先日1月22日に参加した「文学フリマ京都」の感想から述べておこう。
京都ではじめての開催だったが、詩歌部門の参加がやや少なかった印象を受けた。短歌結社では「塔短歌会」がブースを出しており、「同志社短歌」「京大短歌」「神大短歌」「阪大短歌」「立命短歌」などの学生短歌のほか、同人誌では「率」「一角」が出店していた。俳句では「庫内灯」、川柳では「川柳サイドSpiralWave」が出店。全体的に結社より個人出店が多かったようである。京都は第一回目なので様子を見て出店を見合わせている向きもあったのだろうか。
川柳からは「川柳サイドSpiralWave」が唯一の出店と思っていたが、阪本きりりが個人出店していた。当日、京都で「凜」の句会があったので、句会前の午前中に来店する方もあった。合同句集『川柳サイドSpiralWave』に「現代川柳百人一句」を付けたのは、川柳の全体像を俯瞰してほしかったからで、飯島章友が「川柳スープレックス」で取り上げてくれた。本書は葉ね文庫にも置いてもらっているし、5月の「文フリ東京」でも販売する予定である。
当日購入した雑誌のなかでは「率 幕間」の次の短歌が印象に残った。
後ろ手に兎の脚をつかんでる気配のままで立っているのね 平岡直子
後ろ手に何かつかんで立っている人がいる。それが何かは分からないのだが、兎をつかんでいる気配だけが分かる。脚をつかんでいるのだから、死んだ兎を逆さにぶらさげているのだろう。その人の姿勢や構えと同時に、その気配を察する「私」の感覚が詠まれている。隠しているものが例えばナイフなら意味性が強くなる。「背中に隠したナイフの意味を問わないことが友情だろうか」(中島みゆき「友情」)というのは、すでに陳腐な表現である。兎だからいいのだ。
文フリの話題はこれくらいにして、今月送っていただいた句集のなかから、田島健一句集『ただならぬぽ』(ふらんす堂)を取り上げたい。
田島の俳句は「豆の木」「オルガン」でときどき読んでいるが、「オルガン」の同人作品の中では田島の句に印象句のチェックを入れることが多かった。物を見る眼と詩的飛躍感が川柳人にも相通じるところがあると思ったのだ。だが、句集一冊を読んで少し印象が変わったのは、句集の背後に一種の世界観のようなものが読み取れたからかもしれない。
いま「句集の時代」が来ている。一句一句の作品ではなくて、句集一冊でひとつの世界を提示する傾向が強くなってきているのだ。
田島の句集には写生の俳句が書かれているわけではなくて、ここにはさまざまなレベルの作品が収録されている。
蛇衣を脱ぐ心臓は持ってゆく
風船のうちがわに江戸どしゃぶりの
不純異性交遊白魚おどり食い
胃に森があり花守が泣いている
蟻が蟻越え銀行が痩せてゆく
「蛇衣を脱ぐ」という季語に対して心臓は抜け殻ではなく本体にあるという機知。風船の内側というありえない空間に土砂降りの江戸がある。「不純異性交遊」と「白魚」の取り合わせの距離感。「森」から「花守」につなげる音の連鎖。「蟻」と「銀行」とのメタファーっぽい組合せ。これらのウイットに富んだ表現は川柳フィールドでも別に違和感なく受け取れる。
類型の蜘蛛が忌日の窓に垂れ
架空より来て偶然の海へ蝶
「類型」とか「架空」「偶然」などの抽象語を使うんだなと思った。「蝶」って愛用語なのかな。何句かあった。
月と鉄棒むかしからあるひかり
鶴が見たいぞ泥になるまで人間は
「ひかり」という語もよく出てくる。芭蕉の「物の見えたるひかり」を連想する。関係ないのかも知れないが。作者の世界観が出てきている。
接吻のまま導かれ蝌蚪の国
見えているものみな鏡なる鯨
接吻しているのは現実の話だが、そのまま別の世界に変容する。見えているものがすべてではなく、それは鏡にうつった鯨なのだという。こういう人が写生句を書くはずがなく、世界が二重に見えているのだろう。一種のイデア論なのかなと思った。現実の鯨を表現しながら鏡の中の鯨をつかまえようとする。つかまえきれないときはまた次の句を書く。そんな精神と言葉のダイナミズムと変容をこの句集から感じた。
句集の序に石寒太は「無意味之真実感合探求/新感覚非日常派真骨頂」と書いている。
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