2021年7月17日土曜日

「井泉」創刊100号記念号と「西瓜」創刊号

この欄でもときどき取り上げている短歌誌「井泉」の創刊100号記念号が発行された。「井泉」は春日井建の中部短歌会の系譜を継ぐ雑誌で、春日井の没後2005年1月創刊。表紙絵に春日井の描いた絵を使っているのも楽しめる。短歌誌だけれど、招待作品のコーナーに短歌だけではなく、俳句・川柳・現代詩などの作品が掲載され、短詩型文学を見渡す視野のある編集である。また、特集テーマやリレー評論はいま短歌で何が問題となっているのかを知るのに役立つ。
100号記念テーマ評論として、【短歌の今を考える―二〇一〇年以降】が掲げられていて、坂井修一、花山周子、山崎聡子、江村彩、佐藤晶、彦坂美喜子の6人が執筆している。
2001年には東日本大震災があり、2019年にはCOVID‐19が出現するなど2010年代は災厄が起こるとともに様々な矛盾が噴出する時代となった。坂井修一の「滅びの道」は現代歌人協会賞の受賞作(第一歌集)をあげながら、この時代にどんな短歌が作られてきたかをたどっている。全部は挙げられないが、いくつかの作品を引用しておく。歌集名は省略。

左手首に包帯巻きつつ思い出すここから生まれた折鶴の数   野口あや子
入水後に助けてくれた人たちは「寒い」と話す 夜の浜辺で  鳥居
空中をしずみてゆけるさくらばなひいふうみいよいつ無に還る 内山晶太
防空壕に潜む兵らを引き摺りだすごとくにバグは発見される  山田航
飲食ののち風浅き道ゆけばこの身はさかなの柩であった    大森静佳
蜂蜜はパンの起伏を流れゆき飼い主よりも疾く老いる犬    服部真理子
カサンドラの詞さみしゑ凍月のひかりは地(つち)へ落ちつづけたり 川野芽生
きもちよく隙間を見せてあじさいの枯れつつ立てり明日もわたし 北山あさひ

坂井は菱川善男の次の言葉を引用している。
「塚本邦雄が現代短歌に与えた決定的影響は何であったのか。歌人が風流隠士のたぐいではなく、世界に滅亡を宣告する預言者にほかならぬことを、身をもって実証したところにある」
そしてこの言葉を踏まえながら、坂井は次のように結論づけている。
「短歌の今は、その近未来は、滅びの予感とともにある。それもかつて塚本邦雄が予言したような華々しいものではなく、日常感覚と平板な思惟のもとで」 明るさは滅びの姿なのであろうか、という太宰治の言葉を思い出すが、坂井の引用している短歌はペシミスティックな傾向のもので、現代短歌にはそれ以外の傾向もあるはずだが、文明の滅亡というようなスケールの視点で坂井が現代を捉えているのは興味深い。

花山周子の「平岡直子の作品とのとても個人的な夜の話」は、一人の作者にしぼって話をすすめている。「平岡直子の作品について私が何かを考えはじめていたのは二〇一一年三月十一日の夜のことだ」…震災の日である。その翌日は同人誌「町」の読書会が予定されていて花山は平岡の歌についてパネラーを割り当てられていた。読書会は中止となったが、レジュメには次の歌を引用していたという。

さっかーのことも羽音と言う夜に拾った石を袖で磨いて  平岡直子

「瀕死の文体」「瀕死は死んでいるわけではない」「まるで辛うじて生き延びようとしているような悲痛さ」と花山は書いている。

海沿いできみと花火を待ちながら生き延び方について話した 平岡直子
どの朝も夜もこうして風を受けあなたの髪が伸びますように
わたしたちの避難訓練は動物園のなかで手ぶらで待ち合わせること

「今にも消滅しそうなかすかなもののために平岡さんはこの世界の無意識の回路をピンセットで緻密に繋ぐ。繋いで空間をつくりだす」と花山は書いている。
坂井の文明史的視点と花山の個人的視点。他の論者については「井泉」本誌を読んでいただきたい。

もう一冊紹介したいのは、「西瓜」創刊号(発行・江戸雪)。発行の経緯について具体的には書かれていないが、関西の歌人が多いけれど、自由な集まりなのだろう。曾根毅、岩尾淳子、染野太朗、門脇篤史、とみいえひろこ、野田かおり、三田三郎、嶋田さくらこ、安田茜、楠誓英、鈴木晴香、土岐友浩、笹川諒、江戸雪。なかなかおもしろいメンバーである。「外出」「ぱんたれい」など結社や所属とは異なる自由な個としての結びつきが短歌では見られるが、「西瓜」はこれまでのグループ誌よりやや人数が多いので、今後どのように進んでいくのか注目される。

念力で壁が崩れてゆく都市の絶叫と降りしきる硝子片  曾根毅
それからのふた月ぼくはなんどでもきみを謝らせたきみがこはれても 染野太朗
背の穴をあけっぱなしで寝ているの 穴をとじたら死ぬの、助かるの とみいえひろこ
酔っ払いに脱ぎ捨てられた靴のくせに前衛的な立ち方をするな 三田三郎
西瓜割りしない季節の長いことずっと目隠しをしてるのに   鈴木晴香
西瓜なら食べれば種が出るでしょうアップデートでアプリが増える 土岐友浩
春霖よ未完のものが薄れゆく気配にいつも書名がほしい    笹川諒
母はもう父には逢えぬしゃらんしゃらん私があえないよりも逢えない 江戸雪

特集は「笹川諒歌集『水の聖歌隊』を読む」。土岐友浩の書評と同人による一首鑑賞が付いている。

椅子に深く、この世に浅く腰かける 何かこぼれる感じがあって  笹川諒

2021年7月9日金曜日

連句の方へ、俳諧の方へ

リルケの『若き詩人への手紙』を読んだ。
若いときに読んだことがあり、ところどころ線が引いてあるが、大半はもう覚えていなかった。カプスという若い詩人に宛てた手紙で、孤独の重要性、ヤコブセンとロダンのこと、ジャーナリズムには近寄るな、というようなアドヴァイスが書いてあるが、けっきょく彼がリルケの忠告に従わなかったのは現実生活に追われたからだろう。
リルケには老年におくるアドヴァイスも書いてほしかったが、リルケは51歳で亡くなっているから、林住期を迎えた人間の時間とはすでに無縁かも知れない。

『連句年鑑』令和三年版(日本連句協会)が届く。
評論・エッセイは「芭蕉と蕪村」(中名生正昭)、「連句は文学、連句は祈り」(谷地元瑛子)、「俳諧師のマニュアル『三冊子』」(吉田酔山)の三本。 中名生の文章は『芭蕉の謎と蕪村の不思議』(南雲堂)よりの転載で、俳諧の二大スターである芭蕉と蕪村の句から今日にも通じる句を選んで読み比べたもの。いわゆる「蕉蕪論」である。谷地元は「エア国際連句協会」の代表世話人。エア(AIR)とは国際連句協会( Association for International Renku) の略ということらしい。国際連句の実作も掲載されているが、原語はフランス語、マレー語、日本語、ヘブライ語、ロシア語、英語の付句で、それを日本語に翻訳して掲載されている。吉田酔山は日本連句協会の副会長で、『三冊子』を自由に読み解きながら、連句の功徳を述べている。
実作は全国の連句グループの作品のほか、個人作品、学生の作品(中学生・高校生・大学生)が掲載されている。
紹介したい連句作品はいろいろあるが、草門会の胡蝶「約束の蛍」の発句・脇・第三だけ書き留めておく。

約束の蛍になつて来たと言ふ   眞鍋天魚
 入江で待つはほのか夏星    工藤 繭
天網を洩れたる風の颯と立ちて  山地春眠子

日本連句協会の会報「連句」240号(2021年6月)にも書いたのだが、関西の現代連句は橋閒石と阿波野青畝をルーツとする。閒石は旧派の俳諧師でありながら極めて前衛的で、「白燕」を創刊して澁谷道などの連句人を育てた。「ホトトギス」系の新派の連句では、高浜虚子の連句への関心を青畝が受け継いで「かつらぎ」に連句の頁を設け、岡本春人は「俳諧接心」により連句の普及に努めた。閒石・青畝の没後は、「茨の会」の近松寿子、「俳諧接心」の岡本星女、「紫薇」の澁谷道、「ひよどり連句会」の品川鈴子などが活動し、この四人によって「関西連句を楽しむ会」が立ち上げられた。第一回(1993年)が京都・法然院で開催。以後、清凉寺、仁和寺、神戸薬科大学、知恩院、万福寺、八坂神社、大阪天満宮(笠着俳諧)、近江神宮、須磨と会場を移しながら2004年まで続いた。「関西は女性のリーダーが元気でいいね」という声を聞いたことがある。また前田圭衛子は連句誌「れぎおん」を発行して連句の文芸性を発信した。

かつては俳句の総合誌にもときどき連句がとりあげられることがあった。特に「俳句研究」は連句に理解のある編集者がいたようで、たとえば「俳句研究」1992年5月号に「現代連句実作シンポジウム・連句と俳句の接点」が掲載されている。パネラーは葦生はてを、今井聖、小澤實、小林貴子、中原道夫、四ッ谷龍。司会・山路春眠子。小澤實の捌きで「冬萌」の巻が巻かれている。
さらに「俳句研究」1993年4月号では「現代連句シンポジウム・詩人による公開連句」が掲載されている。連衆は水野隆・高橋睦郎・別所真紀子・小澤實。司会が川野蓼艸・山路春眠子。会場は東京九段下のホテルグランドパレスで、多数の聴衆が参加したようだ。「連句シンポジウム実行委員会」(村野夏生、山地春眠子、工藤繭など)主催、公益信託俳諧寒菊堂連句振興基金の援助、「俳句研究」後援。半歌仙「初昔」の巻ができているので、最初の四句だけ紹介しておく。捌きは水野隆。 

初昔雅は色を好むより     睦郎
 化粧はつかに水仙の空    隆
屋上に仔猫と月と笛吹きと   真紀
 地球儀まはすきしみしばらく 實

この頃が現代連句に活気があった時代で、短詩型文学のなかで連句の存在感をアピールしていこうというエネルギーが見られた。
暉峻康隆、尾形仂、東明雅、廣末保、乾裕幸などの連句に造詣の深い文学者がいなくなり、カリスマ的な連句人が少なくなった現在、連句の発信力は落ちてきてはいるが、新しい世代の連句人も育ちつつあるので、今後に期待したい。

書棚を整理していると俳文芸誌「筑波」2003年8月号の別冊「今泉宇涯翁五回忌追善」という冊子が出てきた。今泉宇涯は宇田零雨の「草茎」から出発し、市川俳諧教室を主催、連句協会の会長も務めた。「私の連句入門講座序論」が掲載されているので紹介する。宇涯は現代俳句の二句一章体、現代連句の付合、三句の渡りの実例を挙げていて、一句独立の俳句から連句へのプロセスとして分かりやすい。(歴史的には逆で、連句の付け合いから俳句が独立したのだが、説明の便宜上の話である。)

(二句一章の俳句)
芋の露連山影を正しうす      蛇笏
湯豆腐やいのちのはてのうすあかり 万太郎
雁鳴くやひとつ机に兄いもと    敦
火を焚くや枯野の沖を誰か過ぐ   登四郎
天瓜粉しんじつ吾子は無一物    狩行

(前句と付句の連句の付合)
 濃い日の化粧少し気にして    静枝
たそがれの合せ鏡を閉じて立つ   良戈

 恋ほのぼのと鼓打つなり     杜藻
眉目清き学僧文筥たづさへて    瓢郎

さるすべり骨董店の手風琴     蓼艸
 征露丸売る敗兵の唄       馬山人

(三句の渡り)
 勤行終えて内庭を掃く      桐雨
甘くちの酒は好まぬ村の衆     司花
 仲人抜きで睦みあう床      紫苑

 自動車の上に陽炎が立つ     太郎
逃げ回る羊刈られて丸はだか    佐和女
 迷宮入りの事件重なる      泉渓

松茸の栽培苦節二十年       実郎
 遺伝子科学多岐に亘りて     則子
イザヤ書の預言者知るや知らざるや しげと

最後にリルケに戻るが、リルケは「ハイカイ」という三行詩を三つ書いている。また彼の墓碑銘として有名な次の詩も三行で書かれている。

Rose, oh reiner Widerspruch , Lust,
Niemandes Schlaf zu sein unter soviel
Lidern.

薔薇よ、おお純粋な矛盾、
誰の眠りでもない眠りを あまたの瞼の陰にやどす
歓びよ。 

「孤独」について言えば、スイスのミュゾットの館でリルケは孤独のなかで「ドゥイノの悲歌」を完成させた。芭蕉庵や幻住庵における芭蕉も孤独だっただろうが、彼には俳諧という共同文芸があった。生み出した作品は異なるが、何か通じるところもあるように思われる。

2021年6月25日金曜日

松本てふこの杉田久女/今泉康弘の渡邊白泉

「俳壇」五月号に松本てふこが「笑われつつ考え続けた女たち〜杉田久女とシスターフッド〜」を発表している。(杉田久女といえば高浜虚子の『国子の手紙』や松本清張の『菊枕』などの小説によって虚構化・伝説化されている。連作『虹』の愛子は虚子にとって好ましい弟子であり、国子=久女は嫌悪すべき存在であって、女弟子に対する虚子の両極の態度をよく表している。)松本の久女論は注目され、句集『汗の果実』(邑書林、2019年)も改めて読まれているようだ。
『汗の果実』のプロフィールによると、松本は2004年に辻桃子の「童子」に入会。『新撰21』(2009年)に北大路翼論を、『超新撰21』(2010年)に柴田千晶論を執筆。それ以前に松本は「豈」47号(2008年11月)の特集「青年の主張」に「平成女工哀史」を書いていて、自らの出版社勤めの裏話を披露している。北大路翼論のタイトルは「カリカチュアの怪人」、柴田千晶論のタイトルは「誰かの性欲にまみれ続けて」。『新撰21』『超新撰21』に松本は俳句作者として収録されていないので、小論の執筆者として便利使いするのを反省したのか、筑紫磐井は『俳コレ』(2011年)では自ら松本てふこの作品の撰をして小論も書いている。作品のタイトルは「不健全図書〈完全版〉」、小論のタイトルは「AKBてふこ」。磐井はこんなふうに書いている。
「松本の句が興味深いのは、面白いからでもなく、現代的であるからでも、詩的であるからでもない。どこか痛切な思いがあり、それが頭をもたげているから。俳句は楽しいのではなく、詠まずに居られないから。俳句は芸と思いながら、文学を書いているから。そういう作家として私がプロデュースしてみたのがこの句集だ」
彼が選んでいるのは次のような句である。

啓蟄や声より寝息佳きをとこ   松本てふこ
おつぱいを三百並べ卒業式
不健全図書を世に出しあたたかし
会社やめたしやめたしやめたし落花飛花
読初めの頁おほかた喘ぎ声
料峭や春画のひとの指まろし

その後、私は「庫内灯」などで松本の作品はちらちら見ていたが、2019年11月に句集『汗の果実』が発行された。松本といえば「おつぱいを三百並べ卒業式」が有名だが、それだけではない別の面もある。句集はこの時点での彼女の全体像を示している。

だんじりのてつぺんにゐて勃つてゐる
だんじりの日のしづかなる理髪店

前者の方がだんぜんおもしろいが、後者のような句もあることを目にとめておこう。松本てふこには現代的な側面と伝統的な側面があって、どちらも彼女の俳句なのだろう。

万緑に死して棋譜のみ遺しけり
花婿の胸に凍蝶挿してあり
ボクサーを汗の果実と思ふなり
吉野家に頬杖をつき桜桃忌
愛人のやうに蛙を飼つてをり

ボクサーの句は句集のタイトルになっている。そういえば、この句集の章分けが「皮」「種」「汁」「蔕」となっているのは「果実」だから、ということにいまはじめて気づいた。
生活と執筆のバランスをとりながら、これからも評論と実作に活躍してほしい。

今泉康弘の評論『渡邊白泉の句と真実』(大風呂敷出版局、2021年4月)が発行された。「円錐」などに発表された論考を再構成して一書にまとめた労作である。特に白泉の沼津時代について、白泉の息子・勝や白泉の関係者へのインタビューに基づいて丁寧に記述している。

戦争が廊下の奥に立つてゐた   渡邊白泉
街燈は夜霧にぬれるためにある
憲兵の前で滑つて転んぢやつた
銃後といふ不思議な町を丘で見た

いずれも有名な句である。
「白泉の新しさは二つある。一つは、音の響きの美しさと実験精神とが調和していること。もう一つは、戦争への違和感を高い詩的次元において表現し得たことである」と今泉は書いている。
白泉はこの高い達成ゆえに特高の弾圧を受け、執筆禁止に追い込まれた。戦後も彼は俳壇とは無関係な生き方を選んだ。本書のうち「エリカはめざむ」の章は戦後の高校教員時代の白泉の姿を丁寧に描いている。
津久井理一の『私版・短詩型文学全書』には川柳の句集も含まれていて、川柳人にとっても重要だが、その『渡邊白泉集』の刊行をめぐって津久井と白泉との間に確執があったことや、三橋敏雄の第一句集『まぼろしの鱶』の出版記念会に白泉が出席したときのことなど、興味深い記述が続く。三橋敏雄は白泉の唯一の弟子である。

今泉康弘は桐生高校俳句クラブ(顧問・林桂)で俳句を作り始めたが、同じクラブに山田耕司がいた。今泉と山田はそれ以来のコンビ。本書『渡邊白泉の句と真実』は山田の大風呂敷出版局から発行されている。今泉は「円錐」で「三鬼の弁護士」を連載中で、西東三鬼名誉回復裁判について書いている。こちらの方も楽しみだ。

2021年6月19日土曜日

フェミニズムとアート

コロナ以前はしょっちゅう美術館や展覧会に行っていたが、入場制限や休館などで足を運ぶ機会がほとんどなくなった。アートから刺激を受けるのは文学表現にとっても大切なことなので、過去に見た展覧会のカタログを取りだしてきて眺めている。そのなかに『ワシントン女性芸術美術館展』があった(1991年・大阪・大丸ミュージアム)。この女性芸術美術館(The National Museum of Women in the Arts)は1981年創設。展覧会ではイタリア・ルネサンスから第二次世界大戦後の動きまで女性作家のアートが展示されていた。ルネサンス期ではフォンターナの「貴婦人像」がカタログの表紙にもなっている。フォンターナは画家を仕事にして成功した最初の女性と言われている。フランス革命期ではマリー・アントワネットの肖像画を描いたルブランが有名。王妃と個人的にも親しかったので、王立アカデミーにも入会できたが、革命後にはその関係が不利になって亡命を余儀なくされている。(話はそれるが、フランス革命と女性に関しては、マラーを暗殺したシャルロット・コルデーとか、革命の発端となったバスティーユ牢獄襲撃の先頭に立ったというテロワーニュ・ド・メリクールなどの女性のことが思い浮かぶ。)
19世紀から20世紀にかけての女性アーティストとしては、マネの絵にも描かれたベルト・モリゾとかモデルでユトリロの母親のシュザンヌ・ヴァラドン、マリー・ローランサンなど。彫刻ではカミーユ・クローデル、ケーテ・コルヴィッツなどがいる。カミーユ・クローデルやフリーダ・カーロのことは映画にもなったのでよく知られている。
このカタログには「フェミニズムとアート」という対談が付いていて、小池一子と松岡和子が対談している。司会は山梨俊夫。小池一子はキュレーターでこの二年前の1989年に西武美術館主催の「フリーダ・カーロ展」を実現させている。松岡和子は演劇評論家で、先ごろ坪内逍遥・小田島雄志に続いてシェークスピアの全作品の個人訳を完成させた。この対談を読み直してみると、今日にも通じる問題を含んでいる。
まず、女性美術館ができること自体にも議論があったらしい。松岡によると「女性の美術を、特別なある一つの場所の中に囲い込んで『ゲットー化』してしまうことがいいか、悪いか」という問題だったようだ。松岡の発言のなかでは「20世紀に入るまで、ほとんど全ての女性芸術家は、父親が芸術家だったか、あるいは夫とか、恋人とか、その女性アーティストの才能と社会的な仕事をしていく上での立場を守る強力な男性がそばにいた。それがなくなったのが、20世紀になって初めて」ということも印象に残る。
小池の発言では「女性がやる、ということを日本ではジャーナリズムが、意識的に―悪い言い方をすれば面白がるし、良く受けとめれば男のジャーナリストの中に押し出すという、精神的な支援があることもあって、やはり強調はされてしまうのね。そのことがセールスポイントになるというところが、日本ではあるのね」と指摘されている。「女性的感性、男性的感性というのは、危ないですね。男性の作家だって、いわゆる『女性的』で、繊細な色調で、繊細な線でというのはあるし、もの凄くダイナミックに力強く描く女性もいるし、ジュディ・シカゴの場合は、多分に戦略的なことと自分の作品の知的な操作というのかな、選択というのかな、何かそういうものがあったと思うのです」「例えば女の人が描いたら、女の美術史家とかキュレーターが評価するということは、もちろんナンセンスだと思う」「それほど凄くないのに評価してしまうような、忸怩たるものは、あっては困るわけです」
ジュディ・シカゴはフェミニズム・アートの草分けで、バース・プロジェクト(誕生をテーマにした作品群)を作っている。来日もしている。
今から30年も前の展覧会のカタログなので、情況はその後も進展があったことだろうが、読みながら短詩型文学の、特に川柳の世界と比べていろいろ考えるところがあった。

文学についても読み直そうと思って、世界最古の文学である古代メソポタミア文学を開いてみた(『古代オリエント集』筑摩世界文学大系1)。もとは粘土板に書かれた楔形文字なので、欠損が多くて断片的なところがあるのは仕方がない。メソポタミア神話はシュメールとアッカド、バビロニアで多少異なるが共通する部分も多い。洪水神話とかギルガメシュが有名だが、フェミニズムとの関連でも取り上げられることのある女神にイシュタルがいる。イシュタルはシュメールではイナンナという名になっていて、ここで紹介するのは「イナンナの冥界下り」の話である。
天界の女王イナンナは姉で冥界の女王であるレシュキガルのところへ下ってゆく。何の目的かは明らかではない。冥界に行くには七つの門をくぐらなければならず、門の番人は彼女が門をひとつくぐるたびに、身に着けている装飾品や着物をはがしてゆく。最後は裸になってたどりつくのだが、姉の女王は激怒して「死の目」を向けたので、イナンナは死んでしまう。イナンナの使者は主神エンキの助けでイナンナを生き返らせることができたが、彼女が地上に戻るためには身代りをさしださなくてはならない。そこで鬼神ガルラ霊が付いてきて身代りを求めることになる。イナンナの使者や息子は喪服をまとっていて彼女に忠実だったので、イナンナは彼らを身代りにすることを拒否する。最後に夫のドゥムジに出合うと、彼はすばらしい服を着ていて哀悼の態度をとっていなかったので、夫を見たイナンナは「彼を連れていきなさい」と叫ぶ。イナンナの夫は逃げ回るが、結局身代りになって冥界へ連れ去られる。

さて、ジェンダーの問題は川柳の世界ではあまり取り上げられることはないが、いま「川柳スパイラル」12号の編集に取りかかっていて、特集のテーマは〈「女性川柳」とはもう言わない〉である。発行は7月下旬だが、特集内容だけ予告しておきたい。

〈招待作品〉として瀬戸夏子の短歌十首「二〇〇二年のポジショントーク」
〈ゲスト作品〉として川柳各十句。
作者は歌人から川野芽生・乾遥香・牛尾今日子の三名。
川柳人から榊陽子・笹田かなえ・峯裕見子・瀧村小奈生・内田万貴の五名。
評論として
「女性による短歌が周縁化されてきた歴史に抗して」(髙良真実)
「俳句史を少しずつ書き換えながら、詠む」(松本てふこ)
「『女性川柳』とはもう言わない」(小池正博)

2021年6月11日金曜日

湊圭伍句集『そら耳のつづきを』

6月6日に日本連句協会の主催で「全国リモート連句大会」が開催された。Zoomミーティングを利用したリモート連句に79名の参加があり15座に分かれて連句を巻いた。参加者はまずメインルームに入室して説明を受けたあと、5~6名ずつブレイクアウトルームに分かれるので、実際の連句大会とそれほど変わらない。ただ、捌きと執筆(書記)には多少の負担がかかり、特に書記は共有画面に付句案を記入する仕事があるのでZoomに習熟している必要がある。付句はチャットで捌き手または書記に送る。ハードルが高いようだが、二、三回経験すると問題なく使えるようになる。高齢者にとってのデジタル格差が言われ、私も最初は嫌だったが、昨年自分の主催する「大阪連句懇話会」の開催を中止するかリモートで開催するかの選択を迫られて、嫌々リモート連句をはじめたのだが、今は普通に使えるようになっている。電波が弱くなって画面が落ちたりするトラブルはしょっちゅうあるが、もう一度入室し直せばすむことで、ホストに電話するなどの対応で乗り切れる。
トーク・イベントがリモートで行われる場合が増えてきが、その場合はZoomウェビナーが使われることが多いようだ。ウェビナーだとパネラーの顔だけが画面に映し出され、一般の参加者は映らないし、誰が参加しているかも分からない。
コロナ禍の現在、リモートで乗り切るほかはないが、コロナが終息したあと、座の形態はどんなふうになってゆくのだろうか。

さて、川合大祐の『リバー・ワールド』に続き、湊圭伍の『そら耳のつづきを』(書肆侃侃房)が発行された。480句が収録され、「イカロスの罠」「ヘルタースケルター」「仮説の象」の三章に分けて収録されている。見開き2ページに10句1セットが掲載され、それぞれにタイトルが付いている。ここでは「お早うございますエイハブ船長」10句を紹介しよう。

エレベーター上昇われらを零しつつ
   地下鉄は紙コップのコインを鳴らす
ミニマリスト・プログラムの胸毛
   靴音から遙かに閉じゆくみずうみ
うれしそうな顔をしている蛆だなあ
口笛のさきで巨大なものを釣る
   引き算のどこかで椅子が鳴くだろう
マグカップで壊せるような朝じゃない
   街路樹がいっせいに鳴く偽の坂
そら耳のつづきを散っていくガラス

前半5句が右ページ、後半5句が左ページで、三字下げは句集の通り。左右のページで対称になるようにレイアウトされているのだろう。
タイトル「お早うございますエイハブ船長」とは関係のなさそうな句が並んでいる。エイハブ船長といえばメルヴィルの『白鯨』の主人公だが、あまり気にせずに読んでゆくのがいいようだ。

エレベーター上昇われらを零しつつ

上昇するエレベーターから零れてゆくものがある。上昇と落下の対比である。上昇してゆく者の視点で書いているのか、零れ落ちる者の視点で書いているのか分からない。従来の川柳では零れ落ちる側の立場に立って、上昇志向を批判する場合が多かった。それだとルサンチマンの句になる。「われらを」とあるから一見すると零れ落ちる側の立場に立っているようでもあるが、そういうことでもなくニュートラルな表現のように感じる。

地下鉄は紙コップのコインを鳴らす

紙コップの中にコインが入っているのか。そういう実景ではなくて、コップ・コインの頭韻で言葉が選ばれている。「~は~を鳴らす」という構文は、たとえば『郵便配達は二度ベルを鳴らす』という作品名を連想させる。それはともかく、音が鳴るというテーマである。

ミニマリスト・プログラムの胸毛

アートでミニマリズムといえば物を最小限に省いて画面を構成すること。実生活でミニマリストといえば最小限のものを残して物を捨てる生活態度。『ミニマリスト・プログラム』といえばチョムスキーの生成文法の書名。いろいろ連想させつつ、胸毛に着地する。「ミニマリストの胸毛」だと物を捨てても胸毛は残るというアイロニーになるが、「プログラム」を挿入することで句の意味が多様化する・

靴音から遙かに閉じゆくみずうみ

音のテーマで、ここでは靴音。水の場面。

うれしそうな顔をしている蛆だなあ

「うれしそうな蛆」という頭韻に口語文体を重ねている。

口笛のさきで巨大なものを釣る

エイハブ船長と関係あるとすれば、この句。巨大なものとは鯨のことか、などと考えると作者の術中にはまる。音はここでは口笛。

引き算のどこかで椅子が鳴くだろう

「鳴く」というテーマで、ここでは椅子が鳴いている。足し算では鳴かないのか。「泣く」ではなくて「鳴く」だから感傷性は拒否されている。

マグカップで壊せるような朝じゃない

この句集のなかでも川柳性に満ちた句。だから作者も帯文にこの句を採用したのだろう。

街路樹がいっせいに鳴く偽の坂

再び「鳴く」というテーマ。ここでは街路樹が鳴いている。さらにひとひねりしているのは場所が「偽の坂」だということ。街路樹が鳴いているということ自体が嘘なのかも知れない。

そら耳のつづきを散っていくガラス

句集のタイトルにもなっている句。ガラスが割れる音が聞こえてくるようだが、それもそら耳のようだ。そら耳のイメージがガラスに変容するのは言葉の世界だからだろう。

以上、とりあえず10句だけ、勝手な読みをしてみた。読者は句集の他の句もお読みいただきたい。湊の句は伝統的な川柳の姿をしているので、逆に意味が分かりにくいように感じる。「申」10句の自由律、「名無しさん」の実験的な作品の方が分かりやすいかも知れない。
最後に「あとがき」について。本書109ページで墨作二郎に関連して「川柳天鐘」とあるが、正しくは「川柳点鐘」。三好達治の詩集にも『一点鐘』があり、天の鐘ではない。書肆侃侃房の句集案内のページでもすでに訂正が出ているが、念のため付言しておく。

2021年6月4日金曜日

藤原龍一郎『赤尾兜子の百句』

「触光」70号(編集発行・野沢省悟)に第11回高田寄生木賞が発表されている。川柳ではめずらしい論文・エッセイの賞である。受賞作は竹井紫乙の「アンソロジーつれづれ」。入選賞に「PCR検査室」(森山文基)、「コロナ禍の川柳とそれにまつわるエトセトラ」(濱山哲也)、「川柳との出会いとその後」(横尾信雄)、「句会・大会から川柳の文学性を考える」(滋野さち)。いずれもエッセイで、今回は評論(作家論・作品論)の応募がなかったようだ。
「川柳北田辺」118号(編集発行・竹下勲二朗)。5月に予定されていた筒井祥文追悼「らくだ忌」が昨年に続き中止となったことが書かれている(くんじろう「放蕩言」)。コロナ禍で誌上大会に切りかえる大会が多いが、誌上大会を好んでいなかった祥文の遺志をついで、来年(令和4年)の開催を目指すことにしたという。今号掲載の句会作品から。

しりとりの「あふろへあ」につづく雨 江口ちかる
番外に西太后の爪係         くんじろう
ケースごと消えて第三中学校     中山奈々
待ち伏せしている鼻の付き方ね    榊陽子
ケアマネに蹴られてサロベツへ帰る  井上一筒
綿のかわりに少年の微笑みを     酒井かがり

コロナ禍で終会に追い込まれた句会もあり、誌上句会に切りかえるところ、ネット句会(夏雲システムなど)を行っているところ、状況を見ながらリアル句会を継続しているところなど、対応はさまざまだが、このほど芳賀博子が中心になって「ゆに」という新しい会が立ち上げられた。「川柳を中心に、ことばの魅力をウェブで楽しもうという会」だという。Zoomを使った講座や句会が開かれるというから、川柳では新しい動きとして注目される。

瀬戸夏子の『はつなつみずうみ分光器 after2000現代短歌クロニクル』(左右社)が刊行されて、今世紀に入ってからの現代短歌の軌跡が改めて提示されている。また「短歌研究」2021年5月号が300人の歌人の作品を一挙掲載して話題になった。そんなことで、書架を漁って「短歌研究」創刊800号記念臨時増刊「うたう」(2000年12月)を改めて読んでみた。「うたう」作品賞受賞作は盛田志保子の「風の庭」50首。

ああなにをそんなに怒っているんだよ透明な巣の中を見ただけ  盛田志保子
われわれは箸が転んでもと言うか箸の時点で可笑しいけどね
音楽に手を翳しおり木枯らしの夜空に病の巣のごとき雲
風上のライオンが見る夢の香を浴びてめざめる草食動物

入選作として、雪舟えま、佐藤真由美、守谷茂泰、岡田幸生の歌が掲載されているほか、現在活躍している歌人たちの名が見られる。
さて、現代短歌の同人誌のなかでも「外出」は内山晶太、染野太朗、花山周子、平岡直子という四人のメンバーがそれぞれ魅力的だ。五号から一首ずつ抜き出しておく。

白鳥へ行きつくまでのみちのりが光年のよう ヌードルにお湯    内山晶太
とろとろと夕べの川をゆく灯りどくとるマンボウの青春思う     花山周子
フルコーラスがその空間に描きあげた宮殿はしばらくは消えない   平岡直子
ふりかへるひまがあるなら絵のひとつでも描きなよ、なんどでも糸杉 染野太朗

最近は短歌を読むことが多いが、藤原龍一郎『赤尾兜子の百句』(ふらんす堂)が発行されたので、兜子の句を読んでみた。私が今まで持っていたのは『稚年記』と花神コレクションの『赤尾兜子』(司馬遼太郎と永田耕衣による「人と作品」が付いている)。藤原の本では兜子を「異貌の多面体」ととらえ、編年体をとらずにその異貌が感受できる33句を第一部とし、第二部に『稚年記』から『玄玄』までの67句を収録している。異貌というのは兜子の句が伝統派だけではなく、前衛俳句の誰にも似ていないという捉え方である。まず、兜子のたぶん最も有名な句から紹介する。

機関車の底まで月明か 馬盥   赤尾兜子

第三イメージ論の代表作である。藤原の鑑賞では次のように説明されている。「俳句の技法の二物衝撃は二つの具体物を組合せることにより、新たな事物の関係性を発生させる。一方、第三イメージは具体物ではなく、イメージ二つを配合し、三つ目のイメージを顕在化させるもの」月光の中の機関車と馬盥。二つのイメージから第三のイメージが読者の胸中に生れれば、この句は成功したことになる。

ささくれだつ消しゴムの夜で死にゆく鳥
苔くさい雨に唇泳ぐ挽肉器
「花は変」芒野つらぬく電話線
帰り花鶴折るうちに折り殺す
葛掘れば荒宅まぼろしの中にあり
ゆめ二つ全く違ふ蕗のたう

山路春眠子は「川柳スパイラル」11号の特集「この付合を語る」で「俳句の世界でも、大須賀乙字の『二句一章』、山口誓子の『二物衝撃』の配合論が生まれる。外山滋比古は、こういうイメージ交響のメカニズムを『修辞的残像』と名づけた。すべて私たちの遺産である」と書いている。イメージ交響のメカニズムと言えば、「路地裏を夜汽車と思ふ金魚かな」(攝津幸彦)も「階段が無くて海鼠の日暮かな」(橋閒石)もイメージの連鎖に関わっている。連句の「三句の渡り」論は「第三イメージ論」と共通点もあれば相違点もある。
赤尾兜子と司馬遼太郎は大阪外国語学校でいっしょだった。のちに兜子は大学で「李賀論」を書いているそうだ。前掲の花神コレクションで司馬遼太郎は兜子と越後を旅行したときのことを記している(「焦げたにおい」)。二人で晩飯を食べていると宿の掃除係の婦人二人が声をかけてきて、四人で茶碗酒を飲んだ。「兜子は、終始顔をあげ、風情もなにもない手つきで杯をあげては飲んでいた。ときどき皿の上の黒い舞茸に箸をやり、それを口に入れるのだが、その動作も、顔をあげたままだった。口の中のものが舞茸であるのか焼魚であるのか、頓着していないような噛みかただった」掃除婦たちが行ったあと、どういうはずみだったか、兜子が急に哭きだした。「なぜ哭くのか私には見当もつかなかったし、質問もしなかった。ほうっておくしか手のないような兜子ひとりっきりの情景だったし、私は兜子の顔が勢いよくゆがんで両眼からさかんに水が流れおちているのを眺めていた」
「俳句という感情現象が、兜子の中でいま起っているのだ」「ああいうものが兜子の俳句なのであろう」と司馬は思う。
私は兜子といえばこのエピソードを思い出す。デーモンが降りてきたのだろう。関西前衛俳句に活力があった時代の話である。

2021年5月28日金曜日

『リバー・ワールド』を連句から読む

川合大祐の第二句集『リバー・ワールド』(書肆侃侃房)は4月に発行されて以来、好評のうちに読まれているようだ。『はじめまして現代川柳』の「ポスト現代川柳」の章に収録されている作者のなかでは、川合に続いて湊圭伍が『そら耳のつづきを』を上梓している。湊については改めて語る機会があると思うので、今回は川合の句集についての感想を書いておきたい。

「川柳は意味で屹立する文芸」だとか「川柳の意味性」ということがよく言われるが、川合の作品に何かの意味をもとめる読み方は無効だと思っている。句集全体の世界観は何となく感じられるけれど、一句一句にどんな意味があるかを探っても何も出てこない。私が興味をもつのは、川合の言葉がどんなふうにして出てくるのかという、言葉の生まれ方・出し方についてだ。
第一章「零頭の象」から「忌日」を使った句を抜き出してみよう。

警棒の長さオスカー・ワイルド忌
鏡割る以上のことを桜桃忌
横綱を言葉で言うと桜桃忌
金の粉あたまはりつくナウシカ忌
ガチャガチャが集まるジャンボ鶴田の忌
失った世界ガソリンスタンド忌

忌日俳句というものがあって、歳時記には「実朝忌」「獺祭忌」「時雨忌」などの忌日が収録されている。忌日を季語として使った句が成功しにくいのは、実朝とか子規とか芭蕉のイメージが強いので、それと何かを取り合わせるときの距離感がとりにくいからだ。

獺祭忌明治は遠くなりにけり
降る雪や明治は遠くなりにけり

この二句のうち「降る雪や」の方が名句として残り、「獺祭忌」が忘れ去られているのは、獺祭忌・子規・明治というイメージの連鎖が当然すぎておもしろくないからだろう。「降る雪」の天象と「明治は遠くなりにけり」の述懐のほうが取り合わせとしては効果的だと言われる。
川合の場合は「桜桃忌」は季語ではないけれど、読者は太宰治のことを当然思い浮かべる。けれども句のなかでは太宰とはまったくかけ離れたことが言われている。「鏡割る以上のことを桜桃忌」はまだおとなしい方で「横綱を言葉で言うと桜桃忌」となるとムチャクチャに飛躍している。「桜桃忌」の意味やイメージは破壊されているから、「横綱を」の方がより川柳的である。川合はさらにエスカレートしてアニメの「ナウシカ忌」、プロレスの「ジャンボ鶴田の忌」を作りだしている。
取り合わせや配合はAとBの二つの言葉の関係性だが、川合はさらに進んでA・B・Cの三つを構築する。たとえば次の句はどうだろう。

春の雪キングコングを和訳する  川合大祐

素材分類でいえば「春の雪」は天象、キングコングは動物(怪獣)、「和訳する」は人情(人間が出てくる句)となる。三行に分けて書くと次のようになる。

春の雪
キングコングを
和訳する

これを連句の三句の渡りへと私流に翻訳してみよう。

春の雪孤島の山に降りしきる
 キングコングの続く足跡
原作を三週間で和訳する

まあ、こんな感じで遊んでみたが、うまくいかなかったので、もう一句お付き合いを。

風死して新体操の卑怯な手   川合大祐

風死して秒針の音かすかなり
 新体操の演技はじまる
卑怯な手使うライバル傍らに

川合の句は文脈がわかれば意味が理解できるというものではなく、言葉の生成と飛躍を楽しめばいいのだと思う。こういう作り方は昔からあって、たとえば天狗俳諧では三人の作者が作った上五・中七・下五を無関係に合わせて一句にする。これをひとりで行えば同じ効果が生まれる。

道 彼と呼ばれる長い新経路  川合大祐

この句は「道」という題があって、その連想で言葉を付けているように見える。雑俳のうち「冠句」に次のような作品がある。

宝石箱 いちどに春がこぼれ出る
羊飼い まさか俺が狼とは
秋の道 ちちははの樹が見当たらず
風光る すでに少女の瞳が解禁

川柳は題詠を基本とするから、最初の言葉からどの方向に連想を飛ばすかが重要になる。川柳の題と連句の前句の間に私はそれほど違いを感じていない。どのような言葉を生成するかというときに、作者の意識のなかにある言葉のストック、一種の辞書が効果を発揮する。川合の場合、哲学用語やサブカルなどと並んで固有名詞が作句の契機になっているようだ。第二章「プレパラート再生法」から人名を使った句を抜き出しておく。

義経を十二分間眠らせよ
道長をあまりシベリアだと言うな
サマセット・モームが巨大化する梅雨
パズル解く樋口可南子の庭先で
後方の宗兄弟へ超音波
千年後タモリの墓の祟りにて
弁慶の骨盤ならぶ美術館

その人名が一般的に喚起するイメージからずいぶん離れた内容になっている。疾走する固有名詞。既成概念を裏切り続けるのは楽なことではない。