『野沢省悟句集 60』(2014年7月10日、東奥日報社)が発行された。
東奥日報社創刊125周年事業として、青森県短詩型文芸作品を発信するシリーズ。短歌・俳句・川柳各30冊が予定されており、川柳からは高田寄生木をはじめ7冊目の刊行となる。
本書は2005年から2013年までの川柳作品360句を収録している。句集のタイトルに「60」とあるのは、2005年が戦後60年、2013年が野沢の還暦の年であることにちなむという。野沢の50代の作品集である。「解剖」「ひょいと」「大樹に」「逃避行」「母逝く」の五章に分けられ、「逃避行」は2011年3月11日に仙台市秋保温泉にいた作者の震災体験を詠んだもの。「母逝く」は母親への追悼句を含む。
ここでは、「解剖」の章から何句かピックアップしてみたい。
あじさいのうすくらがりのモネの指
モネといえば睡蓮だが、この句ではアジサイである。
アジサイの学名「オタクサ」はシーボルトが名付けたことも知られている。ここではそういう連想・取り合わせを外している。
「あじさいのうすくらがり」に焦点をあてているところに川柳性・意味性を感じる。暗部のほうに眼がゆくのは川柳人の本能かもしれない。
モネはジヴェルニーの家で晩年の作品を描いた。原田マハの『ジヴェルニーの食卓』はモネを主人公にした小説。
花園にアジサイがあったかどうか記憶にないが、七色に変化するアジサイにもモネも画家としての触手が動いたかもしれない。
合法的にゴッホの耳を食べている
モネの次はゴッホの句を取り上げてみる。
アルルでゴッホはゴーギャンとの共同生活に入るが、個性の強い二人は衝突し、ゴッホの耳切り事件が起こる。
「炎の人ゴッホ」という映画では、ゴッホがカーク・ダグラス、ゴーギャンがアンソニー・クインだった。
耳を切るといえば、日本では明恵上人のエピソードが有名。
事件そのものが衝撃的だが、この句ではその衝撃性に釣り合うように、「食べている」という強い言葉を用いている。
「合法的に」というのだから「非合法的に」という対義語を連想させる。
私たちはゴッホのような激しい生涯を送ることはできない。平凡な日常生活を送っているのである。けれども、心の中ではゴッホのような生涯に憧れる部分もある。
「~的」という言葉は川柳でよく使われる。
精巣という安らかなロスタイム
野沢は人間の身体の生理的機能と向き合う作品をしばしば詠んでいる。
サッカーのロスタイムは無得点に終わることもあるが、試合を決める得点が入ることもあるスリリングな時間帯である。それを「安らかな」と表現してのけた。
ヒトの生殖機能を冷徹に見据えている。
おしっこをするたび法蓮華経かな
「おしっこ」という言葉を使っている。
「川柳はこういう用語を平気で使えるからいいね」と言う人がいる。ある意味で川柳に対する蔑視を感じる。どんな用語であっても、俳句であろうと川柳であろうと、使いたければ使えばいいのだ。
この句は俗性と宗教性(聖性)の落差をおもしろがるのではなく、背後にある作者の人間観を読み取るべきだろう。
仏とは女陰化と思う秋の水
この句にも俗性即聖性という作者の人間観が表れている。
それに共感するかどうかは別の問題で、人それぞれだろう。
ただ、もの足りないのは「秋の水」の部分で季語に逃げているように感じることだ。
虚無ふたつほど冷蔵庫から持って来い
「~持ってこい」は川柳ではときどき見かける文体。
「ないはずはない抽斗を持ってこい」(西田当百)
洗っていいくちびるとだめなくちびる
それぞれに具体的なケースを代入してみるとおもしろい。
蟻は会議中なので殺します
「殺す」というのも意味の強い言葉である。
殺意は心の中の世界であり、それを表現することは現実の行為とは全く次元が異なる。
「バスを待つあいだのぼんやりした殺意」(石部明)
晩年の与謝野鉄幹は庭で蟻を殺していたという。妻の晶子に表現者として水をあけられ、時代から取り残された憤懣が心の底にあったのだろう。
この句では会議をしている蟻たちを神の視点から眺めている。
以上、野沢の作品には意味性の強度のきいた言葉を使うところに川柳性を感じるが、その根底には作者の人間観が横たわっている。
野沢は「あとがき」で次のように書いている。
「2005年からの8年余りの時期は、僕の五十代であり仕事上、夜勤勤務をしながらの川柳活動は辛いこともあった。従って自身の作品を振り返る余裕もなく、今回この句集をまとめる作業はたいへん貴重な時間であった。故成田千空氏は『川柳は俳句を革新したもの』と僕に言った。その言葉にはげまされての川柳活動であり、作家活動であったが、その結果の本句集に忸怩たる思いである」
野沢が編集発行していた「双眸」15号(2005年5月)は〈成田千空・川柳を語る〉を特集している。野沢と成田の対談などが収録されているが、ここでは成田千空の講演「俳句と川柳」(2004年11月3日、「俳句・川柳合同研究会」)から引用していきたい。俳句の季語について述べたあと、成田千空はこんなふうに発言している。
「川柳は逆に季節感はさして関係なく、人生とか世相とか時代のそういうものに対する関心に移って行く訳です。そういうことになりますから自ずから自由な発想でしかも季節とか切れ字とかに束縛されない訳ですから、素材に対しても世界が大変広いんですね。俳句の何倍も広い。そういうことも一つの形式から生まれてくるということもありますので、川柳の方がずっと自由な発想でいい作品が残ってしかるべきだと思います」
このシリーズ、川柳からは今後も、むさしや滋野さちの句集が予定されているので楽しみだ。
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