樋口由紀子の第三句集『めるくまーる』(ふらんす堂)が発行された。
「あとがき」には次のように書かれている。
「第一句集『ゆうるりと』(1991年刊)第二句集『容顔』(1999年刊)から十九年ぶりの川柳句集です。句集を出したいと思いながらもなぜかぐずぐずしていました」
19年の歳月は生半可なものではない。
セレクション柳人『樋口由紀子集』には『ゆうるりと』『容顔』以後の作品が若干収録されているが、まとまったものとしてはそれ以来となる。その間、何が変化し何が変わらなかったのか。
なにもない部屋に卵を置いてくる
『めるくまーる』のなかでも多くの読者の印象に残る句だろう。
「なにもない部屋」がある。「虚無」と言ってもよい。そこには本当に何もないのだ。「卵」はものを生み出す根源的なもの、などと比喩的に読まない方がいい。ただそこに卵をそっと置いてくるという能動的な意志がある。
高校生のころアンドレ・マルローの小説を読んで「行動的ニヒリズム」というものに憧れたことがある。卵を置いたからといって何が変わるものでもない。「握りこぶしのなかにあるように見せた夢」(中島みゆき「歌姫」)のようなものである。けれども何もしないよりは卵を置く方がたぶんいいのだ。梶井基次郎は丸善に檸檬を置いてきた。「檸檬」は爆弾であり詩であるが、「卵」は生活感から離れない。
こんなふうにして樋口由紀子の「ことば」が生まれる。
あの松を金曜日と呼ぶために
嬉しくて軍手のことを考える
勝ち負けでいうなら月は赤いはず
靴下をはかない方が実の父
どの句にも樋口の作句法が顕著に見られる。
「あの竹を木曜日と呼ぶために」「哀しくて手袋のこと考える」「勝ち負けでいうなら月は青いはず」「靴下をはいているのは偽の父」など、いくらでもヴァリエーションが考えられるが、樋口はさまざまな言葉の組み合わせのなかで掲出句のような形を選んだ。それが最も彼女の言葉の生理にかなうからである。
樋口の句が一種の「言葉探し」の印象を与える理由がここにある。
「言葉派」という言い方は俳句にもあるのかも知れないが、樋口由紀子は川柳における「言葉派」である。「思い」ではなく「言葉」から出発する書き方を彼女は切り開いた。
懸垂をしているときは忘れてね
鋸を使っていたらバスが来た
もういいわブルドーザーで決めるから
けれども、言葉から出発するといっても、作者の主体、あるいは作品のなかにあらわれる作者の主体は否応なく表現されてしまうものである。言葉だけでは人は感動しない。句の内実と言葉とがばっちりと一致したときに樋口の句は強い力を発揮する。
たとえば「懸垂」の句を恋句だと受け取ってみる。懸垂をしているときはそれに集中しているから、他のことは忘れている。しかし、懸垂をしていないときは恋人のことを思い出してほしいと言っているようだ。ここにはアイロニーがあるが、恋でなくても楽しい瞬間もあれば悩みが生じる瞬間もあるだろう。身体を動かすことによって心の悩みを忘れるというのはひとつの叡知かもしれない。
バスがやってきた。何で鋸なんて使っているんだろう。樋口の句では日常的な文脈が日常性をたもったまま歪んでゆく。
決められることなんて何もないのだけれど、生活のなかではどう行動するか決めなければならない。ブルドーザーで決めるというのはどんな決め方なのかわからないが、おもしろいことはおもしろい。
樋口の句には難解な言葉は使われていないが、語の組み合わせや文脈が日常言語とは違う次元にずらされている。このズレによって日常語は「川柳のことば」になる。
空腹でなければ秋とわからない
生醤油を舐めてわかったふりをする
この二句は反対のことを言っているように見えるが、同じことを反対の言い方をしている。川柳ではよくあるペアの思想である。
新宿に呼ばれています黒大豆
オランダはまだ出てこない記憶力
むささびが先に京都に着くという
地名を使った句である。地名は喚起力が強いので印象に残りやすい。
ちょうど来た鯛 ちょうど来る正月
生きていることは別に楽しいことではないのだ。鯛が手に入ったからといって、正月が来るからといって、そのことには別に意味はないのだ。
だからと言って、投げやりな生活をするというのではない。ちょうど来た鯛を賑やかに華やかに扱って、正月をきちんと飾り立てる。それは一種の「ふり」であり、演技でもある。
「おもしろきこともなき世をおもしろく」と言ったのは高杉晋作だったか。
こうして樋口由紀子においてニヒリズムは克服されたのである。
0 件のコメント:
コメントを投稿