであろう。そこには作品自体の評価のみならず、人脈・俳壇等への配慮が滑りこむこともあろうし、またその時々の自身の関心によって左右されることも少なくない。いずれにしても、どの句を選び、どの句を選ばないかは評者の俳句観が問われる営為であり、従ってここで求められるのは各パネリストに共通する価値観ではなく、互いの主張が幾重にも絡まり、もつれ、途切れては結ばれるその一瞬を追うことで自らの俳句観が拡大していくこと、その体験を味わうことであろう。
これらの討論の基調講演として、過去にどのような俳人が何を伝え、何を残そうとしたか、その例をいくつか報告しておきたい」

読んでいて私は胸をつかれる。
「どの作品を後世に残したいと願うか」という発想は川柳には無縁である。少なくとも、そんなことを言う川柳人を私は知らない。
パネリストは青木のほかに岡田由季・松本てふこ・彌榮浩樹。司会が三木基史。どんな話になるのだろうか。

11月2日(金)に「第64回大阪川柳大会」が開催された。
「川柳塔」「川柳文学コロキュウム」「番傘川柳本社」「川柳天守閣」「川柳瓦版の会」という大阪を代表する柳社の選者を揃えている大会である。けれども、そこに参加したいと思うかどうかは別にして、平日に開催されることによって仕事をもっている現役世代の人間は最初からシャットアウトされることになる。以前は休日に開催されていて、十数年以前に私も一度参加したことがある。休日だと会場が予約しにくいのだろう。それに、無理をして休日に開催したところで、結局は平日開催と同じような参加者になるという予想があるのかも知れない。そこには次代に伝えてゆくという発想は最初からないのである。

毎日聴いているCDの一枚がモーツァルトの「レクイエム」。ラテン語の歌詞なのでよくわからず、インターネットで歌詞を探したが、対照してみてもいっそう分らない。
小林秀雄の「モオツァルト」の末尾は「レクイエム」のエピソードで締めくくられている。少し長いが省略せずに引用しておきたい。

「1791年の7月の或る日、恐ろしく厳粛な顔をした、鼠色の服を着けた背の高い痩せた男が、モオツァルトの許に、署名のない鄭重な依頼状を持って現れ、鎮魂曲の作曲を注文した。モオツァルトは承諾し、完成の期日は約束し兼ねる旨断って、五十ダカットを要求した。数日後、同じ男は、金を持参し、作曲完成の際は更に五十ダカットを支払う事を約し、但し、註文者が誰であるか知ろうとしても無駄であると言い残し、立ち去った。モオツァルトは、この男が冥土の使者である事を堅く信じて、早速作曲にとりかかった。冥土の使者は、モオツァルトの死後、ある貴族の家令に過ぎなかった事が判明したが、実を言えば、何が判明したわけでもない。死は、多年、彼の最上の友であった。彼は、毎晩、床につく度に死んでいた筈である。彼の作品は、その都度、彼の鎮魂曲であり、彼は、その都度、決意を新たにしてきた。最上の友が、今更、使者となって現れる筈はあるまい。では、使者は何処からやって来たか。これが、モオツァルトを見舞った最後の最大の偶然であった。
彼は、作曲の完成まで生きていられなかった。作曲は弟子のジュッスマイヤアが完成した。だが、確実に彼の手になる最初の部分を聞いた人には、音楽が音楽に袂別する異様な辛い音を聞き分けるであろう。そして、それが壊滅して行くモオツァルトの肉体を模倣している様をまざまざと見るであろう」

小林は一時期、骨董の世界に憑かれていた。形がすべてという世界である。それは「無常という事」の中の次のような発言につながってゆく。

「生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出かすのやら、自分の事にせよ他人事にせよ、解った例しがあったのか。鑑賞にも観察にも堪えない。其処に行くと死んでしまった人間というものは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」

小林の言うとおりかもしれない。けれども、私たちは不定形な動物的生を生きながら、じたばたと迷い続けるほかはないのである。望むらくはモーツァルトの音楽のように軽快に悩みたいものである。悲しみのアレグロはやがて転調するはずだから。

2012年11月2日金曜日

追悼 川柳人・石部明

こういう文章を書くことになるとは思いがけないことである。
10月27日(土)、石部明が亡くなった。享年73歳。
昨年11月に倒れて、入院・闘病生活を続けていたが、退院して自宅療養していると聞いていたので、訃報の衝撃は大きかった。
28日に岡山県和気町までお通夜に行く。

29日の葬儀に私は仕事の都合で出席できなかったが、参列した方々のブログによってそのときの様子がうかがえる。
弔問は「一般」「川柳関係」「建設関係」に分かれ、会場に入りきれないほどの参列者があった。樋口由紀子が弔辞を読んだ。
樋口の弔辞は参列者の涙を誘ったようだ。樋口自身も震えていた。
出棺のとき、くんじろうは「アキラッ」と叫び泣き、その声は確かに棺の中まで届くように感じられたという。

石部明の本名は石部明(いしべ・あくる)であるが、川柳界では明(あきら)で通していた。
『セレクション柳人・石部明集』から略歴を紹介しておく。
1939年1月3日、岡山県和気郡に生まれる。
1974年から川柳を始め、「ますかっと」「川柳展望」「川柳塾」「ふあうすと」「川柳大学」などの同人・会員として活躍した。1998年、「MANO」創刊、2003年「バックストローク」創刊。実作者としてはもちろん、川柳界のリーダーとしても大きな存在であった。句集に『賑やかな箱』『遊魔系』『石部明集』がある。
また「第3回BSおかやま川柳大会」の対談「石部明を三枚おろし」では、時系列に従って石部の川柳人生が語られているので、詳しいことはそちらの方をご覧いただきたい(「バックストローク」31号収録)。

『川柳総合大事典・第1巻・人物編』(雄山閣)の石部明の項は私が書かせていただいたのだが、そこでは次のように述べている。
「その作品において、日常の裏側にある異界はエロスと死を契機として顕在化され、心理の現実が華やぎのある陰翳感でとらえられる。川柳の伝統の批判的継承者として現代川柳の一翼を担う」
このような評価の仕方でよかったのかと思うこともあり、石部本人からは何のコメントもなかったが、人づてに聞いたところでは、「川柳の伝統の批判的継承者」というフレーズが気に入ってもらったようだ。

石部は座談の名手で彼のまわりには常に談笑の輪ができたが、過剰なサービス精神は彼自身を疲れさせることもあっただろう。彼はけっこう複雑な人物であり、心の中ではさまざまな思いが渦巻いていたことだろう。
私が最後に彼と会ったのは、今年4月のBSfield岡山川柳大会の翌日で、岡山労災病院にお見舞いに行った。そのとき彼は思ったより元気で、川柳界のあれこれについて語った。病室にいても各地の川柳の動向を気にかけていたのだ。

闘病生活の中でも体調の良い日はあって、「川柳カード」創刊号のために石部明は10句を書いてくれた。気迫のこもった石部らしい作品になっている。彼の川柳人生の掉尾を飾る川柳作品だろう。11月25日に発行予定の創刊号をお待ちいただきたい。
また、たぶん「MANO」で追悼号を出すことになるだろうが、いまは具体的なことを云々する気持の余裕もない。

ここで私はお別れの言葉を述べることはしない。石部明は私たちの心の中に生き続けているからである。「小池さん、あなたはそう言うけどね…」という彼の声は今でも聞こえてくる。お通夜のときに柴田夕起子に「何か言い残したことはなかったか」と尋ねると、そのような言葉はないということだった。彼はまだ死ぬつもりはなかったのである。石部明が川柳界に残したこと、成し遂げようとしたことは継承していかなければならない。
最後に『石部明集』の解説で壺阪輝代も引用している石部自身の句を手向けよう。

死顔の布をめくればまた吹雪     石部明

2012年10月27日土曜日

国民文化祭とくしま2012「連句の祭典」

今年の国民文化祭は2007年に続いて徳島県で開催されている。普通、こんなに短期間に同じ県で開催されることはないのだが、自治体の財政難はどこも同じであって、積極的に国文祭にお金と労力を注ごうという自治体はもはや存在しない。そんな中で徳島が手をあげたのであるが、県が関わるのは限定的という条件つきである。今回短詩型文芸の分野で開催されるのは、連句と川柳の二つだけ。連句の場合、県実行委員会は実務に関わらず、連句協会、特に徳島連句協会が実務を主担している。川柳は11月18日に開催されることになっているが、連句は一足早く10月21日に開催され、私は前日の20日から徳島入りをした。

昨年の京都に続いて、応募作品の選者を務めさせていただいたのだが、今回の募集は二十韻という形式であった。二十韻は東明雅の創始による、表4句、裏6句、名残の表6句、名残の裏4句の連句形式である。742巻の応募作品を読むのは貴重な経験でもあり悩ましいことでもあった。「入選作品集」の「選者のことば」の中で私は次のように書いている。

「応募作品を拝読しながら考えたのは形式と内容の問題です。二十韻という形式にどのような内容を盛ることができるのか、どこが読みどころなのかと自問しました。付けと転じを生命とする連句精神は同じでも歌仙と二十韻では違いが出てくるのは当然です。異なった皮袋には異なった酒。しかし、二十韻相互の間では、二十句の組合せの中で独自の世界を構築し、差異を際立たせるのはなかなか困難です」

その結果、私が特選に選んだのは「埴輪馬」「白梅に」「仏徒なり」の三巻である。そのうち「埴輪馬」の巻(矢崎硯水捌)の前半を紹介する。

  埴輪馬いざ駆け出さん秋の風
   篁さやぎ新涼の楽
  観月のヴィラの上座に招かれて
   衿のバッジが誇り高くも
ウ 俳諧の鳴門海峡わたる旅
   渦潮に似て想ひ渦巻き
  素粒子が育ってぽんと腹を蹴り
   笑まひ絶やさぬ盧舎那仏像
  雪催ひ利休鼠に昏るるらん
   ペチカが燃えて偲ぶ鉄幹

この作品を選んでいるのは私だけである。そういうとき、選者としては選に失敗したかと自信を失う場合と、自分だけがこの作品を認めたという自負をもつ場合とがあるが、この場合は後者であって、「選者のことば」には次のように書いている。

「私は平句のおもしろさに注目していますから、『埴輪馬』の『渦潮に似て想ひ渦巻き/素粒子が育ってぽんと腹を蹴り』の付合が嬉しいです。ここには自在な俳諧性を感じます。『白梅に』は、蕪村を下敷きにした発句にはじまり、西洋的素材と日本的素材のバランスが心地よいです。『仏徒なり』は何といっても発句のおもしろさですね。私たちは連句を作ることに熱心ですが、連句を読むとはどういうことなのだろうと改めて考えさせられました」

連句の評価について、東明雅が示した次の基準が比較的広く踏襲されている。

①一句一句のおもしろさ
②前句と付句との付心・付味のおもしろさ
③三句目の転じのおもしろさ
④一巻全体の序破急のおもしろさ

しかし、これを実際の作品に適用して評価を決めようとするのは容易なことではない。「おもしろさ」と感じるところは人によって異なるから、結局は読む者の言語感覚によるしかないのである。どこかで見た陳腐な表現と受け取るかどうかも、ふだんその人の読んでいる範囲によって違ってくることがある。

「文部科学大臣賞」を受賞した「風の音譜」(服部秋扇捌)は次のような作品である。

  春耕にひもとく美しき時祷書よ
   風の音譜に蜂の休止符
  師とわれと身を委ねたる花騒に
   掌のビー玉の透ける渦巻
ウ 峡谷を愛犬も積む郵便車
   桂男は更衣して
  灼熱の想ひ人には触れられず
   短銃(チャカ)に賭けても奪ふ決心
  弗・ユーロあれやこれやで希臘危機
   クビと言はるる連休の明け

この作品を特選に選んだ狩野康子は「選者のことば」で、二十韻では定座や恋の場に追われて無理な運びになる危険性があると指摘した上で次のように述べている。

「この巻はその窮屈さを感じさせない臨機応変な展開が光った。春発句の表三句から月の定座では敢えて短句の夏の月を出し、更に恋の呼び出しも兼ねている点。正花を三句目に据えた大胆さ。一巻の流れに目をやると『破』の部分が中程にあり、最後のどたばた感がなく、すっきり納めている点。等々形式を守りながら形式を自由に遊ぶ連句の醍醐味が感じられ、好ましく思った」

あと「選者のことば」から印象に残った部分をいくつか紹介しておく。

「多くの作品の中には、詩情も発見もなく、常識的な物の見方やたんなる出来事を羅列しただけで、これではわざわざ連句をする甲斐がないと思わせられるものもあるが、そうした欠点は、恋句と時事句に最も端的に表れるようだ。実感のない手垢の付いた表現だけでまとめた恋句、マスコミによって選ばれ、作られた事例、構図、観点を口移しするだけで、やはり実感のない時事句。これらは連句の形骸化の指標として自戒の種にしたい」(鈴木了斎)

「月・花・恋の句についても、それぞれ工夫に遺漏がない。恋は一か所で押さえている。逢瀬を朦朧体の古典的な手法で万華鏡のような変幻の境と表現した。色々な姿になって女と交わったゼウスは、逢瀬の神技を示したのである。恋の深まりを空蝉のはかなさで象徴して哀れを強調する。今まで土の中に深く秘められていた思いが表に現れて、噂などもはばかることなく乱れ咲く恋となったのだ。その『証』を認識した女はもう迷わない」(近藤蕉肝)

「上位の作品にはさらに、上手に詠むことを抑えこむつつしみが感じられるかどうか、粗野を気取った贅沢という俳諧独自の美意識が息づいたいるか、こんな期待をもって向き合いました。季題標準配置をなぞっているようであったり、紋切り型表現が散見されたり、流行語や時事的素材がナマのままで置かれていたりですと、『もう少し翔んで』と思います」(佛渕健悟)

作品の読みが意識されることは連句批評への第一歩である。連句においても読みの時代が始まりつつあるのではないか、そんな感想をもった。

2012年10月19日金曜日

川柳大会と誌上句会

10月8日(日)
秋は川柳大会のシーズン。大阪・上本町の「アウィーナ大阪」で「川柳塔まつり」が開催される。9月の「川柳カード」創刊記念大会には小島蘭幸さんをはじめ「川柳塔」の方々にご参加いただいたので、そのお礼も兼ねて参加。参加者338名。盛会である。
新家完司さんのお話「川柳に表れた死生観」が面白かった。
落語を枕にして、「死ぬ順番」「生者と死者との対比」「通夜風景」「葬儀風景」「葬儀風景」「死を意識して生きる」「死ぬ覚悟」に分けて川柳を引用しながらトークを進めてゆく。レジュメを用意せず、口頭で句を紹介するのは、プリントしたものを聴衆が先に読んでしまうとインパクトが薄れるからだという。引用した川柳にちなんで一曲歌い、自慢の喉を披露するなど、聴衆を飽きさせなかった。
当日引用された句は「川柳マガジン」の新家完司ブログにアップされている。

胸に薔薇付けた順序に行くあの世    田沢恒坊
年齢順に死ぬうるさくてかなわない   定金冬二
一緒には逝けないけれどそこらまで   小沢 淳
喪が明けて仏の寝具ゴミに出る     福士慕情
死支度してからなんともう十年     柴本ばっは
死の恐怖足を縮めて寝ていても     森  央
ポックリはいいが突然でも困る     奥 時雄
しがみつくほどのこの世でなかりけり  麻生路郎
もう少し生きて悪夢を見続ける     藏内明子

句会では私は全ボツ。

10月13日(土)
ウラハイに今井聖著『部活で俳句』(岩波ジュニア新書)の書評を西原天気さんが書いている。この本は私の机上にもあるが、第一章「〈踊る俳句同好会〉誕生」が小説仕立てでおもしろいなと思ったきり、第二章以下を読みさしにしたままだったので、改めて目を通してみる。
「俳句甲子園」や『十七音の青春』からの引用が多いが、

ひまわりに平均点をつけてみる   植松佳子

この句などは現代川柳として読んでもおもしろいと思う。
「俳句はある風流な場面や時代を設定してそこにタイムマシンで移動して作る文芸ではありません」「もうタイムマシンを必要としない、同時代の感動がはっきりと見てとれたのです。季語はもはや時空を超えた世界に入る『鍵』ではなくて、現実の空間を表すなまなましい対象として用いられています」「現在でも俳句を作るときにタイムマシンを準備する人は依然として多いのですが、それは特殊な『芸』を高めることであっても自己表現としての文学の本質とは乖離していると思います」
これらの言葉に今井の俳句観が表れているように思う。
興味深いのは「もの俳句」と「こと俳句」の区別である。どちらがよいかは一概に言えないとした上で、次のように区別している。

薄氷の吹かれて端の重なれる   深見けん二  (もの俳句)
病む六人一寒燈を消すとき来   石田波郷   (こと俳句)

そして著者は「こと俳句」について次のように言う。「ただの自己肯定やありきたりのヒューマニズム。類型的な青春性。家族褒め、友情、夫婦愛。そんな『こと』からは感動は伝わってきません」
何だか川柳が叱られているような気がするのは、俳句は「もの」、川柳は「こと」を詠むという整理の仕方もありうるからである。私は芭蕉の「ものの見えたるひかり」に倣って、川柳を「ことの見えたるひかり」と言ってみたこともあるが、現実に書かれている川柳の大部分が類型性を抜け出せずにいることは事実である。

10月14日(日)
「街」同人で詩人でもある柴田千晶さんに送っていただいた詩集『生家へ』を読む。
俳句と詩のコラボレーションによって作品が構成されている。たとえば、こんなふうに。

春の闇バケツ一杯鶏の首

深夜、帰宅すると、室井商店の前に赤い椿が点々と落ちていた。闇に滲む椿の赤を避けながら歩く。と、それは椿などではなく、鶏の赤い鶏冠であった。首を切り落とされた鶏は皆、静かに眼を閉じていた。その光景に立ちすくんだ私は背後の闇に、軍手のフェンスに体を強く押し付け、嗚呼、嗚呼と呻いている短軀の男をふいに生々しく思い浮かべた。

石部明が読んだら大喜びしそうな詩集である。
柴田はシナリオも書く。今井聖との出会いはシナリオの共通の師である馬場當の仕事場だったという。そういえば『部活で俳句』には今井の書いたシナリオ『エイジアン・ブルー   浮島丸サコン』の一場面が引用され、映画のカットが俳句に書きかえていた。こんなふうに。

囀りや広縁に日の移りくる
作りかけの巣箱が一つ縁側に
桜貝一枚づつを姉妹

小津安二郎がシナリオの修練として連句を巻いていたというエピソードを思い出す。あの「東京物語」の部屋の外に置かれたスリッパの場面など。
さて、柴田千晶は今井聖に共鳴したのだろう。俳人としても活躍している。
「ここ十年ほど、自作の俳句が内包するイメージと格闘するように詩を書き続けてきた。詩と俳句が遥かなところで強く響き合う、そんな世界を目指して」(あとがき)

10月15日(月)
京都で発行されている「凜」という川柳誌がある。村井見也子が中心となって創刊され、現在51号まで発行されている。村井の師は北川絢一郎である。北川の死によって「新京都」が終刊したあと、京都ではいくつかの川柳誌が誕生した。「凜」もそのひとつ。
2010年、村井の引退によって、現在は発行人・桑原伸吉、編集・辻嬉久子・行田秀生。
季刊であるが、今年の7月号が50号記念誌上句会発表号となっている。

三月を映しそこねたカーブミラー     北村幸子
文法は布に覚えがないそうな       中西半
雲の流れてインディアンの口承詩     八上桐子
非常口ぽかんと開いている 雪ね     吉岡とみえ

川柳誌ではしばしば誌上大会・誌上句会というものが開催される。全国から投句をつのり、選者が選をして誌上で発表する。実際にどこかに集まらなくても、疑似的に大会参加の気分が味わえることになる。私は句会というものは実際に集まるのが本当だと思っているから、なぜこういうものがあるんだろうと多少の違和感があったが、よく考えてみるとこれは川柳に適したシステムなのである。
徳永政二は「凜」51号の「誌上句会によせて」で次のように述べている。
「誌上句会の魅力は、全国から句を集めることができること、また、その規模でこれという人に選者をお願いすることができることだが、当日句会の句がどうかと問われている現在、誌上句会はいい句を集める役割を果たしているのではないかと思う」「しかし、臨場感があり、川柳を語り合う出会いが生れる当日句会の魅力はけして否定されるものではない」

10月16日(火)
杉浦圭祐さんから俳誌「草樹」を送っていただく。
先日、京都の「醍醐会」で再会したときに、同人誌「quatre」が終刊になって、彼の句を読むにはどうしたらいいか尋ねたからである。

我に似し人を嫌いに燕子花    杉浦圭祐 (41号)
五月の海見えて落ち着き取り戻す

前田霧人句集『えれきてる』の紹介も掲載されている。

金色の蝶の飛びゆく枯野かな   前田霧人
ばくだんもはなびもつくるにんげんは
僕の部屋のぬた場で猪とする話

現俳協青年部のシンポジウムが11月17日(土)に京都・知恩院で開催される。「洛外沸騰―今、伝えたい俳句、残したい俳句」というテーマで、司会・三木基史、パネリスト・青木亮人、岡田由季、松本てふこ、彌栄浩樹。楽しみだ。

10月17日(水)
夢岡樽蔵著『段駄羅作品鑑賞Ⅰ時の流れの巻』(踏青社)を読む。
段駄羅については以前も紹介したことがあるが、輪島で発達した雑俳の一種である。著者の木村功さんには「大阪連句懇話会」でもお話いただいた。夢岡樽蔵(夢を語るぞう)は木村さんの段駄羅作者名。集中で最も好感をもったのは次の作品である。

時雨打つ 傘は無き身を
              風花君を   送る朝      躑躅森仁之

中七が掛詞になっていて転じていく。従って、二つの季節を詠み込むことも可能だ。

冬の能登 鮟鱇炊いて
               アンコ歌いて 島の春      船本勝信

「中七を単に同音意義に転換しているだけでは、中七で折れ曲がった段駄羅の後半部分がどちらを向くかは風任せの凧のようで、面白い句になるかどうかは偶然の産物ということにもなりかねません。これに対し、段駄羅を詠む時に作品全体をコントロールするいくつかの基準を持っていれば、上五や下五を、それなりに工夫して、もっと面白い作品が詠めるようになるのではないか」
著者はそのような基準として「前・後半を一つのテーマで詠むこと」「前・後半を対比する形で詠むこと」を挙げている。従来の「相互の関連を不問とする」段駄羅の考え方とは異なる新機軸を出していて(私自身は相互の関連を問わない飛躍感の方を好むものだが)興味深い。

10月18日(木)
次の土・日曜日に徳島市で開催される「国民文化祭・連句の祭典」に出席することになっている。20日(土)はワークショップがあって、私は和漢連句の座に加わるが、その予習として資料を読む。
大阪連句懇話会で遊び程度に作ったことはあるが、今回は和漢連句の第一人者・赤田玖實子さんの捌きなので、いいかげんなことはできない。
和漢連句とは次のようなものである。『第六回浪速の芭蕉祭作品集』から、半歌仙の表六句のみご紹介。

和漢行 半歌仙「俳諧の」の巻   鵜飼佐知子 捌

俳諧の風韻たずね紅蓮         赤田玖實子
葉ずれさやげる甘酒の茶屋       山田 あい
夏 服 飾 金 釦          桜田 野老
長 衣 結 玉 紐○                〃
月光が彫刻の虫浮かばせて       鵜飼佐知子
渡 雁 天 上 有○                 玖

○印のところで韻を踏んでいる。
対句もあるようだし、うまくできるかどうか分らないが、初めての詩形に挑戦するのは嬉しいものである。徳島では時間があれば人形芝居フェスティバルや阿波踊りも見て来たい。

2012年10月12日金曜日

浪速の芭蕉祭のこと

時雨忌(芭蕉忌)にちなんで各地で芭蕉祭が開催されている。
もちろん新暦・旧暦の問題があるから、新暦の10月に行う場合と旧暦を新暦に換算して12月に行う場合とがある。たとえば、伊賀上野の「しぐれ忌連句大会」は10月11日開催、 東京義仲寺連句会の「俳諧時雨忌」は12月16日の開催である。
さて、大阪天満宮における「浪速の芭蕉祭」は平成19年10月に第一回が開催され、今年で6回目を迎える。今年は連句・前句付・川柳の募吟を行ったところ、連句の部93巻、前句付の部314句、川柳の部335句の応募があった。選考の結果、連句29巻、前句付23句、川柳28句が入選している。主催者は大阪天満宮に所属する講(こう)のひとつである「鷽(うそ)の会」で、鷽とは鳥のウソである。俳句では「鷽替え」などの季語がある。
10月9日(日)には大阪天満宮・梅香学院で表彰式と連句実作会が催され、31名の参加者があった。また、「第六回浪速の芭蕉祭献詠連句・前句付・川柳入選作品集」が作成され、大阪天満宮に奉納される。

この募吟の特徴は「形式自由」というところにある。ふつう連句作品の募集は歌仙とか半歌仙とか二十韻などという形式を決めておこなわれるのだが、「浪速の芭蕉祭」ではどんな形式であろうと自由である。従って、百韻や歌仙などの伝統的形式の作品もあれば、オン座六句・スワンスワン・テルツァリーマなどの新形式もある。今年は「五十鈴川」「襲」というまったくの新形式も飛び出した。これらの多様な作品を同じ土俵の上に乗せて評価するのだから、選者も大変だが、実験精神に満ちた刺激的なおもしろさがある。

連句の部の大賞作品は、佛渕健悟選のお四国「詩篇」、臼杵游児選のオン座六句「嬶座」である。選者は二名であるが、いっさい相談することなく、それぞれ独自に選ぶ。従って大賞が二つ出ることになる。
まず、「お四国」の方から紹介すると、四国八十八か所の巡礼に見立てて八十八句から成り、阿波表→阿波裏→土佐表→土佐裏→伊予表→伊予裏→讃岐表→讃岐裏と進行する。回る順は変えてもよいらしい。創始者・梅村光明の説明によると「四国八十八カ所巡りに因み、阿波・土佐・伊予・讃岐の国々をそれぞれ表と裏に分け、森羅万象を詠み込んでいく。阿波表から神祇・釈教・無常・述懐を嫌わない。また、各国の表裏それぞれに必ず一句はゆかりの句を入れること」ということだ。長いので半分だけご紹介。独吟である。

阿波表 若書きの詩篇溶け出す花氷      梅村 光明(夏花)
     白シャツ似合ふ夭折の友           (夏)
    この街は路面電車も無くなつて         (雑)
     駄菓子屋なれど傘も商ひ           (雑)
    口癖に名字帯刀自慢する            (雑)
     鳴門金時後を引く味             (秋)
    代替り更地に上る盆の月            (月)
     朝顔の鉢すべて不揃ひ            (秋)
阿波裏 登校の横断歩道児ら守り            (雑)
     噂飛び交ふ新任教師             (恋)
    遠距離も恋の模様と割り切らん         (恋)
     ハートマークをいつもメールに        (恋)
    献血の回数すでに十指越え           (雑)
     人類起源聞けば納得             (雑)
    秘密裡に渡航禁止の国に住み          (雑)
     残る燕と会話楽しむ             (冬)
    冬の月路地裏抜けて銭湯へ           (冬月)
     鏡のビルに映る塔あり            (雑)
    懐メロが食ひ扶持なりとギター弾き       (雑)
     飛行機嫌ふ理由告白             (雑)
    眉山を少し彩る遅桜              (春)
     海苔干し終へて憩ふひととき         (春)
    気が付けば目借る蛙と同様に          (春)

続いて臼杵游児選の大賞の「オン座六句」は浅沼璞の創始によるもので、新形式といってもすでに二十年ほどの歴史がある。この作品も五連まであるのだが、長くなるので三連までご紹介。三連は自由律の連になっていて、そこが読みどころのひとつである。

オン座六句「嬶座」の巻   渡辺祐子 捌

一連 白牡丹くづるる際の余韻かな         祐子
    空を剪り取るはつなつの玻璃        真紀
   少年は紙飛行機を折りあげて         千晴
    輪読の声リビングの横          美奈子
   月見して天動説の光浴び           将義
    蔦のからみに謎の解けざる        八千代

二連 真田石でんと守りし上田城           晴
    嬶座といふは尻の面積            義
   十人の児をなすまでは現役よ          奈
    鷹鳩と化す薄化粧して            代
   雪解けの河に地雷の流れ来る          祐
    当たりくじまたあの売場から         義

三連 聖徳太子は実在しなかっただなんて今更     奈
    右の頬をひっぱたく             晴
   ボケと突っ込みが哀しき性を演じ        同
    やってられへんねん             義
   着膨れているから主観に辿り着けない      同
    凶器にもなる氷柱              祐

前句付の部では前句「酔えば手品のタネ明かす癖」に対して五七五の付句を付ける。下房桃菴選の大賞・次席作品は次の通り。

大賞(大阪天満宮・鷽の会賞)

初めての女の子にはちょっとモテ      島根県邑智郡 源瞳子

次席

金曜の夜は早寝の賢い児          仙台市 阿部堅市
街角でそっと籤買う霊媒師         越前市 白崎ひろ子

松江在住の下房桃菴は島根大学の教授をしていたころに学生の前句付作品集を刊行し、以後、前句付の普及に努めている。号の桃菴(とうあん)は「答案」の洒落であろう。山陰中央新報の「レッツ連歌」欄選者を担当して現在に至る。『レッツ!連歌』は第三集まで刊行されている。
平成9年に松江で「松江おもしろ連句会」が開催されたときに、私も松江を訪れた。今回大賞を受賞した源瞳子はそのとき私の座に入って連句を巻いている。あれからもう15年ほどが経過したことになる。彼女には今度も私の座に入ってもらった。
ほかに前句付の募集としては矢崎藍が高校生を対象に「とよた連句まつり」を続けているほか、「宗祇白河紀行連句作品賞」がある。
当日、下房からもらった「松江ユーモア連歌大賞」の作品集から引いておく。

   (前句)こんなところに城があったか
  姫様に尻尾があればご用心       山口真二郎

川柳の部は兼題「押す」、樋口由紀子選である。

特選    警告が出て押す理容院の椅子    井上一筒

準特選   透明になりたい人が押すボタン   徳長怜子
ぎゅっと押しつけて大阪のかたち  久保田紺

特選作品について、樋口由紀子はウラハイ(「週刊俳句」の裏バージョン)の「金曜日の川柳」(10月12日)で取り上げている。準特選の「ぎゅっと押しつけて大阪のかたち」について、久保田紺は「浪速の芭蕉祭」の授賞式で、発想のもとにあったのは「大阪寿司」であると語った。最初の発想がどうであれ、どのようなイメージで読んでもいいと思う。「大阪のかたち」ってどんなだろうというのがこの句のおもしろさだからだ。

「浪速の芭蕉祭」は連句人を中心とした集まりだが、前句付と川柳も含めて広く付合文芸に関心のある人々の場になればおもしろいと思っている。当日は七五三参りや結婚式もあり、大阪天満宮は人の波であふれていた。古本市も開催されていた。人が集まるということにはそれなりの意味があるのだ。

2012年10月5日金曜日

洛北の虫一千を聴いて寝る

秋になって虫の音が聞える季節になった。
近ごろはあまり書店で見かけなくなったが、保育社のカラーブックスが好きで、『カラー歳時記 虫』は中学生のころの私の愛読書だった。カラー写真がとらえた昆虫の姿と生態は美しかった。解説の文章は串田孫一。
俳諧と虫との関係は深い。たとえば横井也有の『鶉衣』に「百虫譜」という俳文がある。
虫は人にとって身近な存在であるだけに、親しみをもったり嫌いであったりする。昆虫好きと昆虫嫌いに分かれてしまうのだ。「虫けらのようなやつ」という蔑称もある。尾崎一雄の「虫のいろいろ」は私小説の名品であるが、蠅を描いた次の場面は忘れがたい。

「額にとまった一匹の蠅、そいつを追おうというはっきりした気持でもなく、私は眉をぐっとつり上げた。すると、きゅうに私の額で、騒ぎが起った。私のその動作によって額にできたしわが、蠅の足をしっかりとはさんでしまったのだ。蠅は、何本か知らぬが、とにかく足で私の額につながれ、むだに大げさに翅をぶんぶん言わせている。その狼狽のさまは手にとるごとくだ」

「私」はおもしろがって、この姿を家族や子供たちに見せびらかせる。みんな感心して笑い出すのだが、やがて「私」は不機嫌になって「もういい、あっちへ行け」とみんなに言うのである。尾崎の文章には余裕とユーモアがあり、同時に人の心の真実をとらえている。蠅で思い出したが、蠅を憎んだ作家に泉鏡花がおり、「蠅を憎む記」を書いている。

秋に鳴く虫といえば、川柳では岸本水府の次の句が有名である。

洛北の虫一千を聴いて寝る     岸本水府

水府の作品のベスト10を選ぶとすれば、この句を入れる川柳人は多いだろう。
昆虫の中でも甲虫が好きだとかトンボが得意だとか、それぞれの編愛する分野がある。手塚治虫はオサムシが好きでペンネームにしているのは有名な話である。手塚は宝塚の出身だが、近くの箕面は昆虫の宝庫で昆虫館もできている。
誰もが愛するのは蝶だろう。
手元にある高等学校の教科書のうち第一学習社の「現代文」の「短歌と俳句」の単元には「蝶」の項目があって、蝶を主題とした作品が集められている。五七五形式としては、次の作品が掲載されている。

恋文をひらく速さで蝶が湧く      大西泰世
ひかり野へ君なら蝶に乗れるだろう   折笠美秋
高々と蝶こゆる谷の深さかな      原石鼎
蝶々のもの食ふ音の静かさよ      高浜虚子

大西泰世は川柳人なので、この教科書に最初に掲載されたときは俳人扱いされて物議をかもしたが、今は訂正されて作者解説から「俳人」という言葉は削られている。

ここで不意に三橋敏雄のことを思い出すのは、人が体内に飼う一匹の虫のことを思うからである。「川柳カード」創刊記念大会の対談で、池田澄子が三橋について語るのを聞いた。その二週間後、京都の「醍醐会」で永末恵子が三橋の話をするのを聞いた。ともに優れた表現者がとらえた三橋像であったが、微妙に違うところがあった。それで、最近出たという話題の三橋敏雄伝を書店で探したが見つけることができなかった。本当に欲しい本には出会うことが出来ない。

さて、川柳人の中で昆虫好きといえば、高知の古谷恭一であろう。『現代川柳の精鋭たち』で古谷はこんなふうに書いている。
「私の少年期の趣味は蝶の採集であって、なかでもアサギマダラの群舞には目を見張ったものである。今でも飛んでいる蝶を見ると捕らえてみたくなる衝動がある」
そのころはまだ古谷恭一に会ったこともなかったので、こんな人がいるんだと印象に残った。のちに、古谷恭一とは何度か酒を酌み交わす機会があったが、私がこの人に親しみを感じるのは酒だけではなくて蝶なのである。

いつまでも青い痕跡捕虫網      古谷恭一
相伝というほどもなしトンボ釣り
少年の遺体はるかなモルフォ蝶
蝶の翳 貌半分を焼き尽くす
斑猫のほほほと笑う行方かな

斑猫(はんみょう)は山道などでよく出会う甲虫である。人が歩いてゆくにつれて前方に飛んでゆくので、俳句では「道おしえ」などと呼ばれる。一歩先を行きながらつかまえることができない存在が女のイメージと重ねられている。

北杜夫の『どくとるマンボウ昆虫記』は私のかつての愛読書であった。その末尾はこんなふうに締めくくられている。

ところで私はといえば、たしかに虫たちを好きではあったが、別段それによってなんのサトリをひらいたわけでもなく、人に語るべきものはなにもない。しいていえばただひとつ、たとえ人から「あいつはムシケラのような奴だ」と悪罵されようとも、私はにっこり微笑できようというものだ。

中学生だった私はこの部分に赤鉛筆で太い線を引いたのだった。その赤い線はいまも私の書架に飾られている同書にはっきりと残っているはずである。

2012年9月28日金曜日

川柳古寺巡礼

「川柳カード」創刊記念大会の翌日、上本町で一泊したメンバーを中心に奈良を散策した。大会会場の上本町からは近鉄線で乗り換えなしで行けるので便利である。参加者は青森・仙台・高知・福岡・熊本など関西圏以外の川柳人が多いので、奈良公園の定番コースを案内することにした。三年前の「バックストロークin大阪」のときは薬師寺・唐招提寺を案内して萩が満開だったことを思い出す。

まず興福寺国宝館の阿修羅像に会いにゆく。
興福寺国宝館には天龍八部衆・釈迦十大弟子・山田寺仏頭・天灯鬼・龍灯鬼などの名品がそろっている。改装中の2009年から東京をはじめ各地を阿修羅像が巡回し、盛況であったようだ。阿修羅が奈良に里帰りしたあとは、国宝館の回りに行列ができたが、それもいまは落ちついて静かに阿修羅と対面することができる。
改装以前の国宝館の様子について、「MANO」9号に加藤久子の次の感想がある。
「国宝館の奥まったところに阿修羅像は置かれていた。ガラスを隔てて、白っぽい光の中で、阿修羅像は人々の視線に曝されていた」
現在そんなことはなく、ライトが当てられる中に阿修羅は魅力的で美しくたたずんでいる。
高校生のころ、「倫理・社会」の教科書の口絵に阿修羅像の写真が載っていて、授業などそっちのけでその写真を見つめていたものだ。阿修羅は眉根をきゅっと寄せて必死に何かを求めている。本来、阿修羅は闘争の神で帝釈天との激しい戦いを繰り返している。その彼が善心に立ち戻って仏法に帰依しているのである。いつ訪れても阿修羅の前からは立ち去り難い。そこには少年のひたむきさがあるからだ。
もう一体、国宝館で私の御贔屓の仏像は龍灯鬼である。龍灯鬼を眺めていると俳諧性ということを思い浮かべる。水原秋桜子の『葛飾』には天灯鬼・龍灯鬼を詠んだ句が収められている。

人が焼く天の山火を奪ふもの (天灯鬼)   水原秋桜子
おぼろ夜の潮騒つくるものぞこれ(龍灯鬼)

格調高いがこの句だけから像そのもののイメージを思い浮かべるのは困難だろう。
平成10年に亡くなった「奈良番傘」の片岡つとむは奈良の仏像をよく詠んでいる。

仲良しになれそうなのが龍灯鬼     片岡つとむ
まなざしがどこか阿修羅に似ている娘

こちらは親しみやすいが平俗な感じ。片岡つとむはこの他に千手観音や執金剛神像、十大弟子、広目天なども詠んでいる。

木心乾漆孔雀の翅のよう千手      片岡つとむ
憤怒像執金剛に尽きるとか
十大弟子のひとりは髯を蓄える
邪鬼二匹踏まえ広目天の筆

国宝館を出て、戒壇院へ向かう。当初の予定では奈良博物館の敷地にある森鷗外の旧居跡を通ってゆこうと思っていたが、時間が押しているのでカットした。鷗外は帝室博物館の館長として奈良に滞在しており、東京の自宅に送った手紙は鷗外の家族愛を伝えるものである。いま残っているのは旧居の門だけである。
戒壇院へ行く途中に写真家・入江泰吉の家がある。亡くなったあとも「入江泰吉」の表札がかかったままになっている。奈良を撮った写真は土門拳と並んで有名だが、知らない人は通り過ぎてしまいそうな、さりげないたたずまいだ。

戒壇院の四天王像のうち、私のお目当ては広目天である。阿修羅像の少年のまなざしも愛惜すべきであるが、人はいつまでも阿修羅のような表情ができるわけではなく、やがて中年になってゆくのである。広目天は中年の叡智を感じさせる像である。阿修羅と広目天、この二人の間にある人間の幅広さ、深さを思う。
堀辰雄の『大和路・信濃路』では広目天の印象をこんなふうに語っている。

僕は一人きりいつまでも広目天の像のまえを立ち去らずに、そのまゆねをよせて何物かを凝視している貌を見上げていた。なにしろ、いい貌だ、温かでいて烈しい。…
「そうだ、これはきっと誰か天平時代の一流人物の貌をそっくりそのまま模してあるにちがいない。そうでなくては、こんなに人格的にできあがるはずはない。…」
そうおもいながら、こんな立派な貌に似つかわしい天平びとは誰だろうかなあと想像してみたりしていた。

堀辰雄は誰を想像したかは書いていない。
あと、会津八一の『鹿鳴集』の中に有名な歌がある。

びるばくしや まゆねよせたる まなざしを まなこにみつつ あきの のをゆく

「びるばくしや」は広目天のこと(梵語らしい)。
四天王の着ている鎧の肩口にはライオンの顔のデザインになっている。ヘラクレスの獅子退治に遠源をもつ、シルクロードにつながる意匠である。獅噛(しがみ)だったかな。生半可な知識で同行の人たちに説明したのだが、あとで戒壇院の栞を読むと「身にまとう甲冑は遠く中央アジアの様式で、文化の広大なることを物語っている」とあってホッした。

次に挙げるのは今回の奈良行とは関係なく、2006年11月の「点鐘散歩会」の作品から。

広目天の筆ぬけ落ちるイジメ対策  本多洋子
増長天ジョニーデップの瞳です   阪本高士
二歳から聖徳太子だったんだ    吉岡とみえ

最後の句は興福寺国宝館の聖徳太子像を詠んだものだろう。
戒壇院を出たあと、一行は二手に分かれ、先に駅前の昼食場所へゆく方と足をのばして二月堂までゆく方とになった。
東大寺大仏殿の裏側を回って、講堂跡の礎石を眺めながらゆく。奈良でもっとも廃墟という感じがする場所である。
そして、二月堂の回廊をゆっくり上がってゆく。お水取りのときに、練行衆が松明をもって上がってゆくように。

二月堂からは奈良市街が一望できる。
小林秀雄は一時期、志賀直哉を頼って奈良に滞在していたことがある。長谷川泰子、中原中也との三角関係に疲れ、東京から逃げてきた小林がプルーストの原書を読みながら寝転がっていたという茶店が確か二月堂のあたりにあったはずだ。
高畑の志賀直哉の旧居は、今回のルートから外れるので案内できなかった。

タクシーで奈良駅前に戻った私たちは、一足先に昼食場所に来ていた先発グループと合流した。前夜の大会の懇親会ではあまり上等のお酒が飲めなかったので、ここで奈良のお酒をたっぷり飲もうというわけである。私のお勧めは春鹿と豊祝。
前日の大会の余韻のなかで、川柳の友人たちと歓談は続くのであった。

2012年9月21日金曜日

池田澄子と樋口由紀子

9月15日(土)に大阪・上本町で「川柳カード」創刊記念大会が開催され、川柳人をはじめ俳人・歌人を含めて109名の参加者があった。7月に発行された創刊準備号に続き、創刊記念大会も開催されて、「川柳カード」(発行人・樋口由紀子、編集人・小池正博)という新しい川柳誌がスタートしたことになるが、実は創刊号はまだ発行されていない。
本誌は昨年11月に終刊した「バックストローク」の後継誌と見られているようだが、新誌を立ち上げる以上、「バックストローク」とも少し異なった川柳活動を歩むのは当然である。そのひとつの志向が広く短詩型文学の世界に「川柳」を発信しようとすることで、今回の大会に俳人の池田澄子を招いて樋口由紀子が対談したのはその現れである。

樋口のエッセイ集『川柳×薔薇』(ふらんす堂)に池田澄子が帯文を書いている。樋口は「豈」の同人としての経歴が長く、池田とはごく親しい関係にある。「豈」51号(2011年2月)は「池田澄子のすべて」という特集を組んでいるが、樋口はそこに「池田澄子の固有性」という文章を書いている。この文章は「固有性と独自性―池田澄子小論」と改題されて『川柳×薔薇』にも収録されている。
一方、池田澄子の方は「川柳」をどう見ているのであろうか。
『現代川柳の精鋭たち』(北宋社)が上梓されたときに、池田は「豈」34号(2001年11月)に書評を書いている。この書評については、後に触れる。
こういう両人の交流をふまえて、今回の対談が実現したことになる。ローマは一日にしてならず。

池田澄子はあちこちで対談しているが、記憶に新しいのは昨年の「ユリイカ」10月号に掲載された「たのしくさびしく青臭く」という対談で、聞き手は佐藤文香である。そこにはこんなやり取りがある。

佐藤 いま代表句を訊かれたら何と答えますか?
池田 代表句はやっぱり一番新しい句ということになってほしい。こないだ何かで代表句について書いてくれと言われて「一番新しい句集の最後のほうの句」って書きました(笑)。でもあなただって自分の代表句がどれかなんて気にしないでしょ?自分から言うなんて恥ずかしいよね。
佐藤 そうですね(笑)。
池田 毎回これが代表句って気持で書いてるもんね。
佐藤 そういう気持ちってすごく作家的だと思うんです。むしろ俳句を始めてすぐの人ほど、句会で褒められた特選の句を言ってまわりますよね(笑)。

池田は「俳句研究」で阿部完市の句を見て「あっ!」と思って俳句を始めたという。やがて三橋敏雄に師事することになる。このあたりの経緯を池田は繰り返し語っている。
今回の樋口との対談でも、話の順序として「じゃんけんで負けて蛍に生れたの」「ピーマン切って中を明るくしてあげた」の句が紹介されたが、この句ばかりを取り上げられると、確かに「ほかの句はダメなの?」と言いたくなるだろう。
「川柳カード」における対談は、池田をフォローしてきた者にとってはそれほど新鮮味はなかったかも知れないが、肝心なことは川柳人が池田の肉声を聞くことができたという点である。池田の話は終始実作から遊離することがなかったし、川柳人が共感をもって耳を傾けたのもその点であろう。
池田の俳句に向かう姿勢・言葉に対する姿勢として、聞き手の樋口が特に引用したのは次の二点である。

「少しの言葉で成り立つ俳句は技が恃みであり、取り立てて技と思わせない技こそ必要とする形式である」(『休むに似たり』)
「人の書いた言葉にそうだなあと思い、自分の書いた言葉にそれでいいの?ホントにそれでいいの?を繰り返している私」(『自句自解』)

川柳人である樋口由紀子が池田澄子に共振するところも、このあたりにあるのだろう。
ここで、『現代川柳の精鋭たち』の書評に話を戻すと、池田は「豈」34号で次のように書いていた。

「私の俳句は川柳に近いところもあると思われているかもしれず、自分でもそんな感じがしないでもないのだけれど、ほんの少しも、川柳を書こうと思ったことはない。俳句に近いと思われる川柳を書いている方々は、逆の意味で同じ思いを抱いておられるのだろう」

ここには実作者にとって微妙な意識が語られている。
そして、『現代川柳の精鋭たち』の読後感について、次のように書かれている。

「大雑把に言えば具象性の希薄さ。それとも、それが現代川柳の詩性とされているのだろうか。詩性の深さは、具象からの遠さに比例するか。見るからに異次元めかすことが、詩性であるか。イメージの飛躍は魅力だが、着地せずに飛んだままのナルシシズムは、空虚である」

池田澄子が当時と同じ考えであるかどうかはわからない。しかし、「言葉は作者の甘えや錯覚に冷淡である」という考えは変わっていないだろう。
大会にも参加していた正岡豊はツイッターで「かつては俳句を書くということは川柳を書かないということだった」という感覚について述べている。
いまはそのような感覚は崩れていて、俳句・川柳という峻厳な区別は若い表現者には意識されていない。俳句と川柳の違いを常に俳句側から突きつけられてきた川柳側の人間として、私はそんな感覚はなくなってよかったと思っている。ジャンル意識なしに、表現者として向き合える状況が一部の俳人・川柳人の間でようやく生まれてきたからだ。
実作者として俳句なり川柳を書いているときに、それぞれの表現者は確固とした手ごたえをもって作品を書いているだろう。しかし、「川柳とは何か」「俳句とは何か」と問い詰めると事態は曖昧になってくる。
池田澄子と樋口由紀子との対談には、実作者としての経験から遊離することのない確かさがあった。ひょっとしてこの対談が、川柳人が他ジャンルの表現者に対して身構えることも疑心暗鬼になることもなく真っ直ぐに向き合うための、その契機になるのではないか。両人の対談を聞きながらそんなことを考えた。

語りえないことというものはある。語りたくないこともまた存在する。この日の対談の詳細は、「川柳カード」創刊号(11月下旬発行)に掲載される。

2012年9月14日金曜日

同じ現実を見ているはずなのに川柳はなぜ遅れていくのだろう

短歌誌「井泉」47号が届いた。
永井祐歌集『日本の中でたのしく暮らす』の書評を彦坂美喜子が書いている。

あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな  永井祐

永井祐と言えば真っ先に思い出す歌である。逆に言えば、私はこの歌以外に永井のことは何も知らない。永井の歌集名となったのは次の歌である。

日本の中でたのしく暮らす 道ばたでぐちゃぐちゃの雪に手をさし入れる  永井祐

「日本の中でたのしく暮らす」というフレーズを私はイロニーと受け取ってしまう。たぶん多くの川柳人もそうだろう。「たのしいはずのない現実」と「たのしく暮らす」という言葉との落差が反語や皮肉を産みだすのだと…。けれども、彦坂は次のように述べる。

「道化、イロニー、ふざけている……歌集名からから想像するこのような感じは、歌集の作品を読む限りどこにも見当たらない。『日本の中でたのしく暮らす』という言葉そのままに、そこにはいっさい余計な思念は含まれていないことがわかる。むしろ、このストレートさは、外部がない彼らの現在そのものの象徴のようである」

うーむ、イロニーではなかったのか。そう思うと、この歌はおそろしい。「ぐちゃぐちゃの雪に手をさし入れる」も短歌的喩ではないのだろう。

「井泉」に連載の「ガールズ・ポエトリーの現在」で喜多昭夫は柴田千晶を取り上げている。柴田千晶といえば、藤原龍一郎とのコラボレーションで東電OLを詠んだ作品を真っ先に思い出すが、喜多は柴田千晶について次のように言う。

「柴田千晶の作品が好きだ。そこには紛れもなく『現代』が描かれているから。今、私たちが息を吸い込んでいる『時代』の空気感がありありと感じられるから。やはり文学は絵空事であってはならない。時代の痛みを表現しなければならないのだ」

冬帽の手配師蟹江敬三似       柴田千晶
風花の倉庫うつむくフィリピーナ
全人類を罵倒し赤き毛皮行く

田口麦彦は「川柳研究」に「誌上Twitter」というコーナーを連載している。今年の5月号のタイトルは「いま変わらずにいつ変わる」、6月号は「時代の感性を磨く」となっている。昭和28年に西日本を襲った大災害に遭遇したことがきっかけとなって、その体験を詠むことから川柳を始めた田口は、「いまこそ変革の時」と訴えている。
「人間生きているかぎり、立ち止まったままの停滞は許されない」「今でジョーシキと思っていることを勇気を持って見直すことから一歩がはじまる」(「川柳研究」5月号)

けれども、田口がいうような新しい川柳表現にはなかなかお目にかからない。同じ現実を見ているはずなのに、なぜ川柳は遅れてゆくのだろう。もちろん表層的な時事句は量産されているが、現実と川柳形式とが何かのヴェールによって隔てられているような気がする。

もう一度、「井泉」に戻ると、「リレー小論・短歌は生き残ることができるか」に山田航が「もっといろんな人に会いたい」という文章を書いている。ここでも永井祐の短歌が引用されている。

『とてつもない日本』を図書カードで買ってビニール袋とかいりません   永井祐

そして、山田はこんなふうに述べている。
「自分の思いを理解してくれる者だけで周囲を固めて世界を築こうとして、本当に他者を描いているなんていえるのだろうか」「短歌が生き残る手段があるとしたら、たとえ仮構であってもより広い社会層の人々の声を掬い上げて多面的な抒情を表現してゆくことが、大きな有効性を持っていると思う」

すぐれた表現者が現れない限り、批評は何もできないのだ。

2012年9月7日金曜日

きゅういちの10句を読む

俳誌「船団」に芳賀博子が連載している「今日の川柳」、今月発行の94号では湊圭史を取り上げている。湊はデイヴィッド・G・ラヌー著『ハイク・ガイ』(三和書籍)の翻訳者として知られるが、3年ほど前から川柳も作りはじめ、「ふらすこてん」「バックストローク」などに作品を発表している。評論の分野でも活躍し、『新撰21』『俳コレ』などのほか、ウェブマガジン「詩客」にも時々「俳句時評」を書いている。昨年の「バックストロークin名古屋」でパネラーをつとめたことは記憶に新しい。
芳賀は湊にインタビューした上で、彼の作品とあわせて「ふらすこてん」同人の作品も紹介しているが、こういう形で「ふらすこてん」が広く短詩型の世界に紹介されることは歓迎すべきことである。「ふらすこてん」の主宰者である筒井祥文は川柳の句会回りには熱心だが、川柳のワクを超えた表現の世界に対してアピールすることには必ずしも熱心とは言えないからである。

さて、「ふらすこてん」の同人に〈きゅういち〉という川柳人がいる。本名は宮本久だが、〈きゅういち〉の名で同誌を中心に川柳作品を発表している。「川柳木馬」130・131号の「前号句評」など他誌にも文章を発表しているから、ご存じの方も多いことだろう。仕事が忙しいようで、句会・大会にはあまり顔を見せることがない。川柳人はあちこちの句会を回ることによって名が知られてゆき、選者をつとめる経験を重ねることによって階梯を登ってゆく。きゅういちの場合は、そういう階梯を踏んでいないから、大多数の川柳人の作品とは無縁のところで川柳活動を続けている。句会回りにあまり熱心ではない私が言うのもおかしいが、そこにはある種の危険性を孕んでいないこともない。句会に染まらないことは独自の表現世界をもつことであるが、同時に「川柳」から遊離する諸刃の刃となるからだ。
私は今まで彼の作品を読むたびに、何か腑に落ちないものを感じていた。表現意図と言葉が釣り合っていないというか、何故このような作品を書くのだろうという感じがぬぐえなかったのである。ところが、「ふらすこてん」23号(9月1日発行)のきゅういち作品を読むと、テーマと言葉が拮抗していて充実した作品世界を切り開いている。筒井祥文が巻頭作品においているのも頷けるのである。
今回は、きゅういちの10句を私なりに読んでみたい。

慎みの梨のほとりへ嫁ぎます

嫁いでゆく女性の口調で語られている。けれども、「慎みの梨のほとり」へ嫁ぐのだという。慎ましい女性が慎ましく嫁いでゆくとも読めるが、慎ましくない女性が心を入れ替えることにしたと読んだ方がよさそうだ。
「梨」の別名を「ありの実」という。「無し」という音を忌んでのことである。「慎みの梨」というようなものが実体として存在すれば、それはそれでおもしろいだろうが、一句は「慎みがない」という言葉から発想されている。
そうすると、この女性は心を入れかえて慎み深くなったのでは更々なく、慎みの無い態度を貫いていることになる。
ともあれ一人の女性が嫁いでゆく。次に起こるのは出産という事態である。

黄を帯びた刃先産み付けられてをり

「黄を帯びた刃先」を産むのだという。
昆虫が葉に卵を産み付けるように、人の肉体が無機的な刃物を産む。刃物を産んだとき生身の体は傷つくだろう。それはひとつの受苦であると同時に、産み付けられたものが他者を攻撃するために用いられてゆく。

《子宮内砂漠》に月の満ち行くや

砂漠の月というイメージがある。あるいは「月の砂漠」という歌がある。
子宮の内部風景を見たことはないが、それは砂漠のようなものかも知れない。そこに月が出ている。けれども、「月が満ちる」という言葉は出産の場面でもよく使われる。そうすると、この月は偽物の月なのだ。
月が満ちて出産のときが近づいてゆく。

代理母に白湯を注げば午後のキオスク

出産するのは代理母かもしれない。
カップラーメンにお湯を注ぐと食品が出来上がるように、代理母の子宮を借りて子どもが製造される。人間的な行為と即物的な行為が重ねあわされている。
今回のきゅういちの作品は、常にダブル・イメージによって作られている。二つの文脈が一つの句に圧縮されているのだ。
キオスクでカップ麺にお湯を注いでいる人がいる。お湯がぬるくて食べにくいことも多々ある。

頬杖に舫う脱法物の義母

代理母の次は脱法ハーブ。母という存在も脱法ハーブのようなものか。
「舫う(もやう)」だから船をつなぐのだろう。つなぐこととそれを拒むものがせめぎ合っている感じがする。

母子手帳醤油の樽に狂れる月

「狂れる」は「狂える」の誤植なのか、それとも「おぼれる」と読ませるのか。
「母子手帖」で切れるのだろうが、母子手帳が醤油に濡れているイメージも浮かぶ。平穏な世界にズレや違和が生じている。

遠雷や全ては奇より孵化をした

「孵化」は昆虫や鳥の場合に使う。ヒトが生まれるにしても、鳥獣虫魚と同じ相で眺められている。
「奇」は「奇跡」か「奇矯」か「奇人」か。マイナス・イメージとばかりは言い切れない。この「奇」に積極的な意味を込めたとすれば、この句が10句全体を支える役割を果たしている。

生まれなさい外に気球が待ってます

生まれたものは母の胸に抱かれるのだろうか。いや、そうではなくて気球に乗ってさらに遠くの場所に連れていかれるのである。
気球に乗ってこの世に生まれてくるとも読めるが、私はその読みは取らなかった。

臨月のキャベツ担いで走る婆

臨月のキャベツを担いで走るのは産婆であろうか。
ここにも妊婦とキャベツとを等質に見る目がはたらいている。

発注と違う嬰児よ安らかに

この句について筒井祥文は「『安らかに』眠れという。が、それは生きてのことか殺されてのことか。ここいらが川柳である。『発注と違う』は既にモノ扱いである」と選評を書いている。
発注したモノが届くように、ヒトは生まれてくる。時には発注したモノとは異なる製品が届くこともある。
「誕生」という命を産みだす事態をきゅういちは冷徹に描ききっている。それは過酷なこの世界を反語的に問い直すことでもある。川柳人の根底にある世界との違和をきゅういちは表現しきったのである。

遠雷や全ては奇より孵化をした   きゅういち

2012年8月31日金曜日

無理して逢えば何事もなし

川柳入門書というのではなくて、エッセイ風の文章を連ねることによって読者が自然と川柳に親しんでゆけるような川柳書がもっと出版されればよいと思っている。そのような川柳書として、今回は佐藤美文著『川柳を考察する』(新葉館)を取り上げて、書評してみたい。

本書は「風のたより―川柳の可能性を探る」「京都を川柳する」「江戸っ子二題」「戦後宰相を川柳で斬る」「川柳を遺すために」「定型のリズムは変わるか」「川柳と俳句の違い」「川柳作家論」「花吹雪 東京句碑巡り」「名句鑑賞」の10章に分かれ、川柳をめぐるさまざまな話題を平易に取り上げている。読者はどこから読みはじめてもよいし、書かれていることを契機として関心の深い問題を自分で深めてゆくこともできる。「あとがき」として「かつてはあった路地の親切」が付く。

「風のたより」は佐藤美文が発行する川柳誌「風」の巻頭言から選ばれた文章を集めている。巻頭言だから1テーマ1ページの短い文章だが、「差別語と川柳」「革新と伝統の外で」「川柳は詩であるか」「虚と実」など川柳の世界でこれまで議論されてきたテーマを含んでいる。
「清水美江先生のこと」という一文があって、佐藤美文の師について触れている。清水美江(しみず・びこう)は川柳誌「さいたま」を発行し、十四字にも力を入れていた。私は一時期「風」誌に投句していたが、それは十四字に関心があったからである。佐藤美文による本格的な清水美江論を読んでみたいものである。

「戦後宰相を川柳で切る」の章はこの筆者の得意とする分野のひとつで、時事川柳を材料にして戦後史を綴ってゆく手法をとっている。「風」誌に連載されていた「川柳が詠んできた戦後」は後に『川柳が語る激動の戦後』(新葉館)としてまとめられた。これは「読売新聞」の時事川柳欄を基にして、戦後の政治史・風俗史を綴ったものである。この試みは私も興味深いと思ったので、編著『セレクション川柳論』(邑書林)のなかに「昭和62年」の部分を収録させていただいたことがある。

もう幾つ寝ると長老風見鶏    牛夢

「川柳と俳句の違い」は俳誌「七曜」講演録(平成16年)で、俳人を前にして川柳を語ったものである。他ジャンルの方々に対して川柳のことを語るという機会は今後増えてゆくものと思われる。俳人を前にしてどのように川柳を語るのか。他人事ではなくて、一人一人の川柳人があらゆる機会をとらえて川柳を語るべきだろう。佐藤は俳句と川柳の違いにつての様々な言説を紹介したあと、川柳の歴史を通して「川柳とは何か」を説明する。
「今日の話は、川柳の歴史を通して皆さんに川柳はこういうものだということを理解していただいて、その中で皆さんの中の俳句と比較していただきたいのです。そして、その中で俳句と川柳の違いというものを、おのおのの形で自分自身で理解していただければと思っています」
常套的な説明方法ではあるが、結局、俳句と川柳の違いは歴史的にしか説明できないものであり、その上に立って現在の俳句・川柳の作品例に話が及んでゆくしかないものであろう。

「川柳作家論」では茂木かをる・佐藤正敏などを取り上げているが、私が一番関心を持ったのは「十四字作家―江川和美の世界」である。江川和美は十四字詩作家としてのペンネームで、十七字の川柳人としては小川和恵の名で知られている。「川柳研究」「さいたま」などで活躍したが、昭和50年に50歳で亡くなっている。7年余りの川柳活動であった。
彼女の十四字(七七句)を紹介する。

かくれて逢えばきつね雨降る   江川和美
言葉は要らぬ花の陽だまり
逢う日約して瞳に吸われゆく
返事を決める固い足袋履く
悪魔に貸した胸の合鍵
騙されていた日々のしあわせ
今日の素直をしげしげと見る
迫る不安がおしゃべりにする
無理して逢えば何事も無し
ゆめ売りつくしペンがささくれ

七七句における情念作家という面もあって、すべてを評価するわけではないのだが、「無理して逢えば何事もなし」は私の愛唱する句のひとつであり、十四字の歴史に残る一句であるだろう。

「名句鑑賞」には次の句が紹介されている。

落下傘白く戦場たそがれる    戸田笛二郎

戸田は落下傘部隊としてセレベス島攻略戦に参加した。
金子光晴には「落下傘」の詩があるが、空から落下していきながらとらえた戦場の風景は、川柳のとらえた戦争詠のひとつとして迫力がある。笛二郎は昭和19年に中部太平洋で戦死する。22歳。兄の雨花縷は「私が餓死したら兄さんが私の句集を作ってくれ、兄さんが戦死したら私が兄さんの句集を作る」と言った弟との約束を果たしたという。

最後に、定型について。本書には「定型のリズムは変わるか」をはじめとして定型論が見られるが、山路閑古著『古川柳』(岩波新書)に触れている部分がある。
山路閑古は川柳を阪井久良伎に学び、俳句を高浜虚子に学び、連句を根津芦丈に学んだ総合的な短詩型詩人である。
『古川柳』の序章で山路は「ふる雪の白きをみせぬ日本橋」の句(川柳)を取り上げて、次のように述べている。
「『古川柳』には無季の句が多く、よしんば雪のような季語を含んでいても、それは季題ではないから、季節の主張もせず、寒さの連想をも伴わない。このようなことを、季題の制約を受けないというのである」
そして、リズムについては次のように言う。
「リズムには、このように耳に響き、心に感じられる音楽的リズムもあるが、それとはべつに、判断に訴え、知性を振動させる、声なき声のリズムというものがある。これを『内在律』というが、『古川柳』が詩として『発句』と対抗し得るのは、こうした『内在律』の面においてである」
「内在律」は現代詩で用いられる言葉かと思うが、定型律であるはずの川柳を内在律と捉えることによって俳句との違いを説明しきれるかどうか、魅力的でもあるだけに検討を要する課題かもしれない。

2012年8月24日金曜日

暑気払いに川柳誌逍遥

今年の夏は過酷なので、過ぎ去ったときにはいかにも終わったという感じがすることだろう。そうなるまでにはまだ少し時間があるが、今週はこの夏にいただいた川柳誌について具体的に書いてみたい。

北海道の川柳誌「水脈」31号に、岡崎守が「『水脈』誌の10年」という文章を掲載している。「水脈」(編集人・浪越靖政、事務局・一戸涼子)は2002年8月に第1号が発行されたので10周年を迎えたことになる。「水脈」は「あんぐる」(1996年7月~2002年2月)の流れを汲んでいる。同誌の中心にいた飯尾麻佐子の体調不良によって終刊となったが、違った形で活動を続けようということで新誌「水脈」として出発した。それから10年が経過し、岡崎守は次のように述べている。

「1句を生み出すことによって自己を表現し、10句をまとめることによって個性が表出されていく。1年に3回で30句、10年で300句を吐き続けたことになる」
「その時の流れの中で、作品にどれだけの変化が生まれ、10年間の人生の変遷が刻まれたのであろうか」
「時の移ろいの中で変質を遂げたか否か、作品の質の向上はあったのか、などについての愚問は、各人のみが認識するのだと思う」

31号の同人作品から何句か紹介する。

さわやかな貌して眉のないさかな     新井笑葉
雲は爛れて昭和史の瓦礫         岡崎 守
別れとは縄目模様の美しさ        酒井麗水
先例にならい手首を振ることに      一戸涼子
曲がらないスプーンと長い話し合い    浪越靖政

高知の「川柳木馬」133号、清水かおりの巻頭言にも柳誌のたどってきた時間の流れに対する意識が見られる。清水はこんなふうに書いている。

「木馬83号(平成12年1月発行)の巻頭言に高橋由美が『三十も後半の私を捕まえて『若い世代』などと銘打ってくれるな』と書いてから12年が経過した。すっかりその年代を若いと言える年になった私達である。日々の生活と共に濃淡はあっても、それぞれが現在も川柳の現場に居続けるのはやはりこの短詩型の魅力に獲り付かれているからだろう」
「私達の作品はしばしば作風という言葉で評される。作風は一般に作者の個性や川柳に対する考え方、柳歴が反映されると考えられるが、柳誌という集合体でみると、何となくひと括りにされてしまいがちである」
「木馬は創刊以来、高知県では革新系の柳誌という立ち位置であった。これはあくまで高知という現場での認識であって、全国的に問えば、何をして革新誌というのか疑問に思うことの多い現在である」

柳誌に対する○○風(「木馬」風)という呼称は「ひと括りにできる退屈」にすぎないという自己批評をもっている清水は、同時に海地大破たちが創刊したこの柳誌に関わってきたことを振り返ることが「明日を書くためには必要なこと」とも述べている。

「木馬」今号に飯島章友が「前号句評」を執筆しているのが注目される。飯島は「かばん」に所属する歌人であり、川柳も書いている。彼は「短歌的喩」のことから話を始めている。
『言語にとって美とはなにか』で吉本隆明は短歌の上の句と下の句が互いに意味と像を補完し合っている構造を「短歌的喩」と呼んだ。飯島はこの「短歌的喩」が川柳の「問答構造」に似ているという。飯島はこんなふうに言う。
「筆者は、歌人や柳人との会話で幾たびか、短歌と川柳の親和性を確認しあったことがある。川柳は、表面的な文字数の形式でいえば、俳句とまったく同じである。だが発想や内容はきわめて短歌と似ている。それは〈問答〉という、両分野の構造の類似に起因するのではないか」

同号には平宗星が「川柳木馬における関西諷詠と関東諷詠」を掲載している。平によれば、
「関東諷詠」は江戸の古川柳の伝統を受け継ぎ、「意外性」を重んじ、奇想天外なイメージを好み、独自のメタファーを尊重する。一方、「関西諷詠」は作者の心情を重んじ、私小説的な「物語性」を尊重するという。そして、「関東諷詠」を代表するのが中村冨二、「関西諷詠」を代表するのが定金冬二だと言うのである。
私は冨二・冬二をもって関東・関西を一般化するのはどうかと思うし、川柳の書き方の二つの方向性を関西・関東という地域性に解消してしまうことには更に疑問を感じてしまう。

ここで「川柳木馬」の作品を挙げておこう。

仁淀川産アユと交換する今日一日     内田万貴
肝煎りのいない月夜の集会所       河添一葉
空間のゆがみを通り蟹は来る       小野善江
羽の一枚一枚にルビをふる        山下和代
私信から出た青鷺のうすねむり      清水かおり
ついたての向こうに君の綺麗な句読点   高橋由美
尾行者のズボンびっしり藪虱       古谷恭一

青森の柳誌「おかじょうき」7月号は「川柳ステーション」の掲載号である。
発行人・むさしは次のように書いている。
「川柳ステーション2012をどうやら終えることができました。今、青森県内の川柳社で自らの主催する大会に県外から選者を招いているのは当方だけのようです。ましてや、トークセッションもやっているなんて話は聞いたことがありません。句会だけの大会でも大変なのに何でそんなことをするのだろうと言う方がいてもおかしくないのですが、それをやるからこそおかじょうき川柳社なのだと思っています」
6月2日に開催された「川柳ステーション2012」トークセッションのテーマは「理系川柳と文系川柳」で、パネリストはなかはられいこ・瀧村小奈生・矢本大雪、司会はSinである。「文系川柳」「理系川柳」とは聞き慣れない言葉であるが、なかはられいこは「方程式のように別の言葉を入れ替えてみたくなる」のが理系川柳だと言い、矢本大雪は「理系川柳は理性に、文系川柳は感性に訴えるもの」と述べている。
う~ん、この分類はどこまで有効だろうか。例に挙げられている作品を見てもどちらとも言えない、あるいはどちらとも受け取れる句が並んでいる。むしろ、暫定的に分類しておいた上で、矢本が言うように「理系だ文系だと分類は殆ど出来ない状況にある」というあたりが落としどころのようだ。

「川柳ステーション」の句会からは、次の二句をご紹介。

象の鼻が結果ばかりを聞きにくる     熊谷冬鼓
Re:Re:Re:Re:Re:胸には刃物らしきもの   守田啓子

「象の鼻」の句は「伸」という題、「Re」は「再」という題である。
川柳誌というより句会報から印象に残った作品を挙げてみたい。まず、「大山滝句座会報」150号から。鳥取県の大山滝(だいせんたき)は日本の滝百選にも選ばれている。誌名はそこからとられているが、この号では誌上大会の結果を掲載している。

水掻きも夢もあるのに沖がない     森田律子
出直してみても大きな鼻である     金築雨学
腹筋か木綿豆腐か押してみる      石橋芳山

7月1日の「玉野市民川柳大会」句会報から。

想い馳せると右頬にインカ文字     内田万貴
嵩ばらぬものを握らす歩道橋      江尻容子
一万個に分けても富士は立っている   森茂俊
とんと揺すってもう二・三人入れる   内田万貴
豆腐の口角に陽動作戦         蟹口和枝

大会や誌上大会を行うことによって選ばれた作品を発表誌のかたちでまとめる。それが一種のアンソロジーとなる。句集形態のアンソロジーが少ない川柳界で、それがすぐれた作品にであうための近道なのだろう。
あと、評価の定まった作品が川柳誌のなかで取り上げられることがある。「川柳びわこ」8月号の「句集紹介」には八木千代の句集『椿抄』が掲載されている。

潮騒を連れてこの世の月が出る     八木千代
とりあえず門のかたちに石二つ
書きすぎぬように大事なひとに書く
今折ったばかりの鶴が翔んでゆく
触れられたことではじまる桃の傷
稜線で逢うお互いの馬連れて
見送っていただけるなら萩の道
どの井戸も底があるので救われる
錯覚の場所を何度も掃きにいく
まだ言えないが蛍の宿はつきとめた

八木千代は「川柳塔」同人で米子市在住。『椿抄』は1999年の句集『椿守』をベースに今年上梓された句集。時の流れに淘汰される中で残った作品にはやはり力がある。
この夏ももうすぐ過ぎ去るだろう。冷厳な時間法則の中で過ぎ去るものは過ぎ去り残るものは残ってゆく。川柳も同じである。

2012年8月17日金曜日

ドイツで川柳について考える

8月7日付の朝日新聞夕刊に「ハンブルク・バレエ週間」についての記事があり、その中に「RENKU」という文字を発見してあっと驚いた。「RENKU」は即ち「連句」である。私はバレエについては無知であるが、振付家ジョン・ノイマイヤーが芸術監督を務めるハンブルク・バレエにはファンが多いらしい。6月17日から7月1日まで開催されたバレエ週間は、このバレエ団の最大の催しだという。14公演の演目のうち、初日に演じられた「RENKU」は日本の大石裕香とドイツのオーカン・ダンの振り付けによる。
バレエにおいて短いパートをつなぎながら連句的世界を創ってゆくという構想は、ノイマイヤーがモーリス・ベジャールとかねてから話し合っていたプランだった。ベジャール亡きあと、ノイマイヤーは大石とダンの二人の若手にこの試みを託したのである。
大石裕香は大阪出身のダンサーで、今回自らは踊らず、振付に回ったようだ。舞台はシューベルトの「死と乙女」を軸に展開する。Linked Poetryとしての連句精神が国際的な普遍性をもっていることのひとつの証しである。

国学院大学主催の万葉集・夏期講座が大阪天満宮で開催されて、一時期よく聴講に行った。今でもあるのかどうか分からないが、万葉集や記紀神話、折口信夫などについて学ぶところが多かった。あるとき、講師の岡野弘彦が「自分は毎年ヨーロッパへ出かけ、外国で短歌のことばかりを考えている」と語った。まだ若かった私は「短歌を考えるのなら日本で考えたらいいじゃないか、なんでわざわざ外国へ行く必要があるんだろう」と思ったものだった。岡野が言っていたことが今にしてよく分かる。外国へ行くと日本のことが見えてくるのだ。

斎藤茂吉は大正10年から大正13年まで滞欧生活を送っている。「斎藤茂吉選集」(岩波書店)の第9巻は「滞欧随筆」として、茂吉のヨーロッパ滞在中の動静を記した随筆がまとめられている。特に短歌が論じられているわけでもないが、この時、茂吉は日本を外から眺め、短歌についても考えを深めたことだろう。
「滞欧随筆」のうち有名な「ドナウ源流行」の冒頭を引用してみよう。

「この息もつかず流れてゐる大河は、どの辺から出て来てゐるだらうかと思つたことがある。維也納(ウインナ)生れの碧眼の処女とふたりで旅をして、ふたりして此の大河の流を見てゐた時である。それは晩春の午後であつた。それから或る時は、この河の漫々たる濁流が国土を浸して、汎濫域の境線をも突破しようとしてゐる勢を見に行つたことがある。それは初冬の午後であっただらうか。そのころ活動写真でもその実写があつて、濁流に流されて漂ひ着いた馬の死骸に人だかりのしてゐるところなども見せた。その時も、この大河の源流は何処だろうかと僕は思つたのであつた」

こうして茂吉はドナウの源流を求めて復活祭の休みにミュンヘンを出発するのである。

今夏、スイス・ドイツを旅行した。ハンブルクでバレエを見、茂吉のようにドナウ河の源流を訪ねたと言えば話の辻褄は合うが、そんなこともなくただ漫然と観光したばかりである。けれども、思考の流れは自然と川柳のことに向かっていった。もちろん、ヨーロッパには表面的には川柳の影も形もない。私たちが極東で日夜腐心している川柳という文芸は実に小さな形式に見えてくるのである。だが、川柳精神という意味ではヨーロッパのあれこれの文学作品と通底するものがぼんやりと見えてくる。

私も人並みにライン河下りの観光船に乗ってローレライの岩などを見た。船上にはハイネのローレライの歌まで流れていたが、学生時代には暗誦できたローレライの歌詞がもはやおぼろげになっているのに呆然とするのだった。ハイネは詩集『歌の本』の抒情詩人として知られているが、『アッタ・トロル』『ドイツ冬物語』などの長編諷刺詩を書いていて、きわめて政治的・諷刺的な詩人である。翻訳では分かりにくいが、たとえば『アッタ・トロル』におけるゲーテ批判はこんな調子である。

行列の中には、思想界の
大家たちが大勢いた。
われらのゲーテはすぐわかった。
あの目の明るい輝きを見て―

ゲーテはヘングステンベルクに酷評されて
墓の中にじっとしていられず、
異教の輩と一緒になって、いまも
生の狩猟を楽しみ続けているのだ。(『アッタ・トロル』第18章)

ヘングステンベルクという男が一連のゲーテ批判の文章(特に『親和力』に対する道徳的批判)を書いた。死せるゲーテは墓の中にじっとしていられなくなって現世にさまよい出てきたのだ。ハイネは批判者に同調しているのではない。彼の諷刺と嘲弄はヘングステンベルクとゲーテの二方向に向けられている。もちろんゲーテの方が偉大なのである。
ロマン派のイロニーは常に空想の世界と現実の世界との落差から生まれる。ローレライの夢の世界からだけ出来ているわけではない。

連句のエッセンスであるイメージの連鎖はエズラ・パウンドのイマジズムなどに影響を与え、冒頭で紹介した現代バレエにまで及んでいる。それでは川柳という文芸のエッセンスは何であろうか。おおかたの日本人が駄洒落で下品なものと受け止めている川柳ではなくて、世界文学の場に出したときにも通用する川柳の普遍性というものがあるかどうかということである。もしあるとしたら、たぶん、それは「批評性」であり、もう少し拡げていうと「批評的ポエジー」だろう。
ドイツを旅していて、常に思い出していたのはトーマス・マンのことである。トーマス・マンの文学の本質はイロニーにあり、彼の作品の多くはパロディである。ゲーテは別格としてハイネ・ニーチェ・マンなどのドイツ精神の中には批評的ポエジーが流れている。「形式としての川柳」ではなくて「川柳の精神」というようなものを考えないと、川柳は実に小さな文芸に終始してしまうことになる。

ノイシュバーンシュタイン城は観光客で溢れていた。ヴィスコンティの映画でも有名なルートヴィッヒ二世が18歳で王になったとき、最初に命令したのはヴァーグナーを自分のもとへ連れてくることだったという。彼はヴァーグナーに傾倒していたのだ。彼にとって城の建設は権力の象徴などではなくて、理想の芸術空間の実現だった。
地位も財力もない私たちは言葉によって自分の世界を構築するしかないのである。

2012年8月3日金曜日

佐々馬骨という川柳人

佐々馬骨が関西の川柳界に現れたのは2011年7月の「川柳・北田辺」(くんじろう主宰・大阪市東住吉区)の句会が最初であった。
このときの句会では席題・兼題のほかに「川柳相撲」が行われた。ジャンケンで東西に分かれ、先鋒・次鋒・中堅・副将・大将の五名を選抜、対戦直前に発表された題について三分以内に作句する。勝敗は対戦選手以外の参加者の挙手で決めるというものである。
馬骨は東方の先鋒として登場し、西方の先鋒・次鋒・中堅・副将の四人を次々に打ち破ったのであった。相手の大将には惜しくも敗れたが、馬骨の才気は参加者に強烈な印象を残した。ちなみに、このときの彼の句は次のようなものである。

オーバー追いかけすぎて追い越した恋   席題「オーバー」
クロネコヤマトがクロネコヤマト撫でる  席題「撫でる」
何者だ黄色い谷の男と女         席題「谷」
合鍵がメーター持って帰ったよ      席題「メーター」
芸名はカラオケ一曲200円        席題「名前」

翌月の8月、馬骨は京都の川柳句会「ふらすこてん」に姿を見せた。そのときの彼の句を挙げておく。

ナガサキはだいぶ先です牛屈む     席題「屈む」
ヒロシマを通りすぎては犬屈む
アスファルトのため息あたりめを裂く  兼題「裂く」
鵜飼の鵜さらに人の指はきだす     兼題「さらに」

その後、馬骨は「北田辺」「ふらすこてん」の両句会で、川柳を作り続けた。「北田辺」の句会に馬骨はいつも酒壜を持参してきた。彼自身は体調が悪くてあまり飲めなかったが、参加者にふるまっては談笑するのだった。この句会が気に入っていたのだろう。
川柳人として活動したのは約半年、次のような作品を書いている。

ルービックキューブの一室秘密基地
むかしむかしスリッパの宇宙船があった
とさかの青い鶏がいて仏門に入る
図鑑から鳥の目族が攻めてくる
鳩の糞が等高線に落ちてきた
日曜大工で納棺を作った
森にいるうしろの正面はダリ君だ
変なかけら親指と親指のあいだ
60と70が並ぶ嘘みたいに
透明な老人集う海の底
ほろほろと身軽足軽近江の出
上空にUFO竹槍を持て
世の中は底辺×高さ÷欲
深海魚新年会のあと冬眠す

「深海魚」の句は2012年1月7日の「ふらすこてん」句会での作品。とても体調が悪そうに見えた。これを最後に彼の姿は句会では見られなくなり、2012年6月7日に帰らぬ人となった。1954年生まれだから、享年58歳だろうか。部屋のカレンダーには6月24日のところに「北田辺句会」と書かれていたという。

佐々馬骨は佐々木秀昭という名の俳人であった。
出発は短歌で、塚本邦雄の門下としてスタートしたと聞いている。20年ほど短歌を書いていたようだが、俳句に転じた。佐々木秀昭句集『隕石抄』(2008年・霧工房)には次のように書かれている。

「思へば二十年ほど前から短歌を始めた私でしたがいつの頃からか自分の体内に流れる韻律は俳句であるやうな気がしてきました。手元にある記録からですと1989年5月に自分の意志で句を初めて作つたとあります。以来沢山の句会や同人誌に参加させてい ただきました」(あとがき)

美しきサイコロほどの火事ひとつ

『隕石抄』の巻頭句である。「美しきサイコロ」が喩となって「火事」に結びついていく。短歌的喩とも見えるが、五七五定型のなかに言葉が美しくおさまっている。「美しく」からはじまりながら「火事」にゆきつくところに作者の性向がうかがえる。

その辻を曲がれば梅か不幸せ

『隕石抄』の代表句と私は思っている。
辻を曲がるまで何があるか分からない。香がしているから梅だと予測できるが、ひょっとすると不幸の匂いかも知れない。ここにも作者の気分が反映されている。

句納めに思ひ出されるトニー谷
呼べば咲くねぢ式である白牡丹
七月の深爪をする家系かな
思ふ。丸、三角、死角、夏の宵
炎帝に憑りつかれゆく馬の骨
九月尽箱も爆発したいだらう
虫売りの父が呼びこむ美少年

暗い作品ばかりというわけではなく、諧謔があったり耽美的であったりもする。日常世界の背後にあるものを見る目が川柳眼とも通じるところがあって、晩年の彼は川柳にはまっていったのだろう。
俳句仲間と連句を巻くこともあったらしく、昨年の「第五回浪速の芭蕉祭」の応募作品にも連衆のひとりとして名を連ねている。入選はしなかったが、歌仙の表六句を紹介する。

白昼やふつと消えたる蓮見舟     雲水
 つぎつぎに葉を返す南風       令
杜の国ひとまたぎする夢を見て    馬骨
 練り歯磨きを絞り出す指      雲水
月光に翁面なる舞ひ人は        令
 漂白の果て二学期始まる      馬骨

『隕石抄』に戻ると…

隕石の中に淡雪眠りたる

彼が偏愛した隕石のイメージである。
私は井上靖の詩集『北国』に収録されている散文詩「流星」を思い出す。長くなるが引用しておきたい。

高等学校の学生ころ、日本海の砂丘の上で、ひとりマントに身を包み、仰向けに横たはつて、星の流れるのを見たことがある。十一月の凍つた星座から、一条の青光をひらめかし忽焉とかき消えたその星の孤独な所行ほど、強く私の青春の魂をゆり動かしたものはなかつた。私はいつまでも砂丘の上に横たはつてゐた。自分こそやがて落ちてくるその星を己が額に受けとめる地上におけるただ一人の人間であることを、私はいささかも疑はなかつた。
それから今日までに十数年の歳月がたつた。今宵、この国の多恨なる青春の亡骸―鉄屑と瓦礫の荒涼たる都会の風景の上に、長く尾をひいて疾走する一箇の星を見た。眼をとぢ瓦礫を枕にしている私の額には、もはや何ものも落ちてこようとは思はれなかつた。その一瞬の小さい祭典の無縁さ。戦乱荒亡の中に喪失した己が青春に似てその星の行方は知るべくもない。ただ、いつまでも私の瞼から消えないものは、ひとり恒星群から脱落し、天体を落下する星といふものの終焉のおどろくべき清潔さだけであった。

佐々馬骨はそのような流星として私の記憶の中で生き続けることになるだろう。


(来週は夏休みをいただいて休載します。次回は8月17日にお目にかかります。)

2012年7月27日金曜日

俳句と川柳における異界

真夏である。
陽射しが強く明るいが、それだけ闇の部分も濃く深い。

7月7日は麻生路郎の忌日である。路郎忌にちなんで「川柳塔」7月号に「川柳と俳句―麻生路郎の辞世をめぐって―」という一文を寄稿した。周知のように路郎の辞世は次の句である。

雲の峯という手もありさらばさらばです   麻生路郎

「さらばさらばです」と言ってのけるダンディズムは、さすがに路郎にふさわしいと評価の高い句である。しかし、私は、川柳人・麻生路郎の辞世に「雲の峯」という季語が入っていることに、かねがね疑問をいだいていた。そのこととからめて、臨終の路郎の脳裏に浮かんだかも知れない「川柳と俳句」の問題を論じてみた。

伊那の自然を背景にしたドキュメンタリー・フォークロア調の映画「ほかいびと」の上映をきっかけとして、井月のことが再評価されている。
製作協力者の一人・久保田夜虹氏から「伊那路」(第56巻第7号)を送っていただいた。「井月特集号」である。それまで忘れられていた井月の句集が世に出るについては、芥川龍之介の役割が大きかったことが知られている。「伊那で観る映画『ほかいびと~伊那の井月』~」(吉原千晃)では次のように書かれている。

「大正十年(1921)十月、芥川龍之介の主治医でもあった下島勲(空谷)は、『井月の句集』を出版し、はじめて井上井月を世に出した。その後、昭和五年(1930)に高津才次郎と共に出した『井月全集』が以後井月のバイブルとなる。空谷との親交から芥川龍之介は『井月の句集』に跋文を寄せ『このせち辛い近世にも、かう云う人物があったという事が、我々下根の凡夫の心を勇猛ならしむる力がある』と評している」

井月を主人公とした小説『井上井月伝説』(河出書房新社)を江宮隆之が書いていて、その序章は「大正七年夏 田端・芥川龍之介宅」である。小説では芥川と下島空谷の間でこんな対話が交わされる。

「いつか私もその井月を小説に書いてみたい。先生の話をお聞きして今、そんな気になっています。それにしても、もっと井月の俳句を読んでみたいものですねえ」
「それが、龍之介さん、多くが散逸してしまいまして……どれほど残っているか」
「それはいけないですよ!」
芥川が大声を上げた。
「はっ?」
「井月の俳句を散逸させたら、井月は過去の彼方に行ってしまいますよ。空谷先生」
「…?」
「だから、先生が井月の俳句を集めて世に出せばいいのですよ」
「井月の句集を?」
「そうです。そうすれば散逸は防げます。井月を未来に残せます。それは空谷先生、あなたの手でやるべき仕事ではないでしょうか?」

『井月の句集』は田端文士村のバックアップで世に出たのである。あと、「伊那路」掲載の「『はいかい僧 中書を訪ね』その後」(下平道子)では、井月長岡藩士説に疑問を呈し、上越市高田の「長岡(なおか)」の当正寺の出自であるという異説が出されている。

さて、芥川龍之介の辞世は次の句だと言われている。

水洟や鼻の先だけ暮れのこる    龍之介

芥川が亡くなったのは昭和2年7月24日である。「水洟」は冬の季語ではないか。
前日の23日、芥川は上機嫌であった。来客が帰ったあと、書斎から降りてきた彼は、叔母のふきに一枚の短冊を渡し、「これを明朝、下島(空谷)先生に渡してください」と言った。短冊には「自嘲」として上掲の句が書かれていた。
この句は元来、大正14年の作で、上五は「土雛や」だったという。それを後に「水洟や」に改作し、「自嘲」という前書きを付けたかたちで知られている。芥川は旧作を辞世として用いたことになる。村山古郷の『昭和俳壇史』には次のように書かれている。
「『土雛や』が『水洟や』に改められ、且つ、『自嘲』の前書が付けられたことによって、この句は写生の句から、自画像的な境涯句に変質した。そして、死の直前、下島勲に残した短冊にこの句が認められていたことによって、この句には凄愴味が加わった」

長くなったが、ここまでは前置きである。
本日は真夏に読むのにちょうどいい新書を紹介したい。倉阪鬼一郎著『怖い俳句』(幻冬社新書)である。ミステリーやホラー小説の作者で俳人でもある倉阪が選んだのだから、怖い句が満載されていることは間違いない。たとえば次のような句。

月涼し百足の落る枕もと     槐本之道

倉阪は次のようにコメントする。
「この呼吸は、図らずも、ある種のホラー映画の作り方に似ています。穏やかな風景で安心させておいて、やにわにぎょっとさせるのは恐怖を喚起する常道の一つでしょう」

俳句を「怖さ」の面から読み解くというアプローチの仕方は新鮮である。けれども、それはからめ手から攻めたというのではなくて、俳句形式そのものに由来するものである。著者は「まえがき」で次のように書いている。

「俳句の怖さは、その決定的な短さに由来します。語数が足りない俳句においては、たとえ謎が提出されても、委曲を尽くしてその謎を解くことができません。逆に、仮に解決めいたものが記されていたとしても、今度は謎が何であったか淵源へとたどることができなくなってしまうのです」
「その結果、なんとも宙ぶらりんな状態が残ります。謎が謎のままに残る小説や詩などもむろんありますが、説明が付与されない不安、ひいてはそこから生まれる怖さということにかけては、俳句の右に出る形式はないでしょう」

こうして選ばれた怖い俳句を挙げてみる。

襟巻の狐の顔は別に在り        高浜虚子
人殺ろす我かも知れず飛ぶ蛍      前田普羅
芋虫の一夜の育ち恐ろしき       高野素十
太陽や人死に絶えし鳥世界       高屋窓秋
半円をかきおそろしくなりぬ      阿部青鞋
セレベスに女捨てきし畳かな      火渡周平
雛壇のうしろの闇を覗きけり      神生彩史
帰り花鶴折るうちに折り殺す      赤尾兜子
13階の死美人から排卵がとどいている  加藤郁乎
きみのからだはもはや蠅からしか見えぬ 中烏健二

別に怖くないという向きもあろう。怖さの感覚は人によって異なっている。では、著者は何をもって怖いというのか。それは阿部青鞋の句についてのコメントによく表れているのではないかと思う。

「阿部青鞋には、不可知の領域にある『原形質のぶよぶよしたもの』に対するまなざしが抜きがたくあるように思われます。私たちが見ているこのまことしやかな世界の裏面には、言語化することができない白い不定形なものがウレタンのごとくに埋められている。その世に知られない構造を直観的に鋭く把握し、平明な言葉に定着させたのが、阿部青鞋の怖い俳句の魅力でしょう」

私の愛唱する中烏健二の蠅の句が取られているのも嬉しいが、「自由律と現代川柳」の章では次の六句の現代川柳が取り上げられている。

首をもちあげると生きていた女    時実新子
指で輪を作ると見える霊柩車     石部明
蛇口からしばらく誰も出てこない   草地豊子
目と鼻をまだいただいておりません  広瀬ちえみ
三角形のどの角からも死が匂う    樋口由紀子
処刑場みんなにこにこしているね   小池正博

石部明の句には異界をとらえるアンテナがあり、広瀬や樋口の作品には現実を変容する川柳の眼がある。「怖い川柳」を私なりに挙げてみようかと思ったが、もう長くなるので止めておく。
私は「写生」という言葉には違和感をもっており、目に見えるものだけがすべてではないだろうと思っているが、倉阪の選んだ俳句は新鮮で、俳句にも広々とした表現領域があることを納得させられた。巻末の文献一覧にあるように、このアンソロジーを編むには膨大な句集を読む必要があったことだろう。
川柳も読むことから始めなければならない。

2012年7月21日土曜日

川柳カードをどう切るか

短詩型文学は実作が中心で「批評」という営為は必ずしも重視されているとは限らない。「批評家」という呼び方には否定的ニュアンスが込められる場合がある。偉そうなことをいうなら自分で作ってみろ、というわけである。小説の場合は作家と批評家の分業が確立されているが、短歌や俳句の場合は実作者が批評も兼ねているから、実作に重点を置く傾向は避けられない面もあるのだろう。特に川柳においては、ひたすら実作あるのみである。

このような状況の中で、最近「批評」ということに関して注目した文章が二つあった。
一つは短歌誌「井泉」46号に掲載された江田浩司の「批評への意志を心に沈めて」である。同誌のリレー小論「短歌は生き残ることができるか」の一環として書かれた文章だが、江田はこんなふうに述べている。

「短歌への否定的な発言が、歌人の内部から生まれる限り、短歌は生き残ることができる。それは、パラドックスでもなんでもない。表現の自然な摂理と言っても間違いではないだろう。短歌の否定論や滅亡論が繰り返し現れるのは、表現としての健全さを短歌が担保しているという証左である」
「自己の創作に基づく、狭隘でエゴイスティックな肯定性が、批評の場で発揮されるだけで、若い世代、来たるべき世代に、希望を与えるような批評が提示されなければ、短歌は伝統芸としての道を歩み続けるだけである」

そのような若い世代に希望を与えた批評として、江田は1975年の岡井隆の批評を例に挙げている。5年の空白期間を経て歌壇に復帰した岡井は短歌時評で次のように書いている。

「実感とか事実とか生活とか、かつて二度も三度もだまされたはずの空手形を信ずるふりをしてみたって、結果のむなしさはわかっているのに、未来が見えなくなると人は、過去をふりかえっては、そのくせ手近なところで藁をつかみたがる」(1975年「読売新聞時評」「歌集評釈のすすめ」)

岡井の文章を引用したあとで、江田は「短歌創作の意志に、自己批評を含む批評の意志が、有機的に結びついていかない限り、短歌の新たな地平は拓かれてはいかない」と述べる。心をうつ文章である。批評性を生命とする川柳が自己自身に対してだけは批評の意志を向けないのは不思議なことである。同人誌「ES」23号には江田の『緑の闇に拓く言葉(パロール)』の近刊予告が掲載されている。楽しみにして待つことにしよう。

二つ目は、「円錐」の編集後記に記された今泉康弘の一文。
「俳句総合誌の作品がつまらないのは、『つまらないぞ!』とハッキリ言わず、ほめ合いに終始しているからだろう。真剣に批判するのはシンドイ。とにかく褒める方が楽だ。そのことを最近になって身にしみて知った」
私はこの文章を「豈」53号に転載された大井恒行の文章から孫引きしているのだが、大井は今泉の文章を引用したあと、「自らも批評だけではなく俳句を書く彼にとって、他者への批評の刃は自らを切りつける。それが冒頭の『真剣に批判するのはシンドイ!』という吐露につながっているのではないか」と述べている。

7月1日に「川柳カード」創刊準備号という20ページの薄っぺらな冊子が発行された。
赤を主体とした表紙に、「SENRYU」のカードがデザインされている。中の一枚には何も書かれていない。
「シャッフルの時代」と言われて久しい。「シャッフルの時代」とは「ジャンル越境時代」ということだろう。短詩型の諸形式をカードにたとえてみると、短歌カード・俳句カード・川柳カードなどがある。従来は、それぞれ独立したジャンル内で作品が読み書きされていたのだろうが、カードをシャッフルするようにジャンルの越境がはじまっているという認識である。
これまで川柳は内向的であった。短詩型の他ジャンルに対して川柳を発信するという意識に乏しかった。もっと川柳というカードを使ってみたい気がする。

発行人の樋口由紀子は巻頭言で、レディー・ガガのシューズをデザインした日本人・舘鼻則孝(たてはな・のりたか)のことを取り上げている。彼は大学の卒業制作の作品を世界中のファッション、セレブ関係者にメールで売り込んだ。それがガガのスタイリストの目にとまって注文が来たという。メールで売り込むこと自体は誰でもできることである。彼が逆に気づかされたのは「意外にみんなやってないんだ」ということだった。この話の後で、樋口は次のように言う。
「川柳にも『意外にみんなやってない』ことがたくさんある。誰でも出来るのに、誰も禁止していないのに、自由にやれるのに、やってないことが山ほどある」

短律は垂れる分け合う空の景       清水かおり
バスタブの豆腐百丁ならどうぞ      平賀胤壽
まなうらにリング善人ばかり見え     丸山進
なぜなぜと偏平足を差し出せり      草地豊子
三日ほど咲いたら雨に負けている     広瀬ちえみ
球体の茶室でさがす膝の向き       兵頭全郎
たくさん食べてペンペン草になるんだよ  松永千秋
整形が済み賑やかな野菜市        小池正博
日に札を透かしてみれば三畳紀      筒井祥文
全世界冗談にする桃二つ         樋口由紀子

10人が各10句ずつ作品を発表している。
これに小池正博の評論「関係性の文芸―川柳という原理について―」が付く。
「関係性」は現代思想のキイ・ワードである。ソシュールの影響を受けたものなら、誰でもこの言葉を使うだろう。
すでに堺利彦の『川柳解体新書』(新葉館・平成14年)には次のように書かれている。

「十九世紀から二十世紀への思想は、『〈実体〉から〈関係〉へ』という大きな転回がありました。ここでいう〈関係〉とは〈相対〉と同義であって、いわばそれまで〈絶対〉的なものとして考えられていたものが、ものごとの関係性を通して相対的に捉えられ、じつは〈実体〉というものはなく、そこにあるのは単にものごとの〈関係〉を通して認知される〈差異〉に過ぎないということがあらわになったわけです」
「〈川柳のまなざし〉は、こうした相対主義思想の遙か以前から〈実体〉を突き崩し、ものごとを〈関係〉として捉えていたと言っては身びいき過ぎるでしょうか」

小池の文章は「関係性」をキイ・ワードにしながら、萩原朔太郎の『詩の原理』にならって、形式論と内容論から川柳を素描している。大きく出たものである。

「川柳カード」創刊号は11月下旬に発行の予定。
9月15日(土)には大阪・上本町で「川柳カード・創刊記念大会」が俳人の池田澄子をゲストに迎えて開催されることになっている。

2012年7月13日金曜日

めでたさも中くらいなり100回目

川柳の時評というものは果たして可能だろうか。
文芸時評・短歌時評・俳句時評は確立されているのに、「川柳時評」が見当たらないのはもの足りないことである。
そう思って「週刊川柳時評」を立ち上げたのが、2010年8月。今回で100回目になる。特に記念というほどでもないが、これまでの記事を振り返って次へ進むことにしたい。

当初の私の計画では「週刊川柳」あるいは「週刊バックストローク」というかたちのウェッブ・マガジンを目指しており、周囲の川柳人に相談してみたが、「そんな無謀なことはやめておけ」と止める人は誰もいなかった。毎号、川柳作品・評論・エッセイなどを掲載するつもりだったのだから、今から考えれば恐ろしい。誰も止めないので、逆にこれは危ないと思い、スキルもスタッフもない状態では無理だという判断をしたのは賢明だったというべきか。企画を縮小して「時評」に特化することになった。
2010年6月ごろのファイルに「週刊バックストローク」のプランが残っている。実現しなかったプランを公開しても意味のないことだが、話のタネとしてご容赦いただきたい。
「週刊バックストローク」創刊号の誌面は五つの部分から構成される。

①作品A 現代川柳(新作) 5句
②作品B 近代・現代川柳 中村冨二 10句
③原稿C 評論またはエッセイ
④時評D 「川柳時評」
⑤連載E

当時、青磁社の「短歌時評」がおもしろく、二人の執筆者が交替で時評を掲載していた。そのイメージで、執筆者が4人なら一人当たり月一回で負担も少ないと思ったりした。時評の内容は次のように考えていた。

①句会・大会レポート
②柳誌評
③句集評・川柳書の書評
④現代川柳の諸問題
⑤月評(今月の展望)

プランをあれこれ立てるのは楽しいものである。しかし、実現するとなると、10考えたことのうち3くらいできればよいほうである。そういう意味では私はイデア論者なのだ。イデアの世界は美しいが、現実化するとぐちゃぐちゃになってしまうのが常である。その中でどのようにしてクオリティを保つことができるか。「週刊川柳時評」はそういう夢の欠片である。

そもそも「川柳時評」の場合、俳句・短歌のように総合誌が何種類もあるわけではないし、川柳句集が次々に刊行されることもない。題材やトピックスに困るだろうと思っていたが、実際に始めてみると予想以上のことであった。川柳以外の話題も取り上げているのは苦し紛れでもあるが、短詩型文学全体の中で川柳の現在位置をとらえたいというつもりもある。川柳自体の話題を正面から取り上げることができる週は書いていても嬉しい。
毎日50~60のアクセスがあり、月1800程度。100回で30000を少し超えたところである。
アクセス数の多かった記事を紹介する(グーグルではアクセスではなく、ページビューと言っているようだ)。

「難解」問題は権力闘争だったのか(2011/2/4)         773
『番傘百年史』を読む(2010/10/15)                342
『超新撰21』を読む(2010/12/17)                  210
橘高薫風の抒情(2011/4/15)                  165
『麻生路郎読本』(2010/11/12)                  165
くんじろうの川柳(2010/11/5)                    134
川柳・今年の10大ニュース (2010/12/10)           129
句集評ということ―『魚命魚辞』と『アルバトロス』(2011/4/2)  119
春なのにお別れですか(2012/3/30)                  116
大友逸星と「川柳杜人」の歩み(2011/5/20)            109

10大ニュースは2011年にも行なったが、なぜか2010年の分にアクセス数が多い。
タイトルの付け方にもよるのだろう。「春なのにお別れですか」は訃報が続いたのでこういうタイトルにしたが、中島みゆきの歌で検索する人があったのかも知れない。
アクセス数トップの「『難解』問題は権力闘争だったのか」は「俳句の難解と川柳の難解」(2010/8/27)から派生して、関悦史人気にあやかったものである。
あと、自分でも印象に残っているのは次の回である。

川柳における「宛名」の問題(2010/11/19)
柴田午朗の「痩せた虹」(2011/1/7)
白石維想楼小論(2011/6/17)

振り返ってみると、この間、「川柳時評」で取り上げてきた内容は次のように分類できる。

①川柳の本質をめぐる問題(難解問題・言葉派・問答体など)
②川柳史・川柳史観をめぐる問題
③川柳作家論
④大会レポート・川柳の「場」をめぐる問題
⑤その他隣接諸ジャンル・芸術をめぐる問題(連句・雑俳・岡本太郎・映画・落語など)

とはいえ、これらは私の中ではすべて川柳の問題だったことになる。
現前する問題をこれまでの川柳史の流れのなかで適切に掴みとってくることができるだろうか。この時評にもそろそろマンネリズムが忍び寄っている気配である。

二年間の時間の流れも中途半端なものではなく、川柳をめぐる状況も変化してきている。「バックストローク」はすでになく、私自身のこれからの川柳活動は11月に立ち上げる新誌「川柳カード」を中心に展開するつもりである。
今回は100回目ということで楽屋裏の話に終始してしまった。次回から本来の時評に立ち戻りたい。

故郷へ廻る六部は気のよわり   『柳多留』初篇

2012年7月6日金曜日

川柳の根本精神をめぐって―田口麦彦著『川柳入門』

6月30日(土)
「ほかいびと・伊那の井月」がいよいよ今日から大阪でも上映されることになったので、さっそく見に行った。場所は九条のシネ・ヌーヴォ。あいにくの雨。
井月のことは石川淳の『諸国奇人伝』で知ったから、随分以前から井月には関心があった。つげ義春「無能の人」という漫画もある。伊那に山荘をもっている連句人の久保田堅市氏から井月の映画化の話を聞いたのが4年前で、伊那の井月の俳諧史跡を訪ねたのが2008年5月。六道堤や井月墓などは鮮明に記憶に残っている。
監督は北村皆雄。主演は田中泯。北村監督はドキュメンタリー映画を撮り続けていて、民俗学にも詳しいという。ドキュメンタリー・フォークロアという用語もあるらしい。井月に扮する田中泯以外はプロの俳優を使わず、地元の人々が演じている。その表情が自然だ。中には監督の小学校時代の先生や郷土史家などもいるという。
上映後、北村監督と上野昂志(映画評論家)のトークを聞いた。監督は伊那の出身。伊那を飛びだした彼が故郷をどのような気持で映画化したのだろうと考えながら対談を聞いていた。
帰り道、九条の商店街でひとり居酒屋に入る。この街はけっこう呑み屋が多い。居酒屋探訪が楽しめそうだ。

7月1日(日) 
玉野市民川柳大会。雨。
岡山駅から茶屋町乗り換え、宇野駅に着く。
会場には10時40分ごろに到着。投句〆切が11時半。急いで句を書く。
出席者120名くらいで、ひとり二句出句だから250句近い句数になる。そこから平抜き43句、佳吟5句、準特選1句、特選1句。
兼題「模様」の選をする。
いずれ発表誌が出されるが、私が選んだ特選句だけ紹介する。

想い馳せると右頬にインカ文字   内田万貴

7月3日(火)
森田智子の第四句集『定景』(邑書林)を読む。
第一句集『全景』、第二句集『中景』、第三句集『掌景』だから、こだわりのある句集名である。森田は俳誌「樫」の代表。野口裕に誘われて一度句会に参加したことがある。

走馬灯真上から見る無神論  森田智子
コスモスは紀音夫の宇宙風微か
五月くる楽観主義のオランウータン
先に来て凧揚げている待合せ
春愁の感情線に塩を振る

7月5日(木)
田口麦彦著『川柳入門・はじめのはじめ』(飯塚書店)を読む。
田辺聖子の序文「川柳の根本について」では次のように紹介されている。

ここで田口さんは、やさしい文章で説明されてはいるものの、川柳の根本精神をまず提起していられる。氏はそれを「こころざしが必要」という言葉で表現されている。文明批評の精神を根本に据え、人間諷詠を中心にしたものが川柳である、と。

川柳に「こころざし」が必要とはどういうことだろう。
第三章「川柳との出会い」の中に〈 はじめに「こころざし」ありき 〉という部分がある。川柳は短歌・俳句とくらべて文芸価値の低いものなのだろうか、という問題提起のあとで田口は次のように述べている。

私は、そのようなことは決してない―と、信じております。川柳を作るためには、「こころざし」が必要なのです。それも、「人間が生きて行くということは、どういうことなのだろう」と、問いかける強い「こころざし」が出発点になるのです。

そして田口が川柳を書く出発点が語られる。昭和28年6月、九州地方を襲った大水害(6・22熊本大水害)を前にして呆然と立ちすくんだ麦彦は、生きている証しとして川柳を書き始めたという。

水引いて誰を憎もう泥流す   田口麦彦

火災によって無一物となってから「川柳の鬼」となった定金冬二、男性社会に挑戦して独自の世界を切り開いた時実新子、田口の師匠の大嶋濤明のことにも触れられている。
「こころざし」と言われると身を引いてしまうし、私なら「こころざし」という言葉は使わないが、人が川柳をはじめるときの「何か」。それを田口は「こころざし」と呼んでいるのだろう。「それ」があるから川柳を書き続けられるし、さまざまな事情で川柳から離れざるをえなくなっても結局は川柳を捨てられないような何か本質的なもの。そういうものをもっているのが本当の川柳人なのだろう、と考えた。

長靴の中で一ぴき蚊が暮し     須崎豆秋
大宇宙両手ひろげた巾のなか    大嶋濤明
この溝を一緒にとんでくれますか  高橋かづき

7月6日(金)
このブログも今日で99回を数えた。
次週は100回目となるが、ふだん通りに書くか、それともささやかでも何かの特集にするか。そのときの心のままにまかせることにしよう。

2012年6月29日金曜日

段駄羅の話

阿刀田高の『おとこ坂おんな坂』には12話の短編小説が収録されているが、言葉遊びの好きな著者だけに作中にさまざまな短詩型文芸が登場する。第一話「独りぼっち」では、バーにやって来る客の一人が回文に凝っている。「名作ができてねえ。ママに褒めてもらおうと思って」という彼が作った作品は

濡らしては初夜ははやよし果て知らぬ

という回文である。「(上から読んでも下から読んでも)世の中馬鹿なのよ」と歌ったのは日吉ミミだったが、私が最近耳にした風刺的回文に「保安院全員あほ」というのがある。怒る人があるかも知れないが、目くじらを立てることもないだろう。
第九話「恋の行方」では輪島塗の職人たちに広まっていた「段駄羅」という言葉遊びが重要な役割を果たしている。次に挙げる実例は段駄羅の代表的作品で、阿刀田の小説にも出てくる。

甘党は 羊羹が得手
      よう考えて  置く碁石     島谷吾六

中七の部分を掛け言葉にすることによって二重の意味をもたせ下五に続けていく文芸で、雑俳の分類で言えば「もじり」の一種と考えられる。
第二話「爪のあと」では万葉集の狭野弟上娘子の短歌をストーリー展開にうまく使うなど、短詩型文学作品を恋愛の機微に結びつけているのは心にくい。小説に上手に取り込むことで、読者が短詩型に興味をもつきっかけになったりする。

『ことば遊びの楽しみ』(岩波新書)でも阿刀田は段駄羅のことを次のように紹介している。
「段駄羅を知っていますか。
能登の輪島地方に伝わる充分に精緻なことば遊びなのに、一般にはあまり知られていない。大きな国語辞典にも載っていない。なぜなのだろうか。
私自身は木村功著『不思議な日本語・段駄羅』(鞜青社)で初めて知った」

この段駄羅研究家・木村功氏(大阪府堺市在住)をお招きして、先日6月24日に大阪・上本町の「たかつガーデン」で「第2回大阪連句懇話会」が開催され、「雑俳の話」をしていただいた。関西の連句人を中心とした集まりであるが、参加者の中には阿刀田高の小説を読んで段駄羅に興味をもった人もいたようである。
当日のレジュメは15ページに及ぶもので、雑俳・前句付から始まって段駄羅まで興味深い話の連続であった。その中から、いくつかの点をピックアップして紹介してみたい。

「一つの句に二つの季節を詠んでもOKの段駄羅」ということ。レジュメには次のようにある。
「俳句は季節感を大切にしますが、一句のうちに二つ以上の季語が入ることを『季重なり』と言って、一方が主であることが明白な場合などを除いて、『季重なり』を嫌います。これに対して、雑俳の一種である段駄羅は、中七の『転換の妙』の追求が第一義ですので、季語の有無にはまったくこだわりません。中には、一句の前・後半に、二つの季節が意図的に詠まれる場合もあります」
例として次の句が挙げられている。

春の野辺 蝶、飛びまわり
       ちょうど向日葵 燃える夏   夢岡樽蔵

夢岡樽蔵(ゆめおか・たるぞう=夢を語るぞう)は段駄羅作者・木村功のペンネーム。阿刀田の小説にもこの名で紹介されている。掲出句は上五が春、下五が夏になっている。連句の「季移り」の場合を考えあわせると、たいへん興味深い。

段駄羅連句というものもあり、笠段々付のように前の句の下五を次の句の上五に用いてつなげてゆくものである。

昼寝酒 今日だけのこと
      京、竹の子と  夏は鱧    徳野喜一郎

夏は鱧 湯引き理想ね
      指切りそうね 子の刃物    坂本信夫

子の刃物 用途を違い
       酔うとお互い 泣き上戸   宮下三郎

こんなふうに続いていく。
昼寝酒→夏は鱧→子の刃物というように世界が変化していくところは連句と同じである。
では、次の句はどうだろう。

すがしがし 元旦の雪
        寒暖の行き めぐる四季   山田二男

段駄羅は「中七の転換の妙」を生命とするから上五と下五はまったく別の世界になることが評価される。この点は連句の三句の渡りと同じで、連句では「観音開き」といって元に戻ることが嫌われる。
ところが別の考え方があって、阿刀田高は『おとこ坂おんな坂』で次のように書いている。作中人物の会話である。

「上の五と下の五との関係がないほうがいいらしいの。それが正統派だって。今の例なら『甘党は羊羹が得手』と、『よう考えて置く碁石』と、意味がべつべつで関係がないじゃない。甘党と碁石と関係がなければないほど、いいって」
「よくわかんない」
「でも先生はそれはおかしいって。七のところをかけ言葉にして二つの意味を持たせて、どっちの道を通っても全体がまとまりのある二句になるほうが、ずっと創るのがむつかしいし、おもしろいって」
「新しい流派を創るわけ?」

転じを生命とし、元に戻ることを否定する連句的価値観とは異なる部分もあるが、当日の木村氏のお話の中で最も興味深い問題提起であった。

2012年6月22日金曜日

夢の操縦法

サン=ドニ侯爵の『夢の操縦法』(立木鷹志訳・国書刊行会)が出版された。
エルヴェ・ド・サン=ドニ侯爵といえば、澁澤龍彦の『悪魔のいる文学史』にも登場するし、アンドレ・ブルトンの『通底器』の冒頭でも取り上げられている。夢の研究ではフロイトの『夢判断』やハヴロック・エリスの『夢の世界』が有名だが、エリスもフロイトもサン=ドニのこの本を探し求めたけれども、ついに実物を目にすることができなかったのである。それがいま日本語で読める。
サン=ドニは見た夢を自由自在に記憶することができたという。
「ある日、(私は十四歳だったが)、生き生きとした印象の特別な夢を素早く記録したらどうかという考えが浮かんだ。面白そうだったので、すぐに専用のノートをつくり、そこに夢の光景や形象を、それがどんな状況でもたらされたのかという説明と一緒に描いたのだった」
「思考のない覚醒がないように、夢のない眠りはないという考えが少しずつ信念となったのである。と同時に、私は、習慣の影響を受けながら、もっと深くまで観察する能力、睡眠のさなかで自分を意識し、夢の中で覚醒時のように配慮する能力、したがって、必要ならば流れに身を任せながら、それを記憶しつつ夢を見続ける能力が、私の中に生まれたのがわかったのである」

ハヴロック・エリスによれば、夢に関する著述の方法は次の四つに分かれる。
1 文献的方法
2 臨床的方法
3 実験的方法
4 内部観察的方法
『夢の操縦法』は内部観察的方法に属するだろうが、実験的方法も一部入っている。「夢日記」というやり方は日本でも明恵上人の『夢記』がよく知られており、河合隼雄は『明恵・夢を生きる』を書いている。

本書の解説からサン=ドニの主張する夢の原理をまとめておこう。

原理1 夢のない眠りはない。
原理2 夢のあらゆる像は、現実の生活の中から集められた記憶の陰画紙から生まれる。言い換えれば、われわれはかつて見たことのあるものしか夢に見ない。
原理3 眠りの中で考えよ、それが夢となって現れる。

サン=ドニの「明晰夢」の一例として「乗馬の夢」がある。
ある天気のよい日に彼は馬に乗って散策していた。彼は自分が夢を見ているのが分かり、夢の中で思い浮かんだ行為を思い通りに実行できるかどうか知りたいと思った。この馬は幻覚であり、風景も幻覚にすぎない。自分の意志でこの夢を作り出したのではないが、少なくとも意識的に操作できるという感じがあった。軽く駆けたいと思うと馬は駆け、止まりたいと思うと止まった。目の前に二手に分かれる道があらわれた。右に行けば森、左にゆけば城館だが、左に進んだ。目が覚めたときに何がこの夢の原因だったのかが分かるように城館の細かい構造を覚えておこうと思ったからだ。…
このような感じで夢が続き、突然目が覚めたという。本当かなという気もするが、まさに夢の操縦なのであろう。
近ごろレム睡眠・ノンレム睡眠という用語を耳にするが、明晰夢は睡眠のどの次元に当るのだろう。

畏友・島一木はよく「夢中作」ということを言っていた。
夢の中で俳句を作るというのである。
友人たちはあまり彼の言うことを信じなかった。「それって本当は目が覚めて作ってるんじゃないの?」というわけだ。
本書でも「君は眠っているのではないのだ。君の語る奇妙な眠りは、本当の眠りではないのだ」という反論が侯爵に向けられている。
夢の中で句を作る、目が覚めると作品ができている。うまい話のようだが、それにはトレー二ングを必要とする。
本書の終章で、著者は「眠りの幻想を支配するに至るための基本的な三条件」をまとめている。
1 眠っているときに、眠っている意識をもつこと。これは、夢の日記をつけるだけで、かなり短期間で習慣となる。
2 ある感覚を思い出して一定の記憶と結びつけること。睡眠中にこの感覚が現れたとき、われわれが結びつけた思考=夢を夢の中に導入するためである。
3 したがって、思考=夢が、夢の舞台をつくり、思考の原則に基づいて展開してゆくように(夢を見ていることを知るのに欠かせない)意志を働かせるとき、それが夢を操縦するということである。

夢と正面からとりくんだ川柳人は寡聞にして知らないが、無意識の世界に対してならば一時期の山村祐が関心をもっていたようだ。
「詩はなるべく説明をさけて、作者の思いを感じとらせようとする表現である。どんなに説明や描写を繰り返しても、それだけでは伝え切れない思いの、微妙なニュアンスを、詩の表現はかなり果たしてくれる。意識と無意識の世界は、心理学者が説くように、互いにせめぎ合いながら精神のバランスを保っているのであるならば、意識の世界のみを表面から撫でまわして、写しとるだけでは、人間の思いを深く、正確に表現することは不可能である」
「シュールレアリズムは二十世紀の絵画や詩の性格を一変させたと言われている。ウィーンの医者フロイトが無意識の世界へメスを入れてから、その自由連想による深層心理への探検の方法を詩も採り入れて、自動記述法が開発された。新フロイト派やユングの学説などの展開もあって、シュールレアリズムも変貌していったが、しかし無意識の世界の働きを考えないでは、もはや現代の詩は語れないという言い方は許されるであろう」
(『新・川柳への招待』)
山村は「詩」という言い方をしているが、彼にとって現代川柳は詩の一分野だったから、文中の「詩」はそのまま「現代川柳」に当てはまる。

次に挙げるのは夢に関する実験のひとつ。
サン=ドニの友人に「眠りの最初の段階で夢を見たことはない」と断言する男がいた。寝てからすぐに起こしてみたが、彼はどんな夢もみなかったと自信をもって主張した。ある晩、侯爵は彼が眠ってからベッドに忍び寄り小声で「捧げ銃、構え」と命令してから、静かに彼を起こした。
「ねえ君、今も夢を見なかった?」
「うん、何も見なかった」
「もう一度思い出してみて」
「どう考えてもぐっすりと眠ったとしか思えないね」
「本当に…兵隊とか見なかった?」
「そうだ。思い出したよ。閲兵式に参加した夢を見た。でも、どうして分ったの?」

切られたる夢はまことか蚤のあと  其角

2012年6月15日金曜日

その言葉はあなたの言葉ですか

ボルヘスの『ブロディの報告書』が岩波文庫に入ったので読んでみた。このところ岩波文庫はボルヘスの作品に力を入れている。私のボルヘス読書体験は篠田一士を経由しているから、ボルヘスは前衛作家と受け止めている。ラテンアメリカ文学に関しては、集英社から刊行された「世界の文学」「ラテンアメリカの文学」のイメージが強く、そこにはラテンアメリカの土俗的にして前衛的な作品が並べられていた。ウンベルト・エーコ原作で映画化された「薔薇の名前」に登場する盲目の修道士(図書館長)はボルヘスをモデルにしていて、映画も原作も随分楽しませてもらった。
「ブロディの報告書」はボルヘス晩年の作品で、アルゼンチンの無法者たちを中心に描かれている。「私はボルヘスだが、こんな作品も書けるんだよ」という感じで、それなりに面白かったものの、期待した前衛性は失われていた。前衛であり続けるのはむつかしいことである。訳者の鼓直氏には大橋愛由等詩集『明るい迷宮』の出版記念会でお目にかかる機会があり嬉しかったのである。

さて、先日(5月11日)、慶紀逸250年について触れたが、当日の講演を記録した冊子を送っていただいた。「俳諧史から見た慶紀逸」(加藤定彦)、「川柳と『武玉川』」(尾藤三柳)の二つの講演が収録されていて参考になる。
加藤定彦は点取俳諧の流行などの時代背景を丁寧に説明しながら、『武玉川』と慶紀逸について述べている。興味深いのは、慶紀逸についての江戸時代の評価で、掃月庵弄花稿本の『家童筆記念』では、「ただ評物を催し角力を催し、銭取る事のみをたくみける点者多し。就中、紀逸といふ点者より俳諧師は外道に落ち入りたり」「新たに句作するを好まず、古句古句とばかり思ひ寄る事なり。是れ、古句を集めたるの罪甚だし。焼き直しの根元は紀逸なるべし」とさんざんに貶している。また、幕末の天保三年『続俳家奇人談』では「今、江戸俳諧と称するはこの人を以て其権輿とす。されば、一時流行して財をえしも、遂には又おとろへて貧し」とある。
「いわば代表的な俳諧点者であったけれども、蕉風の立場からすると、どうも余り好ましくない、そういう俳諧師、宗匠、判者だと評されている」というのが加藤のまとめである。

続いて尾藤三柳の「川柳と『武玉川』」は『柳多留』と『武玉川』の共通点を挙げている。

「川柳文芸は『武玉川』から始まるといえそうである」(山澤英雄)
「武玉川はフモール、柳多留はサテール」(中村幸彦)

その上で、三柳は「はめ句」の問題を取り上げている。
「『はめ句』というのは、古くは『舐句』とも呼ばれ、前句附特有の不正投句で、出題された前句に合いそうな附句を、既成の前句附集から探し出して投句する純然たる剽窃である」
「『柳多留』の佳句として、作者ならびに選者の資質をも高めている句が、実は目の前にある他誌から盗られているという事実を、単なる重複句として看過することができるだろうか。『武玉川』と『柳多留』とは、先行書と模倣書という関係以上に、複雑によじれ合っているのである」

腰帯を〆ると腰が生きて来る(『武玉川』原句)
腰帯を〆ると腰も生きてくる(「川柳評万句合」はめ句)
腰帯を〆ると腰は生きてくる(『柳多留』御陵軒可有訂正)

「触光」27号に発表された第2回高田寄生木賞についても以前触れたが(6月1日)、その選評をめぐって二つの点を補足的に考えてみたい。改めて紹介すると、大賞を受賞したのは次の作品である。

怒怒怒怒怒 怒怒怒怒怒怒怒 怒怒と海    山川舞句

中七の「怒怒怒怒怒怒怒」の活字は反転して表記されている。選者のうち渡辺隆夫が特選、野沢省悟が秀逸に選んでいる。渡辺は「3・11を一句で表現すればこうなる」と述べ、野沢省悟は
「川柳の表現方法はたくさんあるが、この句のように、視覚的に聴覚的に表現された作品は稀少である。川上三太郎に、
   恐山 石石石石 死死死
があるが、作者の強い思いがなければ一句として成立しないと思う」と書いている。
また、「金曜日の川柳」(「ウラハイ」6月1日)で樋口由紀子も取り上げているので、そちらもご覧いただきたい。
気になるのは、「週刊俳句」の読者のコメントで、活字の反転は過去の作品や他ジャンルでは珍しいものではないという指摘があったことである。現代詩における昭和初年の表現革命の際にさかんに試みられたし、川柳でも一時期の木村半文銭の作品に頻出する。
誤解しないでほしいが、私は大賞作品を貶めているのではなく、活字表現の斬新さを言うだけでは短詩型文学の表現史に詳しい読者を納得させられないということなのだ。

「触光」の寄生木賞の選評に話を戻すと、樋口由紀子はこんなふうに感想を述べている。
「川柳を書いている人はいい人が多いのかと、皮肉も少しこめて思った。ほとんどの人がテレビや新聞などで報じていることをそのまま真に受けている。もっと感心するのは、心情まで左右されていることである。みんなが感動することに感動し、みんなが怒ることに怒り、みんなが悲しむことに悲しんでいる。頭の中にインプットされたことそのままを自分の考えだと思っている。そして、それらを句にしている」

樋口の問題提起を私なりに敷衍してみよう。
作者が自分の言葉だと思って書いた場合でも、実は新聞・テレビなどで耳にする言説とほとんど同じ場合がある。即ち、誰もが言っていることを自分の作品として述べているに過ぎないことが多い。そこで、「その言葉は本当にあなたの言葉なのか」と問い直してみることにしよう。「私が書いたのだから、私の言葉に決まっているじゃないか」と怒る人もいるだろう。しかし、言葉には意味や普遍性があるから、百%独自の言葉というものはありえない。また、人間の発想も似たようなものだから、一つのテーマについて類想・同想が避けられない。恐いのは、作者が自分独自の表現だと思っていても、読者の目から見ると常套的で陳腐な表現にすぎないケースが多々あることである。さらに、無意識的な圧力によってある表現をとらされていることがあり、その場合は作者の自己表現ではなく世論や常識によって「言わされている」ことになる。

かつて五十嵐秀彦は「週刊俳句」(2011年5月22日)の時評、「それは本当にあなたの言葉なんですか」で似たような問題を取り上げたことがある。「それは…」とは森村泰昌の発言である。文脈はそれぞれ違うが、問題性は共通すると思う。

さらに遡れば、「バックストロークin大阪」のシンポジウムで彦坂美喜子は「言わされている」という問題を取り上げた。彦坂はこんなふうに発言している。

「1980年代、俵万智『サラダ記念日』以後のニューウェーブの時代になりますと、もう一度『私』の問題が出てきます。その背景には電脳社会、情報化社会の拡大があり、パソコンなどが出てきます。そういう社会のなかでは、『私』が何かを決定するということが次第にあやふやになってきます。例えば『私』が欲しいと思ったものが、実はファッション雑誌などに載っていて、みんながいいと言っているという過多な情報によって、欲しいと思わされているのではないか、ということです。表現もそれと同じで、本当に『私』が心から思ったのかどうかが疑われてきます」(「バックストローク」29号)

現代の高度資本主義社会(情報化社会)において、欲望や言説までもが実はそう仕向けられているのではないかと問うことは必要である。批評性を本来の持ち味とする川柳がこのことに鈍感であってよいはずはない。
その言葉はあなたの言葉なのですか。

2012年6月8日金曜日

映画と川柳

映画「ジェーン・エア」が封切になったので、さっそく見に出かけた。ジェーン役は「アリス・イン・ワンダーランド」(ティム・バートン監督)に出ていた女優ミア・ワシコウスカヤ。「ジェーン・エア」は何度か映画化されているが、ジョーン・フォンテインのイメージが強いと言えば古すぎるだろうか。今回の映画はジェーンの性格に焦点が当てられ、ワシコウスカヤには個性的な存在感がある。ジェーンとロチェスターがどうなるのか分りきっているのに惹き込まれるものがあって、客席では往年の文学少女・文学青年たちが画面に見入っていた。監督は日系アメリカ人のフクナガという人。ティム・バートン監督、ジョニー・デップ主演の「ダーク・シャドウ」も話題になっているし、文芸映画ではソクーロフ監督の「ファウスト」も上映中。ソクーロフといえば、島尾ミホが延々と語り続ける映画「ドルチェ優しく」が印象に残っている。「死の棘」に描かれたミホさんの風貌に接することができる貴重な作品である。

さて、映画を見て川柳を作るという方法があり、1930年代に川上三太郎が「未完成交響楽」を見て作った連作あたりを嚆矢とする。映画はシューベルトが「未完成」を作曲するに至る恋愛を軸としているが、三太郎はこんなふうに詠んでいる。

およそ貧しき教師なれども譜を抱ゆ     川上三太郎
わが曲は街の娘の所有(もの)でなし
四月馬鹿驕りに尽きし嬌声(わら)ひ声
矜持とはさへづる中の唖の声
家庭音楽教師に春の姉妹
りずむ―それは貴女(あなた)の顫音(こえ)のその通り
君や得し黎明愛の花ひらく
嫁ぐ女性(ひと)の涙に消えし泣菫譜
わが恋も曲も終らじ人の世の
アヴェマリアわが膝突いて手を突いて

ルビが多くストーリーをそのままなぞっているような作品群である(差別用語も使われているが、もとのまま引用)。映画を見ていないので断定はできないが、ネットで検索してみるとシューベルトが楽譜に「わが恋の成らざるがごとく、この曲もまた未完成なり」と記して映画が終わるというから、「わが恋も曲も終らじ人の世の」などの句はそのまんまである。作品の完成度より映画を見て連作を作るという方法そのものが当時は新しかったのだろう。この作品の前年には、日野草城の連作「ミヤコホテル」が話題になっていた。

小説と映画との関係について、私が興味をもっているのは1926年に衣笠貞之助が横光利一と組んで結成した「新感覚派映画連盟」である。
横光の「日輪」はフローベールの「サラムボー」にヒントを得て書かれ、卑弥呼を主人公にした小説である。衣笠は「日輪」を映画化し(1925年)、横光と衣笠の交流が始まった。ちなみに映画「日輪」は市川猿之助(猿翁)一座の出演で、卑弥呼を主人公とすることが冒涜とされて上映中止になったという。新感覚派映画連盟は1926(大正15)年に設立され、川端康成の脚本で製作されたのが「狂った一頁」である。

新感覚派映画連盟の作品はこの一本で終わったのだが、「狂った一頁」のフィルムは現存しないと思われていたところ、1971年に衣笠監督の自宅で発見された。45年ぶりの試写会に出席した川端康成は「今見ても恥をかかなくてすんだ。よかった」と語った。このあたりに前衛芸術のむつかしさがある。その時代にはアヴァンギャルドであっても、時間の経過とともに色あせてしまう作品が多いからである。「狂った一頁」はその欠陥から免れているらしく何度か上映会があったが、私は残念ながら見る機会がなかった。上映会のチラシだけは持っていて、大切に保存している。『川端康成全集』には脚本が収録されているが、活字ではイメージがつかめないのである。

衣笠貞之助は「狂った一頁」のあと時代劇「十字路」を撮り、この作品を携えてモスクワやベルリンなどを訪問する。モスクワではプドフキンやエイゼンシュテインとも会っている。この時期の衣笠は同時代の世界の映画史の中でいい線をいっていたのだ。

横光に話を戻すと、横光は俳句も作っていて、石田波郷に対する影響はよく知られている。横光は昭和10年から「十日会」という俳句会を開いていて、永井龍男・中里恒子・石塚友二・石田波郷などが参加していた。「俳句は文学ではない」という波郷のテーゼは「俳句は文学である」という子規のテーゼとどのような関係にあるのだろうか。
横光の小説『旅愁』には俳句があちこちで出てくることもよく知られている。『旅愁』の登場人物は「ノートルダムは見れば見るほど俳句に見えてくる」と言う。ノートルダムのどこが俳句なんだと突っ込みたくなるが、横光なりに東西文化の融合を考えていたのだろう(悪しき日本主義として批判されることもある)。横光文学における新感覚派の描写と連作俳句との共通性も指摘されている。

蟻台上に飢えて月高し   横光利一

さて、川上三太郎は「未完成交響楽」以後も小説や映画などを題材として詩性川柳の連作を展開していったが、それを語るべき材料を私は持ち合わせていない。

「ジェーン・エア」は川柳にならないが、「ダーク・シャドウ」の方が川柳にしやすいとも言えない。ブラックからブラックを作るのはむつかしいのである。

2012年6月1日金曜日

屈葬の六月がまだついてくる

吉田秀和が死んだ。5月27日逝去、98歳。
吉田秀和は私の最も信頼する批評家のひとりである。
たとえば、相撲解説と批評との関係。かつて神風や玉の海は、土俵上での一瞬の勝負を簡潔な言葉で即座に解説してみせたものであった。吉田は彼らの解説から批評の要諦を学んだという。即興の鮮やかな言語化。
ホロヴィッツが来日したとき、吉田はその演奏をあまり評価しなかった。そのことがホロヴィッツの耳にも入っていて、彼が次に来日したとき、今度の演奏をあのYoshidaとかいう男はどう評価しているかと周囲に尋ねたという。二度目の演奏会は気合の入ったもので、吉田も高く評価したようだ。真の批評は芸術に影響を与えることができるということ。
『主題と変奏』に収録されている「ロベルト・シューマン論」を引用するつもりだったのに、いくら書架を探しても見つからないのである。

6月に入った。
いろいろ送っていただいた諸誌を逍遥してみたい。
ノーベル文学賞を受賞したトランストロンメルについては以前に紹介したことがあるが、詩誌「ア・テンポ」41号では、トランストロンメルの俳句を発句にして自由律二十韻「悲しみのゴンドラ」を巻いている。最初の4句だけ紹介する。

高圧線の幾すじ
凍れる国に絃を張る
音楽圏の北の涯         T・トランストロンメル(冬)
 悲しみのゴンドラ神の留守         梅村光明 (冬)
棚に置くには多すぎるスパイスの瓶      木村ふう (雑)
 来し方行く末が詰まっている       上田真而子 (雑)

歌誌「井泉」は巻頭の招待作品に岡村知昭の俳句を掲載。岡村は『俳コレ』にも百句を出していて活躍中の俳人である。

きさらぎに飽きて郵便ポストなり   岡村知昭
忌まわしき土蔵へ羽化を誘うべし
白衣へのできぬ約束うるう年

喜多昭夫の連載「ガールズポエトリーの現在」では、〈「制服」という装置」〉というタイトルで文月悠光の新しさについて述べている。喜多が引用しているのは「適切な世界の適切ならざる私」の一節である。

「ブレザーもスカートも私にとっては不適切。姿見に投げ込まれたまとまりが、組み立ての肩肘を緩め、ほつれていく。配られた目を覗きこめば、どれも相違している。そこで初めて、一つ一つの衣を脱ぎ、メリヤスをときほぐしていく。
それは、適切な世界の適切ならざる私の適切かつ必然的行動」

こういう一節を読むとつい根岸川柳の「踊ってるのでないメリヤス脱いでるの」を並べてみたくなるのは川柳人の悪い癖である。文月は「現代詩手帖」6月号に「現代詩手帖賞」を受賞したときのことを書いている。ちなみに「現代詩手帖」の書評では関悦史が『澁谷道集成』(蛇笏賞受賞)を取り上げている。

六月の死が貫きし夜着の嵩   澁谷道
六月は盲縞着てなぜか急く

あと「井泉」では岡嶋憲治が「評伝 春日井建」を連載していて43回になる。今号は建の母・政子の死について書かれている。春日井建晩年の、読者にとっても読むのがつらい時期である。

さて、川柳誌では「触光」27号。
第二回高田寄生木賞が発表されていて、大賞を山川舞句が受賞している。

怒怒怒怒怒 怒怒怒怒怒怒怒 怒怒と海    山川舞句

真中の七つの「怒」が反転しているが、パソコンではうまく出ない。
選者が選んだ特選句だけ次に挙げておく。

木本朱夏特選  母だった記憶が欠けていく夕陽  滋野さち
梅崎流青特選  少しずつ石に戻ってゆく羅漢   平井美智子
樋口由紀子特選 月を観ている忘れられたパンツ  小暮健一
渡辺隆夫特選  怒怒怒怒怒 怒怒怒怒怒怒怒 怒怒と海  山川舞句
野沢省悟特選  とりあえず立っているのは台所  みのべ柳子

六月に入り、光と影のくっきりと際立つ夏がやって来ようとしている。批評意欲をかきたてるような川柳作品がどんどん生まれてほしい。

2012年5月25日金曜日

渡部可奈子の「水俣図」

今週も「詩客」の話題になるが、「戦後俳句を読む」(5月18日)のコーナーで清水かおりが渡部可奈子の「水俣図」を取り上げている。清水の文章が「詩客」に掲載されるのは久しぶりのことであるし、その対象が渡部可奈子だというのも嬉しいことである。「水俣図」は10句の連作である。

弱肉のおぼえ魚の目まばたかぬ     渡部可奈子
抱かれて子は水銀の冷え一塊
夜な夜なうたい汚染の喉のかならず炎え
覚めて寝て鱗にそだつ流民の紋
つぎわけるコップの悲鳴 父が先
ぬめるは碗か あらぬいのちか夜を転がる
手から手へ屍はまみれゆくとしても
やわらかき骨享く いまし苦海の子
天までの月日の価 襤褸で払う
裸者のけむり低かれ 不知火よ低かれ 

冒頭の句について、清水は次のように評している。

〈 掲出句、当時の社会的弱者を「弱肉のおぼえ」とした表現力に目を瞠るものがある。「おぼえ」という句語によってその裡なる無念が言いつくされている。まばたきをしない魚の目は水銀に侵され身体の自由を奪われた中毒患者のそれのように私たちには見える。公害病認定がされてからテレビで放映された水俣病患者のドキュメンタリー映像は衝撃的なものであった。句を読む度にそれが甦ってくるのは可奈子の高度な文学的描写によるものだろう。「水俣図」は可奈子が川柳ジャーナル時代に発表され、1974年に第3回春三賞になっている。一句一句にかけられた時間が伝わってくる句群である。 〉

そして最後に次のように指摘している。

〈 渡部可奈子の群作では「飢餓装束」が特に印象深く評価も高い。「飢餓装束」が内面昇華へ向かう厳しさを湛えた句群であるのに対して、「水俣図」は時事と向き合う川柳の表現の幅、深さを考えさせる。詩性川柳と呼ばれる句が社会や事象とかけ離れたものであるという川柳人の安易な認識を改めさせる作品と言えるだろう。 〉

渡部可奈子については清水の書いていることに尽きているのだが、「水俣図」が第三回春三賞を受賞していることに関して、手元にある「川柳ジャーナル」(1974年4月)から少し補足しておきたい。
まず主な選評を引用してみると、
「このところ執拗に水俣を歌いつづける可奈子の、意識の熱さを、ぼくはなおざりには思わない」「水俣のあの強烈なイメージに寄り掛り、それに支えられてはいないか、という弱点と危惧は拭えないにしても、また技巧的には不満の句が何句かあったにしても、積極的に捨てるべしと思う句はなかった。その現実から摘出すべき点を摘出して、可奈子は自分の作品にしている。一篇のエレジーとして美しく歌いあげなかった点を、むしろ評価したい」(松本芳味)
「社会性の句とは社会事象を詠むということでなく、その対象を自らに引きつけ、自らも傷つくということで作者のものとなる。作者が一々、その当事者になれる筈もないが、尚且つ、自己の対象への感動と剔抉が当事者のものとなり得ることを可奈子作品は示している」(河野春三)
「至難な社会的題材にたち向かって成功していることに、従来の彼女の作品傾向から考えても並々ならない努力が感じとれるが、単に努力だけでは達し得られない才能の豊かさが今後の展開を予約している」(山村祐)
など、おおむね好意的に評価されている。ただ、中村冨二だけが、「『弱肉』を推す。可奈子はボクの苦手で上手だが、その次点で終ってボクに届かない。おそらくボクが詩人の資格に欠けているのだと、頭を叩く」と距離を保った評をしているのが逆に印象に残る。

これらの評からうかがえることは、次の点である。
①「水俣」のような社会性テーマはそれまでの可奈子の作品傾向とは異質であること。
②にもかかわらずこのテーマに立ち向かった作者の姿勢が評価されていること。
③社会性とは対象を主体的に引き受け、その痛みを通じて内面化すべきものであること。
④しかも作品として成功しているのは作者の才能と言葉の力によること。

これらはほぼ妥当な考えとも思えるが、現時点からふりかえってみると、微妙な問題を含んでいるように思われる。③のような立場に立つと社会性と私性が同じものになってしまうからだ。というより、この時代に求められていたのは「社会性」と「私性」との統一という理念だったように思われる。社会性は主体によって血肉化されることによって表現として自律するというテーゼである。

春三賞受賞から10年以上過ぎた1986年に、細川不凍は「感銘深いことで忘れられないのは、『ジャーナル』昭和49年の『春三賞』を受賞した『水俣図』である」と述べたあと、可奈子について次のように書いている。(「川柳木馬」30号)

「可奈子には珍しい社会性濃厚の作品である。水俣を題材にした川柳作品で、この『水俣図』に比肩しうるものを僕は知らない。水俣病という暗澹たる社会的現実を、詩的現実にまで昂めて、川柳作品に定着させた手腕は、見事というほかはない。また、この『水俣図』には、彼女独自の美意識が働いていて、表現が美しい。美しいが故に哀切感窮まるのであり、大きな感動を喚ぶのである。批評(批判)精神を内包した抒情句といえる」

先に引用した松本芳味の受け取り方とは異なり、細川不凍は社会性と詩性の統一として評価している。さらに、不凍は次のように言う。
「他者の痛みに接近し、それを理解するには、自らの痛みを通してこそ可能となるものだ。水俣の痛みを、可奈子は自分の痛みとして、深く感じ取ったのだ。だからこそ書き得た『水俣図』十句なのである。彼女には、自分の痛みばかりでなく、他者の痛みをも受容し共有できる心的土壌が備わっているのだ」
このあたりが不凍による可奈子評価のポイントだろう。他者の痛みを受容する、受苦の思想である。

以上、渡部可奈子の「水俣図」について、川柳人たちのさまざまな評を引用してきた。どの評が正しく、どの評が誤っているということではない。「水俣図」評価の中にそれぞれの川柳人の川柳観がくっきりと立ち上がる。昔話をしているわけではないのだ。

2012年5月18日金曜日

問答体の相対化とは何か

はじめに「MANO」17号の反響について、いくつかのことを書きとめておきたい。
「詩客」の「俳句時評50回」(5月4日)に湊圭史が拙論「筒井祥文における虚と実」にふれて、次のように書いている。

「川柳にしろ、落語にしろ、説明ができるかどうかは別として、読み終え(話し終え)たところで、すとんと落ちるかどうかが重要である。さらに言えば、すとんと落ちて、しかも説明しようとするとその面白さが逃げてゆくようなものが上質なのだ。こうした句を紹介しようというのは、評者にとってはじつに厄介である」

その上で、湊は「弁当を砂漠にとりに行ったまま(筒井祥文)」についての小池の読みを引用したあと、次のように述べている。

「こうした一種の解題はじっさいの読みで起こる過程の引き延ばしでしかない。『弁当を~』の句が分かる読み手には、一読ですとんと、小池が丁寧になぞっている心的過程が過ぎて、やられたな、とニヤっと笑みが浮かぶはずだ。また、その読みとられの『速さ』こそが魅力の一端、いや大きな部分を占めているのだ。(もちろん、小池はそれを分かったうえで、あえてスローモーションで過程を見せている。)」

湊の言うように、川柳作品の読みの過程において、了解は一瞬の出来事である。同じことは選の過程についても言える。選者は一瞬で句を理解する。あるいは採る・採らないという理解(判断)をする。その過程をスローモーションのように解読してみせることが、果たして読みの作業に価するかどうか。とはいえ、「選は批評なり」と以心伝心の腹芸ですませるわけにもいかず、何らかの言語化は必要となる。このあたりがジレンマである。

湊の文章を受けて、山田耕司は次の週の「詩客」・「俳句時評51回」(5月11日)で「MANO」を取り上げている。

「川柳とは、さて、どのようなものなのかを説明しようにも、それはなかなかムズカシイ。いや、俳句とはなにか、ということだって語りきれない。実のところ、短詩型ということのシバリを踏まえた上で、さて、ソコから先をどう分別したものか、それはやっかいなことなのである。
やっかいなこととどう向かい合うか。
A やっかいだから、かかわらないでおく
B やっかいだけど、白黒つけなくちゃならないので、境界線にこだわる
C やっかいだなぁといって面白がる 」

その上で、山田は次のように述べる。
「ひとつの境域と別の境域とのかかわりあいの場においては、私たちの批評はその性質を露見させがちであるように思われるのであり、奇しくも『俳句時評』における湊さんの川柳評に、メカニックとオーガニックがほどよく融合している視線を感じるところがあり、それでことさら面白く拝読したのであった。」

やっかいだなぁといって面白がる人々が徐々に増えてきているのは心強い。
さて、川柳誌「ふらすこてん」21号の「一刀凌談」のコーナーで、石田柊馬は川柳の「一章に問答」について触れている。「一章に問答」とは、呉陵軒可有の川柳観として有名で、石田も引用している『川柳総合大事典(用語編)』の「問答の構造」に次のようにある。

「『一章に問答』は、附句独立の基本理念であり、構造としての川柳性そのものを指している。一章の中に、問と答というかたちで二つの概念を対立させ、その矛盾、葛藤にアイロニーを求めようとするもので、取合せ、配合と同義。また現代的な二物衝撃やモンタージュのもとをなす原理念として受け継がれている」

この「問答構造」について、石田は次のように言う。
「さては一ところに川柳人を止める制度であったかと、頷いたり反発したりするのだが、それが好きだったのだろうとの自問に、その通りでありましたと認めるよりない。句会のシステムなど問答体そのものだが、川柳の近代化の過程で、『問い』に一句の主意、『私の思い』が置かれると、他の文芸との差異が不透明、拘らなくてもなどと、自らの中途半端さが浮上する。さらに、問答体が、象徴性、象徴語を重用する文芸に仕向けていたかと、反芻に及ぶ」
石田柊馬一流の屈折に満ちた文章であるが、私なりに言葉を置き換えてみると、
①問答体は川柳が一句独立したときの基本だが、規範として作用すると反発を感じる。
②しかし、川柳人はけっこう問答体が好きである。
③題をテーマとして作句するという句会のシステムは問答体そのものである。
④問答構造の「問い」に「私の思い」を置き、「私の思い」が作品の意味性であるとすると、他ジャンル(たとえば「短歌」)との差異が不明確になり、「川柳が川柳であるところの川柳性」が曖昧になっていく。
というようなことになるだろうか。
この問答体からの逸脱・展開として、石田は湊圭史の作品を取り上げている。

虹をあおぐ前頭葉に残る足あと    湊圭史
滑舌のわるさ遮断機が降りるまで
頂点のあたりで赤んぼうが叫ぶ
倉庫のなか麦ひとつぶずつの影

「虹をあおぐ」の句について、読み解きたい誘惑も感じるが、湊は嫌がるだろう。石田は「発想の散文性が残っていると読むか、問答体の生煮えと見るか、意図的なものであれば、一句の構造とか問答体を揺さぶっているのかと思われる」と評している。また「問答体の途中で作句を止めた感」とも。

石田は最後に「問答体の相対化」という言葉を使っている。
問答体は「問」→「答」(解答付の問題集)というような単純なものではない。問答構造を基本として、さまざまなヴァリエーションが可能である。答えを出さずに途中で止めておく(読みを読者にあずける)やり方もある。多様な書き方は問答構造を揺さぶり、超克することによって表現の新たな地平を切り開いてゆくことができる。石田柊馬の批評はそういう射程距離をもっている。

訃報。5月16日、加藤郁乎が亡くなった。83歳。

2012年5月11日金曜日

慶紀逸没後250年

北海道の俳句界に新しい動きがある。
5月12日(土)に五十嵐秀彦を中心とした俳句集団「itak」の旗揚げイベントが札幌で開催される。第1部シンポジウムのテーマは「あえて今、花鳥風月を考える」、パネラーは五十嵐のほかに平倫子(英文学者)、山田航(歌人)。第2部は句会。「itak」(イタック)とはアイヌ語で「言葉」という意味らしい。
五十嵐は「週刊俳句」(5月4日)に「俳句集団【itak】前夜」を書いている。彼は昨年の8月から「北海道新聞」の道内文学(俳句)時評を担当していて、次のような感想をもったということだ。

「この執筆が決まって以来、毎月文化部からたくさんの道内俳誌が送られてくる。それに目を通すようになって、困惑が深くなっていった。
そこには、俳句が並んでいる。
どれも立派な作品だと思う。けなすつもりはないし、かえって敬意を表したいほどだ。
だが、…止まっている。
十年、二十年、ひょっとしてもっと…。
時間が停止しているように思えてならないのだ。
評論の類いは一切といってもいいほど見当たらない。
ただただ俳句が並んでいるだけだ。
そして、主宰のエッセイ。短い仲間内の作品鑑賞。ほかになにがある?
なにもない」

五十嵐の困惑はとてもよく実感できる。
作品と作品鑑賞。閉ざされた内向きの世界である。他者の眼からの作品評価や批評がないということ。それは川柳の世界でもよく見られることである。
現状に対する不平不満は誰でも口にする。けれども、五十嵐のすごいところは次のように行動をおこそうとしたことだ。

「うすうす気づいてはいたが、これまであえて道外の動向だけ見るようにしてきたので、この現実はあらためてぼくを憂鬱な気分にさせた。
しかし、距離をおいて、評論家然として批判しているのでいいのか。
いいはずがない。
俳句評論を書きながらも、ぼくも実作者であるのだから、やるべきことをなにか考えなくてはならない。
答えはおのずと見えているように思えた」

他人が何かしてくれるのを待っているのではなくて、自分でできることから行動する。こういう姿勢に私はとても共感する。
明日の集りがどのようなものになるのか、ジャンルも地域も違うし、実際に参加するわけでもないけれど、遠くから注目している。

さて、川柳の世界では今年「慶紀逸没後250年」に当っている。
慶紀逸(1695年-1762年)。本名は椎名件人。江戸の御用鋳物師の家に生まれたが、俳諧の道に入り、江戸座の不角に学んだ。『武玉川』を刊行したことで知られている。
先日の5月8日に「慶紀逸250年記念講演句会」が開催された。東京台東区谷中の龍泉寺で法要があり、谷中コミュニティーセンターで講演句会があったらしい。記念講話「俳諧史から見た紀逸」(加藤定彦)「川柳と慶紀逸」(尾藤三柳)と句会。
「川柳さくらぎ」21号に尾藤一泉が「慶紀逸250年」を書いている。

「慶紀逸は、元禄8(1695)年生れ。江戸中期の俳諧師として宝暦期に『宗匠の随一』とまでいわれた人だが、俳文学書の中では、元禄俳諧(芭蕉などの世代)と中興俳諧(蕪村などの世代)の狭間で、ともすると暗黒時代のように記されていることがある。しかし、この時代にも魅力ある表現世界はあり、格調高い発句ばかりでなく、人情味溢れる平句の世界を示した『武玉川』などは、特筆に価するものと思う」

椎名家は幕府おかかえの鋳物師で、紀逸の鋳物師としての名は「椎名土佐」というらしいが、その作品は残っていない。関口芭蕉庵の正門を入ったところには紀逸の「夜寒の碑」がある。

二夜鳴きひと夜はさむしきりぎりす    四時庵紀逸

宝暦12年5月に68歳で没し、谷中の龍泉寺に葬られた。過去帳が現存するということだ。

『武玉川』を愛読する人は多く、このブログでも紹介したことがある。
神田忙人は『「武玉川」を読む』(朝日選書)で次のように書いている。
「『武玉川』はうつくしい詩情を後世のわれわれに残したまま跡を絶ち、『柳多留』はある意味では詩に抵抗して散文性をとりいれつつ川柳という特殊な型の小型文芸を確立して今に伝えることを可能にした」
『武玉川』と『柳多留』のあいだに川柳の可能性がある。
その幅の中で少し『武玉川』寄りの位置で作句できればいいなと思ったりする。

最後に訃報。片柳哲郎、4月28日没、86歳。
川柳人の死はあまり情報が入らないが、一時代を作った人である。

2012年5月4日金曜日

岡田幸生句集『無伴奏』

「週刊読書人」(5月4日)の「ニューエイジ登場」に佐藤文香が「俳句…嗚呼、輝ける無駄」という文章を書いている。

「俳句は、役に立たないから好きです。役に立つというのは、たとえば新しいチョコレートの販売促進になったり、『車は急には止まれない!』という看板のように誰かを救おうとすることです。俳句は、そういったことに使うものではない。ある意味ピュアです」

「第3回BSおかやま川柳大会」(2010年4月)で佐藤文香は「自分が選ぶときに大きな基準があることがわかりました。それは、その句がこの社会にどれだけ貢献しないかということです。風刺はともすると社会の役に立ってしまう」と発言して川柳人を驚かせたが、俳句に対する佐藤のスタンスは2年前と少しも変わっていない。彼女にとってぶれることのない俳句観なのだろう。

紫陽花は萼でそれらは言葉なり    佐藤文香
歩く鳥世界にはよろこびがある

関悦史の句集『六十億本の回転する曲がった棒』(邑書林)が第三回田中裕明賞を受賞した。関は「宗左近賞」にもノミネートされていて、その残念会を開いている最中に田中裕明賞受賞の連絡が入ったという。

美少女キャラの嗚呼上すぎる口の位置   関悦史
ぶちまけられし海苔弁の海苔それも季語
死ンデナホ性トイフ修羅止マザリキ
口閉ぢてアントニオ猪木盆梅へ

関は評論・実作ともに現代俳句の先端をゆく存在である。
当ブログでも関の「『難解』な川柳が読みたい」(「バックストローク」33号)に触れて、「難解問題は権力闘争だったのか」というタイトルの文章を書いたことがあるが、今もって本ブログにおけるアクセスの最高数を記録していることを蛇足として報告しておきたい。

さて、歌人の発言に目を転じると、ホームページ「小説家になりま専科」の「その人の素顔」(4月24日)で穂村弘は池上冬樹の質問に答えて次のように発言している。

――ほかのジャンル、たとえば川柳についてはどう思われてますか。
穂村 非常に難しいジャンルですよね。俳句との関係性をどうしても意識せざるを得ない。いつもアイデンティティを、どこにあるのか、川柳というものだけが持っている川柳性というものは何かを、説明できないと本当はいけないと思うんですよ。俳句と同じ姿をしているんだから。
 でもその部分がなぜか曖昧になっている気がしていて、だから、技法以前に川柳の川柳性というものが何か気になってしまうんです。一般的には人間が描かれていて風刺があるものが川柳とされますけど、それだけじゃないですからね。そういった意味で関心を持っています。

相変わらず俳句と川柳の違いについて川柳側に説明責任を求められている。川柳に対する関心の入口として、俳句との違いは大きなことなのだろう。入門書レベルよりもう少しすっきりしたかたちの啓蒙レベルでの説明を用意することが必要となる。
このような外向けの説明を常に求められるものに、たとえば「自由律俳句」がある。
先日、岡田幸生句集『無伴奏』(そうぶん社出版)を読む機会があった。1996年に発行された自由律の句集である。

無伴奏にして満開の桜だ     岡田幸生
見ているところを奥のミラーで見られていたか
きょうは顔も休みだ
通過電車ばかりで別れられない
あなたの影猫の影包んだ
鳶輝いたおしっこ
夏雲みたいにすずしい顔して化けてみたいな
蟄居蟄居と山鳥にいわれた
こんどうまれてくるときもそうかコスモス
はやくむかえにきてと書いてどこへいったか
雀の死骸の薄目あいている
無視した子猫消えてしまった
チベットの風に吹かれて下着も乾く
吊橋の星のなかをいく

住宅顕信以後の自由律俳句がどうなっているのか、私たちはあまり知らない。句集の中には五七五や七七のリズムの句もあり、また「~だった」という文体が多くて単調な部分もあるが、掲出句などは独自の世界を感じさせて好感をもった。
句集の「序」で北田傀子は岡田との出会いについて「随句がわかるかわからないかは体質の問題であって、今の若者(特に男性)にそんなものは実在していないような気がしていたのだったが、それが受けいれられる体質の若者が突然目の前に現れて私は驚いたのである」と述べている。
「随句」という用語は初めて聞くが、自由律俳句のことらしい。インターネットで検索してみると、随句のホームページも出てくる。北田によると、随句は一種の「ひらめき」(肉体感覚)で、平常の大和言葉(日常語・口語という意味か)による三節の韻文となる。私の理解している「自由律は一人一律あるいは一句一律」という説明と少し異なるが、「随句」と「自由律」ではニュアンスの差があるのだろう。
いささか旧聞に属するが、「俳句界」2010年12月号の特集「こんなに面白い!現代の自由律俳句」でも岡田幸生を含めた現代の自由律作品が取り上げられていた。

生返事の口紅つけている         岡田幸生
どの蟻もつかれていない隊商のラクダだ  塩野谷西呂
あじさいといっしょに萎びる       湯原幸三
裸 星降る               中原紫重
虚構ノ美シサ触レレバ風ニナル      近木圭之介

「生返事」の句も句集『無伴奏』に収録されている。90年代に岡田幸生が自由律俳句のフィールドで単独に表現していたものは、ゼロ年代の短歌表現とも決して無縁ではないと思われる。単独者としての自己表現こそが文芸の本来の姿とはいうものの、良質の抒情はそれだけではなかなか評価されにくい時代なのだろう。

2012年4月27日金曜日

「MANO」17号

「MANO」17号が発行され、少しずつ反響も出はじめている。
年に1回しか発行されない川柳誌であるが、少数ではあっても読者の存在は同人各自にとって励みになる。特に今回は加藤久子と佐藤みさ子が震災の影響を受け、石部明が体調不良で不参加など、発行に至るまでの困難があったのでなおさらである。
巻頭は加藤久子の「空をひっぱる」20句。

結論は水を含んで落ちてくる   加藤久子   
夜の秋セロリの如き立ち直り
蝋燭のほのお単純に単純に
しずしずと運ばれてゆく洗濯機
綿虫も前頭葉もうす暗い          

東日本大震災から一年の時間の経過のなかで、言葉は現実の衝撃力を受け止めながら、ゆっくりと熟してゆく。
「MANO」17号に収録されている久子のエッセイを読むと、「言葉を失った2011年3月11日。書くことはいっぱいあるはずなのに、何を言っても何を書いても、みんなウソになる。言葉の無力を思い知らされた」という状態から「書くことでこの混乱を乗り越えられないだろうかという、微かな望みに縋って書いている」という状態に至る、その心の動きがよくわかる。加藤久子は震災を内面的に深く受け止め言語化しようとしているのだ。

関係をらくらく超えるあかんぼう  加藤久子
団欒を組み立てている抜歯跡
白菜を抱えて渡ってきた銀河
ももいろの目蓋に当たる落下物
ぎゅうっと空をひっぱっている蛹

時間が熟するということはあるはずだ。けれども、川柳の場合、時間によって深められるのではなくて、表層的な把握のままに時間が経過するうちに事態が忘却されてしまうことの方が多い。久子の句はそのような川柳の限界を越える、ひとつの可能性を示すものと私は受け止めている。
「ぎゅうっと」の句について、樋口由紀子は「金曜日の川柳」(ウェッブマガジン「ウラハイ」4月20日)で「あんなに小さな蛹があんなに大きな空を支えにして生きていこうとしている。それも能動的にひっぱっているように思った。蛹に希望をもらったのだろう。それよりもそのように感じた自分にほっとしているのかもしれない」と述べている。久子は「空をひっぱっている蛹」というイメージを手に入れた。しかも「ぎゅうっと」というところに川柳ならではの味がある。
続いて、佐藤みさ子の20句には「居る」という動詞のタイトルが付けられている。

祈るしかないのだ水を注ぎこむ     佐藤みさ子
父が聞くこれ朝めしか夕めしか
ハハよハハよそろそろハハを切り離す
まもなくふくしまと天から声が降る
思いやることの間違い同居する

佐藤みさ子のエッセイを読むと句の背景が何となくわかるが、彼女の句は現実性を失わず、かつ批評的である。ここにも震災のひとつの受け止め方がある。

安全と信じる人は手を挙げよ      佐藤みさ子
かなしくてうれしくてバタバタす
育つ速度も老いる速度も見てるだけ
ナス植えたトマトを植えた家を出た
朝陽浴びている山肌がわたしたち

小野裕三はブログ「関心空間」で「そう言えば3.11以降の川柳は、どうなっていたのだろう」という観点から佐藤みさ子の句を取り上げている。みさ子の作品が震災や原発事故についてのナマの事実の次元にとどまらず、想像力できちんと消化している点を評価している。震災後の生活のなかにも人間の実存は露呈する。みさ子はそれをきちんと見すえながら、その批評眼は外向的である。珍しいことに、佐藤みさ子は怒っているのだ。

あと、小池正博の評論「筒井祥文における虚と実」で取り上げられている句について付言しておきたい。

かっぽれを踊る地雷をよけながら   筒井祥文

祥文のこの句は、現在の時点で読み直すと、さまざまなシチュエーションのもとに読むことができる。震災は現代日本がいかに脆弱な基盤の上に立っているかを暴露してしまった。それまで隠蔽されていたものが白日のもとに晒されたのだ。これまで他人ごとに感じられた祥文作品の「地雷」が今では生なましい意味をもってくる。同時に、地雷の上で踊る人間の精神の状況がくっきりと立ち上がってくる。作品は発表されたあとも状況や読者によって育ってゆくものであり、そういう作品こそが読みつがれてゆくことになるのだろう。

先週も少し触れたが、樋口由紀子の「飯島晴子と川柳」は、「BSfield」22号に掲載された石部明の「何かが起きる交差点」とシンクロしている。樋口と石部はともに飯島晴子の文章に触発されている。
ここでは樋口が取り上げている飯島の評論「言葉の現れるとき」について見てみよう。飯島は最初、俳句というものを次のように考えて作句していたという。

「眼前にある実物をよく目で見て、これは赤いとか、丸いとか、ああリンゴであるとか、とにかくなるべく実物に添って心をはたらかしてしらべる。そして、知ったこと、感じたことを他人に伝えるために、自分の内部ではなく、公の集会場の備えてある言葉の一覧表、とでもいうような種類の言葉の中から言葉を選んで使う、というやり方である。対象となる事物が、観念や情感に代っても事情は同じである」

ところが、飯島はやがて次のような事態に気づくようになってゆく。

「それが俳句をつくる作業のなかで、言葉を扱っていていつからともなく、言葉というもののはたらきの不思議さに気がついた。言葉の偶然の組合せから、言葉の伝える意味以外の思いがけないものが顕ちのぼったり、顕ちのぼりかけたりすることを体験した。そこに顕ってくれるのは、私から少しずれた私であり、私の予定出来ない、私の未見の世界であった」

この二つの書き方から樋口がつかみとったものは、〈「公の集会場の備えてある言葉の一覧表」から「言葉というもののはたらきの不思議」へ〉という道筋であり、現代川柳の先端部分も確実にそのような方向に向かっている。思ったことを言葉によって伝達するというのではない。作品はそのような二段階の成立過程に分けられはしないのである。
既知のことを表現するのにふさわしい適切な言葉を見つけたからといって、それはおもしろいだろうか。むしろ表現者は自分が表現したいことが明確には分からないから書くのではないか。言葉の力によって未知の私や世界が立ち上がってくることがあるからこそ、俳句や川柳を書くのではないだろうか。
いま飯島の俳句観は、現代俳句の世界でどのように受け継がれているのだろう。知りたいところだ。