俳誌「オルガン」15号が届いた。
メンバー5人の作品のほか、小津夜景と北野太一の対談「翻訳と制約 〈漢詩〉の型とその可能性を旅する」、連句作品・オン座六句「原っぱ」の巻、浅沼璞の書簡、座談会〈続・「わからない」って何ですか〉など読みどころが満載である。
まず同人作品から。
虫の声とさうざうのブースカランド 宮﨑莉々香
鯖雲のかさぶたを剝ぎ狭くなる 宮本佳世乃
順番にさはってこれは檸檬の木 宮本佳世乃
囮すこやか契約にない景色 田島健一
ほどよく毛ほどよく蟋蟀の気配 田島健一
うつむくと滝の向うの音がする 鴇田智哉
電話にて言はる「木槿の目になれよ」 鴇田智哉
松虫の骸は紙を折るに似る 福田若之
宮﨑の作品は「想像のブースカランド」というタイトルの連作。ブースカランドはすでに閉園されているし、想像のというから実際に遊園地へ行った吟行作品とは違うのだろう。連作の場合は一句の屹立感が弱くなるから、独立した句としての印象が薄くなるのは否めない。
宮本の句、「鯖雲」という天象と「かさぶた」という身体がオーバーラップする。かさぶたを剝ぐと空の隙間が広くなるのではないかと意味を考えだすと理に落ちてしまう。
田島の句は言葉と言葉のつなげ方が一部の川柳人と通じるところがあって、「オルガン」のメンバーの中では一番私の感覚に合う作者である。
鴇田の句の「 」の使い方は連句の付句にもときどき見られるが、ここではどんな文脈での会話なのかが謎である。伏せられている部分、省略されている部分が読者の読みを刺激する。
福田の句は発句的というよりも平句的な感じのするものが多かったが、動詞で結んでいる句を選んでみた。
このところ、「オルガン」には毎号連句作品が掲載されているが、今号では福田若之句集『自生地』が第六回与謝蕪村賞新人賞を受賞したのを祝って連句興行が行われている。出版や受賞を記念して連句が巻かれることは、連句界ではよくあることだ。練衆には同人のほかに青本瑞季・青本柚紀・西原紫衣花・大塚凱が参加している。捌きは浅沼璞、指合見は北野抜け芝(北野太一)。
浅沼璞はレンキスト(連句人)として現代連句の牽引者のひとりだ。西鶴の研究者としても著名。私は浅沼の最初の著書『可能性としての連句』(ワイズ出版)以来の読者だが、浅沼の著書を通じて学んだキー・ワードは高柳重信の「連句への潜在的意欲」と攝津幸彦の「静かな談林」の二つである。
高柳重信は「俳句形式における前衛と正統」(『現代俳句の軌跡』所収)で、正岡子規が連句の脇句以下の付句と絶縁して独立した一句を目指したことについて、「それは、もはや連句の発句が独立したというよりも、まったく新しい詩型の誕生を告げわたっていた」と述べて、こんなふうに書いている。
「それにしても、連句にかかわる一切を断念するということは、新しい俳句形式に賭ける当然の決意であろうが、また一度、常に自在でありたい一個の詩人の立場からすれば、みずから手を縛ってしまうに等しい行為でもあった。だから、断念は断念として、やはり昔日の俳人たちに許されていたように、七七の短句や、発句ではない自由な五七五などを書いてみたいという潜在的な意欲が、そう簡単に眠ってしまうことはなかった。たとえば、自由律の俳人たちが盛んに試みた短律や、新興俳句運動の渦中での連作俳句や無季俳句の実践などは、おそらく、そういう潜在的な意欲が、おのずから噴出して来たものと思うことも出来よう」
もうひとつ、攝津幸彦の「静かな談林」は次のような発言である。
「以前は自分の生理に見合ったことばを強引に押し込めれば、別段、意味がとれなくてもいいんだという感じがあったけれど、この頃は最低限、意味はとれなくてはだめだと思うようになりました。そのためにはある程度、自分の型を決めることも必要でしょうね。高邁で濃厚なチャカシ、つまり静かな談林といったところを狙っているんです」(「狙っているのは現代の静かな談林」1994年12月「太陽」特集/百人一句、『俳句幻景』所収)
さて、浅沼璞は「オルガン」15号の柳本々々に宛てた書簡でチェーホフについて触れている。チェーホフと「軽み」について、浅沼はすでに『中層連句宣言』で論じているが、出発点となったのは佐々木基一の『私のチェーホフ』に収められている「軽みについて」という文章である。佐々木基一は連句人としては「大魚」の号で知られ、連句作品も残っている。
ここで私が思い出すのは、浅沼璞が以前捌いた連句の付句で、それはこんなふうになっていた。
機関車の底まで月明か 馬盥 赤尾兜子
路地裏に金魚泳がせる秋 浅沼璞
ずしりと重い中身をはかる封筒 鈴木喜久
「垂直的なやり方ですな」 イワン・ペトローヴィチ
いずれも「脇起自由律オン座六句『馬盥』」(浅沼璞捌、「江古田文学」第38号)から。前者は発句と脇、後者は第二連の五句目と六句目である。脇句は赤尾兜子の発句に攝津幸彦の「路地裏を夜汽車と思ふ金魚かな」を引用しながら付けたもの。第二連六句目は、チェーホフの短編『イオーヌイチ』からの引用となっている。
連句を連句自体から説明することは重要だが、そこからは特別なにも新しいことは生まれない。連句以外のジャンルに連句的な要素を探り、現代文化全体に通底する用語を用いて語ることによって、連句の存在を顕在化させて浮かび上がらせることができる。浅沼が自らを連句人ではなくレンキストと名乗り、カットアップやリミックスといった音楽用語(椹木野衣の『シミュレーショニズム』に早い使用がある)を用いて連句を説明するのには戦略的な意味があるだろう。
「オルガン」15号に話を戻せば、小津夜景と北野太一の対談では漢詩の翻訳について語られているが、小津の『カモメの日の読書』には王安石の集句など、漢詩におけるカットアップやリミックスといった連句的手法にも言及があるのだ。
連句的なものは文芸の世界に潜在的に存在する。浅沼の批評は今回の書簡におけるチェーホフのように、それを顕在化させて私たちに気づかせるものとなっている。連句をすれば俳句が下手になるなどと見当違いなことを言っている場合ではないのだ。
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