山中千瀬の歌集『死なない猫を継ぐ』(典々堂)が発行された。
私は『さよならうどん博士』のころから山中のファンで、「川柳スパイラル」18号のゲスト作品に川柳10句を寄稿してもらったこともあり、今度の歌集を楽しみにしていた。
巻頭に次の歌が置かれている。
宇宙服を脱がないでここは夜じゃない部屋じゃない物語を続けて
宇宙服というのだからここは宇宙なのか。あるいは宇宙から帰還してすぐのときなのか。でも夜でもないし部屋でもない。物語が続くことだけが望まれている。一首全体が喩だとも読めるけれど、この歌ではじまる章は「ノンフィクション」と題されている。
山中は「あとがき」で小学生のころの遠足の記憶について書いている。小さい森に行った子どもの「私」は「トトロを見た」と報告した。森に行った子どもはそんなふうに言うべきだと彼女は考えた。しかし、周囲の人はそれを「嘘」と受け取る微妙な雰囲気になったという。「本当のことは書かなくてもいい」という中学の国語教師の言葉も紹介されているが、ここにはリアルとフィクションの微妙な関係がある。
非実在の引き金を引く仕草してそして始まる雨を見ている
銃の引き金を引くのだが、それは仕草だけである。しかも引き金は実在しない。雨を見ている日常に非実在の心理がかぶせられてゆく。
この違和感や世界とのズレの感覚は、たとえば次のような歌にも見られる。
でもきみでなくてもよかったということ暮れる川辺でいつか話そう
交換可能な世界のなかで「きみ」は偶然選ばれたのか。運命というようなものはないとしても、偶然を運命にすることができるかもしれないけれど、別の人や事であった可能性は残る。そういうことを話すのはいまではなく「いつか」であって、むしろ話さない方がよいのかもしれない。
平岡直子は「栞」のなかで山中について「でも短歌でなくてもよかった」のだろうなという感じを語っている。山中にとって短歌とは別の可能性の感覚があったのかもしれないが、短歌でなくてもよかったとも言い切れない。
短歌とは別の形式として、この歌集には川柳作品が四か所収録されている。「はるちる」「バラかわく」「わらびもち」は川柳フリマや文学フリマで配布された冊子『SH2』『SH3』『SH4』に、「霧笛」は「川柳スパイラル」18号に掲載されたものである。
でも行かなきゃって思うとき覚める夢
火をつけて逃げて彼らはそれっきり
薔薇が乾いてチョコの箱にぴったり
どのことばを捨てたか捨てたから言えない
ほんとうのわらびもち うそのわらびもち
「ばらがわく」のあと「薔薇が乾いて」はじめて箱にぴったり収まる。おいしいわらび餅とおいしくないわらび餅のペアではなくて、本当のわらび餅と嘘のわらび餅がある。現実とは異なる次元で、リアルとフィクションの関係が成立する。
おうどんに舌を焼かれて復讐のうどん博士は海原をゆく
短歌作品に戻ると、『さよならうどん博士』の歌がさりげなく収録されているのが嬉しい。また「花図鑑」では山中が得意とする折句が使われている。カキツバタの折句を『伊勢物語』の有名歌と並べて紹介しよう。
帰らない気がした星も月もない晩、衝動を確かめようじゃん 山中千瀬
唐衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞ思ふ 在原業平
山中の歌集にはさまざまな要素があって楽しめるが、最後にメッセージ性のある二首を引いて終わりにしたい。
きみはきみにやつらの語彙で語ることを生涯かけて許さなかった
またきみが去ってやつらが残るのを一〇〇年を二〇〇年を見ていた
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