2024年4月12日金曜日

瀧村小奈生句集『留守にしております。』

瀧村小奈生の第一句集『留守にしております。』(左右社)が発行された。瀧村は、なかはられいこの「ねじまき句会」で川柳を書いていて、川柳歴はすでに20年。かねてから句集が待ち望まれていたが、ようやく上梓されることになった。
何ということもない毎日の生活の中で、ちょっとした発見があって心が動く。心が動けば言葉になる。そんな瞬間に口をついてでてくるのが「あ」だ。

完璧な曇り空です。あ、ひらく
雨が海になる瞬間の あ だった
あ、というかたちのままで浮かぶ声

川柳では「見つけ」と言うが、事物や事象を独自の発想でとらえることだろう。物の見えたる光、事の見えたる光。その瞬間を言葉で言いとめておかないと、見つけたことはたちまち消えてしまう。雨が海になる瞬間。何かが別の何かに変わる瞬間をとらえた句がこの句集には多い。

ひっぱると夜となにかが落ちてくる
海だったところが夜になっている
岬では耳から風になっていく

具象ではなくて、あるとらえがたい感覚的なものが表現されている。海が夜になる。海は海のままかもしれないが、その姿は変化している。そのような感覚は「あ」で表現されているが、変化していく感覚は「て」によっても表されている。

待っている二月みたいな顔をして
三月じゃなくてゼリーでもなくて
さくらちるまたねまたねと言い合って

川柳は断言の形式だと言われることがある。世界に存在する多様な事象や発想の中で、その一つに賭けて断言することで句の強度が生まれる。よく使われるのが「る」だ。古川柳では「り」と連用形止めが多かったが、断言のためには「る」などの終止形で止めることになる。この句集でも「る」がないわけではない。

境界のいつもは水の側にいる
みずうみになりたい人が降ってくる

けれども、この作者の場合は、「る」を使っても断言にはならない。「水の側」にいるということは「水の側」でない方も視野に入っている。「みずうみになりたい人」に対して「みずうみになれなかった人」が存在する。「きょうもまた雨音になれなかったな」。
川柳で多用される「は」が少ないのもこの句集の特徴だ。AはBという問答構造は『柳多留』以来の基本文体で、常識的な見方を反転させる「うがち」の句などに効果的だ。この句集では「ここからが父そこは湖」の章の家族詠に若干使われている。

母方は羊歯植物という出自
姉さんは葉擦れの音をしまいこむ

この場合の「は」は問いに対する答えとはまったく異質な作り方になっている。
世界は変化しながら続いていく。何ごともなく続くようで、何かが変わる。何かが何かに変わる。その変化の感覚は、連句的かもしれない。瀧村は連句人でもあるから、彼女の句に付句をつけても怒らないだろう。

のがのならなんのことない春の日の  小奈生
 でるですでむでん声は朧に      正博

留守にしております。秋の声色で   小奈生
 少年少女月の出を待つ        正博

最後にもう一冊、「ねじまき句会」のメンバーでもある二村典子の句集『三月』を紹介しておこう。俳句の句集であるが、川柳人の私にもおもしろく読める句が並んでいる。

野遊びの誰の話も聞いてない    二村典子
蝶の昼鏡の昼におくれつつ     
たんぽぽの料理に欠かせない弱気
あっ足をふっ踏まないであめんぼう
蟻の列ごとに住所を書きつける

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