筒井祥文についてはこの時評でも触れたことがあるが、次の祥文論がいちばんまとまったものである。
旧稿なので、データは以前のものだが、基本的な考えは変わっていない。
初出は「MANO」17号(2012年4月)。
筒井祥文における虚と実 小池正博
1 読みの衰弱
文芸に限ったことではないが、現代日本人の読みの力は確実に衰弱している。サブカルチャーについて言うと、たとえば漫画を読むにも読解力は必要であって、コマとコマの間の飛躍を想像力によって埋めることでストーリー展開はスピード感を増すはずである。ところが、一九七十年代後半あたりから、コマとコマのつながり方が理解できないというクレームが読者から寄せられるようになったと石ノ森章太郎が嘆いているそうだ。
「こうしたコマとコマの飛躍については、過去さまざまな評論家が考察をめぐらせてきた、コマとコマの飛躍を結びつけるもの、それはマンガの読書経験の積み重ね=知覚の習い(リテラシー)であることに疑いはない。『慣れ』は、より正しい『理解』をもたらすのである」(竹内オサム『マンガ表現学入門』)
コマとコマの間に飛躍がありすぎると読者が付いてゆけない。それを補うために漫画家が説明的になると、さらに読者の想像力が鈍磨していく。この循環によって読者の読みの力は確実に落ちてゆく。
これを連句にたとえれば、前句と付句の関係がべったりと付きすぎている句(親句・しんく)が好まれ、前句から遠くに飛ぶような付句(疎句・そく)は嫌われることになる。親句・疎句はどちらが良いというような優劣ではなくて、両方とも必要なのだ。その一方しか理解できないということは、文芸・文化の幅を狭めてしまうことになってしまう。映画のカットとカットのつなげ方にも同じことが言えるだろう。
話芸である落語を聞く場合でも事態は同様である。落語家は何もかも説明するのではなくて、簡潔な言葉によって場面を聴衆に想像させる。あまりに説明過多になってしまうと聞き手は逆に退屈してしまう。特に、最後のオチの部分は短く語らなくてはいけない。長々としたオチ、説明しなければならないオチなんてオチにならないのだ。もちろん、古典落語に出てくる生活情景は現代人の生活とは随分違うから、落語家はマクラとか話の途中で周到に説明的部分を用意しておくだろう。そういうことも含めて落語の場合でも聴く力は必要なのだ。
以上のようなことを前置きとして、これから筒井祥文の川柳について語ってゆきたい。筒井祥文は京都在住の川柳人である。関西のあちこちの句会回りに明け暮れ、自身では川柳結社「ふらすこてん」を主宰する。
まず、セレクション柳人『筒井祥文集』(邑書林)から彼の代表作と思われる五句を挙げてみよう。
御公儀へ百万匹の鱏連れて
カッポレをちょいと地雷をよけながら
弁当を砂漠にとりに行ったまま
殺されて帰れば若い父母がいた
夜景へ三度「カマイタチ」と叫ぶ
このような川柳が書かれるためにはそのルーツがあるはずである。普通、川柳人には師系があって、その川柳の系譜がたどれるのだが、本稿では祥文のルーツを彼が親しんできた落語にあると見て、落語言語から彼の作品を眺めて見たい。
2 落語言語トレーニング
私は特に落語に詳しいわけではないから、まず自分自身のためにもトレーニングを必要とする。『筒井祥文集』の中からこんな句を取り上げてみよう。
有りもせぬ扉にノブを付けてきた
半分は嘘半分は滑り台
「有りもせぬ扉」にどうしてノブを付けるのかと問うことは野暮である。半分はウソ、では残りの半分の「滑り台」は何かの隠喩だと考えることもやはり野暮なことである。そもそも、ないものをあるように見せるのが落語の芸ではなかったのか。
上方落語の二代目桂枝雀は落語の本質を「緊張と緩和」ととらえ、オチを四つに分類したことでよく知られている。落語入門書には必ず紹介されている枝雀の四分類は次のようなものだ(野村雅昭著『落語の言語学』平凡社ライブラリー、による)。
①ドンデン…ウソが基調となっているが、最後にかくされていた状況があらわれ、キキテの予期していた結末と反対の方向におとすパターン。「ドンデン返し」の略。
②謎解き…ウソを現実のことのように演じ、キキテになぜそういうことがおこるのかという疑問をいだかせ、やはりウソだったとおとすパターン。
③へん…実際にあることのように演じ、話をすすめ、最後に変なことがおこって、全体がウソだったということがわかるパターン。
④合わせ…〈へん〉と同様の展開をもつが、オチの部分が作為的にうまくこしらえてあり、キキテを納得させるパターン。
私はこの四パターンを筒井祥文の川柳に当てはめて分類してみせたいわけではない。それこそ最も野暮な批評であろう。そうではなくて、祥文の川柳を読むときにウソと現実との緊張関係くらいは意識しておきたいだけである。文芸用語で言えば「虚と実」ということになる。
筒井祥文がはじめて川柳に出会ったとき、その世界は彼のよく知っていた世界だと思われたことだろう。そして、彼は自分なら既成の川柳人よりもっとうまくやれると直観したことだろう。川柳の穿ちと落語のオチとはそれほど異質なものではない。
しかし、問題はその先にある。
「そば清」(あるいは「蛇含草」)という落語がある。蕎麦好きの清兵衛が旅の途中でウワバミが人を飲み込むのを見た。その後、ウワバミが道端の草を舐めると、ふくれた腹がみるみるひっこんだ。これは役に立つと思った清兵衛はその草を江戸に持ち帰った。江戸で彼は百杯の蕎麦を食べる賭けをする。例の草の効果をあてにしてのことだ。五十杯食べたところで、彼は草を舐めに部屋の外へ出たまま、いつまでたっても戻ってこない。
「清兵衛さん、こっちへいらっしゃい。返事がないね?逃げちまったのかな。来ないと、あけるよ」
―がらっとあけてみるってえと、お蕎麦が羽織を着て座っていました。
これが「そば清」のオチである。
ところが、現代の聞き手にとってはこれだけでは意味がわからない。困った落語家は説明を入れざるをえない。
「こりゃ、どういうわけで、おそばが羽織をきてすわってたてえと、ウワバミのなめた草は、人解草てえましてナ、人間のとける草をなめた。そいつを清兵衛さん、腹のへる薬だとまちがえて、こいつをなめたから、清兵衛さんがとけて、おそばが羽織をきてすわってました」(三代目三遊亭小円朝「そば清」)
この説明をよしとするかどうか。「お蕎麦が羽織を着て座っている」というグロテスクで不条理なイメージが説明によって壊れてしまうのだ。意味を伝えることと落語美学との二律背反。祥文の戦いが始まるのはここからである。
3 どくだみノートから
では、そろそろ筒井祥文の川柳を読んでみることにしよう。
御公儀へ百万匹の鱏連れて
「御公儀」とは時代がかっているが、時の政府ということだろう。そこへ「百万匹の鱏」を連れて行くのだから何らかの抗議行動というふうに読める。
「金曜日の川柳」で樋口由紀子はこの句を取り上げて、「鮫ならば来る理由もわかるし、来られる方も対処の仕方がありそうだが、鱏ではどうしようもない」と書いている。確かに「鱏」が「鮫」だったらこの句はもっと分かりやすくなる。「鮫」がメタファーとなり、意味性が匂い出すのである。けれども、樋口の言うように、鱏を連れた男の行動は理解不能なのだ。
私はこれを一種のキャラクター川柳と見て、作中主体を「鱏連れ男」と呼んでみたことがある。ただし、そんなことを言ってみても、何も明らかになるわけではない。
「百万匹の鱏」は川柳によく見られる「誇張法」である。そもそも、抗議される政府、抗議する大衆という図式をこの句ははるかに越えているのではないか。抗議される方が悪で抗議する方が善というのでもない。立場はいくらでも逆転するし、何が正しいかも不明確な現代社会である。そのような世界の中で、いっしょに連れていくとしたら鱏しかいないのではないかと思わせる奇妙な説得力がこの句にはある(おっと、私もつい説明に走ってしまったようだ)。
カッポレをちょいと地雷をよけながら
一読して分かりやすい句である。人を食ったようなところもある。実景というより、ある状況をとらえているのだろう。地雷地帯で本当にカッポレを踊るやつはいない。危機的状況に置かれても遊び心を失わない精神の姿勢。「首が飛んでも動いてみせまさあ」というところだろうか。ウソを現実のように見せるやり方がここにも見られる。
弁当を砂漠にとりに行ったまま
出ていったまま、いつまでたっても帰ってこない人がいる。煙草を買いに行ったまま帰ってこないなら演歌の世界であるが、なぜこの男(女でもよいが)は弁当を砂漠なんぞにとりに行ったのか。よく考えてみると変な状況である。そこで読者は「なんだ、これはウソの世界だったのか」と気づくのだ。弁当をとりに行った男がその後どうなったのか心配する必要はまるでなかったわけだが、人がいなくなったヒヤリとした感覚は妙に心に残る。
殺されて帰れば若い父母がいた
誰が殺されたのだろう。被害者が仏になって家に戻る。その家の父母は意外に若かった。そのように読めば現実の状景であるが、この読みには何か違和感がある。死者は時間を遡って過去の家にたどり着いたのだろう。そこには彼がまだ生れる以前の若いときの父母がいた。それを死者の眼が見ている。
夜景へ三度「カマイタチ」と叫ぶ
ビートたけしが昔つかっていた「コマネチ」のギャグのようなものだろうか。夜景に向かって三度も叫ぶ男は攻撃的である。
黒門町の師匠と呼ばれた桂文楽に『あばらかべっそん』という本がある。文楽の語ったことを安藤鶴夫が記録してできた本だが、書名の意味が何だか分からない。文楽の口癖だった言葉らしい。そういえば筒井祥文の主宰する「ふらすこてん」も意味が分からない。また、同誌の同人作品欄(祥文選)のタイトルは「たくらまかん」。別に砂漠の名前でもなさそうだ。
福助の頭で列車事故がある
改札を駆け抜けたのは原始人
「福助」の句は落語の「あたまやま」を連想させる。ある男がさくらんぼを食べたところ、頭から芽が出てきたので困る話である。芽は育って桜の大樹になり、花見客がこの男の頭に押し寄せる。うるさくてかなわないので樹をひっこぬいたあとに穴があき、池ができた。今度は釣人がきたり舟遊びをしたりするので、とうとう男はノイローゼになり、自分の頭に身を投げた…ナンセンス落語だが、幻想的なところもある。SF落語と言ってもよい。
「改札を」の句では異なった時代がミックスされている。初代権太楼の小咄にこんなのがあるそうだ。剣の達人が刀を抜いて果たし合いをしている。その間をすーっと自転車が通っていったというのだ。意識的に時代錯誤的演出をするのはいろいろな芸術ジャンルでよく見られることである。
沖にある窓に凭れて窓化する
動議あり馬の眉間へ馬を曳く
「沖にある窓」とは何だろう。作中主体と窓との位置関係に読者は幻惑される。しかも「凭れている人」自体が窓になってしまうというのだ。アポリネールの「オレノ・シュブラックの失踪」では男が壁化するが、この句は「窓化する男」という不条理なキャラクターである。
「馬の眉間」に馬を曳いていくという。馬を曳くのは現実の行為であっても、「馬の眉間」は現実の場所ではない。
筒井祥文の川柳及び「ふらすこてん」の同人作品を前にするとき、難解だという感想がよく聞かれるようである。けれども、「難解」にもいろいろな次元がある。読者は意味を問う前に自分の読みを問う必要があるのではないだろうか。落語のオチの意味が分からないときに、それを落語家に問うのは随分味気ない行為であろう。
祥文と書くどくだみが咲くノート
4 川柳の伝統ということ
祥文はなぜこのような句を書くのであろうか。
もともと筒井祥文は伝統派の川柳人に近いところから出発している。年譜によると、昭和五十六年ごろ、京都市内のスナックで「都大路川柳社」の会誌を見たのが川柳の世界に入る契機となったようだ。「都大路」のほか京都・大阪の「番傘」句会を渡り歩き、神戸の「ふあうすと」にも出向いて句会回りをしている。「都大路」が解散したあと、自ら「川柳倶楽部パーセント」を立ち上げ、さらにそれを発展的解消して現在の「ふらすこてん」に至っている。
いわゆる「伝統川柳」とは六大家を中心とした流れをさしている。岸本水府は「伝統川柳」という呼び方を嫌って「本格川柳」と称したが、内実は同じことであろう。「伝統」と「革新」という対立はもう無効になっていると私は思っているが、話を歴史的に整理する場合は、この言葉を使うしかない。私自身は伝統川柳の結社に所属したことがないが、「伝統川柳」ではなくて、「川柳の伝統」には忠実でありたいと思っている。しかし、筒井祥文の行き方は少し違う。祥文は「伝統川柳」にこだわり、衰弱した「伝統川柳」を下支えしようとする。「ふらすこてん」十三号の「常夜灯」(巻頭言)で祥文は「川柳が文芸である以上、オリジナルでなければならないことは当然です。しかしそれは句材が古いものは総てダメだということになりません。逆に古くても句として立ち上げ得るから文芸なのです」と述べている。伝統川柳に対する彼の考えをよく表していると思う。
はやらない旅館がむかしあった坂
夕焼けが城を正しい位置に置く
こんな手をしてると猫が見せに来る
どうしても椅子が足りないのだ諸君
花屋も閉めた白薔薇を売りすぎた
歳時記の裏の屋台で軽くやる
人魂が今銀行に入ったが
鼻唄で拾い集める壇の浦
本名をハリマヤ橋で誰か呼ぶ
栗咲いてセールスマンは尾根伝い
「はやらない旅館」は単なるノスタルジーではないだろう。古典落語にせよ新作落語にせよ、落語を演じるのは現在の話者である。そういう意味では、落語は古典ではなく現在ただいまの話芸なのだ。川柳においても「伝統川柳」の体現者がいるとすれば、彼は最も現代的でなければならない。「正しい位置」などもうどこにもない現代で、なお川柳を書き続けていく行為とはどういうものだろうか。祥文はふと観客をいじってみせる。「どうしても椅子が足りないのだ諸君」と。「ふらすこてん」に祥文は「番傘この一句」という連載を続けている。『番傘』誌に掲載された作品を丹念に拾い、読み続けていく作業である。それはきわめて孤独な営為とも言えるだろう。
『筒井祥文集』に収録の「芸人宣言」という文章で、祥文は「川柳家は『芸人』や『職人』である」と宣言したあと、次のように述べている。
「卑下することもない。かの桂枝雀は命懸けで『桂枝雀』をこの世に演りに現れたし、かたや古今亭志ん生は見せる芸を超えて『晒す芸』をやってのけた。人間国宝には桂米朝さんがいる。『職人』になって機能美を追求することも悪くないのではないか。何も恐れることはない。狂句もバレ句も噛み砕く力があればよいのだ。居直れば小生意気な芸術家の一人や二人は喰えようというものである」
第二芸術論に対して高濱虚子は「俳句もようやく芸術になりましたか」と述べたという。第二芸術論の際に取り上げられすらしなかった川柳は、これまで芸術になろうと必死の努力を続けてきた。川柳に「詩」を導入したり、「私」を導入したりするのはその証である。けれども祥文は平然としてこんなふうに言い放つ。
オヤ君も水母に進化しましたか
なら君も文学論と情死せよ
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