2013年2月23日土曜日

実朝の首

右大臣・源実朝には人の心をうつものがある。
万葉調の歌人としてアララギ派から高く評価され、鎌倉幕府の悲劇の三代将軍として作家たちにしばしば取り上げられている。文学に興味をもつ人で、実朝に無関心な人は少ないだろう。最近『金槐和歌集』を読む機会があって、私はこの歌人に改めて関心をもった。四季の歌より雑の部に秀歌が多いようだ。

世の中は常にもがもな渚こぐ海人の小舟の綱手かなしも
空や海うみや空とも見えわかぬ霞も波も立ちみちにつつ
箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ
ほのほのみ虚空にみてる阿鼻地獄行へもなしといふもはかなし
神といひ佛といふも世の中の人の心のほかのものかは
時により過ぐれば民のなげきなり八大龍王雨やめたまへ

「箱根路を」の歌には「箱根の山をうち出でて見れば波のよる小島あり、供の者に此うらの名は知るやと尋ねしかば、伊豆のうみとなむ申すと答侍りしをききて」という詞書がある。実朝が見た「沖の小島」は熱海の沖に浮かんでいる初島だと言われている。
小林秀雄の『無常ということ』の中に「実朝」の一編がある。小林はこの歌についてこんなふうに言う。
「この所謂万葉調と言われる有名な歌を、僕は大変悲しい歌と読む。実朝研究家達は、この歌が二所詣の途次、詠まれたものと推定している。恐らく推定は正しいであろう。彼が箱根権現に何を祈って来た帰りなのか、僕には詞書にさえ、彼の孤独が感じられる。悲しい心には、歌は悲しい調べを伝えるのだろうか」
『モオツァルト』で「疾走する悲しみ」を表現したのと同じように、孤独な悲しみをかかえた実朝像を小林は描いている。
『吾妻鏡』によると、実朝は暗殺される当日、自らの髪をひとすじ近習に与え、「出ていなば主なき宿と成ぬとも軒端の梅よ春をわするな」という歌を詠んだことになっている。即ち、彼は自分の死を予感し、覚悟していたのである。
小林は次のように書いている。
「広元は知っていたという。義時も知っていたという。では、何故『吾妻鏡』の編者は実朝自身さへ自分の死をはっきり知っていたと書かねばならなかったのか。そればかりではない。今日の死を予知した天才歌人の詠には似付かぬ月並みな歌とは言え、ともかく一首の和歌さえ、何故、案出しなければならなかったか。実朝の死には、恐らく、彼等の心を深く動かすものがあったのである」
広元は大江広元、義時は北条義時(実朝暗殺の黒幕と言われる)である。

小林秀雄の「無常ということ」の同時期に、太宰治は「右大臣実朝」を書いている。
これも、よく知られている作品で、作中の実朝の科白、
「明るさは滅びの姿であろうか。人も家も、暗いうちはまだ滅亡せぬ」
「何事も十年です。あとは、余生と言ってよい」
などの言葉は文学を志す人間が一度は通過するものであった。
「男は苦悩によって太ります。やつれるのは、女性の苦悩です」
などという決め科白もある。
戦時下の日本には奇妙な明るさがあった、と言う人がいる。
平家は明るい、と実朝が言うとき、太宰は戦時下の日本と平家の亡びの姿とを重ねあわせたのである。

太宰の実朝像には日本浪漫派の匂いがするが、1970年代になって小林・太宰を超克する実朝論が登場した。吉本隆明の『源実朝』(日本詩人選12、筑摩書房)である。小林や太宰の作品に触れながら、吉本は自らの実朝観を述べている。「実朝的なもの」「制度としての実朝」という見方である。
吉本は「実朝的なもの」の中で
「頼家や実朝の将軍職をささえたのは母北条政子の庇護と、鎌倉幕府という〈制度〉の不可避性であるといってよい。幕府という〈制度〉が必要であるかぎり、頼家や実朝は必要であった。北条氏をはじめ宿将たちは、それぞれ武力を背景として実質的には全国を支配するだけの合戦力をもっていたかもしれないが、すくなくとも鎌倉幕府の創立期には、幕府という〈制度〉と、京都にある律令王権とを、どう関係づけるかについてまったく無智であり、また、かんがえもおよばなかったからである」
と述べている。実朝がもっていたのは「武門勢力の総祭祀権」と「京都の律令朝廷にたいする重しとしての役割」であった。「もし実朝が殺害されることがあるとすれば、このふたつの役割が、まったく武門勢力にとって無意味になったときである。歴史はまさにちょうどそのときに、公暁をかりて実朝を暗殺させたといってよい」
鶴ケ岡八幡宮の祭儀と仏儀は実朝が主宰していたのであり、伊豆・箱根権現への度重なる参詣もここから理解できる。

ここで実朝の二所詣での歌を『金槐和歌集』から引用しておこう。「二所詣で」とは箱根権現と伊豆走湯権現への参詣をいう。

「二所へ詣でたりし還向に春雨のいたく降れりしかば」
春雨にうちそぼちつつ足曳の山路ゆくらむ山人やたれ
春雨はいたくな降りそ旅人の道行衣ぬれもこそすれ
「同詣で下向後朝にさぶらひども見えざりしかば」
旅をゆきし跡の宿守おれおれにわたくしあれや今朝はまだこぬ

折から春雨が降っていた。実朝は道行く人や同行の家人たちが雨に濡れるのを気づかっているのである。また、鎌倉に帰ったあと、近習の武士たちが朝に参上してこないことを怒るのではなく、留守のあいだにそれぞれの個人的な用事があったのでやって来れないのだろうと家人の立場を思いやっている。実朝の優しい性格がうかがえる。
次に、伊豆・走湯権現参詣の歌。

「走湯山参詣の時」
わたつ海の中に向ひていづる湯のいづのお山とむべもいひけり
走湯の神とはむべぞいひけらし早き験(しるし)のあればなるべし
伊豆の國や山の南に出る湯のはやきは神の験なりけり

伊豆山神社は父・北条時政に頼朝との結婚を反対された政子がひそかに頼朝と逢った場所として知られている。源氏挙兵の後ろ盾にもなったので、鎌倉幕府にとっては重要な神社である。いまはパワースポットが流行していて、箱根神社も伊豆山神社も観光ガイドによく取り上げられている。
実朝は宋に渡ろうとして、大船の建造を命じたが、船は海に浮かばなかった。このエピソードもよく取り上げられる。

最後に、実朝暗殺について触れておかなければならない。
『吾妻鏡』によれば、実朝を暗殺したあと、公暁は実朝の首をもち、後見人である備中阿闍梨の邸に行き、膳にむかって食事するあいだも実朝の首を手から離さなかった。使者を三浦義村に送って「いまや私が将軍である」と申し入れたところ、義村は「お迎えの武者をさしむける」と称して、北条義時とはかって討手を差し向け、公暁は討ち取られたのである。

経済産業省へ実朝の首持参する    飯田良祐

川柳人・飯田良祐の句である。
この句では実朝の首を経済産業省に持ってゆく。
実朝の首を持ってゆけば、その手柄で出世が見込めるのであろうか。
経済産業省こそ実朝暗殺の黒幕なのであろうか。
持ち込まれた経済産業省も困っただろう。
天才歌人を死に至らしめたのは鎌倉幕府という〈制度〉であった。
経済産業省に「実朝の首」を持参することは、文芸を死に追いやるものに対する抗議である。飯田良祐の、時代に対する精一杯の嫌がらせであったといまは思う。

2013年2月15日金曜日

市井に生きるふりをする ― 樋口由紀子の川柳

「豈」54号が1月末に発行された。
新鋭作家招待のコーナーに御中虫・冨田拓也・西村麒麟の三人の俳句が並び、特集「加藤郁乎は是か非か」「『新撰21』世代による戦後生まれ作家10人論」など、読みどころはいろいろあるが、今回は樋口由紀子の川柳を取り上げてみたい。

鯵の干物をうなづきながら焼いている

以前は干物というものが好きでも嫌いでもなかったが、このごろ干物の美味に気づくようになった。鯵の干物などは脂がのっていて、本当においしい。まず、皮の方を焼いてから、裏返して反対側を焼くのがいいらしい。お酒もご飯も進む。
この句の作中主体は鯵の干物をうなづきながら焼いている。何度もうなづいているのだろう。でも、それは干物の焼き加減がうまくいったからとは限らない。何か別のことを考えながらうなづいているのではないだろうか。けれども、周囲の人々から見ると、干物がうまく焼けたからであるようにしか見えない。
干物を焼くというようなことは市井に生きる人間の何げない行為にすぎない。それを何故わざわざ句にする必要があるのだろうか。「ただごと」に見えて「ただごと」ではすまない何かが、たぶんそこにはあるのだろう。

林檎ジャムになろうと焦る人も居て

焦るのはなろうとしてもなれないからだろう。
林檎ジャムは「食べる」もので「なる」ものじゃないという常識は無効にされている。
「林檎ジャム」は何かのメタファーであって、そこに意味を代入する読み方も無効である。
この人は本当に焦っているのである。
私たちの周囲を眺めてみると、「林檎ジャム」だけではなくていろいろなものになろうと焦っている人がいる。「なれるもの」と「なりたい」ものが食い違う。林檎ジャムは私と無関係なままである。

忠魂碑ならすぐそこにあるのでは

戦前に建てられた忠魂碑というもの。現在ではあまり目立たない存在だが、注意して見ると神社や公園の隅に建っていたりする。気づかないかもしれないけれど、ほらすぐそこにありますよ、というのだ。
この言葉を誰が言っているかによって意味は異なってくる。「~あるのでは」という表現には批評的なもの言いが感じとれる。異物としての存在が不意に現実味を帯びてくる時代である。

陸橋から犬の真似して犬が来る

陸橋から犬がやって来る。犬の真似をして来るのだから、本物の犬ではないのかもしれない。けれども、それはやはり本物の犬なのだ。本当の自分と外から眺められた自分には齟齬があるという感覚。なぜ犬が犬の真似をしなければならないのか。他者を演じるならそれなりの楽しさがあるだろうが、自己を演じるのは退屈なことだろう。けれども、私たちは日常の中で真似をしながら、ふりをしながら、生きていくほかないのである。

時間通りに電車は来ないこの世なり

「振られた女を馬鹿にして、電車も遅れてくるのかよ」と歌ったのは日吉ミミ。
時間通りに来る電車もおもしろみがないが、遅れてくる電車にも腹が立つ。待っているものが来ないというのはよくある話だ。逆に、来なくてもいいのに確実にやってくるものもある。

二センチ押すと五センチ沈む穴である

二センチ押すと二センチ沈むものと思い込んで人は暮らしている。ところが、五センチも沈んだ。そういうとき人は怒るだろうか。それとも笑うだろうか。
では、四センチ押すと十センチ沈むかというと、そうはいかない。全然沈まないこともありそうだ。笑うしかない。

沈丁花になれないものがまといつく

春になると沈丁花の匂いが漂う。好き嫌いはあるかもしれないが、沈丁花なら問題ないのだ。沈丁花になれないものがまとわりついてくる。「それ」は沈丁花の真似をしながら、沈丁花のふりをしながら、沈丁花にはなりきれない何かなのだ。
「そうか君は沈丁花になりたくてもなれないのか」と穏やかに受け止める人もあるだろうし、そんなものにまとわりつかれるのは嫌だと思う人もいるだろう。
「沈丁花にまといつく」という読みもできるが、私は「沈丁花になれないもの」と読んでいる。「なりたいもの」「なれないもの」をかかえながら、市井に生きるふりをして暮らしている人間のイメージを思い浮かべているからだ。

バケツの底を抜く ちょうどいい嵩だ

ちょっと水がたまりすぎたようだ。バケツの底を抜いてみると、ちょうどいい具合になった。けれども、それは見かけだけのことである。底の抜けたバケツには水を入れ続けなければならない。入れ続け、流れ続ける水のバランスで、かろうじてちょうどいい嵩を保っている。
「ちょうどいい嵩」とは、バケツのことではなく、別のことだとも考えられる。とりあえず体内水位は安定したのだが、この場合もそんなふりをしているだけかも知れない。

「俳人の世界を見る目は切れている」と言ったのは攝津幸彦だった。
川柳人の世界を見る目はどうなっているのだろう。
私たちはふつうそれを「川柳眼」と呼んでいる。
樋口由紀子の描く人間の姿は日常を離れないが、ちょっと風変わりなものである。ズレや亀裂が常にあるのだが、その違和そのものにおもしろさがある。この世は別におもしろいものでもない。この世を見る眼がおもしろいのである。

2013年2月8日金曜日

「川柳木馬」作品を読む

今回は「川柳木馬」134・135合併号の同人作品を読んでいくことにしたい。

ぐっすりと眠る海抜ゼロ地帯     古谷恭一

「海抜ゼロ地帯」だから危険なのだろう。けれども、作中人物はぐっすり眠るという。危機意識が薄いのであろうか。自分だけは大丈夫だと思っているのだろうか。そうではなくて、この人物は腹をくくっているのである。危機的状況に無知なのではなく、かといってそこから逃げ出すのでもなく、状況の中で腰を据えて大胆に生きている。そのような無頼派のイメージが思い浮かぶ。

富士山の噴火をじっと待っている   古谷恭一

カタストロフを待つ人間の心理はどのようなものなのだろう。富士山はきっと噴火するという確信を作中人物はもっている。その時をじっと待っているのだが、別に災害に備えて万全の準備をしているのでもなさそうだ。むしろ、富士山の噴火を待ち望んでいる焦燥感のようなものが漂っている。「空蝉を握って粉にしてしまう」

商は金星余り流れ星   山下和代

「商」は「あきない」ではなくて、割り算の答えだというのが私の読みである。宇宙の星々を割ると「金星」になる。割り切れない余りは「流れ星」だという。大宇宙を相手に割り算するスケールの大きさと機知。何を何で割るのか、いろいろ考えるのも楽しい。

マトリョーシカの入れ子は父だった   畑山弘

日本でも人気の高いロシア人形のマトリョーシカ。大きな人形の中にいくつもの人形が入れ子になっている。私が持っているのは、ロシア大統領のマトリョーシカ。少し旧くて、一番外側がメドベージェフ。その中にプーチン、さらにその中にエリツィン。今だとプーチンがもう一度外側に来ていそがしい。
掲出句では中に父が入っているという。外側にいるのは誰だろう。
本号には「父さんがフエフキ鯛だった日々よ」(内田万貴)という句もある。

齧られて林檎は初めて空を見る    山本三香子

樹に実っている林檎は空の青さに気づかない。もがれて、箱に詰められ、人の手に渡って齧られたときに初めて林檎は空を見るのだ、という認識がここにはある。空を見たからと言ってどうなるものでもないし、もう遅すぎるかも知れない。けれども、林檎が空を見たことには何かしら意味があるのだ。
さなざまな林檎がある。ニュートンの林檎、ウイルヘルム・テルの林檎。しかし、この句に「エデンの園」を重ねあわせて、林檎を齧る者をアダムとイブに限定してしまう必要はないだろう。主体は林檎の方にある。

迷宮はチャルメラの匂い立ち込める   内田万貴

迷宮はどこにあるのだろう。王の宮殿の奥深くだろうか。いや、迷宮はチャルメラの匂いの立ち込める市井にあるのだ。人々は湯気のたつ麺をすすりながら、自分たちの現在位置を見失っている。この句は迷宮の中の「チャルメラの匂い」の一点をクローズアップする。カメラが再び迷宮を映し出したとき、そこにはすでに人の姿が消えている。

あふりかの雪しみじみと逢いにくる   西川富恵

「あふりかの雪」のイメージをまず思い浮かべる。熱帯でも高山になると積雪がある。キリマンジャロだろうか。
「あふりかの雪しみじみと/逢いにくる」なのか「あふりかの雪/しみじみと逢いにくる」なのか迷うが、「しみじみと」が両方にかかっているなら、どちらでも同じことなのだろう。「逢いにゆく」ではなくて「逢いにくる」、即ち迎える側の立場で書かれているところに、この句の懐かしい雰囲気が生まれている。

店先の品に紛れてミドリムシ     河添一葉

ミドリムシを売っているのではなくて、ミドリムシが売り物の品に紛れこんでいるのである。子どものころ理科で習ったプランクトンのミドリムシが最近ではサプリメントになっていたりする。あのミドリムシが商品化されている!まるでミドリムシ自身が鞭毛をくねらせて紛れ込みにやってきたかのようなイメージである。

脚本の間に合わなくて鳥わたる    小野善江

「脚本の間に合わなくて」と「鳥わたる」の間に「切れ」があるとすれば、両者に直接的な関係はない。切れではなくて、続いていると受け取れば、間に合わないまま鳥が去っていったような感じとなる。渡り鳥は別に脚本に従って渡ってゆくのではないだろうが、用意すべきものが間に合わないという状況はよくあることだ。

痛いので瓶の中には入れない     桑名知華子

この人物は瓶の中に入る必要があった。自己防御か逃避か再起のためかわからないが、とにかく瓶の中に入ろうとしたのである。けれども、痛みに邪魔されて入れない。体のどこかが痛いのか、瓶の入口が狭くて痛いのか、ちょっと困っている様子が想像される。

槇村忌 声をたてない遊びする    清水かおり

「声をたてない遊び」とはどういうものだろう。
遊びのルールとして声をたててはいけないような遊びなのだろうか。それとも、声をたてると大人たちから叱られるような密かな遊びをしているのだろうか。
「間島パルチザンの歌」で有名なプロレタリア詩人・槙村浩は高知の生まれである。ここでは「生ける銃架」の冒頭を紹介する。

高粱の畠を分けて銃架の影はきょうも続いて行く
銃架よ、お前はおれの心臓に異様な戦慄を与える―血のような夕日を浴びてお前が黙々と進むとき
お前の影は人間の形を失い、お前の姿は背嚢に隠れ
お前は思想を持たぬただ一個の生ける銃架だ

反戦詩である。
槙村は昭和7年、20歳のときに検挙され、特高の拷問と長期の留置によって拘禁性の躁鬱病を発症する。昭和10年、高知刑務所を出所したが、昭和11年に再び検挙され、病気のため釈放されたが、昭和13年、土佐病院で死去。26歳。
清水のいう「槙村忌」は9月3日ということになろうか。
残暑のころである。「声をたてない遊び」をしているのは子どもであろうか、それとも大人だろうか。この遊びには反体制的とまでは言えないとしても、周囲との違和を感じさせるような不穏な匂いが漂っている。
「バックストローク」2号に槙村浩のことを書いているように、清水かおりの槙村に対する関心は深い。その関心がこのような作品に結実したことに私は注目している。

ところで、高橋由美が本号に作品を出していないのは、どういうわけだろう。

2013年2月1日金曜日

それぞれの川柳ワールド―新家完司と竹下勲二朗

新家完司川柳集『平成二十五年』(新葉館出版)が刊行された。
平成になってから、新家完司は五年毎に句集を上梓している。『平成元年』にはじまり、『平成五年』『平成十年』『平成十五年』『平成二十年』と続く。今年で六冊目になる。

駅の名を覚えて忘れ旅続く      完司
いちにちがひらひら東から西へ

芭蕉の旅とはニュアンスが異なるが、川柳人の毎日も旅のようなものかも知れない。各地の句会から句会へと飛びまわっている新家完司の日々はまさに旅である。

おめでとう!などと今年の嘘初め
一年の計元旦に二日酔い

今年もまた一年がはじまり、四季のめぐりとともに川柳人の時間も経過していく。傍らには常に酒がある。

ややこしい男もいるが僕の町

新家完司は島根県東伯耆郡在住、「大山滝句座」の代表。「おおやまだき」ではない、「だいせんだき」である。伯耆大山にある滝で、日本の滝百選にも入っている。全国規模の川柳結社の副主幹もつとめ、フアンが多い。

花の下ぼくは割り箸配る役
目礼に黙礼返し桜散る
生態は知らぬがうまいホタルイカ
タンは塩レバーはタレと決めている

花見の句と食べ物の句を抽出。食べ物の句が多いのは、酒のあてになるからだろう。

かんにんなニホンカワウソかんにんな
いい名前つけてもらった黄金虫
鯨捕る村に鯨の墓がある

絶滅したニホンカワウソ。今でもときどき目撃情報が流れるが、イタチやテンの見まちがえらしい。「かんにんな、かんにんな」とあやまる。

手始めに電信柱蹴り上げる
胡麻粒と芥子粒いがみ合っている

人はいつも笑って生きていられるわけではない。物事がうまくいかないときもあれば、むしゃくしゃするときもある。

折れそうなこころに酒という支柱

そういうときに支えになるのはやはり酒である。酒におぼれたり、アル中になったりするのは困るが、酒を楽しみ陽気になるのは悪くない。しかし、呑み過ぎると、「一年に一度はベッドから落ちる」ということになる。

夏がくるたびにカヌーが欲しくなる
原爆の熱さはこんなものじゃない
僕の家ばかり集まる秋の蠅
飛んでいる形でトンボ死んでいる

いつのまにか夏がきて、いつのまにか秋になっている。人生も秋ごろになると「死」が意識される。

おもしろい空だいろいろ降ってくる
ごはんですようと鎖が手繰られる

雨とか雪とか、空からはいろいろなものが形を変えて降ってくるのである。
飯を食うということ、その背後にひょっとして鎖につながれた人の姿が浮かび上がってこないだろうか。
川柳のために東奔西走する新家完司の日々については、彼のブログをご覧いただきたい。

新家完司の川柳ブログ http://shinyokan.ne.jp/senryu-blogs/kanji/

「川柳木馬」第134・135合併号が届いた。
「作家群像」は「くんじろう篇」である。

ベランダのスーパーマンが乾かない   くんじろう
長男は都こんぶなお人柄
朝舟にいて朝舟に放尿する
ペンシルとバニアに分けて日に三度
遠いところでおっさんが暴れている

「作者のことば」で彼は「私の書く川柳は、私の生い立ちや育った環境から吐き出された澱であり排泄物である」と書き、「これらの句をお読みになって体調を崩されても責任の取りようがないので悪しからず」と言い放つ。

作家論として酒井かがり「ほんのターミネーターですが、何か?」と山下和代「くんじろうワールドに遊ぶ」が掲載されている。
酒井かがりはくんじろうを「ターミネーター75」と呼んでいる。「ターミネーター五七五」ではないが、少しその意味が掛けられているかも。大阪にやってきた彼が川柳を書き、ヒットを飛ばし、現在にいたる姿を「ターミネーター降臨」「ターミネーター川柳に出会う」「ターミネーター川柳ヒット街道を邁進する」「ターミネーターはかくもややこしい」「そしてターミネーター闇を見てしまう」の各パラグラフに分けて物語風に描いている。

山下和代はくんじろうの句に七七を付けてみたり、短文を添えて物語を作ってみたりする。川柳は前句付から出発したが、川柳の五七五そのものを前句として読者が付句をつけることだってできるのだ。
くんじろうは2010年の「詩のボクシング」全国チャンピオンでもあるが、彼の川柳と詩はひとつの根から生まれたものだとも言える。彼が自ら言うように、くんじろうの詩は現代詩ではなくて川柳そのものなのだ。

兄ちゃんが盗んだ僕も手伝った
素うどんの姉を殺めに醤油差し

この二句が詩にパラフレーズされたときにどのような作品が生まれるのか。山下和代は前者の句と詩を紹介している。

最後に酒井かがりの文章に戻ろう。酒井は次のように書いている。

「ターミネーター75は川柳をひろめるためにやって来た」

くんじろうの多面的な活動についてご興味のある方は次のホームページをご覧いただきたい。

http://kuunokai.com/

2013年1月25日金曜日

血のつながった他人・見ず知らずのわたし ― 榊陽子の川柳

青森県で発行されている川柳誌「おかじょうき」1月号(通巻228号)に「第17回杉野十佐一賞」が発表されている。
杉野十佐一(すぎの・とさいち)は昭和26年に「おかじょうき川柳社」を設立、初代代表として多くの川柳人を育成した。昭和54年没。
今回、大賞を受賞したのは次の作品である。

ササキサンを軽くあやしてから眠る    榊陽子

「軽」という題詠で、選者六人のうち、なかはられいこと樋口由紀子が特選、広瀬ちえみが秀逸に選んでいる。
まず、なかはられいこの選評から。

「文句なしで特選でいただいた。
しょっぱなから『ササキサン』という上五に瞬殺された。だってササキサンだよ、ササキサン!なんだこれは。
 人名か、薬の名前か?人名であれば、佐々木家の妻が夫を『軽くあやして眠る』のか?作者にはササキサンと呼ばれる日常があって、人様向けのササキサンを『軽くあやしてから眠る』のか?
 安らかに眠るために、あやさねばならぬものが気持の中に存在する日は誰にでもある。それは黒々とした悪意だったり、叶わぬ望みだったり、底知れぬ悲しみだったり、いったん暴れだすと手に負えないもの。理性では御しきれぬ感情に対する不安のようなもの。そうした名づけようのない、モヤモヤした気持ちのしこりのようなものを作者は『ササキサン』と名づけたのではないだろうか。個人的にはこの解釈がいちばん気にいっている」

次に、樋口由紀子の選評。

「『ササキサン』が謎である。名字は普通は漢字で書く。それをわざとカタカナ表記にしている。一体誰なのだ。身内なのだろうか。他人なのだろうか。それとももう一人の自分なのだろうか、といろいろと考えてみた。だれを当てはめてみても話は通じて、生きているということの物語は成立する。人と人との関係の微妙なアヤをついている。『軽くあやしてから眠る』と組み合わせられることによって、カタカナ表記の『ササキサン』にエッジが利いた」

これらの選評から、ササキサンという固有名詞にインパクトがあったことが分かる。「佐々木さん」でも「ササキさん」でもなくて、「ササキサン」なのだ。一般に、固有名詞は喚起力が強いものであるが、この謎めいた名前に読者は、夫・他人・もう一人の自分など様々なものを代入することができる。
多義的な読みを可能にしているのは、「軽くあやしてから眠る」という含みのある表現にもよる。なかはらが「モヤモヤした気持のしこりのようなもの」と呼び、樋口が「人と人との関係の微妙なアヤ」と指摘した何かが表現されているようだ。読みはひとつではなく、読者の連想によってさまざまな読みが可能となり、しかも作品としては緩みがないところが評価されたのだろう。
作者はどのように述べているだろうか。榊陽子の「受賞の言葉」。

「思いがけず大賞をいただき、さらにこの句でいただいたということに驚いています。というのも投句した後に『なんでササキサン?』という思いが自分の中でおこり、しまったなあと思っていたのです。2か月後に再開したササキサンをしげしげと観察すると、血のつながった他人のようであり、見ず知らずのわたしのようでもありました。ササキサンはあのツンとした菊の匂いをかがせたり、耳を触らせてあげるとまもなく寝息が聞こえます。そして私は夜を揺らさないようそっと部屋を抜け出すのです」

「血のつながった他人」と「見ず知らずのわたし」。
この作者は自作を突き放して眺めることもできるし、自作についてけっこう意識的であることがわかる。
ササキサンには小説の登場人物のような雰囲気が濃厚である。
読者はこの人物に対してさまざまなイメージを重ねることができる。

私が連想したのは―
川上弘美の短編集『溺レる』に「百年」という小説が収録されている。
作中の「私」(女性)は次のように語っている。

「おおかたの人から、あんたと居るのはつまらない、と言われた。サカキさんだけが、つまらない、と言わなかった。
 なぜ私なんかと居るの。サカキさんに聞いたことがあった。
 サカキさんは少し考えてから、おまえは清のような女だよ、と答えた」

「清」は漱石の『坊っちゃん』に登場する乳母である。漱石の理想とするタイプの女性らしい。自分の恋人を「清のような女」と呼ぶのは男の悪意である。正確に言えば、そのような男を作中に登場させる女性作家の悪意である。
けれども、榊陽子の句に登場する「ササキサンをあやす女」は清とはまったく違うタイプの女性である。その証拠に、彼女はササキサンを「軽く」あやすのだ。なかはられいこの選評に「悪意」という言葉が出てくるのは偶然ではない。

ササキサンを軽くあやしてから眠る

読者の想像力を刺激し、多様な読みを喚起する川柳作品はそれほど多くない。榊陽子の作品には、虚構を通しての「私性」の表現の可能性が感じられる。

2013年1月18日金曜日

川柳と不条理

昨年、話題になった俳句関係の本に倉阪鬼一郎著『怖い俳句』(幻冬舎新書)がある。
「怖い俳句」があるのなら「怖い短歌」「怖い川柳」「怖い連句」があってもよい。実作者であれば、自分でも作ってみようと食指が動くことだろう。
連句に関して言えば、神戸で発行されている詩誌「ア・テンポ」42号(2012年12月)に「怖い連句」が掲載されている。二十韻「果て想ふ」の巻。その前半だけ紹介する。

銀河浮く宇宙の果ての果て想ふ   赤坂恒子(秋)
月の舟から避難信号       梅村光明(月)
一粒も充実しない稲穂にて     木村ふう(秋)
ハンバーガーを齧る若者       恒子(雑)
この歯科医すぐに虫歯を抜きたがり   光明(雑)
レントゲンには謎の物体       ふう(雑)
空蝉の闇に残心したたりぬ       恒子(夏)
避暑地の事件知られずに幕      光明(夏)
口紅で書かれしダイイングメッセージ  ふう(雑)
夢の中までアラビア数字       恒子(雑)

留書に『怖い俳句』に触れて曰く「一読後に、これこそ連句でやるべきだと思い付き、挑戦した成果が、上掲の『怖い連句』二十韻『果て想ふ』の巻。連句では、古来より賦物といって、句中に事物の名前などを詠み込むことが行われ、そのひとつとして妖怪や化け物尽しの作品が作られているが、この怖い連句の特徴は、一句で怖さを表そうと試みた点であり、従来の賦物との違いである。読んで怖いと思うかは、あくまでも読者の感覚に委ねられている」。

「川柳」では、「川柳カード」創刊号(2012年11月)に掲載された、くんじろうの「河童」10句が「怖い川柳」に当るだろう。

夕焼けに箪笥の中の首に会う       くんじろう
粘膜をまさぐり合って赤トンボ
バス通り亀が一匹潰されて
女先生も百足を食べている
仏壇の裏に隠した脚の肉
マンドリンクラブで憩うモモタロー
肉汁が滴り落ちる鳩時計
液化した狐とぬくい飯を食う
ゴロツキのままで半ズボンのままで
主張せよ我は河童の子孫なり

「女先生も百足を食べている」が「怖い川柳」をねらっているのは明らかだし、「肉汁が滴り落ちる鳩時計」もけっこう怖い。通常ありえないところに、ありえない物が見出されるとき、その違和感そのものが一句のモティーフとなる。何をもって怖いと感じるか、人によって感覚が異なると思うが、「怖さ」の中には「身の毛がよだつ恐怖」だけではなくて「不条理さによる恐怖」が含まれるだろう。たとえば、次の句はどうだろう。

姉さんはいま蘭鋳を揚げてます   石田柊馬

この句を読む人は「怖いな」と思うだろうか。それとも、ゲラゲラ笑い出すだろうか。私はこの句をはじめて読んだときの衝撃を忘れることができない。
この句が収録されている句集『ポテトサラダ』には「家族」の句が多い。「弟が銀の燭台狙いおる」「押しのけて法事の好きなおばが来る」「妹は廃業の力士虐めおり」「三男はポテトサラダでできている」「小芋一トン注文したまま母逝きぬ」
ここには何かの違和感が表現されているし、家族とは実は怖い存在であるような気もする。作中主体はそれぞれ現実とのズレをかかえているのだ。

レタス裂く窓いっぱいの異人船   加藤久子

日常のなかに不意に現れる不条理。台所で夕餉の支度をしているのだろう。主婦がレタスを裂くのは日常生活の一こまである。けれども、窓の外には異人船が来ている。本当に来ているのか、心理的に異人船が来ているような気がするのか。日常生活の一瞬に、ふと違和感や不条理な感覚が心をよぎることがある。

経済産業省に実朝の首持参する  飯田良祐

「経済産業省」と「実朝の首」は時間・空間が合わない。けれども役所に実朝の首を持参してごろんと転がしてみたらどういう事態になるのだろう。ここには明らかに現代に対する批評性がうかがえる。
現実に対する不満や違和感は一方では不条理の表現へと向かい、他方では批評性へと向かう。川柳の本質は批評性なのか不条理の表現なのか。悩んだこともあったが、深いところではたぶん両者はひとつなのである。

ひとりずつ納戸へ消えてゆく家族  松永千秋

納戸は古い道具とか普段使わないもの、不要だが捨てるにしのびない物などが置かれている場所である。現実の場所だが、家屋の中では思い出の貯蔵庫であったり、異界への通路と呼ぶにふさわしい空間である。そのような納戸に家族のひとりひとりが消えてゆく。不条理は不思議感覚でもある。

雑踏のひとり振り向き滝をはく   石部明

石部明の作品の中で、私はけっこうこの句が好きである。
雑踏とか群集の中で私たちは匿名の存在として生きている。ところが、その中のひとりが不意に振り向いて滝を吐いた。
そのあとの反応を私は二通り想像する。
人々は何事もなかったかのように、匿名の群集として歩き続ける。
しかしながら、私はもう一つの想像を捨てきれない。
滝を吐く男を見た群衆は、連鎖反応をおこして次々と自らの滝を吐き始めるのである。

不条理の表現は一回的なものである。グレゴール・ザムザが虫に変身したり、李徴が虎に変身したりするようなことは度々起こるものではない。不条理の表現も、最初の驚きがすんでしまうと、衝撃力が薄まり、読み捨てられてしまうことになる。けれども、一回的な不条理の表現が、より深く広い射程距離を獲得したとき、くり返し読むに足る川柳作品が生まれるのではないだろうか。

2013年1月11日金曜日

俳句の句会と川柳の句会

「川柳カード」創刊記念大会のとき、池田澄子・樋口由紀子の対談で次のようなやり取りがあった。

池田 私が句会へ行くときには「これは絶対大丈夫」という句は持っていかないんです。自分はいいと思うけれども案外ダメかもしれないとか、こういうことを言いたいけれども人はそう読んでくれるだろうかとかいうことを聞きたいために句会へ行くの。
樋口 川柳人なら句会には一番良い句を出しますね。

俳句の句会のことをよく知らない川柳人には、なぜ「良い句」を出さないのかと不審に思った向きもあるかもしれないが、ここには俳句の句会と川柳の句会の違いが端的に表れている。

俳句の句会について、私が利用している入門書は古舘曹人著『句会入門』(角川選書)である。古舘は「俳句入門三原則」として「素直に心を開いて聴くこと」「絶えず俳句に感動すること」を挙げたあと、次のように言う。

「三つ目は、俳句を詠む以上に俳句を読むこと。俳句という文学が他の文学と違う点は、詠むことと読むことが一つであることである。俳句を作ることは“今日は!”と他人に挨拶すること、俳句を読むことは他人の挨拶を受けること。従って、俳句は作り手(作者)と読み手(選者)が常に対面しているのである」

古舘は「創作と選句が表裏一体」「選句をしない人は俳人ではない」「選句の拙い人は作句も拙い」「他人への関心の薄い人は俳句に不適」などと述べている。
また、「句会の歴史」についてはこんなふうに。

「正岡子規が句会の作法を知ったのは、明治25年の暮のことで、伊藤松宇の椎の友句会に招かれたときである。子規が驚いたのは、この句会では宗匠を立てず、座中の人が互いに選ぶという互選方式を採用していたことである。当時宗匠達の運座は一人もしくは二、三人の宗匠を定めて、すべて宗匠に選を託したのが通例であった。子規は当時神格化された芭蕉の偶像を破壊して、宗匠の権威主義に痛罵を浴びせたり、子規自ら『先生』の敬称を禁じて、おのれの権威を否定した人物であった」

古舘は子規の互選句会を「ノン・リーダー方式」と呼んでいる。
伊藤松宇の「椎の友社」は明治24年1月に結成され、互選句会を始めた。俳句革新を目ざす子規はこれを踏襲し、根岸の子規庵では「膝回し」と称して探題式互選方式の句会を開いていたようだ。

さらに古舘のいう「句会作法十三か条」を見てみよう。「句会は十人以下で」「多彩なメンバーで」「句会は月二回」「句会は三時間」「投句は十句」「吟行が最上」「句会は選句の場」「互選の点数は優劣に無関係」「討論は結論を求めない」「ノン・リーダーで」「句会は自立の場」などである。古舘の独自の基準もあるようだが、印象に残ったのは次のような言葉である。
「選句の基準は常に最も高度に保ち、しかも選句はできるだけ多く取る。人により、句会により、時によって、選句のレベルを上下するなどもっての外である」
「下手な人は下手な句しか選句しない」
「俳句の鑑賞とか批評とか言われるものの中に、解釈と鑑賞の区別をしっかりしなければならないことである」「解釈を曖昧にして次の鑑賞に入ると混乱するばかりか、誤った鑑賞に導くからである」
「句会は作家の自立の場である。句会の連衆の心を鏡にしておのれを知ることは、師弟関係から自立することである。句会に権威を持ち込まないのは、あくまで自立する作家の誕生に必要なことだからである」

俳句の句会が現実にこの通りだとは思わないが、理想形として目指しているところはよく分る。
一方、川柳の句会はどのようになっているだろうか。
川柳句会の問題点を考えるには、尾藤三柳著『選者考』(葉文館出版)が便利である。選者制度のはじまりについて尾藤は次のように述べている。

「特定されない複数の選者が随時選句を務めるという、いわゆる任意選者制が一般的になるのは、江戸期では概ね文化初頭から、新川柳では明治39年前後からである」

一人の宗匠(選者)にそれ以外の全員が投句するという万句合の形式が崩れて、小単位に分散した句会が多くなった文化年代の初めから任意の選者が登場し、それ以後の句に質的低下をもたらした、と尾藤は言う。「選者の任意性と、その力量不足が、選句のバラつきと低下に結びつくのは、句会システムの免れ難い側面といえる」
川柳における選者システムの成立について、もう少し歴史的経緯を見ていこう。

「新川柳の句会は、明治37年6月5日に阪井久良岐邸で第一回が催されたが、この時は、久良岐という指導者が中心であったにもかかわらず、課題四題すべてを総互選で行なっている。これは俳句の運座を模倣したものだろう」

次に挙げるのは有名なエピソードであるが、明治40年3月に久良岐が大阪に来たとき、地元の小島六厘坊が参加した。六厘坊は当時20歳(数え歳)。久良岐が競点(互選)にするか、自分ひとりの選にするかと尋ねたところ、六厘坊は敢然と互選を主張したという。
このときの互選の方法は「頂戴互選」であった。読みあげられた句に対して、それを選ぶ人は「頂戴(チョーダイ)」と声をあげる。六里坊が頂戴、久良岐も頂戴だとすれば、その句に二点入ることになる。川柳独自の頂戴選であるが、現在では行なわれることはほとんどない。

近代川柳の出発にあたって互選句会の可能性があったにもかかわらず、川柳が個人選に変っていったのはなぜだろう。
尾藤は次のように指摘している。

「明治新川柳初期の句会では、宿題(兼題)というものはなく、集会当日、出席者が揃ったところで当座題(即席題)を課するのが普通だった」「選句はもちろん総互選であった」
「しだいに参加者が増え、句会の規模が大きくなってくると、運座(互選)に不便を感じるようになる。明治39年から40年代にかけての読売川柳へなぶり会では、出席者40名前後で、川柳、へなぶりの互選を宿題(一句吐)としており、それだけで句会時間は午後6時から11時まで5時間を要している。これが互選形式を採用する句会の限界で、ことに川柳独自の『頂戴互選』などは、もはや不可能になっていた」
「句会がひとつの共通な様式を整えた時、互選は二次的なものとなり、課題は、宿題・席題の二本立て、選句は各題個人選という基本形ができ上った」

以上、俳句の句会と川柳の句会の違いと、違いに至るまでの歴史的経緯を見てきた。冒頭に紹介した対談で池田澄子が「人がどう読んでくれるかを確かめるために句を出す」と言い、樋口由紀子が「一番良い句を出す」と発言したのには、それぞれの句会の方式の違いがあったことになる。
私は川柳に批評が発展しないのは、ふだんの句会で句を読む修練ができていないことに原因があると思っているが、だからといって互選句会を行えばすぐに句の読みが進むかというと、話はそう簡単ではない。
任意選者制の弊害を克服するために、共選(同じ題の句群について二人の選者が選をすること)を取り入れたり、数題のうち一題だけを互選にしてみたりと、さまざまな工夫がされてきたが、そのような試みそのものも少数であり、川柳句会一般の活性化にまで至っていない。従来、川柳句会の革新は「選者論」を中心に考えられてきたのであり、どれだけ良質の選者をそろえられるかが句会・大会の成否を決定してきたのである。