2024年2月23日金曜日

正岡豊歌集『白い箱』

ビクトル・エリセ監督の映画「瞳をとじて」を見た。「蜜蜂のささやき」(1973年)から50年、「マルメロの陽光」(1992年)から31年ぶりの長編映画である。エリセは寡作な監督であることで知られているが、寡作ということには何らかの意味があるだろう。第一作が好評すぎて次作が作りにくいとか、クオリティ重視で熟成させるのに時間がかかるとか、時代の変化に作風が合わなくなってゆくとか、いろいろ考えられる。「瞳をとじて」は映画にまつわる物語、疾走した俳優と映画を撮影した監督の人生の物語。「蜜蜂のささやき」で6歳の少女だったアナ・トレントも出演している。時間とか老いもモチーフなのだろう。

正岡豊の第二歌集『白い箱』(現代短歌社)が昨年12月に刊行された。第一歌集『四月の魚』(まろうど社)が1990年の発行だから、約30年が経過している。私の持っている『四月の魚』は2000年発行の第二版で、「短歌ヴァーサス」の正岡豊特集も手元にある。正岡の読者が長年待ち望んでいた歌集だ。

春のない世界はなくてひとびとにしろがねのハモニカの午後の陽
クローンなのでちちははもあにいもうとも水星の匂いもしりません
くらがりできみがわたしの顔を見た 機械と機械がたたかっていた

一首目、「春のない世界」は辛いかもしれないと思うが、そんな世界は「ない」と二重否定されている。下の句の句またがりは韻律に変化をもたせつつ、五音に着地するのは俳句のリズムも感じさせる。二首目の上の句七五七のリズムで、ちち・はは・あにいもうとと水星の匂いという異質なものを取り合わせている。また、クローンなのでという理由も屈折している。三首目、きみとわたし、機械と機械が重なりあいながらズレていく感じで、上の句と下の句の言葉の関係性が心地よい。
そういう技術的なことは本当はどうでもよくて、正岡の歌の抒情を味わえばいいと思う。

誰にでもそれはあるかも知れないが星の匂いのレールモントフ
考える海があるならそこへ行き胸張り立てよ小林秀雄
満天を雪群れてななめに飛べばあの一片は加舎白雄だね

固有名詞が出てくる歌。「それ」「そこ」「あの」という指示語が具体的な何かを示す以上の含みをもって使われている。人名に着地しているが、読者それぞれが自分の読書体験に基づいてイメージを思い浮べればよいのだろう。

中世の恋の虚構の修辞にもはつゆきという恩寵はある
こころはそりゃあレンタルはできないでしょう 着物で歩く四条烏丸

一首目のように、定型にのっとった完成度の高い歌もあれば、二首目のように諧謔のある即興嘱目の歌もある。この歌集の世界は多様だ。

どこへでも自由にいけたそんな日が乳白色の過去になったね
ふゆかぜがいなくてはならない人をいられなくした時代があった

過ぎ去る時間を詠んだ二首である。
昨年末に刊行された歌集に金川宏の『アステリズム』(書肆侃々房)があって、栞に私も鑑賞を書いている。金川は一度短歌から離れたあと二十数年後に復帰したが、そのことについて栞で三田三郎がこんなふうに書いている。
「水と火が、共にメタファーになることを拒絶しつつ、互いに支え合うようにして併存する。金川さんはなぜ、こうした特異な世界を構築するに至ったのか。その謎を解く鍵は、金川さんが短歌から離れた二十数年にあるような気がしてならない」「水と火も、喩えるものと喩えられるものも、そして現実と文学も、決して対立させることはない」「そう考えると、金川さんは例の二十数年間、文学から離れることによって、現在とは違う形ではあるが、逆説的にも文学と濃密にかつ純粋に交わっていたとは言えないだろうか」

『白い箱』に戻るが、あとがきに安井浩司の句集『中止観』のことが出てくる。『四月の魚』の後記にも関連するので、安井の句をいくつか引用しておきたい。

沼べりに夢の機械の貝ねだり  安井浩司
其角忌へむかう少年の乳切木よ
象潟も死んだ虱も越えるあきかぜ
夢殿へまひるのにんじん削りつつ
法華寺をみかえりつつも無毒蛇

『白い箱』のあとがきには、こんな言葉もある。
「私が短歌を書きはじめて、一度そこから離れるまでの時代、1980年前後から1990年あたりまで漠然と感じていたそれらの『定義』のようなものは、何か別のものになった、という感覚が私にはある。その、私が感じる変化がいいか悪いか、正しいか間違いかはともかく、ずっと続いていくと思っていたものが、実はとても短期間においてのみ存在したという実感は、多少の苦さと、茫漠とした乾いた地上に自分がいるような感触を伴う」
歌人ではないので、そういう実感を共有できるわけではないが、それなりの時間の経過のなかで表現を続けてきたものとしては身につまされる言葉である。

はつなつの水の地獄へさわやかにきみは卵を産まねばならぬ  正岡豊

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