2010年10月22日金曜日

意表派とは何か

川柳句評の場面で最近「意表」という言葉を耳にする。石田柊馬や吉澤久良などがしばしば使用している。「読者の意表をついた川柳作品」というくらいの意味だろうと思って聞いているのだが、今回は「意表」ということにどのような問題性があるのかを考えてみたい。

吉澤久良は「Leaf」に「〈読み〉についての覚え書」という文章を連載しているが、創刊号では〈「意表派」のナルシシズム〉という項目を立ててこんなふうに述べている。

〔 現在、自分の〈思い〉を書くことをよしとせず、コトバそのものに向かった一部の柳人がおり、難解句を書いている。コトバの日常的意味のつながりに意表を持ち込んだのである(以下、本稿ではこのように意表を眼目とした書き方の柳人を「意表派」と呼ぶことにする) 〕〔 「意表派」の句のほとんどはナルシシズムにまみれている。意表をついたコトバの関係を作れたと満足し、インスピレーションだ、新しい書き方だと一人で悦に入っている。そこには自分がなぜ川柳を書くのかという知的考察はない 〕

吉澤は「意表派」の具体例を挙げていないので、どのような作品が該当するのか、分かりにくいところがある。具体的作品は挙げにくいのは確かだが、とりあえず一般論として受け取っておくことにしよう。吉澤は「Leaf」第2号でも〈私性川柳と意表派〉という項目を立て、私性川柳のナルシシズムについて触れたあと、さらに意表派について言及している。

〔このような私性川柳の理解の延長上で、意表派の川柳も理解することができる。(中略)その多くは恣意的な言葉が並べられただけの句であり、コトバにこだわるという意匠でごまかしている。意表派の柳人は自分の感性を追求し、句が自分自身に向けた〈答え〉でありさえすればよかったのだ。ここでも、そのような感性を持つ自分とはどのようなものかは問われなかった。いわば、私性川柳と意表派は、同病の双子の兄弟だった 〕

吉澤は「私性川柳」と「意表派」とを「同病の双子の兄弟」だという。作者個人のナマの「私」が検証されることなく垂れ流しにされる「私性川柳」と、自分の感覚的・恣意的な言葉の感性を検証しようとしない「意表派」とをナルシシズムという点では同根と見るのである。読者論の立場に立って創造的読みの必要性を提唱している吉澤らしい言説である。

「意表」という言葉を用い始めたのは、おそらく石田柊馬だった。「意表」を正面から論じた柊馬の評論をいま探し出せないが、たとえば次のような文章に柊馬の問題意識がうかがわれる。

〔前句附けは七七に五七五を附ける言語遊戯であったので、川柳にはもともと、句語に句語を附けてあとは勝手に読んでくれという突き放しの性状があるのだが、安直無責任な突き放しの不毛を退けるところに意味性があり、選があったと思っていいだろう。意味への拘りの典型が狂句であったとも言える。狂句を排除した近代の川柳の多くは共感性に則って意味が書かれた。下って、意味や言葉の感覚的附け合わせ、言い変えれば詩性が共感レベルで書かれた。現在、詩性の評価は、共感性よりも作者個人の発語であることを上位とする方向にあり、良質の選の多くに見られる。これが共感性や意味性を軽視して、句語を附け合わせる愚考を招いたらしい〕(「ふらすこてん」第6号・2009年11月)

「共感性や意味性を軽視して、句語を附け合わせる愚考」が吉澤のいう「意表派」と同じ傾向を指しているとすれば、柊馬の指摘は吉澤の提起している問題をより一般的かつ実践的に捉えたものと言えるだろう。川柳作品を放恣な飛躍から救うものは共感性や意味性の錘だということだろう。では、そのことと「共感性」から「作者個人」へという現代川柳の流れとは、どのように統一されるのであろうか。
柊馬は続けて次のように説いている。

〔問題点は三つある。
(a)作者の世界(人間)観の深みや洞察眼が感覚的表現となった句の、飛躍の測りづらさという読者側の問題〕
(b)川柳の表現領域を広げるイメージの創造や、言葉を契機とする書き方についての読者の無理解。
(c)逆に、これとこれとの組み合わせで、ちょっと感興があるように感じます、という作者側の無責任。〕

そして、(c)が氾濫状態なのだという。
石田・吉澤の指摘から私が連想するのは、俳諧史における談林派の存在である。
貞門俳諧の退屈さを超克して、奇抜な言葉の取り合わせを生命線とすることで、談林派は燎原の火のように全国に広がったが、言葉の飛躍は同時に無数の「飛びそこない」を生み出し、わずか10年で終息した。けれども、談林俳諧を通過することなしに芭蕉俳諧は生まれなかったとも言われる。
「意表派」はこの「談林派」に似ているが、そもそも「意表派」という川柳の流派が存在すると言うよりは、川柳作品において「詩的飛躍に成功した作品」と「飛躍に失敗した作品(飛びそこない)」があるだけだというのが実際のところだろう。
難解句の問題も含めて現代川柳におけるコトバの問題は、作者論と読者論のせめぎあいの中で生まれている。その場合の「作者」「読者」が、「生身の作者」「川柳に一読明快を求める読者」ではないことは言うまでもない。

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