2012年3月30日金曜日

春なのにお別れですか

今回は脈絡もなくいくつかの話題をつづることになりそうだが、ご容赦を願いたい。
まず、訃報から。
大阪の川柳人・久保田元紀(くぼた・もとき)が3月14日に亡くなった。享年72歳。
元紀の死は新家完司のブログで知ったが、それ以外の情報はあまり届いてこない。
「川柳天守閣」は久保田以兆(くぼた・いちょう)が創始した川柳結社である。以兆の子供の六人兄弟のうち半蔵門、元紀、寿界の三人が川柳人として活躍している。
私はそれほど川柳句会には行かないのだが、元紀氏には堺や大阪の句会で会うと声をかけていただくことがあった。佐藤美文編の『風・十四字詩作品集』に作品を掲載したときには、作品評を書いてもらった。元紀は十四字詩(短句・七七句)の普及にも努めていた。
赤松ますみの「川柳文学コロキウム」発足にも尽力したようで、コロキウム句会のあとの飲み会でいっしょになったときに、「どんなむつかしいことを書いてもいいが、川柳のことを書くように」と言われたことを覚えている。私はちょうど「黎明」誌に川上弘美のことを書いていたので、そのことを言われたのだろう。私はもちろん川柳のことを書いたつもりだったのである。
「天守閣」句会にも一度だけ参加したことがあり、そのとき大阪城天守閣をプリントしたTシャツをもらった。いまも家のどこかにあるはずだ。
久保田元紀は薔薇の句が好きで、句会の選者としてもよく薔薇の句を取っていたが、これには賛否両論があった。参加者が当て込みで薔薇の句を投句することが多かったからだ。

アルバムの薔薇は私の罪なのか   久保田元紀

著書に『川柳よ何処へゆく』(新葉館)がある。
追悼句会は5月25日に大阪市立弁天町市民学習センターで開催される予定。

3月19日、俳人の八田木枯(はった・こがらし)が亡くなった。享年87歳。
一昨年、彼の句集『鏡騒』(かがみざい・2010年9月発行)が評判になった。
その後、同人誌「鏡」が創刊され、創刊号は2011年7月発行。2012年1月に3号が発行されている。手元に3冊そろっているので、読み直してみると八田木枯晩年の充実ぶりがうかがえる。

ゆふぞらに梅のしろさを詰めよりぬ (創刊号)
うすらひをことばとことばにて挟む
昼寝して夜は夜でねむることかなし (第二号)
老年が蝶の鬱金をなぶりをる
見るのみであへてきんこに手をつけず (第三号)
手鞠つく数のあたまをつきにけり

作品に添えられている短文もおもしろく、創刊号では「生意気ざかりのころに竜安寺へゆき石庭の前でかがみこんで瞑想に耽った。何も悟ることはなかったが、こころは落ち着いた。俳人も石庭へはよくゆき句を詠んでいる」と述べて「この庭の遅日の石のいつまでも」(虚子)「寒庭に在る石更に省くべし」(誓子)を挙げている。
第二号では上田秋成の『雨月物語』について「若い時からとり憑かれている書だ。昭和二十年の後期、私は高野山の奥の院にちかいところに居住していたことがあり、漆黒の闇の中にいると『仏法僧』の世界が幻でなく現実そのものになってくるのに興奮をおぼえた」と書いている。第三号では新宿ムーランルージュの思い出や映画の話題。

訃報はこれくらいにして、明るい話題に転じると、俳句の世界ではいろいろなトピックスが多くて退屈しない。
御中虫という人がいて、たいへん元気である。
ネットで評判になっているのは、「詩客」に連載中の〈赤い新撰「このあたしをさしおいた100句」〉である。「御中虫をどう思う」と訊かれることがありそうなので、川柳人にとっても要チェック。先週の連載第三回では小林千史が俎上に上げられ毒舌を浴びせかけられていて、私もつい書架の小林千史句集『風招』を取り出してきてしまった。こういう逆効果もある。
朝日新聞の「俳句時評」(3月26日)に高山れおなが「震災詠の振幅」というタイトルで長谷川櫂『震災句集』と御中虫『関揺れる』を取り上げている。

関揺れる人のかたちを崩さずに   御中虫
関揺れてかの鼻行類絶滅す

「関」は茨城在住の俳人・関悦史のことであり、「関揺れる」を季語として使用するのだという。「有季定型という制度を、友人の被災という極私的物語によって相対化するウイットが小気味良い」と高山は述べる。
高山の俳句時評は今回で終わり、次回から執筆者が変わるようだ。

2月4日に京都で開催された愛媛大学「写生・写生文研究会」については、このブログ(2月10日)でも紹介したことがあるが、「週刊俳句」(3月18日)にきちんとしたレポートが出て、反響が続いている。たとえば、今週の同誌(3月25日)に四ツ谷龍が感想・批評を書いている。四ツ谷が「写生」からではなくて「俳句性」の方から考察を進めているのは興味深い。四ツ谷によれば、俳句性とは「モノがゴロリとある感覚」「継続的に発生する個人の情念が作品に抜け落ちていること」だという。

俳句の世界では何らかの話題性が途切れることなく続いていて、停滞するということがない。伝統俳句の中核部分ではそうでもないのだろうけれど、外部から見ればとても活気があるように見える。川柳は停滞感が否めず、今何が問題になっているのかが見えにくい。

「杜人」233号が届いた。「在」という題で加藤久子が誌上題詠の選をしている。彼女は「大震災からまもなく一年になる。なにか書こうとすると、まだあの日から離れられない。句を読んでも震災につなげて解釈してしまうことが多い。このどうしようもない感覚には抵抗しないことにして、正直でいようと思う」と書いている。久子選の句から。

見ぬ振りのできないぼくが辻に立つ   斉藤幸男
ここにいます すみれ タンポポ さくら草  大和田八千代
御不在のようでしたので咲きました   須川柊子

昔、大学で西洋文学を学んでいたとき、暗い作品が生まれるのは暗い時代ではなく、エネルギーに満ちた時代であるという話を聞いたことがある。エネルギーに満ちているからこそ、逆に自らのエネルギーをためすように暗い作品が生まれるのだ。今の時代はたぶん暗い作品には耐えられないほど衰弱しているのだろう。そんな中で、川柳眼や川柳精神を失わずに作品を書き続ける困難さを改めて思うのである。

2012年3月23日金曜日

丸山進の15句を読む

短歌誌「井泉」は毎号、招待作品として短歌以外にも現代詩や俳句・川柳を掲載している。川柳からはこれまで、樋口由紀子、筒井祥文、小池正博、畑美樹、清水かおりなどが招待されているが、44号(3月1日発行)には丸山進の作品が掲載されている。編集後記には発行人の竹村紀年子が丸山のことを「川柳大学元会員、バックストローク同人。長年、企業でシステムの開発設計に従事され、退職後に刊行の句集『アルバトロス』で話題を集められました。瀬戸市にお住まいです」と紹介している。あと付け加えるとすれば、彼は川柳教室の講師としても活躍し、ブログ「あほうどり」にはファンも多い。本日は丸山進の15句を読んでみたい。

あの日から他人の靴を履いている

「あの日」とはどういう日だったのだろう。何らかのエポック・メーキングなことが起こって、「他人の靴」を履くことになった。それが今まで続いているし、たぶんこれからも続くのだろう。けれども、それまでは「自分の靴」を履いていたのだと言い切れるだろうか。「あの日まで自分の靴を履いていた」「あの日から他人の靴を履いている」「あの日まで他人の靴を履いていた」「あの日から自分の靴を履いている」の四種の組み合わせの中で、作者はこの表現を選んだ。違和感をかかえながら社会の中で生きている私たちは、多かれ少なかれこの句のような感慨をもつことがあるだろう。だから読者は「あの日」にそれぞれのイメージを込めることができるのである。

盗聴をしても欠伸がでる我が家

「盗聴」という緊迫した状況がある。いささか旧聞に属するがウォーターゲート事件とかFBIのフーバー長官とかを連想する。ところが、我が家を盗聴しても何ひとつ驚くようなことは出てこない。毎日続く平凡と凡庸。「盗聴」から「欠伸」にずり落とす、緊張と弛緩のテクニックによって、ほのかなアイロニーが生れる。映画「第三の男」の登場人物は「スイス五百年の平和は何を産んだか。鳩時計だ」と言ったが、目の覚めるような悪よりも鳩時計の平和の方を選ぶのが市井に生きる人間の姿である。

木枯らしに吊るす第九の搾りかす

年末吟なのだろう。ベートーベンの「第九交響曲」はシラーの「喜びの歌」で知られている。荘重なドイツ語の歌は荘重であるだけに、茶化してみたくなるのが川柳人の本能である。「第九」はむろん結構だが、人間はいつもエリジウム(楽園)の歓喜に生きていられるものでもない。第九の搾りかすを木枯らしの吹くなかに吊るしてみる。どんな音をたてるのだろう。

踏切の途中で蟻とすれ違う

踏み切りを渡るときに私たちは蟻などを見ていない。さっさと渡ってしまうのが普通だろう。けれども作者は蟻の存在に気づいてしまう。「川柳眼」というのか、普通見えないものが見えてしまうのである。そのときふと気づくのである。自分も蟻だったということに。

コスプレにて御出で下さい園遊会

「園遊会」にはフロックコートか何かを着ていくのだろう。ところが「コスプレ」でお出でくださいという案内が来た。さて、あなたはどうする? 案内を真に受けてコスプレで出かけるだろうか。それとも、やはり正装をしてゆくだろうか。ここにはある種の悪意が仕組まれている。ほんとうにコスプレで来てどうするという罠と、背広で来るような常識的で面白みのない奴だという非難とである。この陥穽を避けるためには、園遊会に行かないという選択肢が残されているが、この作中人物はたぶんコスプレで行ったのである。

膝枕の膝を盗まれ腕枕

この句は「膝枕」「腕枕」という言葉から成り立っている。膝が恋人の膝だとすれば、腕は自分の腕である。恋人を第三者に奪われた状況と読めるが、あまり理屈で考えてもおもしろくないだろう。渡辺隆夫は「妻一度盗られ自転車二度盗らる」と詠んだ。丸山の句ではひとり腕枕をしている男の残像にペーソスがある。

虫の息桃と檸檬に挟まれて

川柳テクストを前にして、読みをどの方向に進めたらよいか迷うことがある。
まず、「桃」と「檸檬」からエロティシズムを読むことができる。「恋人の膝は檸檬の丸さかな」(橘高薫風)という句もあるくらいだから。エロスではなくて、「死」の方向で読むこともできる。単に虫が息をしているというように取れないこともないが、「虫の息」だから生命の危機的状況であろう。けれども悲観的な感じはしない。豊饒なものに挟まれて虫の息になっているのだろうか。

八日目の蝉の死因は心不全

角田光代の小説『八日目の蝉』。映画化もされて、日本アカデミー賞の各賞を受賞したようだ。私は角田光代の小説はよく読んでいるが、『八日目の蝉』だけは読み通せなかった。この句はしかし角田の小説の内容とは無関係で、タイトルだけを拝借しているのだ。角田の小説のことかと思わせておいて、蝉の死へつなげ、その死因は心不全だったという。蝉に心臓があるとも思えないから擬人化されているのだろう。「蝉」「死因」「心不全」というS音のつながりで展開してゆくのである。

男系の男子の先のニューハーフ
先端は鼻か乳首かクチビルか
夜鍋してスリーサイズを加工する
使用後のモザイクが浮く湯船かな

15句は構成を考えたうえで並べられている。この4句には何となく繋がりが感じられ、特に前の2句はセットになっている。実際に題詠であったかどうかは別にして、想定されているのは「先」という題である。先→先端→鼻・クチビル→スリーサイズ→モザイクと連想はエロティシズムも方向に流れてゆく。まじめなお色気は丸山の特質のひとつである。

原発の電気が効くよ電気椅子

風刺も丸山が本領を発揮する領域である。原発の電気は死刑執行にも使われる。日本全体が電気椅子に座らせられているという状況が暴露される。

行間をなぞれば匂う出会い系

書物の行間に著者の真意を読みとろうとする。時空を超えた他者との出会い。あなたの作品が好きだということは、あなたが好きだということだ。

留守電に長いお経が入ってる

川柳の特質のひとつに批評性がある。丸山が15句の最後にこの句をもってきたのは風刺と笑いのバランスが取れているからだろう。留守電にお経ねえ。うまく言いとめたものだ。

「井泉」の編集委員のひとりに彦坂美喜子がいる。「井泉」が川柳とのパイプをもっているのは彼女の存在によるものだ。最後に本号の彦坂の短歌を紹介しておきたい。

カマキリの影折り紙で作る夜手足の冷たい君がいる   彦坂美喜子
生れても殺しても影はかげベタな形を焼き付けるだけ
影持たぬものをさみしとつぶやいて滂沱の涙をながす影

一首目・三首目は「五七五七五」のリズム、二首目は「五五五七七」である。
前衛短歌の、塚本邦雄などが試みた結句を五音にするやり方。いわゆる「五止め」が使われている。塚本は俳句の定型を意識していたのだろう。
短歌と五七五定型(俳句・川柳)は交流しなければならない。

2012年3月16日金曜日

大友逸星・添田星人追悼句会

雑誌「東京人」4月号は「川柳」特集を組んでいる。誌名からわかるように東京中心の視点なので、関西の川柳については田辺聖子が岸本水府のことを述べているのと、時実新子が取り上げられているだけである。あとは古川柳とかサラリーマン川柳。もう少し現代川柳についてのページがあったら買ったのに。
東日本大震災から一年が経過して、諸誌には震災をめぐる言説が掲載されている。「現代詩手帖」3月号に佐々木幹郎が「未来からの記憶」を書いているが、これは昨年11月に神戸で開催された「現代詩セミナーin神戸2011」の講演を再構成したものである。

さて、3月11日に仙台で「故大友逸星・故添田星人追悼句会」が開催された。たまたま震災一年目の日と重なったが、逸星は昨年4月16日に86歳で、星人は昨年10月27日に81歳で亡くなっている。この二人の巨星については本ブログ(2011年5月20日・2012年1月20日)にそれぞれ書いている。
私は前日から仙台入りし、仙台空港からJR空港線で仙台駅に向かった。空港も駅も被害にあったが、すでに復旧している。ただ、空港の向こうに残存する立木を見ると一年前にテレビの映像で見た情景がよみがえってくる。
11日の追悼句会は黙祷ではじまった。山河舞句により開会の言葉があり、逸星さん・星人さんの写真の前に花が飾られ、献杯をする。二人ともお酒がすきで、星人さんは酒のつまみとして自宅で育てていたミョウガにもときどきビールをやっていたという。

宿題「星」(本村靖弘・中西ひろ美共選)
「低い」(野沢省悟・樋口由紀子共選)
「脱ぐ」(加藤久子・佐藤岳俊共選)

席題は「二個の松ぼっくり」を見てのイメージ吟である。見事に大きな松ぼっくりで、逸星・星人を自然に連想させる。入選作品はいずれ「杜人」誌に発表されることだろう。
席題以外は事前投句で、選も事前に終っている。会場では食事をとりながら披講を聞くことになった。追悼句会ならではのことである。
あと、会の終わりごろに穴埋め川柳(逸星・星人のそれぞれ15句の穴埋め)と前句付があった。前句付は「にんげんがややおもしろくなってきた」(逸星)の前句に七七の短句をつけるもの。むさしと松永千秋が選をした。
広瀬ちえみの「お礼のことば」があり、会は午後四時ごろに終了した。出席者名簿には44名の参加者の名があるが、それ以外にも参加された方があり、もう少し多かったようだ。欠席投句者は28名。

当日、大友逸星遺句集「逸」、添田星人遺句集「天空」をいただいたので、以下に紹介する。どちらも広瀬ちえみの編集。
まず、「逸」から。序文は山川舞句「衰えを知らぬ川柳細胞」。

せんべいを箱ごとつぶす花ふぶき   逸星
咲いている寒いと一言つぶやいて
骨折の訳は言えない笑うから
葬儀屋が来て台風に目を入れる
どんぶりが嫌と言わないから入れる
うっかりと握り返してしまったが
バス停をずらす誰も居ないので

2009年6月、「川柳人生60年大友逸星・川柳人生50年高田寄生木記念句会」が川柳触光舎主催で行われ、野沢省悟編の『記念句集』が配られた。広瀬ちえみは他選の句集がもっとあってもいいと思い、この句集の編集をはじめたという。逸星も喜んで題字を書いたりしたが、生前には間に合わなかった。158句収録。ここには編者が一読者として純粋におもしろいと思う作品が集められている。広瀬は次のように書いている。
「逸星には逸星の独特な型があると思った。これが存外強固である。その型に俗、人間愛、生と性と死、社会風刺を、そしてやさしさと毒を流し込む。型がはずされると同時に生まれるのが逸星川柳だ。それは職人技と言っても過言ではない。大胆な発想と繊細な人間観察を駆使した逸星の作品を拝借して、私は私の空想の世界を楽しんだ。心なしかやさしい句集になったような気がする。逸星さんには『僕の句集ではないようだな』と笑われそうだ」

アメリカのパンツを穿いて動けない  逸星
真珠湾までテープを巻き戻す
股間から憲法九条そそり立つ
この国はよく洗濯をする家だ
戦争と地震のどちらかに○を

逸星はこういう時事句・社会批判も巧みであった。
句集の最後には「辞世の句」が掲載されている。

川柳の尻尾に掴まりながらどぼん   逸星

続いて星人句集「天空」である。

天空の運河ときめく初明り      星人
金魚から人が生まれて笑い出す
青鷺の風生む前の身づくろい
投げ込み寺に春を投げ込む
ろくろから自分自身が立ち上がる
りんご齧ると霧がこぼれる
悪童がたくさん熟れるあんずの樹

この句集には星人自筆の色紙16句を含む95句が収録されている。星人には『川柳作家全集 添田星人』(新葉館)があるが、その後、星人は周囲の勧めもあって自筆句集を出そうとしていたようだ。遺品には200枚近くの自筆の色紙があり、追悼句会の会場にも展示されていた。
上掲の句に七七句(十四字・短句)が見られるのは彼が連句にも造詣が深かったことを示している。
平成23年10月1日「杜人句会」最後の作品から。

つまらないギャグだな鼻毛だけ伸びる  星人

都築裕孝は句集の序文で、星人が愛してやまなかったものが金魚と夫人であることを述べ、次のように言う。「目の不自由な彼女に夫の星人は『お前の目になってやる』と言っていたという」こういう言葉はなかなか言えるものではない。

「杜人」には逸星・星人の薫陶を受けた個性的な同人たちが集っている。東北・仙台にあってこれからもユニークな川柳発信を続けてゆくことだろう。

2012年3月9日金曜日

墨作二郎と点鐘散歩会

「船団」92号(3月1日発行)は「俳句と動詞」という特集を組んでいる。何となく俳句は名詞と親和的であり、川柳は動詞と親和的であると思っていたが、そう単純なものでもないようだ。動詞は他の単語と結びついて使われるから動詞本体が隠れることもある(動詞を隠す)ことなど指摘されていて興味深い。
さて、芳賀博子は「船団」に「今日の川柳」を連載しているが、本号では「散歩会」について紹介している。芳賀は次のように書いている。

〈 通称「散歩会」で親しまれる「点鐘散歩会」は、大阪在住の川柳作家・墨作二郎の主宰する「現代川柳・点鐘の会」が毎月催す吟行である。特色は誰でも当日参加OK、そして出句無制限であること。吟行先にもよるが、移動や昼食タイムを除けば二時間ほどでツワモノは六十句、七十句、調子が良ければ百句近くも詠むという。
さらに作句が終われば即、清記、互選。今回の投句も六百を超えたが、選べるのは通常通りのたった十句。この厳選もまた特徴のひとつで、参加人数によっては総数千句にのぼる場合もあるらしい。とにかくこの散歩会、のんびりほがらかな名称とは裏腹に、限界まで読み尽くし読み尽くし選び尽くす、ほとんど川柳の荒行なのである。 〉

川柳にも吟行があるのかと思われる向きもあろう。川柳は句会・大会を主とするから、外へ出て川柳を作るというのは珍しい。点鐘散歩会は平成8年3月にスタートし、今年2月現在で185回を数える。その目的はどういうところにあるのだろうか。散歩会の記録は二冊の冊子にまとめられていて、平成20年4月に発行された二冊目の冊子に、墨作二郎はこんなふうに書いている。

〈 散歩会の考え方は当初と変わりなく「外へ出て書く川柳」で、直接自然の変化や世情の流行や変幻を体感することで、知識の内容を吸収して、今に欠けている川柳のこれからを見出したいのである。芭蕉は旅を通して風雅の心を養い、自己の芸術をより高める方便としている。このことに学んで正岡子規は俳句に写生を提唱し、碧梧桐・虚子らに継承されている。実作の一方法として吟行があるが、これは外へ出て、自然の景物に接し、目の前の景を見て作句する「嘱目」が基本である。 〉

川柳の句会・大会では「題」が出る。句会まわりを続けてゆくと、似たり寄ったりの題が出ることもしばしばである。題(言葉)を前にして机の上で句を作っているだけでは煮詰まってくるのだ。作二郎は俳句の吟行にヒントを得て、「外へ出て書く川柳」を提唱する。それは「類想・類句を絶つ方法」でもある。
芳賀博子は何度か散歩会に参加しているが、このレポートのときは万博記念公園の国立民族学博物館に行ったようだ(第182回、2011年11月)。「点鐘じゃあなる」という句会報が発行されていて、私も手元にもっている。参加者20名。当日は特別展示「アイヌのくらし」展があった。雰囲気を感じていただくために、句会報から何句か紹介する。

遠く遠く誰のものでもないカヌー    北村幸子
体温になるまで仮面はずせない     笠嶋恵美子
不安だった鳥のかたちになるまでは   峯裕見子
人間の匂いを壺に入れておく      本多洋子
うつくしきもののひとつに豆の種    八上桐子
タクシーも来んしラクダにしませんか  芳賀博子
海を拝んだ空を拝んだそんな顔     徳永政二
少し余白があってアイヌの叙情詩は   墨作二郎

嘱目といっても、俳句の写生とは少し違う。対象であるものそのものに向かうというより、ものに触発された内面感情の方をつかみ出そうとしている。
参加者の中にも、「散歩会という方法をとっているのだから、その日その場の句でなければならない」と厳密に考える人と、「嘱目は句作のきっかけであればよく、極端に言えばその場に無いものを詠んでもよい」と考える人もいる。作二郎はその両極を受け入れているようだ。

点鐘散歩会については「五七五定型」4号(2010年4月)に野口裕が「句会探訪記」を書いている。このときはサントリー・ミュージアムの「クリムト・シーレ ウイーン世紀末展」に行ったのだった。野口は次のように言う。

〈 私自身いわゆる吟行、集団で何かを見て五七五を書く経験はほとんどない。問題は「集団で」というところにある。一人で書く習慣に馴染んでいるので、ことさら吟行に出かけなくても、日常生活の中でふっと一人になる瞬間があれば、五七五はやってくる。しかし、同じ五七五を書く人間がそばにいて、同じものを見ている、と思うだけでどうも書きにくい。 〉

作句仲間がいる方が句ができることもあれば、集団では句ができない場合もある。作句方法も個性や習慣に左右されるのだろう。
前掲の『点鐘散歩会』の冊子で徳永政二は「なにもかも忘れて風景と一つになって書くということは、こだわりのある自分より、より大きなものを書くことになる」と述べている。「なりきって書くということには、自分というものが消える心地よさと、なんともいえないさわやかな解放感がある。そして、向こうからやってくる言葉との出会いがあれば、なおさらのよろこびである」(「散歩会を思う」)こういう徳永の感覚は俳句の「写生」の感覚に近いのかも知れない。

「点鐘の会」では散歩会とは別に句会も開いているし、隔月発行の「点鐘」に会員作品が掲載されている。それらの作品をまとめて、毎年、『点鐘雑唱』という句集が発行されている。その2011年版から紹介する。

鈴成りの首の一つが笑ったよ        石川重尾
胎内回帰はじまる 皆既月食        笠嶋恵美子
大阪の水に切手が貼ってある        阪本高士
信長の姪ですという彼岸花         畑山美幸
天部のどなた一弦を掻き鳴らす       平賀胤壽
ここに蝉丸春の吊り橋           本多洋子
繋がりを言えばロバのパン屋も木の椅子も  前田芙巳代
黒猫が喉を見せてる落石注意        森田律子
象追って足の裏まで乾くのよ        吉岡とみえ
我らすでにうそ寒族と呼ばれんか      渡辺隆夫
なつかしい敵なつかしい死亡記事      墨作二郎

2012年3月2日金曜日

神戸文学館の三條東洋樹展

川柳人をテーマに展覧会が開催されることは珍しいが、いま神戸文学館で「川柳作家・三條東洋樹展」が開催されている。
神戸文学館は神戸市の王子動物公園の西隣にある。明治37年(1904)に建てられた関西学院大学のチャペルを改装した赤レンガ造りの由緒ある建物である。平成18年12月に文学館としてリニューアル開館し、島尾敏雄・竹中郁・久坂葉子・陳瞬臣など神戸ゆかりの文学者の展示を行っている。講演会もしばしば開かれている。
さて、三條東洋樹(さんじょう・とよき)は神戸に本社がある「時の川柳社」の創始者である。ポスターには次の句が代表作として掲載されている。開催期間は1月14日(土)~3月4日(日)。水曜日休館・入場料無料。

ひとすじの春は障子の破れから   東洋樹

私はこの展覧会をまだ見ていないので、本来は見てから報告すべきであるが、もうすぐ会期が終了してしまうので、今回取り上げることにさせていただく。幸い神戸文学館のホームページに展覧会のポスターが掲載されており、そこには次のように紹介されている。

兵庫県立神戸商業学校2年生・15歳の時に、川柳をはじめた三條東洋樹。「峰月」から「東洋鬼」へ、そして「東洋樹」へと雅号を改名しましたが、格調ある洗練された作句を目指す姿勢は、最後まで変わりませんでした。
また大正10年代に小柳誌「覆面」を、昭和4年に椙元紋太らと「ふあうすと」を、同32年には「時の川柳」を発刊、そして同42年には「東洋樹川柳賞」を創設、「平易簡明、十七字音、批判精神」を作句の三条件に掲げ、川柳の質的向上につとめました。
彼の原点は、病床で詠んだ句「ひとすじの春」にあります。障子の破れ目からこぼれてくるひとすじの明るい陽射し、明日への希望はそこから湧いてくる―、十七音に希望を託すがゆえに、「カミソリ東洋樹」との異名を得るほどに鋭い社会風刺の作風にもなった東洋樹の作品の数々と、その生涯を紹介します。

「ひとすじの春」とは前掲の「ひとすじの春は障子の破れから」という句を指している。この句がそんなに良いかどうかはひとまず保留するとして、展示内容は次のようになっている。

県商時代の投稿雑誌、東洋鬼時代からの短冊や色紙、小説や講演会用などの自筆原稿、    時計・ポケットチーフ、手帳といった身の回りの小物、「ひとすじの春」(昭和15年発行)をはじめとする自著、句詩「時の川柳」(創刊号~)「昭和川柳百人一句」などの雑誌、冊子や豆本、妻・愛子(雅号・柚香女)の色紙、短冊など。

第一句集『ひとすじの春』、第二句集『ほんとうの私』があるが、私が持っているのは構造社版の川柳全集・第14巻『三條東洋樹』である。私が推薦するのは次の10句。

やましなと二度読み返すひとり旅
灯を消した夫婦で息を盗み合う
さくら百句つくらぬうちに桜散る
薔薇崩れ落ちるが如く女脱ぐ
ズボンはく男の顔はすでにエゴ
かみそりと言われた人の水枕
随筆を書けば学者も人くさし
こがれ死にした人もある墓地の風
意地悪がむらむらと出るアンケート
二番手の馬の心にあるゆとり

「時の川柳」の誌名について、東洋樹は次のように述べている。

「時の川柳の『時』とは現代という意味であって、過去の川柳でも未来の川柳でもなく、今日生きている我々の生命を宿した川柳である。これを作品の傾向から言えば、過去の陳腐なものを捨て、未来派的な難解独善をおましめ、あくまでも現代を生かした大道を歩もうとする意欲の象徴である」

即ち、東洋樹の批判するのは「過去」と「未来」。「過去」とは古川柳の模倣にすぎない作品。未来とは詩性川柳である。この点で、私は東洋樹の川柳観には違和感をもつ。たとえば、次のような文章である。

「近頃、川柳界に詩性を説く声が高まっており、それはそれなりに結構なことであるが、詩性を川柳の本質と誤認してはいけない」「詩性を過信して、現代詩の一部分のような作品や、短詩と何ら区別のつけられぬ一行詩を、新しい川柳として迎え入れている人々は、川柳の本質と詩性を混同しているのではなかろうか」「川柳は歌俳に対して挑戦した文学である。詩性だけでは、歌俳に対して挑戦の資格はない」

そのような川柳観とは別に、東洋樹の作品で私が気になっているのは次の句である。

自殺したろうかと思い淫売街の月と歩く   東洋樹

東洋樹は「川柳は文学か」という文章の中で、自分の作品を3期に分けて説明している。

A期
笑うにも泣くにも袖口へ当て
自転車の稽古大波小波なり

B期
自殺したろうかと思い淫売街の月と歩く
薄の穂われ放浪の旅なれば

C期
ひとすじの春は障子の破れから
子と暮らす月日の中を春惜しむ

A期は川柳を始めた時期で、古川柳の模倣期であり、見るもの聞くものが十七字に置き替わるのが楽しくてならない時期である。
B期は、模倣は恥ずかしい、類想は嫌だと、川柳の三要素に拘束されぬ「詩」を作りたい意欲に燃えた時期である。
C期は「自分は文学をやっている」という自負を持ちつつ、自己と社会をよくしようと願っている時期である。
川柳における序破急を述べたものだろうが、B期を自己否定することによってC期の作品をよしとするのであれば、それがよいとも言い切れぬものを私は感じる。東洋樹の作品にいまも評価できるところがあるとすれば、彼がB期を通過しているからにほかならない。同じ「川柳は文学か」という文章で、東洋樹は「これからの川柳に私が望むものは『人間陶冶の詩』を心底に抱いた、平易な言葉の奥の深いもの―」と述べている。「人間陶冶の詩」?―それは麻生路郎の言葉ではないか。東洋樹と路郎との親近性について、たとえば橘高薫風のこんな文章がある。

「三条東洋樹の川柳生活を顧みて、麻生路郎と相通じるものがあるように思うのは、私だけではあるまい。路郎が番傘の前身である短詩社に属していながら、後に袂を分かち、『川柳雑誌』を創刊したのと同じに、東洋樹は、ふあうすと川柳社から独立して『時の川柳』を主宰した」「路郎が東洋樹に親近感を持ち、東洋樹が路郎の川柳生活に共鳴したであろうことは、容易に想像出来ることだ」(「時の川柳」324「報恩」)

東洋樹の卒業した兵庫県立神戸商業の同級生に鈴木九葉という人がいる。九葉は「三條東洋樹さんへの注文」で次のように書いている。「柳界に於ける地位が高まるにつれて、指導者意識の影響で健実な作句態度に終始し、石橋を叩いて渡る人になったのは人間の常だとはいえ、大切なものを失ってしまったようで、惜しまれてならない」(東野大八『川柳の群像』による)―東洋樹は自己に対する川柳眼をもっていた人であった。次の句はそのことを端的にあらわしている。

ズボンはく男の顔はすでにエゴ    東洋樹