「第10回船団フォーラム」が10月23日(日)に伊丹市立図書館(ことば蔵)で開催され、私は第一部のパネラーとして参加した。
伊丹の柿衞文庫には何度も行っているが、図書館ははじめてで、開催までの時間に館内を見て歩いた。閲覧室の詩歌コーナーには川柳関係の本も何冊かあり、先進的な取り組みをしている図書館のようだ。「タイトルだけで作家デビュー」の展示があって、自分で考えた架空の本のタイトルだけが1000枚近く壁に掲示してあるのがおもしろかった。
この日のフォーラムのテーマは「激突する!五七五 俳句VS川柳」で70名を超える参加者。川柳人の方が少し多かったようだ。
第一部はディスカッション「俳句らしさ、川柳らしさ」。パネラーは俳句側から塩見恵介・山本たくや、川柳側から芳賀博子・小池正博。
「俳句と川柳」についてはこれまでにもしばしば論じられてきたが、私の感想では実りや成果があったという話は聞いたことがない。「俳句らしさ」「川柳らしさ」を「俳句性」「川柳性」ととらえると、そのような区別は曖昧であり、有効ではなくなってしまう。実際、この日に四人が挙げた句を見てもあまり区別はないように感じられた。
もちろん、伝統俳句と伝統川柳とを比較すると違いが出てくるが、先端的な俳句と川柳とを比べてみても明確な違いは出てこない。それを無理に区別しようとすると、川柳性とは「うがち」だというような狭い川柳論になってしまう。これまでの柳俳異同論が有効ではなかったのは「規範」を求めてきたからだ。
しかし、個々の作品を見ると「俳句のてざわり」「川柳のてざわり」(感触)というものは感じられる。
歴史的にみると俳句と川柳は発生の違いがあって、発句が独立した俳句と、前句付の前句を省略して成立した川柳とはそれぞれの表現領域を拡大しながら今日に至っている。だから、「いま」の時点で共時的に見ると違いは明確ではない。「取合せ」と「前句からの飛躍」は結果的に区別がつかないのだ。
従って、ディスカッションに臨む私のスタンスは、「激突」はしないというものになった。
芳賀博子には私とは異なる意見・立場があったことだろう。「激突」した方が対立軸が明確になって面白いのだが、私は気がすすまなかった。
けれども、話し合っているうちに分かってきたことも多い。
私が現代川柳の代表句として挙げたのは次の五句である。
ひなまつり力道山は黒ぱっち 石田柊馬
見たことのない猫がいる枕元 石部明
もうひとり落ちてくるまで穴はたいくつ 広瀬ちえみ
どうせ煮られるなら視聴者参加型 兵頭全郎
都合よく転校生は蟻まみれ 小池正博
「ひなまつり」の句に私が「川柳らしさ」を感じるのは「は」の使い方である。
「母親はもったいないがだましよい」という古川柳の問答体の遠い響きを感じるのだ。
ひなまつり力道山は黒ぱっち(川柳)
ひなまつり力道山の黒ぱっち(俳句)
けれども、俳人は「力道山の」とする、という。取合せ・配合の句となって、俳句のかたちになるのだろう。
もうひとつ落ちてくるまで穴はたいくつ(川柳)
もうひとつ落ちてくるまで秋の穴(俳句)
「穴はたいくつ」と言うのが川柳であり、そこが川柳のおもしろさになる。
けれども、こういう比較、改作にはあまり意味がないだろう。
すぐれた川柳とすぐれた俳句とを並べてみることにこそ意味はある。
第二部の句会ライブ、第三部の坪内稔典と木本朱夏との対談についてはここでは報告を省略する。
全体を通していろいろ考えるところがあった。攻めるべきところ、守るべきところがいろいろあると思ったが、今後の課題となる。
気になったのは塩見恵介が挙げていた次の句。
「この雪は俺が降らせた」「田中すげぇ」 吉田愛
現代歌人集会2014年(神戸)でも話題になった句で、ネットでも言及されたので私も記憶にあった。この作者はその後どうしているのか気になったが、俳句フィールドからは消えてしまったらしい。残念なことである。
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