新潮文庫で「村上柴田翻訳堂」と銘うって村上春樹と柴田元幸による翻訳シリーズが発行されている。英米文学の翻訳者と言えば、古いところでは中野好夫とか大橋健三郎とか思い浮かぶが、いま柴田元幸が第一人者なのだろう。その柴田訳による『ハックルベリー・フィンの冒けん』(研究社)が話題になっている。中学生くらいの少年であるハックが語り、書いているということを意識した訳になっていて、タイトルも「冒険」という漢字がハックには書けないだろうという想定で「冒けん」となっている。
先日、梅田の書店で柴田のトークと朗読があったので聞きにいった。『ハックルベリー・フィン』の原稿のうちM・トゥエインが本にするときには削った部分の朗読も聞くことができておもしろかった。トークのうち特に注目したのは「voice(声)」という捉え方である。柴田は作中人物のvoiceや「どう語られているか」を重要視して翻訳するというが、それとは別に作者のvoiceということも考えるという。それが作中人物のvoiceなのか、作者のvoiceなのかは明確に区別できないが、区別して考えられる場合もあるという。この部分は作者のvoiceだと思われる個所があるというのだ。柴田の話を聞きながら、これはたいへんデリケートな問題だが、作品の読みを考えるときに重要な視点だと思った。
昨年発表された川柳作品のなかで石田柊馬の次の句が気になっている。
その森にLP廻っておりますか 石田柊馬 (「川柳スパイラル」創刊号)
何となくわかるような気がするし、いろいろな状況を思い浮かべることのできる句だが、説明するとなるとむつかしい。
「その森」とはどこか。なぜ「LP」なのか。LPが廻っているのか、いないのか。廻っていることがよいことなのかどうか。
とにかく、どこかの森でCDではなくLPが廻っている。LPの回転は時間の経過を感じさせるから、時間とか記憶とかいうものと関係するだろう。私がこの句に感じるのは、LPが廻らなくなるような状況をよしとしない価値観である。止まらずに廻り続けているのかどうかを問うところに批評性を感じるのだ。
別れ際「笑止」のひと声落ちてくる 内田万貴 (「川柳木馬」155号)
誰とどういう状況で会ったのかは分からないが、別れるときに厳しい全否定の言葉を浴びせられたのである。実際に「笑止」という言葉を投げつけられたのではなくても、そう言われたかのように受け止めたのかもしれない。言われて作中主体がどう思ったか。それについては何も書いていないところに潔さがある。
散る時も力を貸してくれますね 松永千秋 (「晴」1号)
ここには「いや、嫌だ」とは言えない、相手を巻き込んでゆく語りがある。それは相手に対する信頼なのか、悪意なのか。どのような人物がこれを語っているかによって、語り方が変わってくるし、文脈も変わってくるのだ。
桃色になったかしらと蓋をとる 広瀬ちえみ (「晴」1号)
蓋のなかには何があったのか。それは桃色になるようなものなのか。いろいろなことが省略されていて、それが読みの魅力になっている作品である。
缶コーヒー掴むと消える地下の街 悠とし子 (「触光」56号)
不思議な句である。私は消えたのは地下の街だと読んでいる。ふっと消えてしまって、手のなかには缶コーヒーだけが残っている。けれども一瞬消えた街はふたたび元の姿で蘇ってくるかも知れない。消えたのは缶コーヒーの方とも読めるが、それだとスケールが小さくなってしまう。
エイがひとりで運営水中博物館 西川富恵 (「川柳木馬」155号)
これも不思議な句だが、おもしろい句でもある。
「水中博物館」というのは水族館のことだろうか。それをエイがひとりで運営しているというのは何だか変だ。エイが水槽をひとりで泳いでいるとも読めるが、それだと「運営」とは言わないだろう。おかしな味わいを楽しめばいいのかもしれない。
林檎それぞれ水平線を持っている 野沢省悟 (「触光」56号)
林檎は垂直のイメージだろうか。林檎の樹を思い浮かべるし、ニュートンの引力の話を連想すれば林檎はどうしたって垂直に落ちる。そうすると垂直と水平のコントラストの句なのか。
林檎の果実の一個一個が水平線を持っているのだと読むと、イメージが広がってくる。山に実っている林檎がそれぞれ水平線を持っているのだ。
無抵抗主義でガス室まで歩く 古谷恭一 (「川柳木馬」155号)
ホロコーストを題材にした句だが、ここまで詠みきるのは作者の力量だろう。
淡々と書かれているだけに、危機意識は強力である。
一片の鱗剥がれて砂を吐く 大野美恵 (「川柳木馬」155号)
「鱗」というのだから魚の類だろう。主語は意識的に省略されている。
一句全体で内面の状況を比喩的に表現しているとも読める。
迎えに行くよ梨よりあたたかい身体 服部真里子(「川柳スープレックス」2月1日)
「梨よりあたたかい身体」という表現が魅力的。
身体は梨よりちょっぴりあたたかいという感覚である。絶望することもなく、希望を持ちすぎることもなく、人と人との関係性が適度な距離感をもって表現されている。
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