2010年10月8日金曜日

「Leaf」はクローズドな柳誌なのか

今年1月に創刊された川柳同人誌「Leaf」は、7月には第2号が発行され、年2回というペースを守って順調に活動を続けている。今週はこの「Leaf」をめぐって、川柳同人誌のあり方について考えてみたい。
「Leaf」は吉澤久良(発行人)・兵頭全郎(編集人)・畑美樹・清水かおりの四人誌である。毎号、巻頭言と四者共詠、同人作品に互評とエッセイが付く。四者共詠は創刊号では「空間」、第2号では「剥離」というテーマに基いて各5句が掲載されている。第2号から引用してみよう。

 水面から水面へ置いていく舌    畑美樹
 「炎上やね」湯葉掬う箸の先    清水かおり
 現実として一行の外套膜      兵頭全郎
 桃の字に闇をイメージできない奴ら 吉澤久良

3句目、「一行」には「いっこう」とルビが付いている。
テーマを設定した共詠・競詠という点では、俳誌「quatre」(キャトル)のことが思い浮かぶ。「quatre」は杉浦圭佑・金山桜子・上森敦代・中田美子の四人誌である。少し古いが手元にある「quatre」27号(2008年6月)から「食卓」のテーマ詠を引用してみる。

 夏空やヴァスコ・ダ・ガマの胡椒壺  中田美子
 花冷えのドレッシングのみどりいろ  上森敦代
 トーストを二枚並べて囀れり     杉浦圭佑
 梅干を爆弾と言う子等のいて     金山桜子

「quatre」ではこれにテーマ・食卓にちなんだエッセイが付いている。同じようにテーマ詠という設定であっても、川柳と俳句では言葉の手触りが異なるし、テーマとなる単語が「Leaf」の場合は抽象的であるのに対して、「quatre」の場合は具象的という違いはある。これを川柳と俳句の差異とまで一般化できるかどうかは分からないが、前句付の前句が抽象化したところに川柳が発生したことと少しは関係するだろう。

さて、「Leaf」では、「四者共詠」のテーマとは別に、各号全体のテーマも設定されている。創刊号のテーマは「コトバへの挑戦」、第2号は「融解し浮遊するコトバ」である。同人たちの関心が「コトバ」にあることがわかる。それは、伝達手段としての「言葉」ではなく、異化された「コトバ」のようだ。創刊号の巻頭言に吉澤は次のように書いている。

〈私たちの関心は《コトバ》にあり、本誌では《コトバ》についてさまざまな思考を積み重ね、《川柳に何ができるか》を模索していくつもりである〉
〈句と句評は両輪である。句と向き合った批評のないところにすぐれた作品が生まれるのは困難である〉
〈すぐれた作品はその背後に豊かな知的土壌を持っている。川柳という表現行為が生きていくことの中でなんらかの価値を持ちうるとしたら、おそらくこの意味においてしかない。だからそのために、各号ごとに《コトバ》に関するテーマを決め、それぞれが文章を書く。表現の現場では書き手は常に単独者であるが、他者と一緒に同じテーマに向き合うことで、単独者の思考は影響を受けきっと厚みを増すだろう〉

大きな目標を掲げたものである。コトバの本質についてはソシュール以来の言語学的洞察があり、日常言語と詩的言語の関係についても現代詩や俳句で論作両面から探求されているが、川柳におけるコトバのはたらきについて本質的に洞察した川柳人はまだいない。「Leaf」の試みが今後どのような地平を開いていくかは予断を許さないが、コトバについて思考するために「Leaf」では「互評」が重視されているのは特徴的だ。

川柳誌では前号批評が多いが、本誌は作品と批評を同じ号に載せるというやり方である。「バックストローク」も同じやり方をとっている。
ここで思い浮かぶのは2001年から2002年にかけて5巻発行された川柳誌「WE ARE!」である。「WE ARE!」は、なかはられいこと倉富洋子の二人誌で、ゲスト作品と同人作品が掲載されていた。ゲストは同人作品を鑑賞し、同人はゲスト作品を鑑賞するというやり方であった。それに比べて「Leaf」は4人の同人の中で閉じている。発行人である吉澤が「私たちの壁であり支えであるのは、他の三人の存在である。少なくとも当面は、私たち四人が互いに批判しあうことを通じて自分を確認するという内向きの姿勢に傾くことになりそうだ」(創刊号・巻頭言)と述べているように、意識的にこのような態度をとっているのだ。

クローズドとオープンという二分法で言えば、「Leaf」はクローズドなスタンスをとっているように見える。「川柳の読み」という場合、読みの対象となるのは古今の多様な川柳作品であってよいはずである。同人作品の互評という形で読みを限定するのは、そこにこの雑誌の矜持があるからだろう。第2号の巻頭言では次のように述べられている。

〈きちんと句を読む風土が充分ではない川柳界において、私たちが創刊号で互いに他人の句に向き合おうとしたことは、誇ってもいいのではないかと思っている。四人全員が互評を書くという形は、私たちだけではなく、読者にとっても新鮮な刺激だったのではないだろうか〉

互評というものは本来、読者にとってあまり興味を持てないものである。互評が本人たちにとって刺激的なのは分かるが、読者にとっても刺激的かどうかは分からないことである。それは読者が決めることであって、本人たちが言うべきことではない。おそらく「Leaf」の同人たちにとって作品をきちんと読みたい、読んでほしいという強い願望があって、その際、最も信頼できる読者が同人たち自身であるということなのだろう。作品と批評の両輪を同人全員が受け持ち、それを可視化するのが「互評」という誌面上のカタチである。

問題は互評がどのように機能しているか、ということだろう。
たとえば、第2号から次の作品を取り上げてみよう。

 オブラートあげる 間引かれよ   清水かおり

〈「オブラートあげる」の寛容から、「間引かれよ」へのめくるめくような落下の感覚。端正な冷徹さとでもいえばよいか。このようなコトバの尖り方に、清水かおりの句を読んでいるという快感がある〉(吉澤久良)
〈清水の句には、時折ぐっと短縮されたものがでてくる。この句をこのまま読めば自殺の手ほどきであるが、注目すべきは「あげる」のあとの「空き」であろう。定型で言えば四音が隠されている。私はここに「間引かれよ」と指図する者の存在を見た。多分間引かれるまで、ただただオブラートのみを渡しつづけるのだろう。先の二句(引用者注・「空色の器に蝉を入れる人」「腰椎に生えている売れ筋の木」)に比べて、こちらの人には孤高な感じがある。指図されている方の姿が見えないからだ。四音の省略で想像させるものを造り、さらに想像させない役割も持たせる。ぜひとも盗みたいテクニックである〉(兵頭全郎)

こういう読みの積み重ねを通じて作品は深められていくし、同人各人の資質が読み方に表われてくるのも興味深いことである。ただ、このような読みが印象批評的な読みとどう異なり、従来の読みに何を付け加えているのかは改めて問われるところだろう。評によって作品の魅力がどれだけ立ち上がってくるか、評とは諸刃の刃なのだ。

以上、新誌「Leaf」の川柳同人誌としての特徴点を見てきた。雑誌は生きものであり、これからも生成発展していくことだろうから、第3号以降にどのような変化があるか(あるいはないか)は予測できない。川柳においても短詩型の他ジャンルと同様に「詠み」と「読み」とは車の両輪であることをアピールする「Leaf」の今後に注目していきたい。

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