2010年11月12日金曜日

『麻生路郎読本』

「川柳雑誌」「川柳塔」通巻1000号記念として『麻生路郎読本』が川柳塔社から出版された。500ページを越える大冊で資料的価値が高い。「麻生路郎アルバム」「麻生路郎作品」「麻生路郎文集」「語録」「麻生路郎物語」「人と作品」「著作解題」「年譜」などから成り、川柳六大家のひとり・麻生路郎の全体像を多面的にまとめている。

これまで麻生路郎について調べるには構造社出版の川柳全集・第二巻『麻生路郎』(橘高薫風編)を利用するのが手頃であった。また、大阪市立中央図書館には麻生路郎が寄贈した川柳関係の蔵書がある。当然「川柳雑誌」のバックナンバーもそろっており、初期の「川柳雑誌」の活気に満ちた誌面に接することができる。「川柳雑誌」創刊前後の麻生路郎にはめざましいエネルギーが感じられ、私が特に関心を持っているのもこの時期である。
今回の『麻生路郎読本』で嬉しいのは、東野大八による「麻生路郎物語」が完全収録されていることである。「川柳塔」昭和50年1月号~昭和52年7月号に掲載されたものをまとめて収録している。
東野大八の文章を参考にしながら、しばらく大正期の路郎の軌跡をたどってみたい。

大正4年、路郎と川上日車は「番傘」を脱退し、8月に「雪」を創刊する。「川柳」という呼称を用いず、「新短歌」と称している。大正6年2月の終刊まで19号を発行。
日車は後年、次のように回想している。

「古川柳には、古川柳独特の味いと響をもっている。私たちは久しくそれに浸って川柳作家としての揺籃期を過ごした。だが少年期はやがて迎える青年期の前提である。少年期に『紅い』と映ったもの、それは、伝承的『紅い』であって自己の発見した『紅い』ではなかった。ここに少年期と青年期との間に一つの曲り角がある。その曲り角を意識にとめず一直線に歩みつづけるのも、透徹した一つの道ではあるが、自己に厳しい執着を持つ者にはそれが出来ない。そこに青年期の浮氷が横たわる。路郎と私が手を携えて『雪』を発行したのは、まさに此の曲り角に立った時であった。

  くろぐろと道頓堀の水流る
  行末はどうあろうとも火の如し

こうして路郎の眼は次ぎ次ぎと人生のあらゆる角度に拡がっていった」(「雪の頃―路郎と私」、「川柳雑誌」昭和32年7月)

「行末は」の句は路郎の心意気をよく示しているように思えるが、橘高薫風の調査によると「雪」の中にはないという。また、「くろぐろと」の句は「くろぐろとうき川竹の水流る」の形で「雪」に収録されているということだ。
「雪」終刊の翌年、大正7年7月に「土団子」が創刊される。表紙は小出楢重。創刊号の巻頭言は路郎が書いている。

「現代の柳界は例せば青い玉と赤い玉の時代である」
「青い玉は静的である。池の中の水である。水底に沈殿せる黒い土である。その土に圧せられたる朽葉である。彼等は遂に自己の流れ行く運命をさへ知らないのである」
「赤い玉は動的である。天上に燃ゆる太陽である。世にありとあらゆるものを焼かんとする火である。この故に頗る危険である。しかしながら此の危険のない処に真の革命はない筈である」
「茲に我等は青い玉の上に赤い玉を建設することを宣言する。我が『土団子』は、柳界の平和を打破して、新しい川柳王国を築くために放たれたるピストルの一弾である」

過激な宣言であるが、「土団子」もその年の10月には4号で廃刊になってしまう。
大正8年、路郎一家は萩の茶屋三日路に移り住んだ。『麻生路郎読本』巻頭の「路郎アルバム」の中には半文銭と路郎のふたりが写っている写真が掲載されている。「大正9年の春、大阪市萩の茶屋三日路の路郎居にて。左は半文銭。近所に住んでいたので、頻繁に行き来していた」とある。
やがて新興川柳運動が起こり、半文銭と日車はその中心作家となるが、路郎は同調しなかった。

「日車氏は半文銭氏と共に『小康』を出したが、私は日車の強請を断じてしりぞけ、これには参加しなかった」「お互ひ川柳家同志がいかに、可なりとして褒めちぎったところで、一歩社会へ出て見れば、まるで社会から川柳の存在が認められてゐないではないか。これではいけない。ここに眼をつけた私は日車氏等の強請懇望これつとめてくれた友情をも振り切って、社会的な柳誌、社会を対象とする柳誌刊行の計画をすすめたのであった」(「苦闘四十年」、「川柳雑誌」昭和18年2月)

ここで路郎は現実路線へと舵を切ったのである。
新興川柳との路線の違いは田中五呂八に対する次のような言葉にも表われている。

「あなたが『氷原』のために闘っていられる態度、同志のための詩集を出すための努力などに対しては涙ぐましさを感じます。けれども、あなたの評論や創作に対しては僕は唯厳正な一批評家の立場で拝読していることに心づきます」「一体革新の名によって奮闘?をしている人達は気短過ぎる共通性の欠点を持っていると思います。薄っぺらな雑誌すら出たり出なんだりで、社会から川柳に対する従来の誤解を一掃しようなどと考えて見ることすらあまりに虫のいい話だと思います」(「三十年計画―田中五呂八氏に与ふ」)

「川柳雑誌」は大正13年2月に創刊された。以後の歴史は比較的知られているだろうし、『麻生路郎読本』にも詳しく語られている。
河野春三が「詩性と大衆性との中で」で書いているように、路郎は日車・半文銭の新興川柳に同調せず、当百・水府の伝統川柳とも一線を画して、彼の青春性を示す「雪」「土団子」の高踏を自ら捨てて、「川柳の社会進出」のために奮闘したということになる。「詩性」と「大衆性」の中で文学運動を起こそうとしたのだ、と春三は見ている。これはこれで、川柳人のひとつの生き方だろう。
以下、路郎作品を少し書き留めておく。

  俺に似よ俺に似るなと子を思ひ
  君見たまへ菠薐草が伸びてゐる
  酒とろりとろり大空のこころかも
  寝転べば畳一帖ふさぐのみ

麻生路郎の辞世として、次の句が知られている。

  雲の峯という手もありさらばさらばです

路郎の死は7月、俳句には「雲の峯」という季語があるが、川柳人はそのような手は使わない。
死に臨んで俳句の季語に喧嘩を売ったところに川柳人・麻生路郎の面目躍如たるものがある。
一部分しか触れられなかったが、『麻生路郎読本』には路郎とその時代を考えるための様々な材料が満載されている。

0 件のコメント:

コメントを投稿