10月17日(土)に東京の日本出版クラブ会館で詩歌梁山泊主催のシンポジウムが開催された。約130名の参加者があり盛況だったようで、ネットを中心にその模様が報告されている。私は残念ながら参加できなかったが、さまざまなレポートをもとにこの集まりの意義について考えてみたい。
詩歌梁山泊は詩人の森川雅美を代表として立ち上げられた。まず、主催者の意図を「詩歌梁山泊」ブログから引用してみよう。
http://siikaryouzannpaku.blogspot.com/
「現在の日本には、短歌、俳句、自由詩(狭義の詩)という三つの詩型があり、共存しているといって良いでしょう。三つの詩型はお互いに影響しあっていますが、住み分けがされているのが現状です。そのことが日本の詩にとって幸せなのかは、はなはだ疑問です。当企画ではシンポジウム、ホームページ、印刷媒体などを媒介とし、三つの型の交友の促進を目的とします。それぞれの詩型の特徴や相違点を考え、時には融合するなどし、これからの表現の可能性を探ります。戦後の詩歌の時間を問いなおす試みでもあります。」(詩歌梁山泊~三詩型交流企画ごあいさつ)
ここに明示されているように、三詩型とは「短歌」「俳句」「自由詩」であり、「川柳」は入っていない。いま、そのことをあげつらってみてもあまり意味はないが、森川雅美は現代詩サイドの人であり、彼の視野に入っている短詩型は「短歌」「俳句」にとどまるということだろう。実際問題として、川柳人でこのシンポジウムに出席したのは堺利彦ただ1人であり、「バックストローク」掲示板に長文の報告を書いている。堺の孤軍奮闘はともかく、短詩型の現在の動向に対してアンテナを出し切れていない川柳側の意識も問われるところである。
http://8418.teacup.com/akuru/bbs
それにしても、なぜ三詩型なのか。
このイベントの実行委員であり、当日第二部のパネラーの1人でもある筑紫磐井は、「俳句樹」第2号の「詩歌梁山泊第1回シンポジウムと『超新撰21』竟宴シンポジウムと」で次のように述べている。
http://haiku-tree.blogspot.com/
「かつて拙著にいろいろご指導いただいた人類学者川田順造氏は、氏の独特の方法論で三角測量という考え方を提案している。川田氏の場合は、日本、フランス、アフリカという三つの地点を設定され、ここからから文化や民族を観察し解釈するとき2項対立とは全く違う思考が生まれる。(中略)
いままで、俳句―詩、俳句―短歌、俳句―川柳の断片談判で考えられて来た俳句論を少し見直してみる。日本、フランス、アフリカほど異質な、短歌、俳句、自由詩の視点から、「詩歌」という単一理念を3点測量することは魅力的であると思う」
「2項対立」から「3点測量へ」というのは興味深い観点ではある。少なくとも筑紫の視野には「川柳」の存在は入っているが、4詩型ではなく3詩型として始めようという意識があったのだろう。
さて、シンポジウムの第1部は「ゼロ年代から10年代に~三詩型の最前線」というテーマで比較的若手のパネラーによって進行された。第1部は若手に、第2部はベテランにというのがコーディネーターの意志だったようだ。
第1部「ゼロ年代から10年代に~三詩型の最前線」
歌人/佐藤弓生、今橋愛
俳人/田中亜美、山口優夢
詩人/杉本徹 、文月悠光
司会/森川雅美
まず短歌だが、佐藤弓生が光森裕樹『鈴を産むひばり』( 2010)を、今橋愛が野口あや子『くびすじの欠片』(短歌研究社 / 2009)を取り上げてコメントした。
光森裕樹『鈴を産むひばり』より
鈴を産むひばりが逃げたとねえさんが云ふでもこれでいいよねと云ふ
風邪。君の声が遠いな。でもずつとかうだつた気もしてゐるな。風邪。
だから おまへも 戦争を詠め と云ふ声に吾はあやふく頷きかけて
野口あや子『くびすじの欠片』より
互いしか知らぬジョークで笑い合うふたりに部屋を貸して下さい
ただひとり引きとめてくれてありがとう靴底につく灰色のガム
くびすじをすきといわれたその日からくびすじはそらしかたをおぼえる
俳句では山口優夢が高柳克弘『未踏』(ふらんす堂 / 2009)を、田中亜美が御中虫「第3回芝不器男賞受賞作品」を取り上げてコメントした。
髙柳克弘『未踏』(ふらんす堂)より
ことごとく未踏なりけり冬の星
亡びゆくあかるさを蟹走りけり
洋梨とタイプライター日が昇る
御中虫「第3回芝不器男賞受賞作品」より
じきに死ぬくらげをどりながら上陸
結果より過程と滝に言へるのか
季語が無い夜空を埋める雲だった
現代詩では杉本徹が中尾太一『御世の戦示の木の下で』(思潮社 / 2009)を、文月悠光が大江麻衣「昭和以降に恋愛はない」(「新潮」2010年7月号)を取り上げて報告した。現代詩の引用は長いので省略させていただく。
この第1部については、「週刊俳句」に野口る理のレポートが掲載されているので、詳しくはそちらをご覧いただきたい。野口はこんなふうにまとめている。
http://weekly-haiku.blogspot.com/
「パネリスト各氏の選んだ作品は、もちろん意図的に、対照的である。古典的なつくり方に現代性を感じさせる【光森】作品と、恋や性愛を通して現代に生きる自分を描く【野口】作品。流麗な文語を用いすみずみまで洗練されている【高柳】作品と、口語も文語も混ぜ乱反射させる【御中】作品。引き裂かれるような切実さのある独自の物語を紡ぐ【中尾】作品と、自在な散文を用いネット上でも多くの人に読まれ共感を得る【大江】作品」
「今をときめく若手作家であるパネリストたちが、今をときめく若手作家の作品について議論するという豪華な企画であったが、なにぶんパネリストが多いのと、ただでさえ3詩型が集まり要素が多く、また自由度が高すぎるのとで、話はあまりまとまらなかった印象である。しかし、3詩型それぞれの若手の問題意識や現在をうかがい知ることが出来、これからまだまだ前へ進む力強さを体感することができたシンポジウムであった」
続く第2部は「宛名、機会詩、自然~三詩型は何を共有できるのか」である。
歌人/藤原龍一郎
俳人/筑紫磐井
詩人/野村喜和夫
司会/高山れおな
この第2部については「俳句樹」第3号に筑紫磐井が「詩歌梁山泊シンポジウムに出られなかった人のための偏私的報告・宛名、機会詩、自然」を書いているので、そちらを参照されたい。
http://haiku-tree.blogspot.com/2010/10/blog-post_4110.html
筑紫磐井は次のように述べている。
「こうしたシンポジウムでは明快な結論が出ないのはやむを得ないことかも知れない、しかし、ここで提起された問題が次にどう続くかと言うことの方が大事であろう。そして実はそうしたことを最初から期待していた向きもある。短歌・俳句・詩という三詩型交流を目指したシンポジウムだが、実は俳句の周辺にはさらに多くの他ジャンルが存在している。12月刊行予定で、現在、鋭意編集を進めている『超新撰21』は、意図して『新撰21』を超えてはるかに広く、川柳や自由律俳句の作家に参加してもらっている。刊行後の12月23日(木・祝)午後には、アルカディア市ヶ谷でシンポジウムが開かれるが、ここでは三詩型交流を超えた多詩型交流の場が実現するであろう。今回のシンポジウムで提起された問題、あるいはより一層深く論ぜられるべき問題はそちらで孵化されることを期待している」
『超新撰21』には川柳側から清水かおりが参加しており、清水かおり論は俳人の堺谷真人が執筆することになっている。短詩型文学のフィールドの中で、清水かおりの言葉の世界がどのように展開されているのか。このアンソロジー自体はまだ出ていないが、発行されるのが待ち遠しい。12月23日のシンポジウムには、川柳人も参加する余地がある。筑紫のいう「三詩型交流を超えた多詩型交流の場」が想定されているのだ。
お膳立てはすでに出来ている。このイベントに川柳人はどのように参画していくのかが逆に問われている。
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