2023年2月18日土曜日

川柳の青春

かつて川柳が青春の文学である時代があった。
明治の関西川柳界の草分けは小島六厘坊である。東京では阪井久良岐や井上剣花坊が「新川柳」を提唱したが、新川柳が大阪に定着したのは小島六厘坊の力による。
毎日新聞の社員だった西田当百は明治39年ごろ「大阪新報」柳壇の小島六厘坊選へ投句した。句会ではじめて六厘坊に会ったときの思い出を当百は次のように書いている。
「僕が六厘坊ですと太い声で挨拶したのが、眉の濃い鼻の大きい荒削りの顔の若い男、見渡した処いずれも二十歳左右の人々で、老人連とは元より思っていなかったが、去りとは大分予想を裏切られた。この川柳家の年若については、その後も会場へ訪れて来た人が、宗匠はどこに、六厘坊先生はどなたでと尋ねて、呆気にとられて帰ったこと一再ならずあった」
六厘坊と久良岐との会見も六厘坊面目躍如のエピソードである。六厘坊は久良岐に対して反抗心をもっていたようで、喧嘩腰の会見だったという。「僕を困らせようと古い題を出しよったが、僕は知らんがな、それで負けん気で議論して来た」とは六厘坊の談である。
明治42年5月、六厘坊は22歳で夭折。関西の川柳界は関西川柳社から「番傘」の時代へと入ってゆく。

岸本水府の青春につては田辺聖子の小説に詳しく描かれているので触れないことにする。ここでは麻生路郎について述べておく。
大正4年、麻生路郎と川上日車は「番傘」を脱退し、8月に「雪」を創刊する。「川柳」という呼称を用いず、「新短歌」と称している。大正6年2月の終刊まで19号を発行。
日車は後年、次のように回想している。
「古川柳には、古川柳独特の味いと響をもっている。私たちは久しくそれに浸って川柳作家としての揺籃期を過ごした。だが少年期はやがて迎える青年期の前提である。少年期に『紅い』と映ったもの、それは、伝承的『紅い』であって自己の発見した『紅い』ではなかった。ここに少年期と青年期との間に一つの曲り角がある。その曲り角を意識にとめず一直線に歩みつづけるのも、透徹した一つの道ではあるが、自己に厳しい執着を持つ者にはそれが出来ない。そこに青年期の浮氷が横たわる。路郎と私が手を携えて『雪』を発行したのは、まさに此の曲り角に立った時であった。

  くろぐろと道頓堀の水流る
  行末はどうあろうとも火の如し

こうして路郎の眼は次ぎ次ぎと人生のあらゆる角度に拡がっていった」(「雪の頃―路郎と私」、「川柳雑誌」昭和32年7月)

「行末は」の句は路郎の心意気をよく示しているように思えるが、橘高薫風の調査によると「雪」の中にはないという。また、「くろぐろと」の句は「くろぐろとうき川竹の水流る」の形で「雪」に収録されているということだ。
「雪」終刊の翌年、大正7年7月に「土団子」が創刊される。表紙は小出楢重。創刊号の巻頭言は路郎が書いている。「現代の柳界は例せば青い玉と赤い玉の時代である」
「青い玉は静的である。池の中の水である。水底に沈殿せる黒い土である。その土に圧せられたる朽葉である。彼等は遂に自己の流れ行く運命をさへ知らないのである」
「赤い玉は動的である。天上に燃ゆる太陽である。世にありとあらゆるものを焼かんとする火である。この故に頗る危険である。しかしながら此の危険のない処に真の革命はない筈である」
「茲に我等は青い玉の上に赤い玉を建設することを宣言する。我が『土団子』は、柳界の平和を打破して、新しい川柳王国を築くために放たれたるピストルの一弾である」
過激な宣言であるが、「土団子」もその年の10月には4号で廃刊になってしまう。
大正8年、路郎一家は萩の茶屋三日路に移り住んだ。『麻生路郎読本』巻頭の「路郎アルバム」の中には半文銭と路郎のふたりが写っている写真が掲載されている。「大正9年の春、大阪市萩の茶屋三日路の路郎居にて。左は半文銭。近所に住んでいたので、頻繁に行き来していた」とある。
やがて新興川柳運動が起こり、半文銭と日車はその中心作家となるが、路郎は同調しなかった。
「日車氏は半文銭氏と共に『小康』を出したが、私は日車の強請を断じてしりぞけ、これには参加しなかった」「お互ひ川柳家同志がいかに、可なりとして褒めちぎったところで、一歩社会へ出て見れば、まるで社会から川柳の存在が認められてゐないではないか。これではいけない。ここに眼をつけた私は日車氏等の強請懇望これつとめてくれた友情をも振り切って、社会的な柳誌、社会を対象とする柳誌刊行の計画をすすめたのであった」(「苦闘四十年」、「川柳雑誌」昭和18年2月)
ここで路郎は現実路線へと舵を切ったのである。
新興川柳との路線の違いは田中五呂八に対する次のような言葉にも表われている。
「あなたが『氷原』のために闘っていられる態度、同志のための詩集を出すための努力などに対しては涙ぐましさを感じます。けれども、あなたの評論や創作に対しては僕は唯厳正な一批評家の立場で拝読していることに心づきます」「一体革新の名によって奮闘?をしている人達は気短過ぎる共通性の欠点を持っていると思います。薄っぺらな雑誌すら出たり出なんだりで、社会から川柳に対する従来の誤解を一掃しようなどと考えて見ることすらあまりに虫のいい話だと思います」(「三十年計画―田中五呂八氏に与ふ」)

最後に川上三太郎の場合はどうだっただろうか。三太郎は19歳のときに「現川柳作家の労働及び其の価値」という文章を書いている。
「混沌たる柳壇、泥酔せる川柳作家、彼らはたとえ幾百千万句作るとも、その筆にその活字にその雑誌に、いたずらなる労働に過ぎないのである。たとえ幾多の柳壇対努力をしても、無益な労働に過ぎないのである。現川柳及び現川柳作家の作句する努力の価値こそ、実に無益な下らない愚劣なものはない。それを自覚した僕ら若い青年、まじめな熱に燃えている若い人々はなんで見ているわけにいこう。否なんでそれに盲動、服従していられよう」(「矢車」明治43年12月)
青年らしい過激な文章だ。川柳人にもそれぞれの青春があり、夭折した者もあれば「成熟」の道をたどった者もあるが、それはまた別の話題である。

0 件のコメント:

コメントを投稿