2013年2月8日金曜日

「川柳木馬」作品を読む

今回は「川柳木馬」134・135合併号の同人作品を読んでいくことにしたい。

ぐっすりと眠る海抜ゼロ地帯     古谷恭一

「海抜ゼロ地帯」だから危険なのだろう。けれども、作中人物はぐっすり眠るという。危機意識が薄いのであろうか。自分だけは大丈夫だと思っているのだろうか。そうではなくて、この人物は腹をくくっているのである。危機的状況に無知なのではなく、かといってそこから逃げ出すのでもなく、状況の中で腰を据えて大胆に生きている。そのような無頼派のイメージが思い浮かぶ。

富士山の噴火をじっと待っている   古谷恭一

カタストロフを待つ人間の心理はどのようなものなのだろう。富士山はきっと噴火するという確信を作中人物はもっている。その時をじっと待っているのだが、別に災害に備えて万全の準備をしているのでもなさそうだ。むしろ、富士山の噴火を待ち望んでいる焦燥感のようなものが漂っている。「空蝉を握って粉にしてしまう」

商は金星余り流れ星   山下和代

「商」は「あきない」ではなくて、割り算の答えだというのが私の読みである。宇宙の星々を割ると「金星」になる。割り切れない余りは「流れ星」だという。大宇宙を相手に割り算するスケールの大きさと機知。何を何で割るのか、いろいろ考えるのも楽しい。

マトリョーシカの入れ子は父だった   畑山弘

日本でも人気の高いロシア人形のマトリョーシカ。大きな人形の中にいくつもの人形が入れ子になっている。私が持っているのは、ロシア大統領のマトリョーシカ。少し旧くて、一番外側がメドベージェフ。その中にプーチン、さらにその中にエリツィン。今だとプーチンがもう一度外側に来ていそがしい。
掲出句では中に父が入っているという。外側にいるのは誰だろう。
本号には「父さんがフエフキ鯛だった日々よ」(内田万貴)という句もある。

齧られて林檎は初めて空を見る    山本三香子

樹に実っている林檎は空の青さに気づかない。もがれて、箱に詰められ、人の手に渡って齧られたときに初めて林檎は空を見るのだ、という認識がここにはある。空を見たからと言ってどうなるものでもないし、もう遅すぎるかも知れない。けれども、林檎が空を見たことには何かしら意味があるのだ。
さなざまな林檎がある。ニュートンの林檎、ウイルヘルム・テルの林檎。しかし、この句に「エデンの園」を重ねあわせて、林檎を齧る者をアダムとイブに限定してしまう必要はないだろう。主体は林檎の方にある。

迷宮はチャルメラの匂い立ち込める   内田万貴

迷宮はどこにあるのだろう。王の宮殿の奥深くだろうか。いや、迷宮はチャルメラの匂いの立ち込める市井にあるのだ。人々は湯気のたつ麺をすすりながら、自分たちの現在位置を見失っている。この句は迷宮の中の「チャルメラの匂い」の一点をクローズアップする。カメラが再び迷宮を映し出したとき、そこにはすでに人の姿が消えている。

あふりかの雪しみじみと逢いにくる   西川富恵

「あふりかの雪」のイメージをまず思い浮かべる。熱帯でも高山になると積雪がある。キリマンジャロだろうか。
「あふりかの雪しみじみと/逢いにくる」なのか「あふりかの雪/しみじみと逢いにくる」なのか迷うが、「しみじみと」が両方にかかっているなら、どちらでも同じことなのだろう。「逢いにゆく」ではなくて「逢いにくる」、即ち迎える側の立場で書かれているところに、この句の懐かしい雰囲気が生まれている。

店先の品に紛れてミドリムシ     河添一葉

ミドリムシを売っているのではなくて、ミドリムシが売り物の品に紛れこんでいるのである。子どものころ理科で習ったプランクトンのミドリムシが最近ではサプリメントになっていたりする。あのミドリムシが商品化されている!まるでミドリムシ自身が鞭毛をくねらせて紛れ込みにやってきたかのようなイメージである。

脚本の間に合わなくて鳥わたる    小野善江

「脚本の間に合わなくて」と「鳥わたる」の間に「切れ」があるとすれば、両者に直接的な関係はない。切れではなくて、続いていると受け取れば、間に合わないまま鳥が去っていったような感じとなる。渡り鳥は別に脚本に従って渡ってゆくのではないだろうが、用意すべきものが間に合わないという状況はよくあることだ。

痛いので瓶の中には入れない     桑名知華子

この人物は瓶の中に入る必要があった。自己防御か逃避か再起のためかわからないが、とにかく瓶の中に入ろうとしたのである。けれども、痛みに邪魔されて入れない。体のどこかが痛いのか、瓶の入口が狭くて痛いのか、ちょっと困っている様子が想像される。

槇村忌 声をたてない遊びする    清水かおり

「声をたてない遊び」とはどういうものだろう。
遊びのルールとして声をたててはいけないような遊びなのだろうか。それとも、声をたてると大人たちから叱られるような密かな遊びをしているのだろうか。
「間島パルチザンの歌」で有名なプロレタリア詩人・槙村浩は高知の生まれである。ここでは「生ける銃架」の冒頭を紹介する。

高粱の畠を分けて銃架の影はきょうも続いて行く
銃架よ、お前はおれの心臓に異様な戦慄を与える―血のような夕日を浴びてお前が黙々と進むとき
お前の影は人間の形を失い、お前の姿は背嚢に隠れ
お前は思想を持たぬただ一個の生ける銃架だ

反戦詩である。
槙村は昭和7年、20歳のときに検挙され、特高の拷問と長期の留置によって拘禁性の躁鬱病を発症する。昭和10年、高知刑務所を出所したが、昭和11年に再び検挙され、病気のため釈放されたが、昭和13年、土佐病院で死去。26歳。
清水のいう「槙村忌」は9月3日ということになろうか。
残暑のころである。「声をたてない遊び」をしているのは子どもであろうか、それとも大人だろうか。この遊びには反体制的とまでは言えないとしても、周囲との違和を感じさせるような不穏な匂いが漂っている。
「バックストローク」2号に槙村浩のことを書いているように、清水かおりの槙村に対する関心は深い。その関心がこのような作品に結実したことに私は注目している。

ところで、高橋由美が本号に作品を出していないのは、どういうわけだろう。

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