和歌の世界では女性の作者の歌が古代から連綿と続いているが、『菟玖波集』を読んでいて女性の連歌作者の存在に目の覚めるような思いがした。
もえわたる夜中の螢をしるべにて
みさをに物やおもひみだれん 後深草院弁内侍
あしの根のうき身はさぞとしりながら 後深草院少将内侍
弁内侍、少将内侍の祖父・藤原隆信、父・信実はともに肖像画家として知られる。信実の三人の娘は女流歌人として有名で、上から藻壁門院少将、後深草院弁内侍、後深草院少将内侍。弁内侍には『弁内侍日記』がある。二条良基の『筑波問答』には次のように書かれている。「後の嵯峨の御時は、この泉殿にて、御連歌年ごとに、庚申の日は必ず侍しなり。弁内侍・少将内侍などいふ女房連歌師、御簾のうちより紅の袴・衣の妻口押し出だして、香りみちて、心も及ばぬ句ども申し出だされ侍りしかば、人々感にたへず、高声に吟詠せられき」
女性の俳諧については別所真紀子の仕事が挙げられる。『芭蕉にひらかれた俳諧の女性史』(1989年、オリジン出版センター)『「言葉」を手にした市井の女たち』(1993年、同出版)は俳諧の女性史の基本文献である。前者は「芭蕉の女性観」をはじめ凡兆の妻の羽紅、乙州の母の智月、斯波園女などが取り上げられている。後者のタイトルの「言葉」には「エクリチュール」とルビがふられ、谷口田女、五十嵐浜藻などが論じられている。浜藻は別所の俳諧小説の主人公として描かれ、浜藻歌仙帖の連作『つらつら椿』『残る蛍』『浜藻 崎陽歌仙帖』は連句に興味のある読者にお勧めしたい。
あと、上野さち子著『女性俳句の世界』(1989年、岩波新書)は田捨女から細見綾子まで、近世から現代までの女性俳諧・俳句史を通覧するのに便利である。
では、川柳の世界ではどうだろうか。
川上三太郎の著書に『川柳200年』(1966年、読売新聞社)がある。その中の「女性の作品とその動向」という章で、三太郎は次のように書いている。
「戦後、川柳界でのいちじるしい二つの進出があった。一つは時事川柳の再発足で、これは別項に略記した。もう一つはいわゆる女性川柳作家の激増、これである。もちろんこの二つとも戦後にあらわれたのではない。戦後どころか戦前、大正、明治とさかのぼって、江戸川柳の中にすでに発芽していた。ここに女性の川柳作家について私の知っていることは、明治時代すでに彼女たちがいたことで、その中の二、三のかたにはお目にすらかかっている」
このように述べたあと、三太郎は明治36年(1903年)前後の女性作者の句を挙げている。三太郎が挙げているのは次のような作品である(一部省略)。
キューピット矢の払底の度々困り 政女
ぼうぼうと毛のショールから人の首 京子
梓弓元の女房に会つたやう 素梅女
小説で読めば苦学は面白し 倭文子
詩の国へ法師を送る西遊記 はる子
恋に負けやうやく人となりすまし つる女
少し説明を加えておこう。阪井素梅女(さかい・そばいじょ)は阪井久良岐の妻である。明治37年、久良岐社の同人となる。
燕の絵アシラヒに雨五六本 阪井素梅女
俄雨帯を包むが女なり
美しく化けて公達迷はせる
梅の精西海へ飛んで千余年
伊藤政女(いとう・まさじょ)は作家の伊藤銀月の妻。自らも小説を書き、『川柳久良岐点』にも句が掲載されている。阪井久良岐は彼女を柳壇のジャンヌ・ダルクと呼んだという。
虞美人も詩迄詠めると気が付かず 伊藤政女
付けたりのやうに散花里を訪ひ
ならばその枕一つは借りたいな
二人にはつげずわたしは死にました
「虞美人」は司馬遷の『史記』に登場する項羽の愛姫、「散花里」は『源氏物語』の「花散里」の巻、「枕一つ」は「邯鄲一炊の夢」、「二人には」は万葉集の菟原処女(うないおとめ)や謡曲『求塚』など二人の男性から求婚された女性の物語が踏まえられている。
下山京子(しもやま・きょうこ)は岐陽子の名でも知られ、久良岐が「京子果して川柳に天才を有する乎」と驚嘆した才女。関西川柳社の創立にも加わっている。
同窓会ハズバンド連れ式部来る 京子
坊つちゃんの留守ラケットが笊になり
夏座敷当座は心落付かず
細い雨断頭台に啼く鴉
以上三名は久良岐系であり、明治期の女性川柳はおおむね阪井久良岐の指導下にあったようだ。
次に三太郎は大正時代の女性作家の句を挙げている。
踏み込んでならない場所を下に見る 信子
カーテンはいつからかおろされてゐた 茂子
ふと上げた睫毛言葉を待つてゐる しづ子
死なないで別れときどき逢ひませう 梅子
飲んでほし止めてもほしい酒をつぎ よし乃
大正時代になると新興川柳運動が起こり、井上剣花坊の柳尊寺系の女性作家が活躍するようになる。井上信子は剣花坊の妻だが、彼女のことはこの時評(2020年7月10日)で触れたことがあるので、ここでは略すことにする。
この色の襟が掛けたい藤の色 三笠しづ子
軟らかに抱いた兎の息づかい
これ以上人形らしくなり切れず
拭はるる涙をもつて逢ひに行く
ハッとしたやうに切られた花のふるへ
田中五呂八は「ふたりの女流作家論」(昭和4年5月「氷原」40号)で信子としづ子を並べて論じている。吉田茂子・麻生葭乃についてはここでは触れないが、それぞれ興味深い女性川柳人である。
三太郎の文章に戻ると、女性の作品を挙げたあと、彼は次のように述べている。
「ここで気がつくことは二、三の例外を除くと、句の眼の据えかたが、べつに男性作家となんら変わっていないということである。言いかえれば作者は女性であるが、句は〝おんな〟ではないということである」
「しかし、この時代としてはそうなのが当然で、比率からいっても、男性百に対して女性一ぐらいであるから、句がみんな〝男〟になっているのである。そこで私はいった。『女性の句とは作者が女であるということだけではない。句が〝おんな〟でなければならぬ』と。前掲明治、大正の中のいわゆる例外とされているとよ子、つる女、信子、茂子、しづ子、梅子、よし乃等々のそれらが、例外でなく本命であるようにならなければならぬ。私はそれに努めた。そして戦前、戦後の女性のあらかたは、従来の男の手になる川柳を伝承しているかに見えるが、やがては本来の女性にかえって〝おんな〟の句が撩乱と七彩の虹の橋を架けるであろう」
1960年代当時の川上三太郎の女性川柳に対する考え方がうかがえるが、現在の視点から見て、検討すべきいろいろな問題がありそうだ。
まず、「作者は女性であるが、句は〝おんな〟ではないということ」とはどういう意味だろうか。彼は「句がみんな〝男〟になっている」とも言っている。女性作家が川柳を書くのだから男性作家とは異なる独自の視点が必要だと言いたいのだろう。男性が主流である文芸ジャンルで女性の作者が従来の「男の眼」を通して世界をとらえ、作品を書くということは起こりがちだろう。その場合の「男の句」「女の句」とはどのようなものか。そもそも「男の句」「女の句」というようなものが現代川柳においてありうるのかということも問われなければならない。
三太郎は「従来の川柳」は「皮肉、風刺、洒落」とも言っているから、これらが「男の川柳」の内実というイメージだろう。(ただし、三太郎は詩性川柳に道を開いたひとりでもあるので、彼の川柳観には大きな幅がある。)また、「女の川柳」の本命としてとよ子、つる女、(井上)信子、(吉田)茂子、(三笠)しづ子、梅子、(麻生)よし乃などの名前が挙げられているのも三太郎の川柳観をさぐる手がかりとなる。また、三太郎は戦後の女性作家の句評も行っているので、ふたつ紹介しておく。
しようのないひとをふんわり包む笑み 時実新子
「意識してもしなくても、女性の天性の母性本能というものは、男性にさえ向けられるものである。それが漂っているのが感じられるから、この句は微笑の中に読めるのである」
献身の細胞一つ追憶記 福島真澄
「どんなに尽くしても飾っても、いってしまえば人間は単なる細胞にしか過ぎないという。下五の〝追憶記〟のむなしさが言外にあふれて、〝一つ〟という一人称の孤独感を印象づけてくる。この句想を定型にした窮屈さはマイナスである」
現在の眼から見て様々な問題を含みながら、三太郎には女性の川柳人を育てた功績がある。彼は「撩乱と七彩の虹の橋を架けるであろう」と言ったが、その代表的な存在が時実新子だった。
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