2018年3月17日土曜日

短歌と川柳の日々―「井泉」80号のことなど

3月×日
短歌誌「井泉」が届く。創刊80号記念号となっている。
特集「表現の現在を截る」、各ジャンルの現在の状況が書かれている。加藤治郎は木下龍也・岡野大嗣『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』を取り上げている。小池正博「アニメとアイドルと川柳」は川合大祐・飯島章友・兵頭全郎・柳本々々などの現代川柳を紹介しているが、兵頭全郎の句の引用が間違っているので、訂正させていただく。正しくは「たぶん彼女はスパイだけれどアイドル(兵頭全郎)」。蜂飼耳「詩の現在をめぐって」は北川透からはじまり野崎有似『長崎まで』・杉本真維子『裾花』までを論じる。
江村彩「表現の現在、社会の現在」の中で飯田有子について次のように書かれているのを読んで、ちょっと驚いた。

《 『錦見映理子は「66」(ロクロクの会、2016年)において、飯田有子の『林檎貫通式』(2001年)を、「はっきりとフェミニズムの思想に貫かれた一冊」と読み解き、歌集冒頭の歌「のしかかる腕がつぎつぎ現れて永遠に馬跳びの馬でいる夢」は〈女性がのしかかられつづける性〉であることの提示であると指摘している 》

急いで『林檎貫通式』を読んでみると、巻頭歌の二首あとに次のような歌もあった。

女子だけが集められた日パラシュート部隊のように膝を抱えて   飯田有子

「飛雄馬の姉さん」「枝毛姉さん」ばかりが印象に残っているが、この歌集をきちんと読めていなかったのだなと改めて思った。「短歌ヴァーサス」5号を取り出して、入交佐妃が撮った飯田有子の表紙写真をしばらく眺めていた。

3月×日
砂子屋書房のブログ「日々のクオリア」がおもしろい。
3月5日の一首鑑賞で平岡直子は染野太朗の歌を取り上げている。

隠さずにどうしてそれを告げたのかはじめはまるでわからなかった  染野太朗

平岡は、どうして「それ」が隠されているのかがはじめはわからなかったと述べたあと、次のように書いている。

《 一首だけを取り出して読むと、なにか普通隠すべきことを率直に告げた人がいて、それに対して困惑している、ということしかわからないし、「隠さずに告げた」の主語が「私」である可能性も消せない。文脈や具体性を欠落させるのは短歌ではある手法だけど、そういった歌として読むためには、最低限必要な情報の七割くらいしかない、という印象 》

おもしろいと思ったのは、文脈を欠落させる手法が短歌にあるという指摘で、私は同じ手法が川柳にもあると思っているので、短歌もそうなのかと興味深かった。意図的に主語を隠した川柳作品があり、読みが多義的になる。そういう例が挙げられるような気がするが、いま適当な作品が思いつかない。川柳の読みがわからないという声をよく聞くのは、文脈がわからないということで、ある文脈のなかに置けば、意味はある程度とれるのである。
掲出の染野の歌は連作の一首であり、「それ」が何であるかは他の歌や歌集全体からわかるのだが、詳しいことは平岡の鑑賞をお読みいただきたい。

3月×日
「川柳スパイラル」2号の校正終了。
今号はゲストとして我妻俊樹・平岡直子・中山奈々・平田有の四人の川柳作品を掲載。
飯島章友の連載「小遊星」は第63回角川短歌賞を受賞した睦月都との対談である。
あと、上田信治にエッセイを書いていただいた。「里」に連載されている「成分表」の川柳版である。
川柳人だけでなく、他ジャンルの読者にもお楽しみいただけることと思う。3月下旬に発行予定。

3月×日
奈良で連句会があったので、そのあとお水取り(修二会)を見に行った。
2017年に奈良で国民文化祭が開催され、数年前から奈良県連句協会が立ち上げられたが、国文祭が終わった後も引き続き定例の連句会が行なわれている。
お水取りはこれまでにも何度か見たことがある。午後七時に松明の儀式がはじまるけれど、午後六時までに二月堂前の広場に入らないと混雑して見ることができない。
六時少し前に場所を確保したが、すでに混雑していて立錐の余地もない。回廊を登って行くところが良弁杉の影になって見えない位置だが、それも仕方がないことだろう。宗教行事だということを理解していない人がいて、「こんなに集まっているのだから時間を早めてはじめたらいいのに」などと無理をいう声が聞こえた。練行衆の籠松明の火はそれなりにおもしろかったが、以前見たときの震えるような感動は覚えなかった。聖なるものに対する感覚が薄れてしまったのだろう。

3月×日
「現代短歌」3月号を読む。特集「分断は越えられるか」。瀬戸夏子「非連続の連帯へ」、山田航「『貧困の抒情』のために」、佐藤通雅「リセットということ」、大田美和「分断と文学の可能性」、屋良健一郎「分断をもたらすもの~沖縄の現在~」、パネルディスカッション「分断をどう越えるか~福島と短歌~」(斎藤芳生・高木佳子・本田一弘)。
瀬戸は俵万智の『あなたと読む恋の歌百首』のことから話をはじめている。この本は短歌作品と作者を調べるのに便利なので、ときどき私も参照している。瀬戸は大田美和の次の短歌についての俵万智の鑑賞に異議を唱えている。

チェロを抱くように抱かせてなるものかこの風琴はおのずから鳴る  大田美和

それでは瀬戸が俵万智を全否定しているかというと、そうではなくて、次の歌を評価してこんなふうに言う。「根本的なところで俵万智の歌の詠みぶりも方向性も方法論にも賛成できないわたしが、それでも、その歌を愛し、暗唱してしまうこと。」

「勝ち負けの問題じゃない」と諭されぬ問題じゃないなら勝たせてほしい 俵万智

「恒常的な連帯」はむずかしいと言いながら「非連続的な、瞬間、瞬間の連帯には可能性がある」という瀬戸の文章は、特集テーマ「分断は越えられるか」にまっすぐにつながっている。

3月×日
「里」180号が届く。
3月20日は上田信治と北大路翼のトークを聞きにゆく予定。楽しみにしている。

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