2023年2月24日金曜日

ヒヤシンスと黒百合

2月×日
大阪城の梅林に行く。西の丸庭園には何度か行ったことがあるが、梅林ははじめて。好天気に恵まれ、人出が多い。紅梅・白梅・黄梅などいろいろな種類の梅があり、メジロが花の蜜を吸っている。城のお堀にはオオバンやヒドリガモなどの水鳥が泳いでいた。
豊国神社の東側に鶴彬の句碑がある。場所がわかりにくく、以前来たときは探せなかったが、今回は見つけることができた。

暁をいだいて闇にゐる蕾   鶴彬

2008年に建立されたもので、金沢の卯辰山にある句碑と同じ句だが、金沢の方は表記が「抱いて」となっている。鶴彬の直筆短冊には「抱いて」と漢字になっているので、金沢のはそれに従っている。一方、「蒼空」第4号(昭和11年3月)に掲載された初出では「いだいて」となっているので、大阪城のはそれに従っている。 そういう書誌的なことはさておいて、この句を前にして私が思い浮かべたのは小熊秀雄の「馬車の出発の歌」だった。小熊の詩の冒頭を引用する。

仮りに暗黒が
永遠に地球をとらえていようとも
権利はいつも
目覚めているだろう、
薔薇は闇の中で
まっくろに見えるだけだ、
もし陽がいっぺんに射したら
薔薇色であったことを証明するだろう

鶴彬と小熊秀雄。
鶴彬の句では「蕾」とだけ言っていて、薔薇とは限らないが、小熊の詩が頭の中にあったので私は薔薇のイメージを思い浮かべた。
内野健児(新井徹)が創刊した「詩精神」1935年2月号に鶴彬の作品が掲載されている。

瓦斯タンク! 不平あつめてもりあがり
明日の火をはらむ石炭がうづ高い
ベルトさえ我慢が切れた能率デー
生命捨て売りに出て今日もあぶれ

小熊秀雄は「詩精神」の同人で、小熊秀雄選の詩の募集に鶴彬が応募したこともあったらしい。この時期、鶴彬の川柳と小熊秀雄のプロレタリア詩の交流があったが、やがて小熊は1940年に死んでしまう。

2月×日
「アンソロジスト」4号、ようやく手に入れることができた。
特集「短歌アンソロジー あこがれ」に小島なお・初谷むい・東直子・平岡直子・山崎聡子の五人が作品を出している。「序文」で永山裕美は分厚い小説が読まれるのに短歌や俳句が読んでもらえないという壁について述べている。「昨今、短歌ブームと言われているように、短歌、俳句、川柳、現代詩といったような短詩系文学が、今までと違った読者層に届き始めている、そんな予兆は確かに感じられる。けれども、それでも依然として、この壁はまだ高くそびえたっている」
そして五人の短歌を紹介したあと、永山は次のようにまとめている。「短歌の裾野は今、確かに広がっている。でも、今の百倍くらい読まれてもいいはずだ。短歌だけでなく、俳句や川柳、現代詩、そして、その他の短詩系文学についても同様に、詩歌の良さがより身近に分かちあえる、そんな光景を書店の片隅で、私はずっと夢見ている」
掲載された短歌は本誌のほかにそれぞれの歌人の作品リファイルとしても刊行・販売されている。ここでは平岡直子の二首だけ紹介しておく。

ヒヤシンスみたいに薄い息をするわたしを客席にみつけたの?   平岡直子
黒い百合 井戸の底ではひとときのとてもつめたいみずにさわった

他に小津夜景の「流星の味」や「スケザネ図書室」など、読みどころが満載だが、最後に暮田真名の「音程で川柳をつくる」に触れておきたい。 音程で川柳を?どういうことかわからなかったが、次のようなことらしい。

お話にならない2が増えて行く

2の部分には2音の文字が入るという。従来の川柳入門書では穴埋め川柳というかたちで

お話にならない(  )が増えてゆく

( )の中に2音の言葉を入れる練習問題になるだろう。入れる言葉は意味や韻律や作者の言語感覚によって決まってゆくが、暮田の独自性は「音程」が聞こえるかどうかという点だ。暮田のいう音程とはイントネーションということらしくて、同じ2音の単語でも、「椅子」「岐阜」「棋譜」は候補になるが、「ニス」「キス」「畏怖」は候補にならない。イントネーション(東京弁)が異なるからだ。
たぶん実作の場合はそんな単純なことではないだろうし、詳しいことは暮田の文章をお読みいただきたいが、ふつう作句工房の秘密は伏せておくことが多いので、こんなにオープンにして大丈夫なのかと思ったりする。句の作り方は人それぞれで異なり、単純に模倣しておもしろい川柳ができるとは限らない。

2023年2月18日土曜日

川柳の青春

かつて川柳が青春の文学である時代があった。
明治の関西川柳界の草分けは小島六厘坊である。東京では阪井久良岐や井上剣花坊が「新川柳」を提唱したが、新川柳が大阪に定着したのは小島六厘坊の力による。
毎日新聞の社員だった西田当百は明治39年ごろ「大阪新報」柳壇の小島六厘坊選へ投句した。句会ではじめて六厘坊に会ったときの思い出を当百は次のように書いている。
「僕が六厘坊ですと太い声で挨拶したのが、眉の濃い鼻の大きい荒削りの顔の若い男、見渡した処いずれも二十歳左右の人々で、老人連とは元より思っていなかったが、去りとは大分予想を裏切られた。この川柳家の年若については、その後も会場へ訪れて来た人が、宗匠はどこに、六厘坊先生はどなたでと尋ねて、呆気にとられて帰ったこと一再ならずあった」
六厘坊と久良岐との会見も六厘坊面目躍如のエピソードである。六厘坊は久良岐に対して反抗心をもっていたようで、喧嘩腰の会見だったという。「僕を困らせようと古い題を出しよったが、僕は知らんがな、それで負けん気で議論して来た」とは六厘坊の談である。
明治42年5月、六厘坊は22歳で夭折。関西の川柳界は関西川柳社から「番傘」の時代へと入ってゆく。

岸本水府の青春につては田辺聖子の小説に詳しく描かれているので触れないことにする。ここでは麻生路郎について述べておく。
大正4年、麻生路郎と川上日車は「番傘」を脱退し、8月に「雪」を創刊する。「川柳」という呼称を用いず、「新短歌」と称している。大正6年2月の終刊まで19号を発行。
日車は後年、次のように回想している。
「古川柳には、古川柳独特の味いと響をもっている。私たちは久しくそれに浸って川柳作家としての揺籃期を過ごした。だが少年期はやがて迎える青年期の前提である。少年期に『紅い』と映ったもの、それは、伝承的『紅い』であって自己の発見した『紅い』ではなかった。ここに少年期と青年期との間に一つの曲り角がある。その曲り角を意識にとめず一直線に歩みつづけるのも、透徹した一つの道ではあるが、自己に厳しい執着を持つ者にはそれが出来ない。そこに青年期の浮氷が横たわる。路郎と私が手を携えて『雪』を発行したのは、まさに此の曲り角に立った時であった。

  くろぐろと道頓堀の水流る
  行末はどうあろうとも火の如し

こうして路郎の眼は次ぎ次ぎと人生のあらゆる角度に拡がっていった」(「雪の頃―路郎と私」、「川柳雑誌」昭和32年7月)

「行末は」の句は路郎の心意気をよく示しているように思えるが、橘高薫風の調査によると「雪」の中にはないという。また、「くろぐろと」の句は「くろぐろとうき川竹の水流る」の形で「雪」に収録されているということだ。
「雪」終刊の翌年、大正7年7月に「土団子」が創刊される。表紙は小出楢重。創刊号の巻頭言は路郎が書いている。「現代の柳界は例せば青い玉と赤い玉の時代である」
「青い玉は静的である。池の中の水である。水底に沈殿せる黒い土である。その土に圧せられたる朽葉である。彼等は遂に自己の流れ行く運命をさへ知らないのである」
「赤い玉は動的である。天上に燃ゆる太陽である。世にありとあらゆるものを焼かんとする火である。この故に頗る危険である。しかしながら此の危険のない処に真の革命はない筈である」
「茲に我等は青い玉の上に赤い玉を建設することを宣言する。我が『土団子』は、柳界の平和を打破して、新しい川柳王国を築くために放たれたるピストルの一弾である」
過激な宣言であるが、「土団子」もその年の10月には4号で廃刊になってしまう。
大正8年、路郎一家は萩の茶屋三日路に移り住んだ。『麻生路郎読本』巻頭の「路郎アルバム」の中には半文銭と路郎のふたりが写っている写真が掲載されている。「大正9年の春、大阪市萩の茶屋三日路の路郎居にて。左は半文銭。近所に住んでいたので、頻繁に行き来していた」とある。
やがて新興川柳運動が起こり、半文銭と日車はその中心作家となるが、路郎は同調しなかった。
「日車氏は半文銭氏と共に『小康』を出したが、私は日車の強請を断じてしりぞけ、これには参加しなかった」「お互ひ川柳家同志がいかに、可なりとして褒めちぎったところで、一歩社会へ出て見れば、まるで社会から川柳の存在が認められてゐないではないか。これではいけない。ここに眼をつけた私は日車氏等の強請懇望これつとめてくれた友情をも振り切って、社会的な柳誌、社会を対象とする柳誌刊行の計画をすすめたのであった」(「苦闘四十年」、「川柳雑誌」昭和18年2月)
ここで路郎は現実路線へと舵を切ったのである。
新興川柳との路線の違いは田中五呂八に対する次のような言葉にも表われている。
「あなたが『氷原』のために闘っていられる態度、同志のための詩集を出すための努力などに対しては涙ぐましさを感じます。けれども、あなたの評論や創作に対しては僕は唯厳正な一批評家の立場で拝読していることに心づきます」「一体革新の名によって奮闘?をしている人達は気短過ぎる共通性の欠点を持っていると思います。薄っぺらな雑誌すら出たり出なんだりで、社会から川柳に対する従来の誤解を一掃しようなどと考えて見ることすらあまりに虫のいい話だと思います」(「三十年計画―田中五呂八氏に与ふ」)

最後に川上三太郎の場合はどうだっただろうか。三太郎は19歳のときに「現川柳作家の労働及び其の価値」という文章を書いている。
「混沌たる柳壇、泥酔せる川柳作家、彼らはたとえ幾百千万句作るとも、その筆にその活字にその雑誌に、いたずらなる労働に過ぎないのである。たとえ幾多の柳壇対努力をしても、無益な労働に過ぎないのである。現川柳及び現川柳作家の作句する努力の価値こそ、実に無益な下らない愚劣なものはない。それを自覚した僕ら若い青年、まじめな熱に燃えている若い人々はなんで見ているわけにいこう。否なんでそれに盲動、服従していられよう」(「矢車」明治43年12月)
青年らしい過激な文章だ。川柳人にもそれぞれの青春があり、夭折した者もあれば「成熟」の道をたどった者もあるが、それはまた別の話題である。

2023年2月11日土曜日

多行川柳入門

多行書きの川柳として川柳界で最もよく知られているのは、松本芳味の次の作品だろう。

これはたたみか
芒が原か
父かえせ
母かえせ

松本芳味の句集『難破船』の第二部は多行川柳で占められている。短歌・俳句にあるものはすべて川柳でも試みられている。川柳には自由律もあれば、短句(七七句)もあり、多行川柳もある。私は基本的に川柳は口語一行詩だと思っているので、自分では多行川柳を書くことはないが、ひとりの作者が多行作品に向かうときの必然性は否定しない。今回は川柳における多行書きの作品を振り返ってみたい。

多行川柳の試みとしてまず注目されるのは、新興川柳期の中島國夫である。新興川柳期には自由律についての議論が盛んで、それと関連して多行川柳も書かれている。中島國夫の作品から、定型・自由律・二行書き・三行書きを並べて紹介する。引用は『新興川柳選集』(たいまつ社)より。

カラクリを知らぬ軍歌が勇ましい

みんなドクロとなる日烏がくん章ぶら下げる

私有のドン慾に
ケシ粒の地球

縛られた手で
ひとの紙幣ばかり
数へさせられ

二句目の「くん章」は勲章。四句目の「紙幣」には「さつ」とルビがふってある。中島は井上剣花坊の柳樽寺川柳会の同人で、「川柳人」の編集もしている。プロレタリア川柳も勃興していて、中島の句にも権力批判の傾向が強い。プロレタリア川柳の鶴彬にも多行川柳がある。

これしきの金に    鶴彬
主義!
一つ売り 二つ売り

中島の多行川柳はあまり評価されていないが、次の作品はおもしろいと思う。

ショウウインドウに化石している




ここには木村半文銭の「夕焼の中の屠牛場牛牛牛牛牛牛牛牛牛牛」とも共通する視覚表現が見られる。

さて松本芳味に話を戻すと、『難破船』の序で松本はこんなふうに書いている。
「二十歳ごろから川柳を始め、約十年ひたすら青春の感傷と抒情をうたった。その一行作品を第一部にまとめ、多行形式十五年間の作品を第二部としてまとめた」
「三十歳になってから、創作に行き詰まり、多行形式に踏切ると共に、意識的に従来の感傷をふりきり、社会と個の結合を志向し、主張し、現代川柳の確立に努力した」

月光や「救われたいとおもいます」
鶴の名を呼びて狂わば こうふくに
蓬髪の眼がうつくしいときに雪
白蝶は明日の方へ飛ぶ―僕は!?
花びらは虚空に炎える 賭けようか

こういう句が松本芳味の感傷と抒情の世界である。多行形式はそれを超克するための作者にとって必然的な道程だったことが理解できる。芳味の多行川柳をもうすこし挙げておこう。

少女の中に
不吉な
蝶が育ってゆく

地表より
虫湧き
虫湧く
炎天の飢餓

くらい性器
 玩具のハーモニカ
 は鳴るか

次に取り上げるのは河野春三である。春三の『無限階段』には多行書きの作品が十数句収録されている。

歪んだ季節の
落下傘から
飛び下りる胎児

起重機沈む
孕みしことは
舌打ちされ

現代川柳における定型と自由律、一行詩と多行詩の関係には錯綜した歴史があり、それを整理することは私の手に余るが、作品の内容と形式には有機的な関連があり、ひとりの作者が素材やテーマによって複数の形式を書き分けることはありうると思う。ただ、成功するか失敗するかは作品次第なので、五七五の定型のリズムをなぜわざわざ三行書きにするのか疑問に思うこともある。
最後に松本仁の作品を紹介しておこう。

股間から
富士をながめる
情死考

ゴッホ
明恵
いずれの耳か
高く舞う

2023年2月3日金曜日

松林尚志の仕事

松林尚志(まつばやし・しょうし)とは直接会ったことはないが、彼の書いた文章は折に触れて読んできた。川柳に関しては、渡辺隆夫の第三句集『かめれおん』(北宋社、2002年)の序が思い浮かぶ。松林はこんなふうに書いている。
「私は以前、といっても昭和四十年のことであるから四十年近い昔であるが、『川柳しなの』という雑誌に、石曽根民郎氏に頼まれ『現代川柳雑感』という文章を書いたことがある。何冊かお借りした句集には時実新子、河野春三、片柳哲郎、佐藤正敏氏らの句集があった。私には現代川柳の水準の高さにおおおいに学ぶところがあったのだが、一部の作品が俳句と同じ発想、同じ水準に来ていることを実感した。それは共通の詩を求めることの当然の結果といえるが、そこには川柳の本来持つ風刺やうがちが自己に向けられることからくる、自虐的傾向とそれ故の暗さや深刻さが気になり、そのことに懸念を表明した」
それに対して渡辺隆夫の川柳はどのようなものか。松林は「現代川柳と現代俳句はある面ではほとんど交叉している。しかし『亀れおん』では逆に現代俳句と競う位置から遠ざかり、かつての川柳の持った逞しい転合精神を復活させようとしている。渡辺氏はどうやら本来的川柳の在り方からの出直しを企んでいるようだ」と見ている。
渡辺隆夫の川柳をどう評価するかは「私川柳」や「現代俳句」に対してどのようなスタンスをとるかという問題とからみあっている。また「現代川柳」と「狂句」との関係にも歴史的な経緯がある。松林の見方は、「現代川柳は俳句の真似をしないで川柳本来の在り方に戻るべきだ」という俗論とは次元を異にするが、困ったことに、そのような俗論を唱える論者が「いいね」と評価するのが渡辺隆夫であることだ。私自身の渡辺隆夫論については「渡辺隆夫の孤独」(「MANO」12号)に書いたことがある。
松林は「序」の最後でこんなふうに書いている。「私が渡辺氏の今後に期待するのは、他者に向けられた毒の刃が自己にも向けられることである。諷刺でもたんなる野次馬ではなく、加害者に対する怒り、憎しみ、呪詛としての毒がなければならない」
ここには実作上の微妙な問題があって、自己に向けられる毒は諷刺の力を弱めるのではないかということだ。他者や社会を批判しつつ自己の内部の葛藤も表現しきる、両立させるのは至難の業だろう。

連句に関連して言えば、松林の『日本の韻律 五音と七音の詩学』(花神社、1996年)は連句人にとっても重要である。連句界では短句・七七句の下の七音について、4+3のリズムはよくないと言われている。四三(しさん)の禁である。芭蕉の連句には短句に四三のリズムは一句もないと言うのだが、それは近代以前の話。短歌においては齋藤茂吉の「短歌に於ける四三調の結句」によって四三調の禁から自由になり、現代短歌においては意識もされなくなった。松林の本は連句における四三調の問題を考えるときに必読の一冊である。

『俳句に憑かれた人たち』(沖積舎、2010年)は現代俳句を彩る47人の作家像をまとめたもの。私はその中で現代川柳とも関係の深い津久井理一と野田誠に注目している。
津久井理一は50冊近い「私版・短詩型文学全書」の出版、個人誌「八幡船」(ばはんせん)の発行などで、現代川柳の世界とも交流があった。松林は次のように書いている。
「理一は昭和三十八年六月、個人誌『八幡船』を発足させる。『八幡船』創刊号には野田誠が『鏡部落』を載せ、重信や八田木枯が句を寄せている。『八幡船』を持つことで理一は自らの意図を誌面に反映させつつ作家を発掘し、人脈を広げることが可能になった。私版・短詩型文学全書の第一集が出たのは四十一年二月で、阿部青鞋が最初である。次いで、野田誠、東川紀志男、瀧春一、渡邊白泉、大原テルカズと続く。紀志男、テルカズという関西、関東の最も過激な前衛を取り上げているところにも、理一の反骨精神がよく示されていると思う」
「私版・短詩型文学全書」は俳句篇のほかに川柳篇と一行詩篇があり、川柳篇として『河野春三集』『福島真澄集』『時実新子集』『草刈蒼之助集』が出ている。『山村祐集』が川柳篇ではなくて一行詩篇として発行されたことが当時の川柳界で物議をかもした。「短詩型の広場」ということが言われ、俳句と川柳の違いはジャンルの違いではなくて、エコールの違いだというエコール論が唱えられたのもこの頃である。津久井理一の句から。

ながきながき饂飩を食ひぬ特高と   津久井理一
ストへストへ七階にして螺旋階尽きる
しら髪のさらりと黒い海がある
毛野の地を日本と思ふすみれ濃し

あと、野田誠の句も紹介しておく。「永遠は」の句は私のなかでは優れた川柳作品として記憶されている。

永遠はアルミニウムでありすぎる    野田誠
ひろしまと書けばすなわちその文字燃ゆ
ことば積む はげしく零へ 近づけて
午後曇天わがこめかみの角砂糖

松林の俳句評論としては『子規の俳句・虚子の俳句』(花神社、2002年)、『桃青から芭蕉へ―詩人の誕生―』(鳥影社、2012年)が挙げられる。
前者の巻頭評論「子規―俳句の出発」では俳句と連句について次のように述べられている。
「子規のいうように連句では付句の展開を見る限り変化が生命なのであって、子規はその変化を非文学と見做したのであった。子規は文学に個の表現の一貫性をみていたから、他者による恣意的な変化を文学とは見做せなかったのである。しかし、文学を発想とは別の観点から、つまり完結した作品そのものとしてみると、変化していくところに微妙な味わいがあればそれはそれで文学として面白いのである」
後者『桃青から芭蕉へ』は芭蕉が談林から脱却していく過程を『桃青門弟独吟二十歌仙』から『虚栗』への歩みのなかにたどっている。

最後に、松林は和歌についても『和歌と王朝・勅撰集のドラマを追う』(鳥影社、2015年)を上梓している。『新古今和歌集』の巻頭歌は摂政太政大臣・藤原良経だが、彼の謎の急死など『新古今和歌集』成立の周辺を探った「藤原良経と後鳥羽院・実朝」、南北朝時代の流浪の歌びとの姿を描いた「宗良親王私記」など興味深い論考が収録されている。
松林尚志の俳人としての業績について私は詳しくないが、評論については『古典と正統』以外はあらかた手元に置いている。著者から贈呈していただいた本も多いが、礼状もださないまま時が過ぎてしまった。改めて読み直してみると、短詩型文学に対する視野の広さに基づいた優れたお仕事だと思う。