2022年12月25日日曜日

2022年回顧(川柳篇)

年末になったので、一年間を振り返ってみたい。昨年の2021年回顧では川合大祐『スロー・リバー』、湊圭伍『そら耳のつづきを』、飯島章友『成長痛の月』を取りあげたが、ここでは今年刊行された川柳句集を中心に、2022年を回顧してみる。
まず、4月に暮田真名の『ふりょの星』(左右社)が発行された。挿画・吉田戦車、帯文・Dr.ハインリヒ。既成の川柳句集のイメージを打ち破る一冊だが、暮田はすでに川柳歴7年。現代詩歌文学館の朗読・トークイベントに出演、「ねむらない樹」6号、「文学界」2021年5月号、関西現俳協HPなどに寄稿するなど、若手川柳人として注目されていた。
暮田についてはこの時評でもそのつど触れてきたし、「OD寿司」は有名になったので、ここでは「県道のかたちになった犬がくる」について述べてみたい。すでに書いたこともあるが、「かたち」という言葉を使った句は川柳ではしばしば見かける。

指切りのかたちのままの灰がある  西秋忠兵衛
県道のかたちになった犬がくる   暮田真名

では、暮田のどこが新しいのだろうか。「県道が犬のかたちになった」「犬が県道のかたちになった」―言葉の世界では何とでも言えるが、「県道が犬のかたちになった」の方が多少理解しやすいのは、たとえば犬のかたちのビスケットのようにイメージしやすいからだ。「犬が県道のかたちになった」の方は飛躍感が大きく読者の理解を越える。県道と犬との新しい関係性が一句の中で成立している。
言葉と言葉の関係性に対する感覚は人によって異なるが、無関係な言葉を強引に結びつければそれでいいというわけではない。8月に開催された「川柳スパイラル」創刊5周年の集いで、暮田は「私は本当に川柳を作りたくて、今までに読んだ川柳が好きだから、その延長線上にあるものを書きたいという気持ちがある」と発言している。暮田の川柳が既成の川柳人にも受け入れられやすいのは、こういうベースがあるからだ。
『ふりょの星』の内容はもとより、流通の仕方も従来の川柳句集とは異なっている。書店の店頭販売や通販はもちろんだが、ヴィレッジバンガードに並んだことも話題になった。川柳句集といえば贈呈が中心で若干書店に並ぶこともあったが、出版社が営業・流通に尽力してくれるなどということは以前では想像もできなかった。暮田は「川柳句会こんとん」や川柳講座「あなたが誰でもかまわない川柳入門」などで川柳の裾野を広げる活動をしている。

5月には平岡直子『Ladies and』(左右社)が出た。「川柳スパイラル」創刊5周年の集いでは暮田と平岡の対談があったが、両人はこんなふうに語っている(「川柳スパイラル」16号)。

暮田 二冊の句集の印象なんですけれど、『ふりょの星』が取りこぼした層を『Ladies and』がしっかりとキャッチしてくれていると思っています。『ふりょの星』は見た目がポップすぎて、何だこれはと思われた人もあるでしょうし、取りあげられ方も従来の川柳句集とは違っていたと思います。
平岡 いい棲み分け、分業化ができた感じだよね。わたしは『ふりょの星』の外見がすごく好きで、好きなだけじゃなくて、こういう句集を見たのは初めてなのに、ああそうそう川柳ってこういうものだったよね、って、どこか「川柳の本来の姿」を見ているような気持ちにもなります。

平岡の句集評についてはすでに書いたことがあるが(「白鳥の流血と金色に泣く女の子」、「川柳スパイラル」15号)、改めて『Ladies and』を読み直してみると、批評性のある作品が目につく。批評性というのは諷刺や時代批判、政治批判も含めて広くカバーするときの言葉である。

いい水は人が飛び込んだら消える
木漏れ日のようね手首をねじりあげ
絶滅も指名手配も断った
むしゃくしゃしていた花ならなんでもよかった
九月尽でしたか警察呼びますよ

平岡の作品の批評性・諷刺性は『Ladies and』というタイトルのメッセージにもあらわれているが、川柳作品だけでなくて、最近の短歌作品にも顕在化しているように思われるが、それはもともと作者のなかにあったものなのだろう。

続いて6月に発行されたのが、なかはられいこ『くちびるにウエハース』(左右社)。
「鉄棒に片足かけるとき無敵」という句は川柳界ではよく知られているので、『脱衣場のアリス』に収録されているような気がしていたが、『アリス』以後の作品。私は『はじめまして現代川柳』の解説でなかはらについて「それまで演歌的な作品が多かった川柳の世界で、なかはらはポップス系川柳の書き手として登場した」と書いている。この句にも同じ傾向が見られるが、問題はなかはらの書き方がどのように進化していったかということだ。

鉄棒に片足かけるとき無敵
魚の腹ゆびで裂くとき岸田森

「~とき」のあとの着地点が後者では明らかに遠くまで飛んでいる。新しい関係性が通常結びつかない語と語の結びつきになっているのだ。人名を使うのは一種のテクニックでもある。キャリアの長い川柳人はそれなりに過去の川柳作品を読んでいるから、先行作品の発想と表現をどう乗り越えるかに苦心する。

電熱器にこっと笑うようにつき      椙元紋太
豆電球が(おやすみ、さくら)ぽっと点く なかはられいこ

この二句の発想には共通点があると思われるが、表現の仕方が進化・深化している。句集のタイトルにもなっている「空に満月くちびるにウエハース」。空の満月と身体性との取り合わせは驚くほどのことではないが、くちびるとウエハースの取り合わせに作者独自の感性がうかがえる。意味ではなくて感覚的な句である。

11月の文フリ東京でササキリユウイチ『馬場にオムライス』を手に入れた。

ふくろうの唾液で目指す不躾さ
ゆらめくものをゆらめきで突く

鳥には餌を丸のみするイメージがあるが、唾液もあるそうだ。けれど「ふくろうの唾液」とはふだん聞きなれない異化効果のある言葉だ。着地点は「不躾さ」。俳句なら季語を持ってきたりするところである。「ふくろう・唾液」と「不躾さ」の関係性のなかに作者の新鮮な感覚がある。
後者は短句(七七句)。川柳では武玉川調とか十四字とか呼ばれるが、暮田真名が愛用するので、若い世代にも浸透してきているようだ。ここでは「ゆらめく」「ゆらめき」という同語反復によって一句を成立させている。
この二句を見るだけでもササキリが現代川柳の技術をマスターしていることがうかがえる。問題はそこからどう新領域を切り開いていくかということだ。

腐った喉でささやく馬場にオムライス
問十二 豆電球で呵責せよ
椅子は椅子だったとしてもママが好き
必ずや無職の天使がやってくる
マダガスカルの治安を乱すな

「問十二 豆電球で呵責せよ」「必ずや無職の天使がやってくる」などは従来の感覚で理解できる作品。この作者独自の言語感覚は「馬場にオムライス」「マダガスカルの治安」にあるだろう。人名を使った川柳もおもしろいが、先行作品として川合大祐などが思い浮かぶ。

サマセット・モームが巨大化する梅雨 川合大祐
エラスムス背中の汗でもらい泣き   ササキリユウイチ

12月、小池正博句集『海亀のテント』(書肆侃侃房)刊行。
川柳句集が次々に発行されるので、キャリアの長い川柳人は自分の現在位置を句集で示す必要がある。感心してばかりもいられないのだ。それなりに長く川柳に関わっていると生まれてくる虚無感について、川上日車は『日車句集』の序で次のように書いている。「人生の果てに辿りついた私は、これでなにもすることはない。ただ、峻烈な世上の批判は、やがて一句も遺さず削ってくれるであろう」
今年読んだ川柳誌の中で印象に残ったのは佐藤みさ子と柳本々々の往復書簡「わたしって、なんですか?」(「What’s」2号)だが、佐藤みさ子の「わたし」がどのようなものなのかは「虚無感との闘い/裁縫箱」(「セレクション柳論」所収)を読めばよくわかる。

昨年から今年にかけて、現代川柳に関心をもつ人が増えたのは、ひとつは短歌界隈の表現者で川柳の実作をする人が現れたこと、もうひとつはネットやSNSを主な発表舞台とする表現者が目立つようになったことによる。個人で発信できるツールが増えたことによって、従来の結社・句会や新聞の川柳欄・同人誌などの紙媒体を中心とした川柳活動とは無縁なところで作品を発表することが可能になっている。
そういう状況が進んでいるのは短歌の世界で、「かばん」12月号の特集「ネット短歌の歩き方」が参考になる。荻原裕幸と東直子の対談が興味深いし、「ネット短歌の歩き方・ガイド」のコーナーでは、短歌の総合サイト、投稿サイト、Twitter、LINE、ツイキャス、Twitterスペース、YouTube、夏雲システム、note、ネットプリント、Zoomなどが紹介されている。川柳の世界でもネットを駆使する世代が今後増えていくのだろう。ネット川柳はリアルの句会で言葉を鍛えられる機会を飛び越して自由に自己表現ができるので、新鮮である反面危ういところもある。リアル句会では新人が次第に既成の川柳イメージにとらわれて面白味のない作品を量産するようになることもある。それぞれプラス・マイナスがあるだろう。どのような方法で川柳にかかわってゆくかは個人が決めることだが、現代川柳の世界が今後どのように進んでゆくのか、来年に向けてのさらなる展開を期待している。

2022年12月16日金曜日

小津夜景第二句集『花と夜盗』

京都・南座の顔見世で「松浦の太鼓」を見た。忠臣蔵のサイド・ストーリーで、第一幕では俳諧師の其角が両国橋のたもとで赤穂浪士の大高源吾と出会う。源吾は俳名を子葉といい、其角宗匠とは交流があった。別れ際に二人は俳諧の付合をする。

年の瀬や水の流れと人の身は  其角
 あした待たるるその宝船   子葉

第二幕、赤穂浪士びいきの松浦候が吉良邸の隣に屋敷を構えている。其角をまじえて俳諧の座が進行するが、片岡仁左衛門の演じる松浦候は愛嬌のある役で、観客をわかせていた。俳諧(連句)が芝居の背景にあって、楽しく観ることができた。

小津夜景の第二句集『花と夜盗』(書肆侃侃房)を読む。
第一章「四季の卵」は春の句にはじまり、季節の順に進行して、美意識の強い句がならんでいる。

春なれば棺の窓をあけておく
脱皮したのは虹の尾をふんだから
副葬の品のひとつを月として
シャボン玉よりもほろ酔ふ小雪なれ
のっけから渦巻くツバメ探偵社

死者の棺は葬儀の参列者がお別れできるように、顔の部分に窓が開かれている。それが閉じられて葬儀が終るのだが、まるで死者が春なので自ら窓を開けているような感じがする。棺をいくつも置いてある場所があって、春なので管理者がその窓を開けて空気を入れ替えている状景とも考えてみたが、死者が冬眠から目覚めるようにして棺の窓をあけたのだという気がする。「春はまぼろし」というタイトルのなかの一句で、幻想的な世界である。
二句目、何が脱皮したのか書かれていないが、虹の尾という表現があるので、蛇のイメージだろう。虹は蛇と重なる。
三句目は月の句だが、月も副葬品のひとつだという。古墳の副葬品に鏡や勾玉があるように、ここでも死者のイメージが使われている。
四句目、しゃぼん玉は春の季語だが、ここでは「小雪」で冬の句。
五句目、燕は春の季語だが、ここでは「ツバメ探偵社」という固有名詞に変えられている。春夏秋冬と巡行して再び春に戻ってくる。
ところどころに遊び心も見られて、「狂風忍者伝」のタイトルで「甲賀一匹エウレカの野に死にき」、「花と夜盗」のタイトルで「風花の生まれてけふの伊勢屋かな」という時代物の句があったりして、西洋的教養と俳諧の結合が興味深い。

第二章「昔日の庭」では多彩な詩形がちりばめられている。「陳商に贈る」では有名な李賀の漢詩を長句(五七五)と短句(七七)で連句的に訳してある。

長安有男児 長安の都に男の子ありにけり
二十心已朽 はやも朽ちたる二十歳の心

小津はかつてこんなふうに書いている。「李賀の詩は感情のゆらぎが大きいので、訳すときは5・7・5と7・7とを連想でつないでゆく連句の形式を借りると、意味の流れが不自然にならない。ひらめきに重きを置いた作品は、連句的インプロヴィゼーションとおおかた相性がよい、というのが個人的な印象だ」(『カモメの日の読書』)
「二十歳にしてすでに心朽ちたり」とか「『サヨナラ』ダケガ人生ダ」(井伏鱒二『厄除け詩集』)などは、かつての文学青年たちが愛誦したフレーズだ。鈴木漠『連句茶話』(編集工房ノア)によると、李賀には柏梁体(漢詩連句)の詩が二篇ある。その一篇「悩公」(悩ましい人)は男女の恋のかけ合いになっている(原田憲雄訳注『李賀歌詩編』東洋文庫)。
小津の句集に戻ると、武玉川調(七七句)、クーシューの俳句による翻訳、都々逸(七七七五)などの作品が収録されている。さまざまな詩形に習熟している詩人としては高橋睦郎が思い浮かぶが、小津夜景のカバーしている範囲も広い。

山宣死していまは蛍に
マンホールにも霧の追手が

夢の夜を    Dans un monde de reve,
渡る舟にて    Sur un bateau de passage,
ちよつと逢ふ   Rencontre d`un instant.

うその数だけうつつはありやあれは花守プルースト
水に還つた記憶の無地を虹でいろどるフラミンゴ

第三章「言葉と渚」では訓読みの長い漢字を組み合わせた三文字俳句、月花の句など。
全体を通じて、美意識の中に遊びの句がまじり、読んでいて楽しい。知的に処理された俳諧精神に満ちた句集である。

2022年12月3日土曜日

八上桐子の「夜」

11月×日
昨年11月に京都の連句人に誘われて柚子の里に行った。保津峡近くの水尾は柚子発祥の地とも言われ、この季節には一帯に柚子が実っている。気持ちのよいところだったので、今年も連句の会に参加させてもらうことにした。料理屋が数件あり、宿泊はできないが柚子風呂に入ってリフレッシュしたあと、鶏スキを食べながら連句を巻く。近くに清和天皇社があり、神さびたところだった。清和天皇は陽成天皇に譲位したあと、出家して畿内巡幸。水尾に隠棲し、31歳で崩御。柚子の里では雲海も見られるという。

11月×日
日本現代詩歌文学館の館報「詩歌の森」が届く。暮田真名の「三十一文字の川柳?」を読む。このタイトルはどういう意味だろうと思っていたが、読んでみて話の筋道が少し理解できた。
「川柳スパイラル」東京句会(2018年5月)のトークで我妻俊樹は「短歌は上の句と下の句の二部構成で、二つあるということは往復するような感覚がありますから、行って戻ってくるところに自我が生じるのが短歌だと感じます。そういうこと抜きに、引き返さず抜けるというのが私が川柳を作るときの感覚なんです」「短歌は引き返すけれど、川柳は引き返さないで通り抜ける」「もっと川柳のような短歌を作りたい」と述べている(「川柳スパイラル」3号)。
暮田はこの発言を念頭に置きながら、笹井宏之の短歌に触れている。

ぱりぱりとお味噌汁まで噛んでいる平年並みの氷河期らしい   笹井宏之
この森で軍手を売って暮らしたい まちがえて図書館を建てたい

暮田は前者を「引き返している」歌、後者を「通り抜けている」歌としている。後者では上の句の作中主体と下の句の作中主体は別の人間という解釈である。「三十一文字の川柳」とは微妙な表現だが、短歌から川柳へという暮田の道筋が何となく納得できる。

11月×日
「川柳木馬」173・174合併号が届く。作家群像は八上桐子。ここ二年あまりの作品から60句が掲載され、暮田真名と西原天気の作品論が付いている。

花の夜を平すちいさい木の楽器  八上桐子
三つ編みのうしろへ伸びてゆく廊下
桔梗剪る鋏が夜も切ってしまう
噴水を夜の子どもが降りてくる
増えすぎた鳩を空へと敷きつめる
Kokoro kokoro こぼしつづける鳩
たましいはなべてすずしいえびかずら
うたいましょうこれを夜だと言うのなら

『はじめまして現代川柳』の解説で私は八上の句に表れる「水」と「闇」(夜)のペアについて、「清浄な水の世界は背後に闇をかかえることによって屈折したものになる。水は闇を中和する存在でもあるし、水の背後にちらりと見える闇は、日常を破綻させないように適度にコントロールされている」と分かったようなことを書いているが、夜のモティーフは更に多彩に展開されている。注目されるのは私性から出発した八上が「こころ」や「たましい」にまで表現領域を拡げていることだ。

Kokoro kokoro こぼしつづける鳩
たましいはなべてすずしいえびかずら

前者では鳩のオノマトペに重ねられているし、後者のひらかな表記の句は今回の60句のなかで最も印象に残る作品となっている。八上は「作者のことば」として、若い世代の川柳人が続々と現れている状況にふれ、自己の「現在位置」を確かめたい、という意味のことを書いている。先行世代の川柳人はそれぞれの現在位置を示す用意が必要だろう。

11月×日
「里」205号を読む。叶裕の文章で「屍派」が10月に解散したことを知る。特集は「U-50が読む句集『広島』」。昭和30年に発行された合同句集『広島』が大量500冊発見されたニュースは他の俳誌でも取り上げられているが、アンダー50歳の俳人がこの句集について述べている。堀田季何の文章に引用されている句から紹介しておこう。

屍の中の吾子の屍を護り汗だになし
みどり児は乳房を垂るる血を吸へり
蟬鳴くな正信ちゃんを思い出す
廃墟すぎて蜻蛉の群を眺めやる

『広島』には専門俳人の句も収録されている。「広島や卵食ふ時口ひらく」(西東三鬼)は有名である。「里」には川嶋ぱんだ選の百句も掲載されている。

11月×日
「オルガン」31号を読む。

じきにコスモス古く古びていく僕らだ  福田若之
立ちすくむ秋多羅葉がすべて見る    宮本佳世乃
蛇轢かれ菊の姿となりにけり      田島健一
芋の葉が含み笑ひのかほをする     鴇田智哉

福田若之と鴇田智哉の〈往復書簡「主体」について〉も掲載されている。その中で引用されている「約束の寒の土筆を煮て下さい」(川端茅舎)が印象に残る。他に宮本佳世乃と浅沼璞の両吟・オン座六句「古き沼」の巻。またゲスト作品に宮崎莉々香の俳句が載っており、久しぶりに彼女の作品を読むことができて嬉しかった。

鶏頭は生命体に囲まれる  宮﨑莉々香
芒も群れのなまあぱや群れながらぱや
わたくしを出てぽろんぽはからすうり
柿に心をあなたは家で届かない

11月×日
「外出」8号を読む。

憐れむべき髪の多さと思いつつ自分の髪を押さえていたり   花山周子
ちがふと答へるのも差別のやうでだまつてゐるがだまるのも罪 染野太朗
グラタンは一夜を冷えて壊れたりかたちのなかのもの壊れたり 内山晶太
刑事ドラマのなかで刑事はひざまずきわたしのことを知りたいという 平岡直子

それぞれエッセイを書いていて、花山周子「振動」、平岡直子「ゴジラ」、内山晶太「ハレー彗星」、染野太朗「J-POP Review:ミセスマーメイド」。

海外の竜が炎を吐いていて 停止 そのずっと手前の酢の物  平岡直子

2022年11月26日土曜日

文学フリマ東京35

11月20日、東京流通センターで「文学フリマ東京35」が開催された。主催者発表では来場者7445名(出店者・一般来場者含む)、うち出店者は約1969名(入場証枚数より算出)ということだ。一般来場者は約5476名。「川柳スパイラル」でもブースを出したが、私は主に店番をしていたので、会場を充分に見て回ることができなかった。お話しできなかった方、見落としたところも多いが、入手できた句集・冊子について紹介しておきたい。

まず、ササキリユウイチ句集『馬場にオムライス』から10句選。

ふくろうの唾液で目指す不躾さ  ササキリユウイチ
ゆらめくものをゆらめきで突く
腐った喉でささやく馬場にオムライス
問十二 豆電球で呵責せよ
泉は鏡の誤記であろうか
かさぶたは悟性の端で捨ててよし
椅子は椅子だったとしてもママが好き
銀色のものことごとく縁をきり
必ずや無職の天使がやってくる
マダガスカルの治安を乱すな

完成度の高い句を書ける人だけれど、それを意識的に崩して、ラブレー風なスカトロジーにしてみたり、「パピプペポ」で西沢葉火かと思ったらカタカナ多用の句群だったり、「川柳式問答法」と言いながら少しも問答構造でない句を集めてタイトルに内容を裏切らせてみたり、いろいろな試みをしている。

「砕氷船」4号は俳人・歌人・川柳人の三人によるユニット。

紅筆に唇できあがる時雨かな  斉藤志保
踏みしだくことも話のたねとして 暮田真名
再会は遠くともありうるだろう白銀色の帆を張りゆかな 榊原紘

榊原紘とは初対面で、帰宅後手元にあった歌集『悪友』(書肆侃侃房)を改めて読んでみた。よいことかどうか分からないが、短詩型文学は作者に直接会うことによって作品の理解が深まる場合がある。

すれ違う手首の白い春の果て犬が傷つく映画は観ない   榊原紘『悪友』
機嫌なら自分でとれる 地下鉄のさらに地下へと乗り換えをする
隅田川沿いを歩いて(嘘みたい)いつかは海に着くのだろうね

乾遥香+大橋なぎ咲のブースでフリーペーパーをもらう。

幽霊を見たことがない 幽霊を見たことがある人がいるのに
ワンピース一枚かぶってここに来たわたしの言うことを信じてね

乾遥香には「川柳スパイラル」のゲスト作品に寄稿してもらったことがある。フリペの「主な作品」にも記載があるので、紹介しておきたい。

現実のことばかり白い薔薇ばかり  乾遥香「夢と魔法」(「川柳スパイラル」12号)
前髪切ってちいさな鏡だったのね  
誘おうかなわたしの国に誘おうかな

以前から気になっていた「滸」(ほとり)が委託販売されていたことに後から気づいて、入手できなくて残念に思っていたら、大阪に帰ったあと送っていただいた。4号の特集は「『沖縄文学選』収録 詩作品評」。高良真実が紹介している、久米島出身の詩人・清田政信の作品に注目した。

夜の河をまたいで
あんやんぱまん ぼくはきみに会いにいった
(中略)
華麗に汚しめりこんでゆく
目蓋をふせてなお慄えやまぬあんやんぱまん
きみは方位を失い、 祈りのかたちをえらぶ
漂流死体のようだ
     (清田政信「不在の女」)

「滸」掲載の高良真実の作品から。

霜降りの肉はうれしく我が内にもかやうなる斑あらばより楽し
火星など見ゆる宵には水筒へいまだに耳をあてたくなりぬ
液化ガスを運べる船は一昼夜かけてすべてを吐きいだすなり

「ねじまわし」4号、生駒大祐と大塚凱の二人誌だが、ゲストに第68回角川俳句賞を受賞した西生ゆかりや名古屋在住の若林哲哉などが参加している。企画「第1回ボキャブラドラフト会議」など。

芒折り取りて古書肆を泳ぎたり  生駒大祐
仮病もしもしと雪虫がちな日の  大塚凱

最後に、瀬戸夏子の日記形式の冊子『二〇二二年の夏と秋』。これは読んでいただくしかない。

2022年11月18日金曜日

「豈」65号・第七回攝津幸彦記念賞

「豈」65号で第七回攝津幸彦記念賞が発表されている。正賞・なつはづき、准将は水城鉄茶・赤羽根めぐみ・斎藤秀雄の三名。
この賞は「豈」43号(2006年10月)の特集・攝津幸彦没後十年のときに摂津幸彦論を公募したことにはじまる。受賞作品は関悦史「幸彦的主体」、神野紗希「諧謔のエロス」、野口裕「ふるさとの訛なくした攝津はん珈琲ええ味出とるんやけど」の三作。このときは評論の賞だった。それから7年後の「豈」55号(2013年10月)で第二回攝津幸彦記念賞が発表される。正賞・花尻万博「乖離集(原典)」、準賞は小津夜景「出アバラヤ記」・鈴木瑞恵「無題」であった。この第二回から現在まで俳句作品の公募となっている。個人的にはこの第二回に小津夜景が登場したことが鮮明な記憶として残っている。
第三回 「豈」59号(2016年12月)正賞・生駒大祐
第四回 「豈」61号(2018年10月)最優秀賞なし、優秀賞8名
第五回 「豈」62号(2019年10月)正賞・打田峨者ん
第六回 「豈」64号(2021年11月)受賞作なし
なかなか選考の厳しい賞である。今回の第七回から水城鉄茶(みずき・てっさ)の作品を紹介しよう。水城は川柳も書いているからだ。

目隠しをされて夜明けを待っている   水城鉄茶
また蝶をけしかけられている日向
ピストルが自分の声で目を覚ます
ベーコンがたまに爆発しない星
置いてきた鏡のなかの涅槃像

川柳では比較的なじみのある表現である。選評で夏木久は「型破り・怖いものなしの無鉄砲と採るか」「新鮮な表現の挑戦者と採るか」と断ったうえで、「私は面白いと感じました」と述べている。ここでは一行書きの作品のみ引用したが、全30句のなかの三分の一近くが多行書き、変則的なレイアウト、視覚的効果をねらった作品である。次の句はそんな中でも穏当で共感できるものだろう。

咲いたので
しばらく見ないことにする

筑紫磐井は「口語俳句であり、時折定型を逸脱するが、口語そのものがもたらす詩的韻律が壺に嵌った時は快感である」と評している。
水城は川柳ではどんな作品を書いているだろうか。「川柳スパイラル」から抜き出しておく。

みずうみがみずうみをひんやりとさく (12号)
まばらなる相手のなかの禁錮刑 (13号)
現職のスーパーマンに殴られた (14号)
キムタクの内部で月を焼いている(15号)

「豈」65号には平岡直子が「川柳は消える?」というタイトルで『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房)の書評を書いている。「二〇一〇年代は短詩型のアンソロジーが更新されつづけた時代だった」という文章ではじまり、『新撰21』『桜前線開架宣言』『天の川銀河発電所』などの俳句や短歌のアンソロジーに対して、「川柳のアンソロジーは刊行される気配がなかった」と述べる。テン年代の現代川柳をめぐる状況は平岡の指摘の通りだった。『はじめまして現代川柳』は20年代になってようやく刊行された現代川柳アンソロジーだったという位置づけである。
現代川柳の20年代はアンソロジーだけではなくて、句集の発行が続いた時期にもなってきている。その中には平岡の『Ladies and』も含まれる。状況は「消える文芸」とは反対の方向に進んでいくようにも見える。

「川柳スパイラル」16号は8月に開催された「創刊5周年の集い」の特集。暮田真名と平岡直子の対談では「ボーカロイド世代なんです」「形式に対する『愛憎』はありません」「表現が人を傷つけること」などが語られている。飯島章友と川合大祐の対談ではこの両人のキャリアが改めて語られ、現代社会の分断や「空気」を読むことの弊害と対処法などが示されている。句会の選者は、暮田真名・平岡直子・いなだ豆乃助・浪越靖政・飯島章友・小池正博で、それぞれが選んだ作品が掲載されている。

2022年9月4日日曜日

現代川柳とモダニズム

「ねむらない樹」9号の特集は「詩歌のモダニズム」である。川柳からは小池正博が「現代川柳におけるモダニズム」を寄稿し、小樽の田中五呂八、大阪の木村半文銭、堺の墨作二郎などの作品を紹介している。
モダニズムとは何かという定義について、中井亜佐子は特有の美的様式(広義)と文学史上の時代区分(狭義)という二つのやり方があるという。前者には韻律を破壊した自由な形式や前衛的な語法やイメージがある。後者はたとえば1910年ごろから両世界大戦の間の期間までというような時代区分で、ヨーロッパ文学ではジョイスやエリオットなどの活躍した時期である。
「ねむらない樹」に収録されている論考でも、この二つの定義が錯綜していて、広義のモダニズムととらえて新興短歌から現代までを見渡している文章もあれば、狭義のモダニズム短歌の、たとえば前川佐美雄に焦点をしぼった文章もある。
広義のモダニズムについては話が拡散するので、以下、狭義のモダニズムについて触れていきたい。大正末年から昭和初年にかけて短詩型文学の世界で新興文学運動が起こった。新興短歌、新興俳句、新興川柳がそれぞれのジャンルで生れている。
特集の文章で三枝昻之は「モダニズムの既成の価値の否定という特徴からは、プロレタリア短歌も広い意味でのモダニズム短歌といえる」と書いている。昭和3年に結成された新興歌人連盟は両者の統一戦線だったが、結成したかと思ったらすぐに解散。「なぜ新興短歌は直後に分裂したか。既成の価値と伝統短歌の否定という点では共通するが、表現の芸術性を重視するのがモダニズム短歌、階級意識からの社会改革を意図するのがプロレタリア短歌。短く言うと、文学か政治か、その力点の置き方で分かれた」というのが三枝の見方。さらに、モダニズム短歌も文語か口語か、定型か自由律かに分かれ、主流は口語自由律であったという。
以前はプロレタリア文学とモダニズム文学を対立的にとらえるのが普通であり、実際、両者は対立していたのだが、都市文学という視点から統一的にとらえようという見方が出てきている。これに口語短歌や自由律がからんで、話が錯綜してくる。
私はこの時期の口語短歌の歌人では西村陽吉の作品に注目しているので、この機会に紹介しておく。

モウパツサンは狂つて死んだ 俺はたぶん狂はず老いて死ぬことだらう  西村陽吉
何か大きなことはないかと考へる空想がやがて足もとへかへる
他人のことは他人のことだ 自分のことは自分のことだ それきりのことだ

西村陽吉の歌集『晴れた日』(昭和2年)から。大正14年、西村を中心として口語短歌運動の機関誌「芸術と自由」が創刊。翌15年には全国口語歌人の統一団体として「新短歌協会」が結成された。しかし、文語によって成立した定型を口語短歌はとるべきではないという自由律派が台頭して協会は分裂した。西村は定型派であり、文学観上は啄木以来の生活派だったので、やがてプロレタリア短歌の陣営からも攻撃されることになる。
プロレタリア短歌に関して、私が利用しているのは「日本プロレタリア文学全集」(新日本出版社)の『40 プロレタリア短歌・俳句・川柳集』で、三つのジャンルを見渡すことができるので便利だ。新興歌人連盟が分裂したあとプロレタリア派は「無産者歌人連盟」を結成し、昭和4年には「プロレタリア歌人同盟」ができる。「プロレタリア歌人同盟」は短歌が詩の方向に向かって解消の道を歩むことによって封建性を克服することができるという短歌否定論をかかえていたが、そのような考え方に対する批判も生まれてゆく。短詩型と詩の関係には紆余曲折がある。
モダン都市という観点から興味深いと思ったのは、「ねむらない樹」の特集で黒瀬珂瀾が紹介している石川信雄だ。

わが肩によぢのぼつては踊りゐたミツキイ猿を沼に投げ込む  石川信雄
シネマ・ハウスの闇でくらした千日のわれの眼を見た人つひになき

歌集『シネマ』(昭和11年)に収録されているが、制作されたのは昭和5・6年ごろだという。こういう作品を読むと、私は日野草城の次のような句を思い出す。

春の夜の自動拳銃夫人の手に狎るる  日野草城
白き手にコルト凛凛として黒し
夫人嬋娟として七人の敵を持つ
愛しコルト秘む必殺の弾丸(たま)を八つ
コルト睡(い)ぬロリガンにほふ乳房(ちち)の蔭

日野草城の句集『転轍手』(昭和13年)に収録されている「マダム コルト」という連作。一句目の「自動拳銃」には「コルト」とルビが付けられていて「コルト夫人」と読ませる。元になるのが映画なのか小説なのか確認できていないが、B級映画の雰囲気がある。
川柳では川上三太郎が映画「未完成交響楽」をもとに連作川柳を書いている。昭和10年の作品で10句のうち4句だけ引用する。

およそ貧しき教師なれども譜を抱ゆ  川上三太郎
わが曲は街の娘の所有(もの)でよし
りずむーそれは貴女の顫音(こえ)のその通り
アヴエマリアわが膝突いて手を突いて

個々の作者には作風や文学観の変遷があり、プロレタリア派とか芸術派とか一概に言えないのだが、大正末年から昭和初年にかけての新興文学運動にはジャンルを越えた時代精神があり、それらを共時的にとらえる必要があるだろう。「ねむらない樹」の特集では川柳について田中五呂八や木村半文銭などの芸術派を中心に紹介しているが、プロレタリア派も含めてモダニズムをとらえるなら、鶴彬などの存在も視野に入れなければならない。木村半文銭と鶴彬の激しい論争もあったのだが、それはまた別の話題である。

2022年8月19日金曜日

「川柳スパイラル」創刊5周年の集い

8月も後半に入り、すこしずつ季節が移り変わってゆく。
瀬戸夏子から「一夏蕩尽」という冊子を送ってもらった。2019年11月26日の日付のある文章と「2022、短歌についておもうこと」の二つが収められている。二つの文章の最初に同じ短歌が引用されている。

吹きとほる夜の草生のぴあにしも一夏蕩尽一世蕩尽  苑翠子

私は川柳を「蕩尽の文芸」と呼んだことがあるが、「一夏蕩尽」という言葉が心に刺さる。

8月5日
東京行。年内に発行予定の『現代連句集Ⅳ』(日本連句協会創立40周年記念誌)の編集会議を九段生涯学習館で行う。連句協会の歴史や座談会の原稿のほか、各地の連句グループからの作品が出そろい、印刷所に回すための打合せである。
会議終了後、近くの竹橋まで歩いて、国立近代美術館の常設展を見る。何度か来たことがあるが、まず原田直次郎の「騎龍観音」の前へ。この画家は森鷗外のドイツ留学時代の友人。ちなみに今年は鷗外没後100年にあたるが、鷗外の「妄想」に次の一節がある。「自分がまだ二十代で、まったく処女のような官能をもって、外部のあらゆる出来事に反応して、内にはかつて挫折したことのない力を蓄えていた時のことであった。自分は伯林(ベルリン)にいた」
荻原守衛の彫刻「女」や中村彝の「エロシェンコ氏の肖像」などもあった。新宿中村屋のかあさんと呼ばれた相馬黒光の周辺に集まった芸術家たちである。以前はこれらの前に立つと涙が出るほど感動したものだが、すでにそういう感覚は戻ってこない。
銀座に出たあと、両国のホテルに向かう。

8月6日
両国は芥川龍之介ゆかりの街で、散策してみる。「杜子春」の文学碑もあった。
イベントの会場・北とぴあに早い目に着く。午前中は川柳フリマを開催する予定だったが、コロナ禍のため中止。句会の準備をし、「川柳スパイラル」関係の書籍を並べる。12時を過ぎると人が集まり始める。当日の参加者は19名。
「川柳スパイラル」創刊5周年の集いは三部構成で、第一部は暮田真名・平岡直子の対談「川柳、わたしたちの無法地帯」。第二部は飯島章友・川合大祐「現代川柳のこれから」。
第三部の句会は暮田真名・平岡直子・浪越靖政・いなだ豆乃助・飯島章友・小池正博の選。詳しいことは「川柳スパイラル」16号(11月下旬発行)に掲載の予定だが、ここでは小池選の雑詠だけ紹介しておく。

花火からこぼれる指は誰だっけ     二三川練
机から椅子が引かれてしまう星      蔭一郎
阿炎およぐ偽の水平線のなか      川合大祐
ごせいばいしきもくの胴なさいます   中西軒わ
ノワールとメモワールのちにわか雨 いなだ豆乃助
川だった幅でお告げを待っている    兵頭全郎
スケルトン電卓という魂だ       平岡直子
リビングの小宇宙へとあくびする  いわさき楊子
かごめかごめ息継ぎの間の転生     浪越靖政
つめものとかぶせものから暮れてゆく 北野抜け芝
最新の縄文土器で煮炊きする      下城陽介
形式はくり返される敗戦日     いわさき楊子
自堕落の神は案外いそがしい      下城陽介
銀行 庭でサンダルをなくした      平英之
賭博でも氷で多少工夫する      今田健太郎
広告の顔らしいまま手を離す      兵頭全郎
義賊から盗み笑いを恵まれる      飯島章友
非通知で蝶がつぶれてしまったわ    平岡直子
わびさびの引き出し開けて都市を撃つ ササキリユウイチ
前屈でサラダに届くレイトショー    青沼詩郎
特選 蟹味噌の醜さだけが国語辞書   二三川練
軸吟 五年目の花火の位置を見定める  小池正博

懇親会は行わないことにしていたので、終了後はそのまま解散。両国に戻り、ちゃんこ鍋で、ひとりご苦労さん会。懇親会は川柳イベントが成功したかどうかのバロメーターで、宴会に残る人数が多ければイベントが成功だったことの証明とも言える。今回はそういうこともなく、達成感もそれほど得られなかったのはやむを得ない。シンポジウム・座談会+句会というかたちの川柳イベントを「バックストローク」「川柳カード」「川柳スパイラル」と続けてきたが、別のかたちを模索するべき時期に来ているかもしれない。

8月7日
国民文化祭おきなわの応募作品選考会議が午後からあるので、早朝の新幹線に乗り大阪に帰る。リモート会議なので東京にいてもできるのかもしれないが、自宅のパソコンからでないと不安なのだ。
国文祭「連句の祭典」の応募は一般の部とジュニアの部に分かれているが、私の担当はジュニアの部。大賞・入賞作品が决まる。
コロナに感染することもなく、無事三日間を乗り切ることができた。

あと、送っていただいた雑誌や本のご紹介。
「江古田文学」110号の特集は石ノ森章太郎。宮城県登米市にある「石ノ森章太郎ふるさと記念館」が紹介されているが、ここは朝ドラの「おかえりモネ」でも出てきた場所である。
浅沼璞が評論「『さんだらぼっち』にみる西鶴的方法」を書いている。私は「佐武と市捕物控」は読んだことがあるが、人情噺「さんだらぼっち」は読んだことがない。主人公とんぼは吉原大門前の玩具屋の住み込み職人。浅沼は石ノ森の映画的手法を指摘していて、それは連句にも通じるものだ。浅沼が「さんだらぼっち」の場面を連句化しているのは興味深い。

 身振り手振りで明かす段取り
持参金めあてに掛けを済ますらん
 もぬけの殻の広きお屋敷

「楽園」第一巻(湊合版)は楽園俳句会の創刊号から第6号までを合冊したもの。俳句作品のほか堀田季何の連載「呵呵俳話」が〈「わかる」とか「わからない」とか〉〈俳句の「私」は誰かしら〉〈リアルとリアリティ〉〈俳句と川柳の境界〉など、現在問題になっているテーマを扱っている。あと、連句作品も掲載されていて、連句界からは静寿美子が参加している。歌仙「ビオトープ」から。

帰りには栗売り切れてしまひさう   マリリン
 慌てふためき待ち合はせ場所    小田狂声
イケメンの自信過剰がいのちとり   静寿美子
 キーホルダーの合鍵はづす    市川綿帽子