さる10月16日(土)、第10回詩のボクシング全国大会が東京・日経ホールで開催され、くんじろう(竹下勲二朗、「ふらすこてん」「バックストローク」同人、「空の会」主宰)がチャンピオンの座に輝いた。川柳界から新しい朗読ボクサーの誕生である。
くんじろうが三重県代表として出場したのは、阪本きりり(松本きりり)の薦めによる。7月17日(土)に鈴鹿市文化会館で開催された三重県大会のことから改めて報告すると、くんじろうは、1回戦・鈴鹿のJUN、2回戦・ISAMU、3回戦・みおよしきを快調に打ち破り、決勝に進んだ。「にいちゃんが盗った、ぼくが手伝った」「そのへんの石になろうと決めた石」など、くんじろうの朗読は五七五を基本とし、聞き手の共感を得るような語り方である。泣かせるツボを心得ているのだ。そういう意味では、彼の朗読はいわゆる「現代詩」とは無縁である。三重大会でもっとも「現代詩」を感じさせたのは池上宣久という人で、詩のおもしろさと朗読技術の確かさという点では抜きん出ていた。
審査員は現代詩の専門家ではないから、詩の内容だけではなく、朗読者の存在感自体も評価の対象となったようだ。
決勝戦でくんじろうはやまぎり萌と対戦した。やまぎりはこれまで何回か三重大会に出場経験のある、車椅子の障がい者であるが、その朗読には迫力がある。圧巻は即興詩で、先攻のやまぎりには「うどん」という題が、後攻のくんじろうには「そば」という題が出た。やまぎりの即興詩もユーモアを交えたおもしろいものだったが、くんじろうの「そば風呂」の話は落語的ナンセンスと川柳の題詠で鍛えられた技で会場を大いに沸かせた。本人の弁によると「神様が降りてきた」ということである。くんじろうの芸が勝ったということだろう。
私は全国大会を聞きに行くことができなかったが、堺利彦の報告によると、全国大会でもほぼ事情は同じだったようだ。「バックストローク」の掲示板で、堺は次のように書いている。
〈ところで、試合は、トーナメント方式により行われ、くんじろうさんは、第一回戦では、第8回徳島大会チャンピオンの新田千恵子さんと対戦、私の見た感じでは、どうも、これが事実上の決勝戦のように厳しい戦いでありました。くんじろうさんは、メルヘンチックなストーリの詩を河内の方言も交えてリズミカルに、かつ、郷愁を含んだ軽やかな声で発表。一方の千恵子さんは、歌舞伎の八方を踏むパホーマンスを取り入れ、「カン」の脚韻の面白さを取り入れた言葉の遊びこころと音律の心地良さを合わせた身振りによる詩の発表と対照的でありましたが、結果は、かろうじて、4対3の勝利でありました。
「詩のボクシング」は、初めて観戦しましたが、その審査基準が何かはよく分かりませんでした。詩の内容からすれば、北海道大会のチャンピオンである二条千河さんの詩などは、非日常的モチーフによって人間の根源を衝いていて、どきりとされましたが、審査員の先生方が詩の専門家ではありませんから、あまり難しい内容のものは敬遠されたのかなあと感じた次第です。くんじろうさんの対戦相手である千恵子さんの詩も、ことば遊びの楽しさという点からすれば、高く評価されてもいい内容のものと思いましたが、そこは、連戦琢磨のくんじろうさん、「共感」を誘う落としどころを心得ていて、お涙頂戴式でポイントを稼いだものと感じ入った次第です。これは、川柳で言うところの、選者の傾向に合わせて作品を投句するという「当て込み」と呼ばれるテクニックと同じもので、句会で鍛えたくんじろうさんにとっては、お手のものといえるでしょう〉
くんじろうのルーツである川柳・落語が確固として彼の朗読を支えていることが分かる。
ふだん「バックストロークは嫌いだ」と公言しているくんじろうは、川柳においても共感と普遍性に基づく書き方をよしとしているのだ。そのような彼の方向性は、朗読という観客の反応が直接的に見える場において、きわめて効果的に発揮されたということができる。
「週刊俳句」183号に、くんじろうの川柳「ちょいとそこまで」10句が掲載された。その前半を紹介しておこう。
うどん屋の湯呑みですから箸ですから
茄子ありがとうございます 鰯
ぶかぶかの長靴桃は腐らない
郭まで母を迎えにゆく蛙
ご祝儀にしてはトーテムポールかな
読者に預ける書き方というものが川柳には見られる。1句目、「ですから」何だというのだろう。それは読者にまかされている。もともと「ですから」には深い意味はなく、湯飲みと箸があるだけなのだ。この湯飲みと箸には庶民性の匂いがある。
2句目は手紙形式になっている。差出人は鰯である。食卓に茄子と鰯が並んでいる情景などが思い浮かぶ。この取合せを鰯自身は気に入っているらしい。茄子と鰯の親和力である。
3句目、ドイツロマン派には「長靴をはいた猫」という作品があるが、ぶかぶかの長靴をはいているのは子どもかも知れない。「桃は腐らない」との間に飛躍がある。現実の桃は腐るけれども、永遠を感じさせる桃のイメージだろう。
4句目の「蛙」は喩として常套的で分かりやすいが、5句目の「トーテムポール」には言葉の飛躍がある。
市井に生きる庶民の哀歓をベースにしているが、感情過多の作品に陥ることから救っているのは川柳的飛躍に基づく言葉の切れ味による。くんじろうの川柳の今後の展開に期待したい。
先日、くんじろうは「川柳・北田辺」という句会を立ち上げた。案内文に「おもろい句会になったらええなぁ~」とある。はじめての人にも川柳のおもしろさを伝えたいという熱意が伝わってくるが、川柳の伝道者としてだけではなく、さらにパワフルな彼自身の作品を書いていってほしいものである。
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