福田若之の第一句集『自生地』のメモを書いてみたい。
福田の名前をはじめて知ったのは『俳コレ』の収録句を読んだときだった。
さくら、ひら つながりのよわいぼくたち 福田若之
ヒヤシンスしあわせがどうしても要る
などの若い感性が新鮮だった。
その後の彼の活躍は周知のところだが、今年になって福田と会う機会が二度ほどあった。論客としておそろしい人かと思っていたが、気さくな好青年だった。
『自生地』の巻頭は次の句である。
梅雨の自室が老人の死ぬ部屋みたいだ
この句には「気がつくと、ふたたびひどい部屋のありさまで、僕はそこに棲んでいる」という文が添えられている。
句に文を添えるかたちの句集を最近よく見かける。
ここでは作者の居る部屋の様子から話がはじまっている。
巻頭句というのはそれなりに自信のある句、句集一冊を支えるだけの実質のある句であることが多い。けれども、この句集の場合は少し様子が違う。
「僕があらためて書くことのできるものは、結局のところ、僕がいまだ捨てられずにいるものでしかない。だから、ついに現実味を帯びることになった句集の制作を、僕は、六年前にとあるアンソロジーに収められた僕自身の作品をこの手で書き写すことからはじめることにした」
この文に続く句群は『俳コレ』に収録された作品群である(ただし一部、変更がある)。
つまり、これは句集をつくるところを見せる句集なのだ。
創られた句(作品)だけがすべてであって、句集には作品だけを収録すべきだという芸術観とは異なり、句集を作りつつある「僕」のプロセスを見せること自体が一種のアートだと言う考えがベースにあるのかもしれない。この句集を読む読者は work in progress として作者とともに歩んでゆく感じをもつ。
そのための仕掛けもいくつかあって、狂言回しのように節目節目で「かまきり」が登場するし、小岱シオン(コノタシオン)といういわくありげな人物も出てくる。コノタシオンはコノテーションだろう。
けれども、そういうことも本当はどうでもよくて、文とは無関係に句を楽しめばいいのかもしれない。
ありきたりだが、句集から10句気に入った句を挙げてみる。
さくら、ひら つながりのよわいぼくたち
ヒヤシンスしあわせがどうしても要る
突堤で五歳で蟹に挟まれる
いたはずのひとが歩いてこない夏至
ひめりんご夢の乾電池の味だ
誤字を塗りつぶすと森のひとが来る
いつか不可視の桜木町に鳴る車輪
オランウータンの雄逃げコスモスと戻る
悪さして梅雨のあいだを猫でいる
みかん、的な。なんだか話せない僕ら
最後に、句集の帯に三人の書店員さんが言葉を寄せているのは印象的である。葉ね文庫の池上規公子、水中書店の今野真、紀伊国屋新宿本店の梅﨑実奈の三人である。句集を発信してゆく際に、信頼できる書店との共同がこれからますます重要になってゆくだろう。
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