2021年3月26日金曜日

大阪川柳散歩

コロナ禍で街に出ることが少なくなった。実際に行けないかわりに、想像のなかで文学散歩を楽しんでみたい。時空を超えて大阪の川柳ゆかりの地を訪ねてみる。

【心斎橋北詰・小島洋服陳列場】
心斎橋は長堀川にかかっていた橋だが、1960年代に川が埋め立てられて現在は明治の面影は残っていない。かつて心斎橋北詰に小島陳列場があり、小島六厘坊が住んでいた。六厘坊の父・小島善五郎は洋服商を営んでおり、小島銀行を設立するなど資産家であった。この小島銀行がその後どうなったのか調べてみたが、明治期には個人創業の銀行がしだいに吸収合併されていったようで、経緯がよく分からない。六厘坊の父の自宅は西横堀川の御池橋にあったが、六厘坊は小島洋服陳列場の方に住んでいたようだ。ちなみに御池橋も川の埋め立てにより現存しない。
六厘坊は明治期の関西における新川柳(近代川柳)の草分けで、小島陳列場に集まった若き川柳人たちの姿は梁山泊のようなイメージで私の心をとらえてはなさない。
小島洋服陳列場の位置を文献で調べてみたが、心斎橋北詰の駸々堂とうどん屋との間の二軒を合併したものだという。書店の駸々堂も現存しない。
陳列場というから洋服の陳列をしていて店員がいたが、六厘坊は店員とは別に大きなデスクを前にして正面を向いていた。川柳の友人が入ってゆくと、六厘坊が「ヤアー」と満面の笑みで迎える。店では川柳の話はせず、陳列場の奥にある倉を改造した部屋へ連れてゆく。職場の仕事と川柳は区別していたのだろう。薄暗い気味の悪い部屋で、六厘坊は一、二時間たてつづけに川柳談を語る。句も作らせるが、「まずい、まずい」と頭から決めつける。なかなか褒めないが、褒めるときはとこぎり褒めそやす。「とこぎり」とは徹底的にという意味の方言である。とこぎりけなすか、とこぎり褒めるかのどちらかだった。徹底した性格だったのである。雄弁だったから、彼が褒めて句の解釈をすると、聞くものは思わず引き込まれて感嘆させられたという。

六厘がほめりゃとこぎりほめる也  作者未詳

川上日車は六厘坊の友人で、そのころは七厘坊と名乗っていた。二人は川柳の主義主張で争うことが多く、すぐに絶交する。それでも二三日すると七厘坊は陳列場に姿を見せ、再びもめて絶交を繰り返した。
川柳の句会は新町の光禅寺でも行われて、西田当百がここではじめて六厘坊と会って、その若さに驚いた思い出を書いている。
六厘坊は小島洋服陳列場に21歳までいたが、十合呉服店の向かい側に別家して洋服商を営んだが、病を得て22歳で亡くなった。夭折の天才川柳人であった。
六厘坊については「週刊俳句」(2010年3月7日)に「小島六厘坊物語」というタイトルで小説風の文章を書いたことがある。

【四貫島】
喜多一二(きた・かつじ、鶴彬の本名)が高松から大阪にやってきたのは1926年秋のことだった。17歳のときである。その翌年、彼は「北国新聞」に「大阪放浪詩抄」を発表している。長編の詩だが、その最初だけ引用する。

はじめて見た大阪の表情は
石炭坑夫の顔のやうに
くろずんでゐた
軽いつっそくをおぼえる空気の中に
あ、秋はすばやくしのびこみ
精神病者のごとき街路樹は
赤くみどりを去勢されてゐる

大阪では四貫島(しかんじま)の従兄宅に寄宿して、町工場で働いた。彼はそれ以前に田中五呂八の「氷原」に参加し、新興川柳の洗礼を受けていたが、実際の労働者としての体験は彼をプロレタリア川柳へと鍛え上げたことだろう。
かねてから四貫島へ行ってみたいと思っているが、JR西九条駅から路線を乗り換えねばならず、訪れる機会がない。四貫島といっても鶴彬の住んでいた場所もわからないことである。
大阪城には鶴彬の句碑が建立されている。彼が治安維持法違反で収監されていた大阪衛戍監獄の跡地である。

暁を抱いて闇にゐる蕾   鶴彬

【青蓮寺・岸本水府墓】
2013年3月に大阪・上本町で「第32回連句協会総会・全国大会」が開催されたときに、連句人の有志数名で上本町周辺の俳諧史跡を散策したことがある。生玉神社から口縄坂に向かう途中の青蓮寺に「岸本水府墓」の表示があるのを門前で発見して立ち寄った。この寺には竹田出雲墓もある。大阪の俳諧史跡についてはこの時評(2013年3月30日)にも書いておいた。水府で私の一番好きな句は次の作品。

壁がさみしいから逆立ちをする男  岸本水府

『はじめまして現代川柳』を編集しているときに、川上日車に「慰めか知らず逆立ちする男」の句があることに気づいた。日車は前衛川柳、水府は伝統川柳(本格川柳)という二分法では片づけられないと思った。
さて、道頓堀に初代・中村鴈治郎を詠んだ水府の有名な句碑がある。場所は今井の横である。

ほおかむりの中に日本一の顔  岸本水府

【相合橋北詰】
水府の句の連想で食満南北のことに触れておきたい。
食満南北(けま・なんぼく)は堺市の出身。鴈治郎の座付作者であり、水府の「番傘」にも深くかかわっている。相合橋北詰に歌舞伎の店を開いており、その二階を句会場にしていた。洒脱な人で「今死ぬと言うのにしゃれも言えもせず」という辞世を残している。相合橋北詰にある句碑は次の句である。

盛り場をむかしに戻すはしひとつ  食満南北

この句の橋は相合橋ではなくて、太左衛門橋のことである。道頓堀川に太左衛門橋が復活したとき詠まれた作品だという。

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