2月に金子兜太が亡くなった。
遅まきながら、『金子兜太の世界』(『俳句』編集部編、2009年9月)を引っ張りだして、その中の岡井隆の文章を読んでいる。「金子兜太といふキーパースン」で岡井はこんなことを書いている。
「昭和三十年代あるいは四十年代のはじめだつたか、前衛川柳の何人かの人と、私とを、金子さんは引き合わせてくれた。今はやりの風俗的な、口あたりのいい川柳とはちがう川柳。今、心ある新鋭たちが柳壇の再興を願って論をかさね、作品を書いてゐるのを読むと、この人たちの先輩にあたるのが、金子さんがひき合わせてくれたかれらだつたのだと思ふ。あの謎のやうな一群の川柳人たちと、私は巣鴨か大塚あたりの小さなホテルの一室で合議したことがある。あれは一体なんだつたのだらう。大方は私の方の事情で、この会議は続かなかつたが、金子兜太の、俳壇を超越した動きの一端はあのあたりにもあつた」
岡井の言っているのは「俳句研究」昭和40年1月に掲載された座談会〈「現代川柳」を語る〉のことである。金子兜太・岡井隆・高柳重信のほか、川柳側からは河野春三・山村祐・松本芳味が参加した。
金子兜太はすでにいないが、岡井のいう「謎のやうな川柳人たち」の末裔は世代交代をくりかえしながら「現代川柳」を書いており、いまや若い歌人や俳人にとって謎でも何でもない存在になっているはずである。
3月25日、現俳協青年部の勉強会で助詞の「を」をめぐる議論があった。
「を」はどこから来たのか、「を」は何者か。「を」はどこへいくのか。
パネリストは大塚凱・堀切克洋・柳本々々。司会・黒岩徳将。
私は聞きに行けなかったが、レジュメだけもらったので、特に柳本のレジュメについて紹介しておきたい。
柳本が取り上げたのは鴇田智哉の俳句である。
「鴇田智哉の俳句は、〈を〉で対象化するものを宙づりにするところがある。俳句は、対象をみつめる行為だが、そのみつめる行為自体を問題化してゆく」
「鴇田智哉の俳句は、対象化しながらも対象化そのものを解体してゆくことを考える。「を」で対象化しながら、どうじに「を」を解体してゆく」
うすぐらいバスは鯨を食べにゆく 鴇田智哉
人参を並べておけば分かるなり
箱庭を見てゐるやうな気になりぬ
柳本はベケットの演劇『ゴドーを待ちながら』やアラン・レネの映画『二十四時間の情事』、特撮シリーズ「ウルトラセブン」などを取り合わせる。ウルトラマンでは対象である敵・怪獣がはっきりしているのに対して、ウルトラセブンでは星人が多くなり敵味方がはっきりしなくなるというのだ。
さらに柳本は「現代川柳はあらかじめ対象を喪失している」と述べ、その例として樋口由紀子の作品を挙げている。
勉強会に直接参加していないので、詳しいことは分からないが、興味深い集まりだったようだ。ちなみに次の句の作者名は前田勝郎ではなくて前原勝郎である。
を越えてたんぽぽいろの今日そして 前原勝郎
今月届いた川柳誌・俳誌をいくつか読んでゆきたい。
「川柳杜人」257号は高橋かづきフォト句集『ふあんのふ ふしぎのふ』について特集している。この句集は「川柳杜人」に連載された写真と川柳、エッセイを一冊にまとめたもの。松永千秋・水本石華・丸山進が鑑賞を書いている。
あすなろあじさいアイスクリーム明日が来る 高橋かづき
ストラップにしようあの日の失言は
春なれど動かしがたき助詞ひとつ
この連載は現在も続いていて、今号には「すんなりと春になったりしない春」の句と写真。エッセイには八坂俊夫が昨年四月に亡くなったことが書かれている。私はそれを知らなかったので、少しショック。「もう春が近い夜汽車を聴いている」(八坂俊夫)
同人作品からも紹介しておく。
猫帰る空から落ちてきたように 加藤久子
許せない私を許す猫のにおい 加藤久子
どうどうとしている鳴き声をもらい 広瀬ちえみ
開封をしたら急いでうずめてね 広瀬ちえみ
家具たちが身じろぎをするさあ逃げて 佐藤みさ子
「家」が泣くので笑うほかない 佐藤みさ子
次に京都の川柳誌「凜」73号から。桑原伸吉の巻頭言は今年1月4日に亡くなった村井見也子の追悼。同人作品と投句欄から何句か紹介する。
草を食む牛を見ている哲学者 こうだひでお
バラストの足らぬ男にぶれがあり こうだひでお
丁寧に音とる春の首 辻嬉久子
音感のままにしばらくの春 辻嬉久子
幸せなんて赤・青・黄色・麦畑 本多洋子
鍵をなくしてからのまといつく風 前田芙巳代
フロイトとろとろまぶたから融ける 内田真理子
ゴーギャンの女性にふっと会う渚 井上早苗
4月22日には「凜 20年記念のつどい」が京都商工会議所で開催される。選者は八上桐子・こうだひでお・中野六助・前中知栄・徳永政二・小池正博・辻嬉久子。
俳誌「里」3月号。「2018寒稽古in軽井沢入選全568句」、2月11日・12日に軽井沢で行なわれた吟行会・作句会の記録。参加者21名。二日間でひたすら百句を作っている。読みごたえ十分である。
泡立ってをり春泥の駐車場 中山奈々
恋を語らず歯の奥のセロリかな
絵はすべて少女よ鴨を残らせて
メンバーが悪い雪女が来ない
さくらいろいろ本名を告げずゐる
鴨博士曰く大きな鴨がゐる 柳元佑太
ぽんかんがぼくをほどけておかない
血は春に骨はわけてもあばらぼね 田中惣一郎
凧で遊ばう時間も性別も超えて
夢の稚魚さん春の麥さんきて話す
鶺鴒は針金なのでこゑなので 青本柚紀
びにーるの視界で鴨が浮き上がる
雪の日をかさねて木々が家になる
めたふぁーは蝶ですかゐないね夢だ
句会の場において即興で作っているので完成度に難点がある作品もあるかもしれないが、作者の特質がストレートにうかがえるという面もあるようだ。
青本は「寒稽古顛末記」を書いていて、「もの」を見るということについて次のように書いている。
〈言葉への思慕を支えに書く見にはずいぶん痛いはなしだった〉
〈言葉はあまり顔を変えずにいつもそこにあるが、ものがあるのは時折で、いつも違う顔をしている。言葉で書く人間にこそ「もの」への思慕が必要なのだろう〉
ずいぶん微妙なことだが、私はこれを読んだときに「言葉への思慕」という点で共感し、「ものへの思慕」という点で俳句と分かれるのかもしれないと思った。
俳誌「奎」5号。巻頭座談会「若手俳人の動向を見渡す」がおもしろい。
「奎」編集部とゲスト・黒岩徳将が「俳句をどう続けるか」「若手作家の群像」などについて語り合っている。そこでいろいろ名前があがっているなかで木田智美の句に注目した。
川涸れて蹴上の地図はまじ卍 木田智美
あっ、姉の袖ひっぱって六花
あした穴を出ようとおもう熊であった
俳句であれ川柳であれ、句を読むときに、自分とも何らかの関係があると感じる作品の前に立ち止まることが多いようだ。
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