「東奥文芸叢書」は青森県の東奥日報社創刊125周年企画として発刊され、短歌・俳句・川柳各30冊、全90冊が予定されている。この叢書の川柳句集についてはこれまで何冊か紹介したことがあるが、今回は『笹田かなえ句集 お味はいかが?』を取り上げる。
句集の編集の仕方にはいくつかのやり方があり、この句集では「前菜」「サラダ」「スープ」「メインディッシュ」「デザート」の五章に分け、各72句、全360句が収録されている。料理のフルコースが順番に出されてゆくように、句集一冊を読むことができる。発表順とかアットランダムに並べるやり方もあるが、単独句の集積ではなくて一冊の句集として読まれることを意識した構成がまず目をひく。
したがって読者としてはこのコンセプトに沿って読んでいくのが順当だろうから、ここでも各章から数句を抜き出してゆくことにしよう。
最初に「前菜」である。
立春の雨のたとえば応挙の絵
巻頭句は雨の句である。
この句集では全体に雨や水のイメージをもつ句が点在していて印象的。
外では雨が降っていて、別に絵の中でも雨が降っている必要はないのだが、応挙の絵から連想すると、たとえば兵庫県香住の大乗寺にある襖絵などが思い浮かぶ。葉のかげから子どもの顔がのぞいている。
古い道古い神社につきあたる
特に何を言っているわけでもない、情景を詠んだ句である。
こういう句の方が主観句よりも印象に残る場合がある。
待ってと言って待ってもらってもどかしい
「待って」と言えば相手は待ってくれるだろうが、待つ方も待ってもらう方も、もどかしい。自分自身がもどかしいのだが、置き去りにされてしまうのも困る。
足元を見られぬように少し浮く
「足元を見る」というフレーズがある。そこから「見られぬように」と逆の方向へゆく。現実からの浮遊はかえって足元が見えてしまうことになるかも。
虫流す排水管は暗いだろうな
誰でも経験のある共感の句。流されてゆく虫の立場で詠んでいる。
「前菜」はこれくらいにして「サラダ」に。
ものすごい緑のままで枯れていく
「ものすごい緑」とはどんな緑なんだろう。
全盛の姿のままで枯れてゆくのだ。悔いが残るとも言えるし、逆に幸せとも言える。
プランクトンの名前をいくつ言えますか
はい、言えますよ。ミジンコ・ケンミジンコ・ボルボックス・ミドリムシ・ゾウリムシ…あれ、もう言えない。
続いて「スープ」に移る。
うさぎ抱くころしてしまいそうに抱く
可愛がって抱きしめるあまり殺してしまうことがある。ここでは、その寸前で止めている。
首筋に森を通ってきた匂い
作者に見られる感覚表現はここでは嗅覚に特化されている。
「木の匂い」「雨の匂い」「せっけんの匂い」「にんにくの匂い」「日向の匂い」―匂いの句はいろいろある。
紫陽花を咲かせる声にしてください
「向日葵を咲かせる声」とか「紫陽花を咲かせる声」とか、いろいろあるとおもしろいだろうな。
いよいよ「メインディッシュ」。
くるぶしのますます白く位置に着く
スタートラインに着く。それを見ている人の視線は白い踝に注がれている。
あどけなく弱いところがもりあがる
弱いところをカバーしながら傷口は自然に治癒する。人生経験を積むと、傷を受けないようにあらかじめ弱点を鎧で覆っておくようになる。この句の作中主体はまだあどけないのだろう。
雨続く今日見たことは今日話す
明日話そうと思っていても、明日は話す相手がいないかもしれないし、そもそも話すことを忘れてしまっているかも知れない。
切り口に合うのは切った刃のかたち
「切られたもの」と「切ったもの」との関係性。敵対関係なのだが、妙な親和性がある。
最後に「デザート」。
「行基です」秋の小声に振り返る
川柳でも固有名詞はしばしば使われるが、「行基」はあまり見たことがない。
「秋の小声」ともぴったり合っている。
水に浮くなかったことにしてみても
沈むのではなく浮いてしまうのだ。何もなかったことにはできないのだろう。
絵の中の林檎は蜜のある林檎
現実の林檎は「蜜のない林檎」ばかりなのだろう。
ごきげんよう 桃はひとまず冷蔵庫
句集の最後の句。
デザートにふさわしく果実の句で終わっている。
以上、句集のコンテンツに従った読み方をしてきたが、別にどこから読んでもかまわないだろう。私には雨や水のイメージをともなう句が印象的だった。季語や切れ字を用いた句もあって、俳句的だと感じる句もあった。これは柳俳異同論とは関係のない感想である。
「ボナペティ」「メルシイ」。
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