2018年12月1日土曜日

関係性の文学―俳句・短歌・連句―

第86回独立展が大阪市立美術館(天王寺)で開催されているので見に行った。
斎藤吾朗の絵を見るためである。斎藤さんは連句人としても知られ、ずいぶん以前になるが、大阪高島屋で開催された画廊連句のときに知り合った。これは絵の展示会場で来訪者が付句を付けるというものである。彼はルーブル美術館で日本人としてはじめて「モナ・リザ」の模写を許された画家。彼の絵にときどきモナ・リザが出てくるのはそのためである。赤を基調とする画風なので「三河の赤絵」(愛知県在住)と呼ばれている。
今回の絵は「描く!刷る!東京駅物語」というタイトルで、中央の大きな画面と上段・下段のいくつにも区切られた小さな画面から構成され、小画面には版画の刷りのような過程が描かれている。中央の大きな区画はいつのもように赤を基調として、東京駅に集うさまざまな人物が描き込まれている。時間は過去から現在までが混在していて、浦島太郎や明治の人々、少年ジェットなどおびただしい人物が描かれている。その一人一人を確かめてゆく面白さがある。乗り物というテーマで、浦島は亀に乗っているし、少年ジェットはオートバイに、その他、人力車・自転車・自動車などさまざまな乗り物がある。彼の絵には俳諧性があるのだ。
同美術館で「阿部房次郎と中国書画」展も開催されていた。中国絵画では有数のコレクション。私は華嵒というひとの「秋声賦意図」が好きで、見ているとほくほくする。

岡田一実の第三句集『記憶における沼とその他の在処』(青磁舎)が好評である。この時評でも触れたことがあるが(10月21日)、繰り返し読む機会があったので、改めて取り上げてみたい。句の内容や句集全体の世界についてはすでにいろいろ言われているので、表現についての感想を少し書いてみる。

火蛾は火に裸婦は素描に影となる     岡田一実
蟻の上をのぼりて蟻や百合の中
暗渠より開渠へ落葉浮き届く
母と海もしくは梅を夜毎見る
椿落つ傷みつつ且つ喰はれつつ
鷹は首をねぢりきつたるとき鳩に

ペアの思想と言えばいいのか、言葉が対になって使われている。
巻頭句は「火蛾は火に影となる」「裸婦は素描に影となる」という二つの文脈が合わされている。「火蛾と火」の関係と「裸婦と素描」の関係に少し屈折があるのがおもしろさだろう。「蟻」という同字の繰り返し、「暗渠」と「開渠」の対義など言葉の組み合わせはさまざまだ。「母」「海」「梅」「毎」のつなぎ方はやりすぎのようにも感じるが、三好達治の「海の中には母がある」というフレーズを思い出させる。「椿」の句は川柳でもよく詠まれるが、「傷みつつ且つ喰はれつつ」という表現には驚かされる。「つつ」という動作の平行だけではなくて「つ」の字が六字も使われているのは意図的だろう。「鷹」の句は「鷹鳩と化す」(仲春)という季語をおもしろい形で使用している。
内容の重たさにもかかわらず、表現には遊びの要素も見られるところに、一種の俳諧性を感じた。

歌集では服部真里子の第二歌集『遠くの敵や硝子を』(書肆侃侃房)が好評である
よくわからない歌も多いが、退屈な歌というものはない。

誰を呼んでもカラスアゲハが来てしまうようなあなたの声が聴きたい  服部真里子
うすべにの湯呑ふたつを重ねおく君のにせもの来そうな日暮れ
黄昏は引きずるほどに長い耳持つ生き物としてわれに来る
夜の雨 人の心を折るときは百合の花首ほど深く折る
黒つぐみ来ても去ってもわたくしは髪をすすいでいるだけだから
図書館の窓の並びを眼にうつし私こそ街 人に会いにゆく

印象に残った作品を書き写してみた。
この歌集では「あなた」「君」などの二人称が多用されている。全体の一割程度で使われているのではないか。短歌は一人称の文学だと思っていたが、二人称の文学とも言えるのかもしれない。「あなた」を通して「わたし」を表現するとすれば、両者の関係性が主題となる。「あなた」は歌によって章によって誰のことか変わってゆくのだろうが、読者との関係性も少しは意識されているようだ。カラスアゲハや「君のにせもの」や「長い耳持つ生き物」などいろいろなものがやって来る。待っている私から出かけていく私への変容はいいなと思う。
人を意気阻喪させるのは他者との関係性だし、人を勇気づけるのも関係性である。歌集の最初の章は「愛には自己愛しかない」というタイトルが付いている。

わたくしが復讐と呼ぶきらめきが通り雨くぐり抜けて翡翠
海鳴り そして日の近づいた君がふたたび出会う翡翠

この章の冒頭の歌と最後の歌が対応している。ここでも「わたくし」と「君」。きらめきながら飛んでゆく翡翠のイメージは鮮烈である。
歌集名は「遠くの敵は近くの味方より愛しやすい」という言葉から取ったということだ。

「第33回国民文化祭おおいた2018」が開催された。私は参加できなかったが、『連句の祭典』入選作品集(大分県連句協会発行)が手に入ったので、少し感想を述べてみたい。
募吟の形式は二十韻である。二十韻は懐紙形式で、オモテ四句、ウラ六句、名残りのオモテ六句、名残りのウラ四句。歌仙を簡略化した新形式で東明雅の創案。国文祭では2012年の徳島大会、2017年の奈良大会に続き三度目で、連句形式としての普及が進んできたようだ。
文部科学大臣賞は「河馬の目と耳」の巻(捌・大月西女)。

水面に河馬の目と耳日脚伸ぶ   大月西女
四温の園に挙がる歓声     名本敦子
クレヨンの青と黄色が足りなくて 上甲彰
厨の笊に野菜いろいろ    寺岡美千穂

連句の選の基準についてはいろいろ議論のあるところだろうが、今回の入選作品集で興味深かったのは選者の選評である。
「長句(五七五)と短句(七七)が交互に並んでいるだけでは連句になりません。よい連句作品を作るには転じが大切だと言い出したのはダレでしょうか。前句のどこに付けて、その発想が生まれたのかを考えるのが捌きの仕事です。例えば、二十韻の場合では四、五カ所付け味の分らない句があれば作品はズタズタに切り裂かれ、もはや連句と言えなくなります」(青木秀樹)
「三句の渡りから二十韻の特徴である表の短さを長所として、付き具合は親句というよりも疎句で付け進めることにより、展開の速さでもって読者を惹きつけることに成功しており、それは脇句・第三の安定感が、発句の取合せの情動感を受け止めることによって、表四句が引き締まり、そこから醸し出された躍動感が、その後の挙句まで保たれている点に魅せられたということです」(梅村光明)
「おそらく、同じ結社か否かを問わず、どういう連句をよしとするかという『考え方』については選者八人とも大きくかけ離れてはいないと思う。だが、『考え方』で判断できるのは粗選びの段階までで、そこから先、最終的な選に絞り込み、さらに上位作品を選び出すという、後の段階になるほど、どのような事柄や措辞、また前後の句の関係や一巻の展開に詩情を見出すか、という『感じ方』の比重が大きくならざるをえない。そして『感じ方』は、選者によってかなり違っていて当然だと思う。作るにも選ぶにも詩歌とはそういうものではないだろうか」(鈴木了斎)
「次に、新しい表現への意欲に眼をとめました。用いられている語彙や表現への工夫から、文芸に対する前向きの姿勢が読み取れないかどうか判断いたしました。使い古された内容を類型的な表現で繋ぎ合わせていく作品には創造性が希薄だと思われます。新しいものへ挑戦しようとする姿勢を、たとえぎこちない箇所があったとしても、その意欲を重く受け止めました」(東條士郎)
選者八人の選評のうち四人だけ紹介したが、それぞれの考え方がよく表れている。
連句は「付けと転じ」が生命線だと言われているが、「付け」に重きをおくか、「転じ」を重要視するかによって方向性が異なってくる。両者がバランスよく配されて一巻が仕上がるのが理想だろうが、そう上手くはいかない。付句一句のおもしろさが式目と矛盾する場合があり、捌き手や選者が悩むところである。前句から飛躍する付句はおもしろいが、飛躍しすぎると連句が解体してしまう。一句立てと付け合い文芸としての連句の矛盾は近世俳諧史のなかでも生じて、そこから俳句や川柳が独立していった歴史がある。そういう矛盾に現代連句も直面しているのかもしれず、逆に新しい現代連句作品が生まれる契機となるかもしれない。そういう意味で、国文祭の選評はたいへん興味深いものと思われる。

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