2021年12月3日金曜日

天使の腋臭―川柳・俳句・短歌逍遥

12月に入った。今年も残り少なくなってきたが、短詩型の諸ジャンルでは途切れることなく活発な表現活動が続いている。その全てに目配りすることなどはとてもできないが、管見に入ったものについて川柳、俳句、短歌の順に触れてゆくことにしよう。

日本現代詩歌文学館主催の「第7回現代川柳の集い」は9月19日開催の予定だったが、コロナ禍で中止になった。事前募集の入賞作品が「詩歌の森」(館報93号)に掲載されているので紹介する。

抱いているいつか壊れるものなのに  守田啓子
挽歌弾く一本松のヴァイオリン    菊地正宏
哀しみの海を分け合う慰霊祭     荻原鹿声

「触光」72号(編集発行・野沢省悟)では第12回高田寄生木賞を募集している。川柳に関する論文・エッセイで、締切が2022年2月28日。「触光」掲載作品から。

三叉路は雪の匂いがする方へ   滋野さち
蜘蛛の糸昇って着いたのも地獄  津田暹
この薔薇を剪るその傷を残しおく 小野善江

「川柳北田辺」121号(編集発行・竹下勲二朗)から。

油滴天目茶碗で彼を泡立てる    笠嶋恵美子
眠っている窓のとなりに窓を描き  湊圭伍
マンモスをペリリュー島へ派遣した 井上一筒
ツンドラの検温 熱帯の検温    きゅういち
右肩あたりに一人称サナダムシ   山口ろっぱ
指差した爪の先にて蝶が舞う    酒井かがり

佐藤智子句集『ぜんぶ残して湖へ』(左右社)。佐藤文香の帯文に「現代を生きる主体と現代語の文体が抱き合うダイナミズムを感じるにふさわしい、2020年代を象徴する一冊」とある。佐藤智子は『天の川銀河発電所』の公募作家としてデビューした。同書で佐藤文香は「〈じゃんけんで負けて蛍に生れたの〉の池田澄子が、かつての日常口語俳句を開拓したとして、佐藤智子は現在の口語の人だ。短歌でいえば永井祐か」と書いている。川柳は江戸時代からずっと口語なのだが、俳句や短歌では文語か口語かということとジャンル内のエコールの変遷がからみあっているようだ。山田航は「現代詩手帖」10月号の鼎談「俳句・短歌の十年とこれから」で短歌の歴史をリアリズム(写実)と反リアリズム(幻想)の繰り返しととらえ、次のように発言している。「それまではリアリズムは文語で、反リアリズムはそれに対抗するために口語でやるものだという図式があった。しかしそれは単なる思いこみに過ぎず、口語を使うリアリズムも可能だという方法を、2000年代に永井祐が鮮やかに打ちだして見せました」―この見方の当否はともかく、短歌における文語・口語の角逐と平行するようなかたちで佐藤文香が現代俳句史をとらえていることが想像できる。

明けない夜だよ伊予柑の香がやたら  佐藤智子
炒り卵ぜんぶ残して湖へ
新蕎麦や全部全部嘘じゃないよ南無

短歌誌「ぬばたま」6号の特集は大橋なぎ咲。巻頭作品「ミューズ」から。

話したいときは女子校だと告げるわかってもらいやすくなるから   大橋なぎ咲
みーちゃんのカレシと聞いてチェックした硬式テニス部の人たらし
全員で顧問に謝罪したらしいJを試合に連れていくため

「ぬばたま」は大橋のほか乾遥香、初谷むいなど1996年生まれの歌人が集まった同人誌。今号には大橋なぎ咲、瀬戸夏子、乾遥香の鼎談「オタクである私の話」も掲載されている。

『葛原妙子歌集』(書肆侃侃房)、「ねむらない樹」7号の特集で高橋睦郎が葛原のことを語っているインタビューがおもしろかったので取り寄せた。栞を大森静佳、川野芽生、平岡直子が書いていて、三人ともおもしろい。見ることが世界に乗り移ることになるという大森、真実を視るためには目を閉じなくてはならない(幻視)という川野、見慣れた景色と言葉を見慣れないものとして再構成することが葛原にとっての写生だという平岡。それぞれのアプローチが刺激的である。

水かぎろひしづかに立てば依らむものこの世にひとつなしと知るべし 葛原妙子
寺院シャルトルの薔薇窓をみて死にたきはこころ虔しきためにはあらず
水中より一尾の魚跳ねいでてたちまち水のおもて合はさりき
この子供に絵を描くを禁ぜよ大き紙にただふかしぎの星を描くゆゑ
天使まざと鳥の羽搏きするなればふと腋臭のごときは漂ふ

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