2017年9月16日土曜日

会話辞典というコミュニケーション―『きょうごめん行けないんだ』

「現代詩手帖」9月号の俳句時評に田島健一が『きょうごめん行けないんだ』(安福望×柳本々々、発行・食パンとペン)を取り上げている。
今回は書棚からこの本を取り出して、もう一度読んでみることにした。
この本は5月の「文フリ東京」のときに買ったもの。表紙の安福のイラストには猫と少女が描かれている。猫は積み上げた本の上に乗って、少女に両足(前足)を差し出している。少女は本を持っていて、その表紙には「neco」と書いてあるようだ。
裏表紙を見ると「にゃあにゃあ」というタイトルで、次の会話が…。

柳本 にゃにゃあだって伝わるかどうかわからないものね。
安福 にゃあにゃあも伝わることあるかもしれないですね。一回だけとか。
柳本 じゃあ、コミュニケーションは奇跡なんだ。

田島健一も指摘しているように、この本は「コミュニケーション」がひとつのテーマであるらしい。

大阪の中崎町で「とととと展」が開催されたのは2015年8月のことだった。
そのとき柳本が安福望と岡野大嗣の両人と語りあったのは印象的だった。
テーマは「と」である。~「と」~をつなぐ。では、何をつなぐのか。どのようにつなぐのか。

本書の最初のページに「会う」という項目がある。「いつか出会えるものはまた出会えるってフィギュア観なんですよ」と柳本は語っている。

柳本 いつも買おうかどうしようか悩んで買わないでそのまま売り切れて後悔することがけっこうあるんだけど、でもじぶんがほんとうにほしいものってまたでてくるんですよ。またぜったい出会うんです。それをフィギュアから学んだんです。

「出会うものは最終的に出合う」ということを柳本は繰り返し語っている。フィギュアに限らず、人と会うのも同じである。

柳本 あ、そういう機会はちゃんとやってくるんだなって。やすふくさんや岡野さんもそうだし。あ、そうか、会わなければいけないひとには会えるんだなって。(イエローブリックロード)

この本を読みながら、柳本々々とはどういう人なんだろうということを改めて思った。
私は柳本とは何度も会っているし、川柳イベントで対談したこともあるが、考えてみれば個人的なことはほとんど知らない。
柳本との出会いにしても、彼が最初に「川柳カード」にメールしてきたときに、私は正体不明の人物として警戒した。いわば、最初の出会いに失敗したわけだが、その後きちんと交流することができたのは「出会うべきものは出会う」と彼が言う通りだろう。
この本には柳本の個人的なことも話されていて、ああ、そういう経歴だったのかと思うところがあった。彼が川柳の世界に入ってきた必然性のようなものがあるように感じる。表現者であるかぎり、闇や悪の部分を持っているものだが、それが川柳とつながっているのである。
最初に少し違和感を感じたのは、なぜ会話辞典(対談)というスタイルをとるのか、ということだった。語るべきことがあるなら、自分ひとり(個)の責任で語り、表現するべきだという感覚が私のどこかにある。
けれども、「とととと展」以来の「つなぐ思想」は彼のスタイルなのかもしれない。そして、対話の相手として安福は絶妙の存在である。彼女もまた短歌をはじめ短詩型文学について語るべきことをもっているのだ。

あと、二箇所ほど引用してみよう。
まず「うろうろする」。

柳本 うろうろするのがすきなんですよね。そのひとの風景になったりとか。
そうするとそのひとが、あっと気づくみたいな。感想をかくって、うろうろする行為だし。
安福 ほんとだ。
感想はうろうろしてますね。そのひとのまわりを
柳本 本を読む行為もうろうろすることに似てませんか。なんかいったりきたりしたり、とちゅうでやめたり。

次に「あと」から。

柳本 ぼく、やっぱり「あと」がけっこうだいじになってくるのかなとおもって。感想かいてても、ああ、あそこをおれはやりのこしたんだなあとか。やったからこそ、あとでわかるものがあって。
安福 だから絵はその時点までのその短歌についてここまで考えたってことなので、またどこか旅立つんですね。やらないとわからないですね。

柳本がどういう感じで文章を書いているのかがうかがえる。
安福と柳本の対談(会話辞典)というスタイルは今後も続いていくのだろう。楽しみにしている。

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