2026年8月13日木曜日

「あつたの杜」連句まつりと三河の俳諧

「あつたの杜」連句まつりは今年で7回目を迎え、8月2日にイーブルなごやで開催された。6座36人の参加があり、当日の連句作品は熱田神宮に奉納されることになっている。イーブルなごやには川柳の会で行ったことがあるが、連句会に参加するのははじめてである。JR名古屋駅のホームできしめんの店に入る。専門店で食べるより手ごろだ。金山までJRで行き、東別院まで歩く。東別院付近の以前入ったことのある喫茶店で連句会開始までの時間待ちをする。
連句会は盛会で、東京、横浜、松山など各地からの参加者があって交流できた。私の座には三河の俳諧について詳しい方がいて刺激を受けた。愛知は尾張と三河に分かれるが、尾張の俳諧については芭蕉の『冬の日』により蕉風発祥の地としてよく知られており、2016年の愛知国民文化祭の際には熱田や鳴海の俳諧めぐりもしたが、三河の俳諧については知識がなかった。
帰宅後、『東海の俳諧史』(さるみの会編)で調べてみると「三河蕉門」の項目があった。三河蕉門には西三河の岡崎と東三河の新城(しんしろ)という二つの中心地がある。元禄時代が全盛期で、享保にはいると凋落したという。荷兮編『曠野後集』には岡崎俳人も入集している。

にぎやかな中にしづけし盆の月  秋冬
いなづまに又くりかへす噺かな  鶴声
藤たれて光ありけり砂の色    霰艇

岡崎蕉門は完全には尾張から独立していなくて、尾張の影響下にあったようだ。当時、三河蕉門を代表する俳人と見られていたのが鶴声。鶴声が編者となった『柱暦(はしらごよみ)』から二句抜いておく。

白魚や銀をもて鋳る西施     鶴声
曲水や花の波行く小さかづき

『柱暦』から歌仙のオモテも引用しておこう。

活計をあらしにさする桜かな   釣眠
  もやすく渡る水の暖      秋冬
蚊帳のきれ田うちの食に打きせて 鶴声
  迦す仲戸を軒下へ出す      眠
名月も正直いはば内がよし     冬
  毛脚の露を鼻紙でふく      声

三河蕉門のもう一つの中心地、東三河の新城のリーダーだったのが太田白雪。元禄四年十月、白雪は自宅に芭蕉を迎えている。白雪は新城の庄屋・太田金衛門で、14歳の長男・重英と11歳の次男・孝知に芭蕉はそれぞれ「桃先」「桃後」の号を与えた。そのとき詠まれたのが次の発句である。

 その匂ひ桃より白し水仙花   芭蕉

少年たちの純粋な詩心を水仙にたとえ、「私」=「桃青」より清らかだという挨拶である。その後の白雪父子の句を挙げておく。

 刈りしほの麦吹く風や鳴海潟  白雪
 行き暮れて蚊の声すごし羅生門 桃先
 しがみついて砂に流るる蛙かな 桃後

やがて享保年間に入り、三河蕉門は静かに終焉を迎えることになる。
尾張俳壇は横井也有や加藤暁台などの活動が続くが、天保期に入って井上士朗の門人によって三河俳壇がやや活況を取り戻すことになる。『東海の俳諧史』の「天保俳諧」のページには三河について次のように書かれている。
「士朗門の逸材で、天保まで生きながらえて、その衣鉢を十分に伝え、岡崎正風を提唱したのが岡崎の青々処鶴田卓池だ。この人あるによって三河の俳界は統一せられている。彼はいまの菅生町辺に住んでいた紺屋の主人」「士朗在世中からよく旅に同行してるし、一人立ちしてからは門葉をつれて遠方まで俳行脚している。その為広く顔が売れていた」
『化政天保俳諧集』(古典俳文学大系16)に『青々処句集』が収録されているので、卓池の句を紹介していこう。

   正月十二日朱芳亭句会
 梅の気力ひらくばかりになりにけり
   水竹別荘
 蚊ひとつに夕ぐれを知るさくらかな
   朱樹翁十三回忌の追福をいとなむ日
 今日こゝにちなみわすれず閑古鳥

朱芳は士朗門の俳人。水竹は卓池の門人である。ちなみに水竹、塞馬、蓬宇が卓池門の三羽烏である。朱樹翁は士朗の号。士郎十三回忌に卓池は『安居鐘』を編んでいる。
卓池の俳諧行脚は各地に及んでいて、旅吟も多いので抜き出しておく。

 月仏信濃へ花のころに来て    (善光寺)
 目にさはるさくらいやしやわかの浦(和歌浦)
 しら川やこゝろとむればなく水鶏 (白河の関)
 朱鷺の羽に日影さしけり皐月雨  (新潟)
 橋だてやすゞみながらの人通り  (天橋立)
 とかくして芦に日の入るわかれ哉 (浪花・玉造)

『青々処句集』は水竹の序、塞馬の跋で卓池の七回忌追善として刊行された。塞馬の跋文には卓池の人柄が次のように書かれている。 「其性温順敦厚にしてよく人を究る故に、風雅を以て来訪する門人遊客日々に十を以て算ふ。其の盛莚思ふべし」

 春の雪ゆきの遠山見えて降る   卓池

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