自動ドア誰も救ってやれないよ(2002年1月)
「川柳の仲間 旬」115号の「人物クローズアップ」で私は川合大祐の名をはじめて知った。このとき川合は28歳、川柳をはじめて1年たたない時期である。
いとう岬の解説によると、「旬」113号に彼は「檻のなかから世界を眺めて」という文章を掲載している。その中で川合は自分が川柳で表現したいものは「影」であると語っている。
では、なぜ川柳なのか。
「人は不自由さの中にあってこそ、始めて本当の自由を実感できる。不自由に縛られたなかでの稀少な自由とは、無限のひろがりを持つものだ。それこそが、私が川柳という表現形態に求めるものなのだ」
おはようで今日もはじまるつなわたり
誕生日童話いっさつ火にくべる
戦争はガラスの中でピンク色
滅茶苦茶になれたらいいね うんいいね
中八がそんなに憎いかさあ殺せ(2011年9月)
「川柳コロキウム」誌上大会、丸山進選。
五七五定型のうち上五は字余りでも許容されるが、中七は比較的守られている。「中八はいけない」という川柳人が多いが、この句はそれに対して疑問を呈している。
発表以来、中八をめぐる議論ではこの句がときどき取り上げられるのを目にする。
ロミオではないあなたには興味なし(2014年11月)
「裸木」2号(編集人・いわさき楊子)。
二通りに読めると思う。
「ロミオではないあなた」には「私」は興味がない。
「私」はロミオではない(あなたもジュリエットではない)。だから、あなたには興味がない。
あとの読みの場合は、「ロミオではない」の後に切れがあることになる。
薔薇とのみ呼ばれし花よ市民A
ジャイアント馬場や水葬物語
ビンラディン/市民 ころした/ころされた
…早送り…二人は……豚になり終 (2014年11月)
「川柳カード」7号。誌上大会、兼題「早い」準特選。選者は樋口由紀子。
「/」や「…」などの記号を使った川柳を川合はしばしば書いている。
短歌ではめずらしくないが、川柳ではまだ新鮮なのだろう。
掲出句はビデオなどの早送りの感じをうまく表現している。「豚になり終」というのは皮肉である。
「川柳スープレックス」(2015年2月)
飯島章友・柳本々々・川合大祐・倉間しおり・江口ちかるの五人で「川柳スープレックス」を立ち上げた。私はプロレスの技には詳しくないが、スープレックスはバックドロップと同じような技だろうか。
「百万遍死んでも四足歩行なり」(飯田良祐)について、川合は次のように書いている。
〈川柳は檻である、と昔書いた。
スープレックスのテスト版にもそんな小文を書いたので、いつか機会があれば再掲したい。
それはともかく、僕にとっての川柳は檻だった。
五七五という定型。
それは僕にとって檻であり、その檻の不自由さのなかではじめて自由を夢見ることができる、そんな内容だったと思う。
(だから方哉も山頭火も、ある意味業に似た不自由さから逃れられなかった、という気もするのだが、それはまた別の折に)
そんな僕のアプローチと、この句のアプローチは、どこか違う。
この句は、自ら檻に入ったのだ。
五七五の檻に、自らの獣を閉じ込めるために。〉
星だって掴めるような気がしてたそれが怖くて掴まなかった(2015年3月)
「かばん」新人特集号Vol.6。
2009年10月から2013年9月に入会した23名による短歌各30首が収録されている。これに「かばん」内と「かばん」外の執筆者による歌評がそれぞれ付いている。
飯島章友は内部評で次のように書いている。
〈連作の終盤、26首目~30首目で主人公は、ふだん抑圧している影の自分に言葉を投げかけ、歩み寄りをみせている。「僕」「僕ら」と柔らかい自称になったのはその表れ。「おひさまが西から昇」るような受け入れがたい無意識下(影)の自分をも「肯定」し、「僕ら」として共に「歌う」ことで、自己の総合化へ一歩踏み出したのだ〉
手をほどく眠りに噴き出す無意識をほんとうの無へ返せるように
自由とは真夏の夜の夢なれば監視カメラを撃つ銃もなし
なあ俺よ答えてくれよ星座とは見るものなのかなるものなのか
おひさまが西から昇っただとしても肯定しよう僕は僕だと
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