2025年8月29日金曜日

瀬戸夏子『をとめよ素晴らしき人生を得よ』

7月に十勝・帯広方面に旅行した。ジンギスカンや豚丼などのグルメに走ったが、帯広は中城ふみ子の出身地である。帯広市図書館の2階に中城ふみ子資料室があったので、のぞいてみた。こじんまりしたスペースで、パネルや展示を見ると彼女の短歌の世界がよくわかった。中城の短歌には彼女の実人生や物語のイメージがまとわりついているので(映画にもなった)、これまでやや敬遠していたが、現地の展示に接して彼女の歌の迫力にうたれた。『乳房喪失』の「冬の海」から五首引いておく。

灯台もかもめも我より遠のきて心痛まぬ夕ぐれは来る  中城ふみ子
主張なきわれは折々かなしみて沈む海と河との間
冬の皺寄せゐる海よ今少し生きて己れの無残を見むか
帰り来て手に嗅ぐ魚の生臭き酷似するもの持ちて怖るる
傷みやすくなりしこころか自らの頑きうろこを剥がしたるのち

帯広市内には中城の歌碑が緑ケ丘公園と護国神社にある。歌碑を見る時間はなかったが、「冬の皺」の歌碑が護国神社にあるそうだ。「己れの無残」が衝撃的だ。

中城は「女人短歌」の会員だったこともあるが、瀬戸夏子の『をとめよ素晴らしき人生を得よ』(柏書房)は「女人短歌」とその周辺の歌人たちを描いている。以前、web連載されやものに書下ろしを加えた一冊で、「女人短歌のレジスタンス」という副題がついている。webのときも好評で、私も愛読していた。この時評(2020年7月10日)にこんなふうに書いている。

〈瀬戸夏子が柏書房のwebマガジンに連載している「そしてあなたたちはいなくなった」からは多くの刺激を受けているが、特に「女人短歌」の創刊をめぐって、北見志保子と川上小夜子について書かれた文章は興味深かった。
「彼女たちはなんども試みた。当然のようにそれは厳しい戦いだった。彼女たちの最後の賭けが『女人短歌』だった」
こういう文章が瀬戸の魅力だが、ひるがえって川柳における女性作家、女性川柳はどうだったかと考えたときに、まず思い浮かぶのは井上信子の存在である〉

川柳についてはさておいて、本書は大西民子と北沢郁子のシスターフッドの物語から始まる。芥川龍之介の『或る阿呆の一生』「越し人」に登場する片山廣子、二・二六事件とともに語られることの多い齋藤史と続き、いよいよ「女人短歌」を立ち上げた北見志保子と川上小夜子の話になる。それぞれの章が物語風に語られていて、読みやすい。
「女人短歌」の創刊は1949年9月。「彼女たちはなんども試みた」と瀬戸が言うのは、それまで大西と北沢が「草の実」「月光」などの女性短歌誌を試みた経緯をさしている。
「しかしながら『女人短歌』は現在からその詳細を振り返ると必ずしも女性歌人たちが完全に独立して経営できていた組織とは言えない」と瀬戸は書いている。折口信夫の「女流の歌を閉塞したもの」というバックボーンがあったし、主催した「女人短歌文化土曜講座」の講師陣の多くは男性だったという。「けれど人間ができることには、常に時代や運という制約があり、人は永遠には生きられない。そのうえでわたしが考えることはそれでも『女人短歌』があってよかった、そのことに尽きる」
女性だけの短歌誌を作ることにどんな意味があるのか。本書では長沢美津の章で先鋭化したかたちで語られている。そこでは五島美代子の回想が引用されている。
「女だけの歌の雑誌など、わざわざ別にもつ必要はない……という批判が当時圧倒的であった。私自身そうした疑問をもって、女だけの集まりはレベルの低くなる怖れがありはしまいか。少なくとも私は、何といっても一歩も二歩も先んじられている男性作家の間でもまれてこそ精進したいのにと思った」(五島美代子「女人短歌」50号)
そのとき、長沢美津が次のように言ったという。「あなたは男ですか、女ですか。女なら認められない多くの女歌人のために、自分だけのことを考えないで仲間入りするのが当然ではありませんか」
五島は長沢の言葉に圧倒されて、「女人短歌」に参加することになった。
女性の表現者の置かれている状況は時代や環境によって変化する。男女の区別をことさら言い立てなくてもよい状況が理想だろうが、そこに到達するまでの道のりに先人たちの努力がある。「ほんとうは、女性だけの短歌誌など存在しないほうがいいのかもしれない。『女性』というジェンダー/セックスでのお線引きは、現在ではかなり危ういものだ」と瀬戸は書いていて、こういう認識を持ちつつ「女人短歌」の果たした役割を本書は改めて問いかけている。
ウェブ連載のときとタイトルを変えたのはなぜかなと思っていたが、最後の方に葛原妙子の次の歌が引かれていた。「そしてあなたたちはいなくなった」は一種のアイロニーだったが、今回の本書のタイトルには一歩すすめた希望的メッセージが読みとれる。

早春のレモンに深くナイフ立つるをとめよ素晴らしき人生を得よ  葛原妙子

付録として本書で取り上げられた歌人たちの作品のアンソロジーが掲載されている。

2025年8月15日金曜日

「水脈」終刊号

「水脈」が70号で終刊した(2025年8月)。現代川柳の同人誌がまたひとつなくなったことになる。
浪越靖政が69号・70号に「『水脈』終刊にあたって-70号を振り返る-」を書いているので、それに従ってまとめてみよう。
浪越も書いているように、「水脈」のルーツは飯尾麻佐子の「魚」である。女性川柳誌として出発した「魚」は時代を先取りした理念をもっていた。浪越は次のように書いている。「1978年11月創刊の機関誌で参加は女性のみであった。男性優先の川柳界にあって、女性みずからの視点で創作活動を目指すというのが発行理念で、のちに男性川柳人も加わり、活発に活動し発信して存在感があった。しかし、その後『魚』は麻佐子の体調不良もあって95年8月発行のNo.63で終刊を迎える」
私は飯尾麻佐子の「魚」を高く評価しているし、紹介する文章も書いているが(「女性川柳」とはもう言わない、「川柳スパイラル」12号)、残念なのは、創刊号に掲載された作品募集には「女性に限ります」とあるのに、やがて男性川柳人の文章と作品も掲載されるようになったことだ。女性だけの川柳誌を維持するのは困難だったのだろう。
その後、飯尾麻佐子は1997年7月に「あんぐる」を創刊し、一戸涼子、酒井麗水、佐々木久枝、岡崎守、浪越靖政などが参加した。「あんぐる」は2002年2月に終刊となり、新たに「水脈」が創刊された。川柳誌の系譜としては、「魚」「あんぐる」「水脈」と受け継がれてきたのである。
さて、2002年8月に編集人・浪越靖政、事務局・一戸涼子でスタートした。第1号の同人作品を紹介する。

苗移植してほうら性善説という   明星敦子
新緑に囲まれ埴輪が声を出す    一戸涼子
ペン先の陰にこぼれた花の種    伊藤ひかり
ビルがふるえている いのちの尻尾 岡崎守
水脈の受胎へ愛のほとばしり    酒井麗水
K点の水脈を君は知るや      佐々木久枝
何に飢え喉乾干涸びる列島潮干   沢出こうさく
触れないで魚が泳いでいる背中   城村美津枝
立ち上がったところに時計が置いてある 田村あすか
温暖化のシナリオ 消えた尾骶骨  浪越靖政
母の小指へ流れる糸に癒される   平井詔子
汚辱/包む/サランラップ      松原ゆきえ
あなたかも私かもパブロフの犬   鈴木厚子
渾身の微笑(ギャグ)を魔王の宮殿で 西田順治
仮面を剥ぐと無機質な男たち    濱下光男

「水脈」では創連、川原という連詩的方法の試みやイメージ吟、合評会など、さまざまな実験が行われた。70号(終刊号)には野沢省悟が作品評「熱い水脈」を書いていて、こんなふうに言っている。「おそらく水脈が終刊することによって、残念ながら北海道における田中五呂八以来の川柳革新の流れは、跡絶える状況になるような気がする」
一方で野沢は「インターネットの出現によって、若い人達が、川柳という文芸の可能性に気づきはじめてきた。革新川柳(新たな川柳)をめざす若い人達も出てきた」と述べているから、今後生まれる川柳の熱い水脈の流れに期待しているようだ。
あと「水脈」関係の句集から、二冊紹介しておく。まず、西田順治『空の魚』から。

家族日誌吹雪の夜に繙かれ  西田順治
闇を出てまた闇に棲む獣かな
乾電池ごろり 無用の犬ごろり
目を閉じて半魚はさらに深海へ
少年に戻りたそうな空の魚
おはようと死んでこんばんはと生まれ

もう一冊、落合魯忠『オンコリンカス』から。

躊躇する旅立つ雑魚と行き来して  落合魯忠
納得のいくはずのない沖に出る
吹きすさぶ月下の海の鼻曲がり
海一枚めむれば裸婦の深呼吸
モナリザの右手はきっとサイボーグ

浪越靖政は「『水脈』終刊にあたって」で次のように述べている。
「飯尾麻佐子の『魚』から始まり、『あんぐる』、そして『水脈』と続いてきた一つの流れが終焉を迎えるのは残念なことだが、終刊予告で書いたとおり、編集人をはじめ同人の高齢化が進んでいるのは明白で、第1号を発行したのが2002年4月、本年8月で23年を経過して、それだけ年齢を重ねたということなのだ。次世代へのバトンタッチを考えたが、川柳誌の発行形態もウェブ化の進展等により様変わりしてきており、幕引きを決断した」「『水脈』は終刊すっるが、我々の活動の場は多いので、ともにがんばっていきたいと思う」
最後に「出発点としての終刊」の一戸涼子の句を挙げておく。

千年も経てばまたぞろ詩を書きに  一戸涼子

2025年8月9日土曜日

「川柳スパイラル」24号 句集の時代

「川柳スパイラル」24号の特集は「句集の時代」である。
かつて石田柊馬は「読みの時代」の次に「句集の時代」「アンソロジーの時代」が来ると言った。予言的な発言で、近年、現代川柳の句集が続々と発行されている。 石田柊馬作品集『LPの森/道化師からの伝言』ではこんなふうに書かれている。
「個人の句集、あるいは集団の合同句集がいま続々と発刊されている。これはただ印刷器機などの簡易化だけが要因ではない。その上に立った消費行動のひとつではあるが、消費活動としてその中に自己を自己として確認できるなにか、なのである。新しく買った衣服を身につけた鏡の中に、自分の存在を見るように。川柳は句集の時代に入ったのかもしれない」
2000年4月に「オール川柳」に発表された文章である。樋口由紀子の『容顔』が1999年4月に発行され、2000年7月にはアンソロジー『現代川柳の精鋭たち』が出ている。書店にまとまったかたちで現代川柳の句集が並ぶようになったのは、2005年のセレクション柳人シリーズの刊行あたりからだろう。「句集は墓碑銘」と言われた時代に比べると、川柳句集の発行はずいぶんハードルが低くなった。
さて、「川柳スパイラル」の特集では、兵頭全郎『白騎士』について雨月茄子春が、川合大祐『ザ・ブック・オブ・ザ・リバー』について柳本々々が、『川柳EXPO2025』については編者・まつりぺきん、『LPの森/道化師からの伝言』について小池正博がそれぞれ書いている。
兵頭全郎の第二句集『白騎士』は今年1月に発行された。評者の雨月茄子春はこんなふうに書いている。
「季語や七七を持たないうえに前句を失ってしまった川柳は、必然的にその読みの手がかりを読み手の想像によって補わせる。結果として、僕たちは川柳を真相からかけ離れたところで恣意的に推理し、推理それ自体をゲーム化して楽しんでいる。意味ありげで、文脈を読み取れそうなふてぶてしい態度をしている全郎の句は、読みのゲーム愛好家たちにとって絶好の推理披露会場だろう。しかし、そこ広げられる推理は全くの見当違いだ。なぜならそこには意味も文脈も存在しないからである。そこには徹底してロジックがない。犯人が示されたあとも推理は続く。全郎は空転する読みのゲームを、『意味や文脈を持たない前句の復元』という形でさらに混沌化させ、現代川柳にテロルを引き起こした」(「兵頭全郎のテロル))
川合大祐の第三句集『ザ・ブック・オブ・ザ・リバー』の刊行は今年5月。句集を編むのに協力した柳本々々は「ぼくがかわいさんから教えてもらっているのは、定型っていうのは生きることにいつも巻き込まれている。でもその巻き込まれ方もふくめてあなたにてがみとしてとどく。それが定型詩であり川柳なんだよ、と」(「しんだりいきたり」)と述べている。
『川柳EXPO2025』上下2冊は4月発行。まつりぺきんは「三年目の『川柳EXPO』」で「裾野の広がり」「他ジャンルへの影響」「様々な川柳の交流」の三項目をあげて、「少なくとも「川柳の連作を投稿する」行為へのハードルが下がり、裾野が広がってきていることは感じられます」「技術の進歩により、「どのように」表現するかというツールはどんどん充実してきています。誰でも表現者になれる時代です。その中で「何を」表現するのか、だと思います」「川柳観、川柳歴、年齢層、作品の発表方法といった垣根が取り払われつつある印象を、個人的には受けています」などと述べている。
『LPの森/道化師からの伝言』(石田柊馬作品集)については編者の小池正博が紹介している。前半が川柳句集、後半は川柳評論。柊馬の川柳評論は多くの人に読んでほしいが、ここでは句集から4句挙げておく。

高齢者と呼ばれナスカの地上絵よ  石田柊馬
少年もコンビニも美しい突起
キャラクターだから支流も本流も
その森にLP廻っておりますか

同人のエッセイでは「作らないことをやめる、まで」(小沢史)、「句集」(宮井いずみ)、「ハイブリッド系のひとりごと」(石川聡)がそれぞれ川柳との向き合い方がうかがえて興味深い。
ゲスト作品は俳人の相田えぬと若手川柳人のnes。相田は現俳協の会員で、連句にも関心をもち5月の「関西連句を楽しむ会」にもゲストとして参加した。nes はネットで川柳句会アイリスを主宰しているが、リアルの句会でもときどき顔をあわせることがある。

冷房をつけて世界は横たわる  相田えぬ
VRChatの毛蟹 病んでいるの? nes

あと同人作品からも紹介しておこう。

展翅する揚羽紋白十二指腸  小沢史
隕石落ちる恐竜絶えるごめん  猫田千恵子
コカ・コーラ旅団壊れ明るい部屋  川合大祐
吐き出せぬ語から夜毎に冬虫夏草  石川聡
いつも絵を捨てる知らない駐車場  西脇祥貴
表紙には雪に寝転ぶ棄民の子  まつりぺきん
徴兵を終えオナニーの手が余る  湊圭伍
ヤバイっすそうすちわっすコイントス  宮井いずみ
倦怠期知性改善しませんか   小池正博 
中指の一人歩きの午前二時   浪越靖政
「きっと」も「しっぽ」も「もっと」もひとりぼっち 畑美樹
現身と影が重なるその瞬間  悠とし子
葉桜が濃いというならるすにする  兵頭全郎
夏近しあなたの荒れを見て過ごす  清水かおり
落雷にシュガー滅びゆくまで    林やは

9月14日に文学フリマ大阪が開催され、「川柳スパイラル」もブースをだして、川柳と連句の本と冊子を販売する。翌日の9月15日は「川柳スパイラル」大阪句会。お目にかかれれば嬉しい。

2025年5月10日土曜日

三田三郎『よいこのための二日酔い入門』

酒にまつわるエッセイは数多く書かれていて、吉田健一や開高健、内田百閒、池波正太郎、安藤鶴夫など限りがないが、旅先での美味しいものや銘酒の話など、酒肴とからめた食と酒の話が多かった。今回の三田三郎のエッセイは純粋に酒を飲むことそのものがテーマであり、食べ物の話は出てこない。飲酒という行為は酒を飲むこと自体が目的であり楽しみなのであって、嫌なことを忘れるためのヤケ酒などは、酒に対して不純な行為である。本書にはひたすら酒をのむこと、それにまつわるエピソード、飲酒についての考察が書かれているのであって、この著者は純粋な酒徒だと言える。
酒を飲み過ぎて泥酔する人間は「だらしない」「社会人失格だ」という社会の眼に対して、三田はこんなふうに書いている「しかしながら私は、この時勢に抗して、泥酔には人間を倫理的に望ましい方向へと導くような効用があるという説を唱えたい。その効用とは、『泥酔の経験は人間を謙虚にする』というものである」
なんでそうなるんだ?という理由が読みどころなのだが、この手法はどこかで見たことがあるような気がする。常識とは正反対の発想と表現で相手にインパクトを与える。それは川柳で私たちがよく使う常識からのズリ落としの手法ではないか。
こんな一節もある。「連日のように深酒をして酔っ払っている私としては、酒飲みに対する世間からの様々なお叱りの声について、どんなものであってもまずは貴重なご意見として真摯に傾聴すべきだと考えているが、時にはどうしても容認できない内容の主張を耳にすることがある。その一つに、『人間は酔うと本性が出るから飲酒はよくない』というものがある。こうしたふざけた主張に対しては、温厚な私でもさすがに憤りの念を禁じ得ないので、この場を借りて徹底的に反論しておきたい」
本書のおもしろさは、エッセイのあとに三田三郎の短歌がそえられていることだ。

お客様の中に獣はいませんか(全員が一斉に手を挙げる)
駄目押しのドライ・マティーニ 幸せな人間に負けるわけにはいかない
自己という虚妄に酒をぶち込めば涙の代わりに尿が出てくる

私が三田三郎にはじめて会ったのは葉ね文庫でだった。そのとき彼の歌集『もうちょっと生きる』(風詠社)を手に入れた。読んでみると川柳人の私にもおもしろいと思える歌が多かった。次のような作品である。

人類の二足歩行は偉大だと膝から崩れ落ちて気付いた
転ぶのは一つの自己というよりも七十億の他者たる私
ほろ酔いで窓辺に行くと危ないが素面で行くともっと危ない
水道を出しっぱなしにすることは反抗とすら呼べないだろう

この人は川柳も書けるのではないかと思った。歌集の帯には「シニックでブラックなユーモアに満ちた」とある。これは川柳が得意としてきた領域である。川柳性のある題材を短歌形式で書いているところがこの作者の逆説的なおもしろさなのかなと思った。
病院に運ばれる途中でこの歌集を出す決心をしたという話は、どこかで読んだことがあるが、『よいこのための二日酔い入門』でも次のように書かれている。
「私は仕事中に急性胃腸炎で救急搬送されたから、歌人として活動するようになった」「病院へ搬送されている最中に、ひとつ確かに抱いた思いがあった。それは、どうせ死ぬなら歌集を出せばよかった、という思いだった」
歌集を出すにはいろいろなハードルがあったことだろうが、とにかくこうして第一歌集が生まれたのである。
三田三郎は笹川諒と二人でネットプリント「MITASASA」や同人誌「ぱんたれい」を発行していた。そこには短歌のほかに川柳も掲載されているので、「川柳スパイラル」9号(2020年7月)のゲスト作品を三田に依頼してみた。こんな作品である。

横領のモチベーションが保てない
UFOになりそこなったポリ袋
後悔の数だけ庭に海老を撒く
自らの咀嚼の音で目が覚める
概念としての火事だけ買い占める

三田の第二歌集『鬼と踊る』(左右社)からも紹介しておこう。

不味すぎて獏が思わず吐き出した夢を僕らは現実と呼ぶ
杖をくれ 精神的な支えとかふざけた意味じゃなく木の杖を
今日は社会の状態が不安定なため所により怒号が降るでしょう
第一に中島みゆきが存在し世界はその注釈に過ぎない
マウンドへ向かうエースのようでした辞表を出しに行く後輩は
特急も直進だけじゃ飽きるだろうたまには空へ向かっていいぞ

三田三郎は短歌と川柳だけではなく、エッセイストとしての才能も発揮している。彼の川柳句集をいつか読むことができる日が来るかもしれないと想像するのは楽しいではないか。

2025年5月6日火曜日

西田雅子句集『そらいろの空』

『そらいろの空』(ふらんす堂)は西田雅子の第二句集である。第一句集『ペルソナの塔』(あざみエージェント)は写真とコラボしたミニ句集で、句数も少なかったのに対して、今度の句集は西田の句業を堪能できる本格的なものになっている。
『そらいろの空』というタイトルがこの句集の世界を端的に表現している。「鈍色の空」とか「もうひとつの空」などではなくて、「そらいろの空」だという。空が空色なのは当然なのだが、「空色の空」「空色のそら」「そらいろのそら」などの表現の中から「そらいろの空」というタイトルが選ばれることによって、空は「そらいろ」だということが改めて意識させられる。ふだん当然のように使われている言葉が再生され、そこはかとないポエジーが生まれる。「アネモネはあねもねいろに溺れている」

はじまりの朝は銀いろ太古より
朝露の一滴 長い夢だと思う
水の匂いする 淋しさ来る前に
撓んだまま鏡の奥へ消える時間

冒頭の数句である。空間よりも時間の感覚が優先されている。はじまりの時間は太古から続く時間であり、長い夢でもある。色彩、匂いなどの感覚によってデリケートな世界を言葉で表現している。
現代川柳ではインパクトの強い言葉が使われることが多い。意味の強度は川柳の方向性のひとつだ。けれども、西田の句はそういうものとは違う。奇をてらったり、無関係な言葉を無理に結びつけたり、人目をひくような言葉の力に頼ったりしない。風刺やユーモア、社会批判、ルサンチマンなどの川柳観から見れば、西田の作品は淡い印象を与えるかもしれない。私も彼女の句にもの足りなさを感じた時期があった。けれども西田は自らの資質に従って自己の世界を深めていった。言葉の強度に頼らず、感性のゆらめきをとらえながら表現されるポエジーの世界は、ある意味で言葉の飛躍よりも達成が困難かもしれない。

扉のない誰も知らない二号館
継ぎ目からときどき洩れる笑い声
動かない時間の匂いする小部屋
新月の扉ひらけば楼蘭へ

扉を開くと異世界が不意に現れる。あるいは、扉そのものが現実には存在しない。かすかな声や匂いによってだけ感受される世界。時間と空間が交錯する。

桜闇かすかに鉄の匂いして
花冷えを一枚はさむ新刊書
ある夏の白いページに二泊する
編み棒で秋から冬をくぐらせる

一見すると俳句寄りの作品である。季語に相当する語が使われていて、季節の推移とともに生まれる感覚や感情が詠まれている。「秋うらら誤配で届く象の耳」などは俳句と同じ二句一章の作り方だ。季節の推移にポエジーを重ねると必然的に俳句と似たものになってゆくが、それが悪いと言っているのではなくて、俳句との境界領域で川柳として作句するところに、この作者の志向があるのだろう。

雨になる前の雨音聴いている
夢殿がまだ風の舟だったころ
くちばしも翼もあるが空がない
欄外へ雨は静かに降り続く
雨ばかり降る窓の位置かえてみる

西田の句にあらわれるのは、空、夢、雨、風などだ。
フォト句集『ペルソナの塔』で印象に残ったのは「ペルソナの中の塔みな海を向く」の一句だけだったが、『そらいろの空』には心ひかれる句がたくさんある。西田雅子の達成した世界がここにはある。ウェブで楽しむ川柳のサイト「ゆに」でも活躍している西田のこれからの展開が楽しみだ。

木の中の木が水色になり立夏
ひまわりの事情聴取が続いている
金屏風の虎が一頭逃げた夜
崩落は夜の金魚のあぶくから
抽斗の奥にピンクのすべり台
はじまりか終わりか花に囲まれて

2025年4月11日金曜日

雨月茄子春句集『おともだちパンチ』

3月15日に高槻市で開催された「第四回らくだ忌」に雨月茄子春が来ていて、句集『おともだちパンチ』を入手した。表紙絵では女の子二人が台所に立っていて、ひとりはこちらを見ている。イラストは、かわいみな。湊圭伍の解説が付いている。
以前、中崎町のラーメン屋で会ったときに句集を出すという話を聞いていたので、楽しみにしていた。楽しそうな句集であることは、湊圭伍が書いている。
巻頭の「名探偵」10句の中から5句引用する。

柵越えの名探偵にご用心     雨月茄子春
焼きたての名探偵はふたつまで
かつて名探偵だった雪が降る
左手も名探偵も添えるだけ
キタムラサプーソ、名探偵さ

「名探偵」の題詠で、自己紹介的に川柳の実力を示している。ひとつの題で多彩な切り口から言葉を並べてみせている。最後の句だけ意味不明だが、名探偵コナンが「君は誰?」と訊かれて「江戸川コナン、探偵さ」と答えるノリだろう。

カラダにピース。(大好きでしたな)カラダピス
途上国途中国途下国許可局
ふざけるのも大河にしてよ(魚もいる)
あらすじはいらないお造りさえあれば
例として「おみごと」などが挙げられる

「九十九句と一句」から引いたが、作者が川柳のことをよく知っていることがうかがえる。意味ではなくて言葉から川柳を作るというアプローチや「途上国」があれば「途下国」があるはずだという言葉遊び。大河だから魚もいるという視点のねじれやズラし。「例として」の前に何かが省略されているという「前句付」の感覚など、技術的な裏付けが何となく感じられるのだ。
作者の方法意識が読みとれるのが『90’s』よりの章で、2024年9月に発行された林やは編集の冊子に掲載されたもの。「暮田真名著『宇宙人のためのせんりゅう入門』で紹介されているクレダ流川柳の作り方を、ちゃんと実践した人ってまだいない説があるのでやりました」ということだった。

額縁法(ある単語が一番引き立つように作る) 
 「放塾」 放塾がナナをひとつの歌にした
コーディネート法(ある単語をもう一つの要素でコーディネートする)
 「おくちミッフィー」 阿蘇にでっかいおくちミッフィー
逆・額縁法(既存のフレーズを用いてつくる)
  ゴッホよりふつうに水平線がすき

吟行句もある。川柳は題詠が主流で、机の前で句を作ることが多いが、外にでて吟行をするケースもある。宮崎の西都原古墳の句を紹介しよう。

植樹ついでに野立てをしよう
ちょっとおしゃれしたくなったら考古学
チキン南蛮風味の矢尻
走れ!第五回はにわんグランプリ

ハンディな句集だが、多彩な内容と方法の句が収録されている。
「この本には、僕が2022年から2025年のあいだに作った川柳を295句載せました実際の川柳句会、大会に顔を出し始める以前のものがほとんどです」「なお、ここで言う『川柳』は、基本的には暮田真名に影響を受けて作られ始めた『暮田以後』の、特にネットを中心に書かれている川柳を指します」(「あとがき」)
「暮田以後」という表現、(他の人も使っているのかもしれないが)私が最初に目にしたのは雨月茄子春の文章からである。彼はまたこんなことも言っている。
「しかし一点、僕は超えてはいけないラインがあると思っている。それは『破綻してはいけない』ということ。コロケーションを試すのも、無為な発話をするのもいい。けど、その先にちゃんと『きみ』がいなければならないと思う。言葉をこねくり回していたらなんかできました、読んでみて反応ください。じゃあ駄目だってこと。何も語る気のない、何の感情も乗っていない、『きみ』がいなくても構わないような破綻したパッチワークなら、僕は絶対に見破れる」
こういうところ、私が雨月茄子春を信用している理由である。ネットで発信されているさまざまな川柳に、おもしろい作品もあればつまらない作品もあるのは、リアル句会で上質の作品と退屈な作品があるのと同様である。いまは過渡の時代で、今後もベテランや新人の句集・アンソロジーが次々に発行されていくのを期待している。

2025年4月4日金曜日

林やはと柴田千晶

「川柳スパイラル」23号が発行された。
新同人のエッセイ、林やは「あなたと」と猫田千恵子「流されるままに」が掲載されている。林やはについては清水かおりが「同人作品評」でこんなふうに書いている。

「  夢幻さが流れるからだ抱かれたい  林やは
 以前、川柳界に俳句の柴田千晶のような手触りの句が少ないと書いたことがあったが、林やはの作品にその手触りを感じている。生の過程での性の感覚を言葉に置き換えながら、どこか詩的でもある。さりげなく使われた口語が読者に感性の交歓を促してくる」
林の川柳から柴田の俳句を連想し、詩的な感性を言いあてているのは清水の慧眼である。久しぶりに『超新撰21』(邑書林、2010年)を取り出し、柴田の句を読み直してみた。 (ちなみに『超新撰21』では柴田千晶の次に清水かおりの作品が収録されている。)

夜の海鋏のごとくひらく足  柴田千晶
縛られ地蔵目隠し地蔵朧にて
快楽はオートマティック紫荊
からつぽの子宮明るし水母踏む
円山町に飛雪私はモンスター

円山町は東電OL殺人事件の起きた場所である。柴田には『生家へ』(思潮社、2012年)という本もあって、俳句と詩のコラボを試みている。たとえば、こんなふうに。
「  縛られ地蔵目隠し地蔵朧にて
助手席には乱雑に領収書が積まれていた。男は無造作にそれを掴んでダッシュボードに押し込んだ。足元に落ちた領収書を拾うと『斎藤正』という名前が記されていた。斎藤さんというのですか? と尋ねたが、男は何も答えてはくれなかった。この男はほんとうに黒崎課長を知っているのだろうか、ふと疑問が浮かんだが、他に手掛かりはなかったので、男についてゆこうと思った」

「川柳スパイラル」23号の話に戻ると、読みどころのひとつは特集の「十四字作品集」である。十四字は短句、七七句とも呼ばれ、五七五定型と並ぶもう一つの定型である。38人の作品が掲載されている。

殉死に耳を舐められている   nes
稲垣足穂宇宙万才     宇川草書
表ホワイト裏はブラック  津田暹
血は姉を吐く ヒャクネンマッタ 金川宏
蓋は開かない朧夜のこと   重森恒雄
沢田君まで寒いと言うか   宮井いずみ
本妻(5さい)負債(6さい) 西脇祥貴

編集後記には「今後も現代川柳のアンソロジーや句集が続々と刊行されることが期待される」とあるが、すでに次のような作品集が発行または近刊予告されている。
兵頭全郎『白騎士』
川合大祐『ザ・ブック・オブ・ザ・リバー』
まつりぺきん編『川柳EXPO2025』
石田柊馬作品集『LPの森/道化師からの伝言』
6月1日の「川柳スパイラル」大阪句会では石田柊馬の作品集についての話し合いも行われる予定である。