12月7日、東京・王子の北とぴあで開催された時雨忌に参加した。いろいろ刺激を受けたが、上野遊馬の捌きの席で行われた「短詩行」という形式に注目した。
上野の説明によると「短詩行」とは〈大岡信らの詩人たちが連句に刺激されて「連詩」を楽しんでいることを知り、それでは逆に連句を式目から解放し、もっと自由に言語空間で遊べるようにしたい〉というものらしい。
『連句年鑑 平成十七年版』(日本連句協会)に山路春眠子が「僕たちのささやかな実験」という文章を書いていて、その中で上野遊馬の実験について触れている。
「ところが、ここに一人、ヘソマガリが登場する。上野遊馬氏。俳人でもあるが、普通の連句では面白くないと、連句から式目を外してみよう、という破天荒なことを思いついた。長句短句の区別なし。口語散文で新仮名遣い。要するに自由詩風で、前句を受けたり外したりする面白さを徹底的に狙おう、というもの」
時雨忌が終わって大阪に帰ってから調べてみると、連句集『草門帖』には上野捌きの「短詩行」がときどき掲載されている。第4集の「雪という劇」、第6集に「齧られた月」、第7集に「耳鳴りのする夜」。そこでは次のような注が付いている。
「短詩行」は五七五の定型の枠を外し、口語散文の短詩を重ねて詩的連想の付け味を楽しむ形式。それぞれの連に春(桜)夏(恋)秋(月)冬(雪)の景物・モチーフを詠む。
一連は4~6句でよいらしい。先日の時雨忌での作品は「日本連句協会報」2019年4月号に掲載される予定なので、ここでは『草門帖6』から「齧られた月」の第一連を紹介しておく。
目が合って重心が動く 清水風子
つっかけサンダルのさびしい昼だ 小池舞
むいてもむいても辣韮は辣韮にしかならない 坂根慶子
鳥が来た!尺玉を用意しろ! 高松霞
トルネード・旅 村松定史
今年は髙山れおなが「朝日俳壇」の選者に就任したことが話題となったが、このほど髙山の第四句集『冬の旅、夏の夢』(朔出版)が上梓された。『ウルトラ』『荒東雑詩』『俳諧曾我』に続くもので、二章に分かれ、Ⅰには旅行吟、Ⅱにはそれ以外の作品を収めている。「二十代の頃は、俳句作品は言葉のみで自立してゐるべきだと考へ、生活や人生を作品の中に持ち込まない主義だつた」(後記)というが、髙山は職業上旅行をすることが多く、今回はその産物としての作品をまとめたのだろう。それはそれで興味深いが、ここではⅡに収録されている作品、特に加藤郁乎関連の句に触れてみたい。
加藤郁乎は2012年5月に逝去した。「豈」54号(2013年1月)で追悼特集が組まれたが、髙山も作品を掲載している。
野分雲夜を啼きわたる煙草火や
月並のはらわた孵る月白や
イクヤーヌスの双面笑ふ息白し
思考なき博識よけれ花のワルツ
両の眼の花の三角で殺すのね
穢土俳諧歳時記全て憶ひ出なり曝す
双面の神ヤヌスとイクヤを掛けてイクヤーヌスとし、「花より三角へ!」(『球體感覺』初版後記)を引用しながら作句している。
さて、第四句集刊行記念の冊子「僕はこんなふうに句集を作ってきた」で高山は次のように書いている。「俳句を作ることが無闇に楽しかったのはもうだいぶ昔の話だ。しかし、今でも句集を作ることはたいへん好きで、もしかすると日本で一番好きかもしれない」
第四句集については「この句集はまずもって旅の句集といっていいだろう」と述べ、旅吟は「一人称性」の薄い作者が「一人称性」を確保するための方法と書いているのは興味深い。
10月に大本義幸が亡くなった。
大本は「豈」の創刊同人で、攝津幸彦の盟友だった。
私は柳俳合同句会の「北の句会」で何度か大本と会ったことがあるが、大本には川柳を評価しない気配があったので、それほど親しみはなかったけれど、「豈」の先輩として敬意はもっていた。大本の句集『硝子器に春の影みち』(沖積舎・2008年10月)から何句か紹介しておこう。
月へ向かう姿勢で射たれた鴨落ちる
蛾の翔ちてあじさいの首太るらむ
爪切って爪のかたちに暮れにけり
さくらちるそのはかなさを春といい
兄嫁に激しく沸くは夏の雲
雨の日はみじかくてよいのだ自由律
硝子器に春の影さすような人
朝顔にありがとうを云う朝であった。
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