2024年9月14日土曜日

第12回文学フリマ大阪

9月8日(日)に文学フリマ大阪が天満橋のOMMビルで開催され、主催者発表で4899名(出店者・1141名、一般来場者3758名)の参加があったという。盛会だったけれど、背中合わせのブースのスペースが狭く、移動しにくいという難点があってやや疲れた。
大阪ではじめて文学フリマが開催されたのは、2013年4月のこと。このときの会場は堺市の産業振興センターで、来場者は1600人ほど。そのときのパンフレットには「ついに大阪でも文学フリマを開催することができました」「関西圏では初めての文学フリマです」「今回の大阪開催はゴールではなく、はじまりです」などの言葉が見られる。10年を経て文フリ大阪も発展してきたわけだ。 私が文フリ大阪に出店しはじめたのは2015年9月から。2018年から会場が堺市から天満橋OMMビルに変わって、現在に至っている。ずっとひとりで川柳からの出店を続けていたが、最近は川柳のブースも出るようになり、今回は「川柳EXPO」と隣接配置。
ゲットした冊子をいくつか紹介すると、まず「川柳光子猿」。見開きの右ページに参加者の作品、左ページに海馬の評が付いている。

富士山が昨夜発見されました      まつりぺきん
(訳者注 天国なんてあるのかな)   まつりぺきん
どくだみのしのびわらいをたやさずに  八上桐子
かたつむり まぶたのうすくなるばかり 八上桐子
鉄道を畏れ糖度を下げたいの      榊陽子
押しのけて押しのけていく胃袋へ    榊陽子

榊陽子は「やかましい夢は空調にすぎない」という6ページの冊子も出している。
林やは編集・発行の「90’s」は川柳・短歌・エッセイ・詩の各作品を掲載。川柳のページから。

頼まれて問いの雌雄を選り分ける  ササキリユウイチ
牛乳の数学力じゃ帰れない     ササキリユウイチ
淋しいと言って崩れた所得税    郡司和斗
登りつめると匿名性が待っていた  郡司和斗
焼きたての名探偵はふたつまで   雨月茄子春
かつて名探偵だった雪が降る    雨月茄子春

短歌では「西瓜」13号を購入。

境界をこえゆくものは自らの帽子をつかみ引き下ろすべし 江戸雪
爪を切る静けさのあと白鍵と黒鍵は交互に鳴らされた   鈴木晴香
こめつぶのごとき恋愛感情がわつとむらがるわが耳に背に 染野太朗
目的を持つことで境界線が引ける だからどうだというんだろうか とみいえひろこ
会社じゃなく過去を清算したいんです 弁護士さんなら分かりますよね 三田三郎

文フリの前日、大阪・上本町で「川柳スパイラル」大阪句会を開催した。そのときの参加者のひとり、綿山憩が句会の余韻のなかでフリぺ「乱反射」15句を作って文フリ会場に持ってきたので、その中から二句紹介する。

柘榴爆ぜたり 佐藤は偽名  綿山憩
致死量の桜桃三十九粒 薄暮 綿山憩

ブースにはあまり回れず、手に入れそこなったものも多いが、来場の川柳人と言葉を交わすことができたし、『川柳EXPO』の参加者にも何人か直接お目にかかることができた。短詩型文学は作品がすべてなのだけれど、作者に実際に会っておくことにも意味があることと思う。交流の場は大切である。

2024年8月30日金曜日

江畑實『創世神話「塚本邦雄」』

前回は彦坂美喜子『春日井建論』を紹介したので、短歌つながりで今回は江畑實『創世神話「塚本邦雄」 初期歌集の精神風景』(ながらみ書房)を取り上げる。
塚本邦雄の初期については楠見朋彦『塚本邦雄の青春』(ウェッジ文庫)を読んだことがあり、『水葬物語』までの日々が書かれていた。江畑の本では第七歌集『星餐圖』までを初期と捉え、その精神的位相と作品創造の動因をさぐっている。
塚本の短歌と俳句の関係については、すでに短歌界ではよく知られているのかもしれないが、本書でまず興味深かったのは塚本の俳句についての部分である。塚本は「火原翔」名義で『俳句帖』を残しており、『文庫版塚本邦雄全集』(短歌研究社)に収録されている。江畑は「俳句帖」と『水葬物語』の作品を並べて紹介している。

父母よひるの夕顔なまぐさく
父母よ七つのわれのてにふれしひるの夕顔なまぐさかりき

夏夕べ偽ナルシスら変貌す
ナルシスの変貌も視てみづからに鞭うてり紅き蔓薔薇のむち

麺麭いだき佇てば日本の葦と泥
麺麭いだき佇てば周りの葦群に泥にひぐれの風たちにけり

安易に一般化はできないが、俳句で詠まれているイメージに短歌では何を付け加えたり切り捨てたりしているのか、興味深いサンプルだろう。「父母よ」の短歌では俳句にない「われ」が登場したり、「偽ナルシス」から自らを鞭うつ行為へとイメージの展開がうかがえる。一首目と二首目は塚本の自選歌集『寵歌』にも収録されているから成功作なのだろう。寺山修司における俳句と短歌の関係などを思い出させる。
塚本の『俳句帖』には「棘のあるSONNET」と題された14句の作品がある。ソネットだから韻を踏んでいる。

三日月麺麭の絵を革命歌作詞家に   A
密会や扇のやうにひろがる夜     B
祭司長老いて晩夏の野にかへる    B
尖塔の窓ひらく夜の童貞尼      A

種馬や颱風の眼の透明に       A 
市長夫人の柩の中のスキャンダル   B
ひまはりに幾百の舌ひるがへる    B
喜望峰 マスト傾きつつあるに    A

背き去る女にグラディオラスの花序  C
街を出てあざみをくぐりゆく半処女  C
彼女のみ死る巻貝の夜の歩み     D

真珠貝の内部も雨季に入りたらむ   E
廃嫡の子にのこしおく君子蘭     E
薔薇の木のつみきのまちのなつがすみ D

マチネ・ポエティックの影響を受けているのだろうが、九鬼周造にも韻律論がある。
連句でも鈴木漠がソネット形式の連句を好んでいる。次にあげるのは連句集『花神帖』(編集工房ノア)から「海市」の巻。

源平の往時偲ぶや花の乱    梅村光明 A
 海市の街にひるがへる旗   別所真紀 B
風光るトアロードへと誘ふらん 鈴木 漠 A
 蟹行文字の酒を一杯       光明 B(一杯は「ひとはた」)

短夜の天辺かけたかミサイルは   真紀 C
 午睡の夢にまたも魘さる     光明 D
妖精が隠れんばうをしてゐる葉    漠 C
 秋果の彩を盛りあげし笊     真紀 D

総身に鱗を着たり月の下      真紀 E
 沖は恋慕の不知火が増え      漠 F
悪びれず婀娜な人妻騙す舌     光明 E

 わが式神を呼び出す箱      真紀 G
床の間に難を転ずる実も飾り    光明 H
 雪国に生き雪はうんざり      漠 H

脚韻の踏み方には何種類かあるが、ABBAは抱擁韻、ABABは交差韻と呼ぶ。連句におけるソネット形式は珍田弥一郎の創案では韻を踏まないが、関西では鈴木漠の韻を踏む方式が多い。詩人で連句人の鈴木漠は塚本邦雄とも交流があり、春日井建も塚本とは親しかったので、塚本はこの二人を、建ちゃん・漠ちゃんと呼んでいたそうだ。
江畑の本に戻ると、『水葬物語』の時期の短歌と俳句制作が重なっていることについて、江畑はこんなふうにまとめている。
「同人誌『メトーデ』での『水葬物語』作品の発表は、俳句誌『白堊』での活動期と重なっているので、これらの作業は同時並行的に進められたことになる。いわば短歌の作品世界を生成するうえで、俳句形式を利用したようにも見える。まさに驚異的であり、天才的と言うしかないだろう」
『装飾樂句』以降については本書を読まれたい。

最後に短歌誌「七曜」212号から紀野恵の「嘉応二年九月二十日大輪田泊、宋船来航」を紹介しておきたい。紀野は歴史を題材とした歌物語ふうの成り代わりの歌をしばしば詠んでいて、歌集『遣唐使のものがたり』(砂子屋書房)はその代表作。今回の嘉応二年は平清盛が日宋貿易をはじめるにあたって宋船がはじめて大輪田泊(現在の神戸港の西側)に来航したことに基づく。遊び心や俳諧性に満ちた作品で、おもしろく読ませていただいた。14句の連作のうち4句をご紹介。

  後白河法皇
対等の国と思へどなほ下に見つるものかな大陸(おほくが)の人
  清盛
成り上がつて来たのぢや如何に細細とあらうと権を奪はざらめや
  宋人
国王におはすはいづれ、大柄に見ゆる二人に問うてみやうか(ふふ)
  陳和卿
〈東海の聯珠〉と訳し奉る国の誼をかろく思すな

2024年8月24日土曜日

綺語ならぬ言葉はありや―彦坂美喜子『春日井建論』

今年は春日井建の没後20年に当たり、「井泉」108号の小特集では春日井の歌集や歌について同人各位が文章を寄せている。彦坂美喜子は「井泉」2016年から「春日井建の詩の世界」、2020年から「春日井建の短歌の世界」を連載してきたが、今回の108号で完結したのと同時に『春日井建論―詩と短歌について』(短歌研究社)を上梓した。春日井の詩についても貴重な論考が掲載されているが、ここでは短歌の部分に絞って紹介してみたい。
春日井建といえば、第一歌集『未青年』の三島由紀夫の序文が有名である。
「現代はいろんな点で新古今集の時代に似てをり、われわれは一人の若い定家を持つたのである」
『未青年』から何首か引いておこう。

大空の斬首ののちの静もりか没ちし日輪がのこすむらさき
童貞のするどき指に房もげば葡萄のみどりしたたるばかり
プラトンを読みて倫理の愛の章に泡立ちやまぬ若きししむら
ヴェニスに死すと十指つめたく展きをり水煙する雨の夜明けは
弟に奪はれまいと母の乳房をふたつ持ちしとき自我は生れき

彦坂ははじめて『未青年』を読んだときの違和感を次のように書いている。
〈『未青年』の歌の「斬首」「血」「童貞」「死」「私刑」「裂く」「足枷」「刑務所」「男囚」などの言葉に生々しさを感じるより、その悪を表象するある種のスタイルが誇大に見えてしまう、と思ったことである。むしろ『行け帰ることなく』の歌の方が、そのスタイルを吸収して、より物語的な世界を表出し得ている、と思ったのである〉
春日井建は中部短歌会の雑誌「短歌」に1955年から投稿している。彦坂は『未青年』以前の高校時代・初期の作品歌を丁寧に検討している。収録された歌と収録されなかった歌との違いはどこにあるのだろうか。
〈収録されていない歌は、我の気持ちを修飾する言葉たちがひしめき合い自己主張していて、結果的に虚の世界をあからさまにしてしまう〉
〈これらのどこにも所収されなかった歌は、「淫楽」「悪童」「遺書」「情事」など、過激な言葉と意味深い情況を提示しながら、下句に常識的で倫理的、理知的な素顔が覗く。あとから読み返して、建は、そのことに気づいたのではないだろうか〉
第二歌集『行け帰ることなく』を出したあと、春日井建は短歌を止めている。歌のわかれである。第三歌集『夢の法則』も出ているが、そこに収録されているのは『未青年』と同時期あるいはそれ以前の作品だという。彼が歌に復帰したのは第四歌集『青葦』からで、父や三島由紀夫の死がこの歌集を創る契機になったということだ。中部短歌会の「短歌」の編集発行人も受け継いでいる。『青葦』の「父母に献ず」の章には次の歌が掲載されている。

綺語ならぬ言葉はありやエディプスの峠路の章読みなづみつつ

彦坂は「井泉」108号の小特集「私の好きな春日井建の一首」でもこの歌を挙げている。私がこの歌を覚えているのも、以前どこかで彦坂の文章を読んだからだった。
建の父・春日井瀇に「汝を亡くせし日の夕茜悔いしより狂言綺語になじまずなりぬ」という亡き妻を詠んだ歌があり、彦坂は建の「綺語ならぬ言葉はありや」を父の歌に対する反歌ととらえている。
「綺語ならぬ言葉はありや」とは深くて鋭い洞察だと思う。ただ「エディプスの峠路の章読みなづみつつ」という取り合わせにはいくらか疑問を感じる。エディプス・コンプレックスは『未青年』のころから濃厚だったし、この観念は現代の読者にとってはすでに衝撃力をもたない。「綺語ならぬ言葉はありや」という言葉の射程距離は、エディプス的イメージやトーマス・マン的二元論をはるかに越えたところにまで届く可能性がある。俳諧における「狂言綺語」の系譜を探るのも興味深い作業だろう。
彦坂美喜子の批評から私はこれまでも刺激を受けてきたし、本書からも学ぶところが多かった。春日井建や塚本邦雄がいま短歌の世界でどの程度の関心をもたれているのか分からないが、彦坂の持続的な仕事に敬意を表したい。

2024年8月16日金曜日

「水脈」67号

北海道江別市で発行されている川柳誌「水脈」67号(編集発行人・浪越靖政)が届いたのでご紹介する。巻頭に浪越の「真島久美子句集『恋文』を読む」が掲載されている。その時々の話題が毎号紹介されていて、66号では「暮田真名著『宇宙人のためのせんりゅう入門』を読む」、65号は「哀悼 石田柊馬」であった。以下、67号の同人作品から。

波風が立たなくなった沼の葦 酒井麗水
仇敵の尾をふる音がきこえます 落合魯忠
足元を掬うとしらたきになるよ 河野潤々
太陽も彼此彼是も何かおかしい きりん
新じゃがのツルンとしてて未来形 平井詔子
スズランいっぽんアルカイックスマイル 一戸涼子
遠投がホームシックによく効いた 宇佐美愼一
さくら風味の水になんだか満たされる 澤野優美子
残像が右耳たぶを離れない 浪越靖政

今までに書いたこともあるが、「水脈」は飯尾麻佐子の「魚」「あんぐる」の後継誌である。「水脈」56号に浪越が「飯尾麻佐子と柳詩『魚』」を書いているのによると、次のようになる。
「魚」 1978年11月創刊。1996年8月、63号で休刊。
「あんぐる」1996年7月創刊。2002年7月、第17号で終刊。
「水脈」 2002年8月創刊。

「水脈」50号に浪越は次のように書いている。
「本誌の前身は1996年7月創刊の『あんぐる』で、飯尾麻佐子を中心に活動してきたが、麻佐子の体調不良があり、02年7月に第17号で終刊した。しかし、その後の話し合いで同人の再出発への意思が強く、新たに『水脈』を発行することになった」」
「あんぐる」はさらにさかのぼると飯尾麻佐子編集・発行の「魚」にゆきつく。魚については「川柳スパイラル」12号で私も次のように書いたことがある(「女性川柳とはもう言わない」)。
〈明治・大正・昭和前期まで「女性川柳」は男性視点で論じられてきたし、その際に男性川柳人が求めるものは「女の川柳」「恋愛」「抒情」「情念」などであった。人間の知情意のうち主として「情」に関わる部分であり、理知的な部分は副次的となる。当然そこから抜け落ちるものがあり、女性が自らの視点で女性川柳を考えるための場が要請されるのは必然だろう。こうして登場した川柳誌が飯尾マサ子(麻佐子)の「魚」である〉
川柳誌にはそれぞれのルーツがあり、「水脈」は現代川柳の一翼を担ってきた柳誌である。けれども雑誌は永遠に続くものではなく、どこかで終刊の時期を迎えるのはやむをえない。今号に「『水脈』の終刊について(予告)」の掲示が出て、来年8月の第70号をもって終刊するという。それまで全力で発行を続けるということなので、あと一年間の活躍を見まもりたい。

2024年8月11日日曜日

吉松澄子の川柳

「川柳スパイラル」21号に吉松澄子は次の8句を投句している。「青」の連作である。

青くなるユーモアだけを持ち歩く
試作品だったそれでも青だった
魔がさしてブルーに光るバイオリン
こわいなあ青い時間がふくらんで
アダージョになれば青だとわかります
裏切りの青はきれいな仮分数
自由律ですから青空が続く
スズメ来て本当らしくなってきた

8句をそろえるのにはいろいろなやり方があるが、吉松は連作に仕立てることが多い。連作はテーマや言葉に統一性があるから書きやすい面もあるが、単調になると読者が飽きてしまうというリスクがある。吉松の句はベテランらしく、一句一句に独自性があり、互いに効果を打ち消してしまうことがない。「青くなるユーモア」とは何だろう。「赤くなるユーモア」があるのか。試作品が青というのはプラス・イメージなのか。自由律と青空の取り合わせなど、それぞれの句に読みどころがある。
「川柳スパイラル」20号の連作のテーマは「りんご」だった。

林檎することにしたのでよろしくね
秘めごとのひとつやふたつアップルパイ
不機嫌なりんご深読みしたんだね
訳ありリンゴなのに言わずにいてごめん
告白をしますアップルティーだから

林檎・りんご・リンゴという表記の書き分けのほか、アップルパイ・アップルティーなど素材の幅を広げている。川柳の基本文体である口語を用いているのも読みやすい。
次のような作り方もある(6号)。

きれいごと並べて遊びたいような
アネモネのモネのあたりを飛ぶような
ざっくりと言えばラ・フランスのような
ハーメルンの笛が誘いにきたような
読みさしのページを閉じているような
カスタネットは星屑食べているような
夕顔の進むつもりはないような
痛点に鳥の切手を貼るような

「~ような」という課題を設定して、そこに自由なイメージを繰り広げている。川柳でも安易な比喩は失敗しやすいのだが、吉松の句は安心して読めるし、また読んでいて楽しい。技術の裏付けがあるからだろう。
ここまで題詠や文体に注目してきたが、川柳性のある句も書かれている。

水色だけでいい水色だけがいい  (19号)
いい人のふりを何度もしましたね (19号)
ほんとうだから嘘っぽく話そうね (16号)
輪唱がずれていくさがはじまった (13号)
あともどりもうできなくて常温で (12号)
ねむるときねむるちからがあるような(12号)
さみしくて明るいものを消しにゆく (10号)
自由席にそそのかされているらしい (9号)
こじらせるそんなつもりはない再会 (3号)
噴水の意見どうでもいいけれど  (2号)

以下、「川柳スパイラル」に発表された吉松の句を任意に抜き出しておく。

奇跡など信じたころの春の虹 
春嵐ことばはもろいものですね
秋うららラストスパートだよみんな 
くちびるをとんがらかしてふゆふゆふゆ 
逢いましょう空の記憶のあるうちに
一人称単数うつくしい時間
誰のものですか鎖骨がうつくしい
モザイクは不思議な色になりたがる
心中をしようかなんてソーダ水
セクシーな海藻サラダなればこそ
偏差値の高そうな法蓮草だよ
葛切りの予備はあるからさようなら

生活者としての季節感の句もあるし、時間の推移のなかで浮かんでは消える思いを書いた句もある。いろいろな書き方のできる作者だが、どの作品も口語文体を基本として端正な言葉によって書かれている。私も吉松の句から学ぶことが多かった。

2024年7月27日土曜日

現代連句時評

『連句年鑑』令和6年版(日本連句協会)が発行された。前年度の記録として毎年発行されているが、国民文化祭の入選作品や全国の連句グループの作品のほかに評論やエッセイも掲載されている。「芭蕉が北枝にもたらしたもの」(綿貫豊昭)は蕉門十哲のひとりで伊勢派のルーツでもある立花北枝と芭蕉の出会いについて詳述している。「試みの非懐紙」(狩野康子・永淵丹・鹿野恵子)は橋閒石の創始した非懐紙についての実践的なレポート。「季寄せの中の水生生物」(木村ふう)は水生生物の研究者であり連句人でもある木村が魚や貝などの生態と季語との対応を検討している。季語の水生生物は食べられるものが多いのは人間生活との関係でうなずける。地域差の問題や、ある生物がなぜその季節の季語になっているか、また季語と季節があわなくなっている要因を表やグラフも使って興味深く説明している。鰆(サワラ)は三春の季語だが関東と関西で旬が違う、源五郎鮒は三夏だが旬は冬から春にかけて、帆立貝は三夏だが旬は初秋から初夏(冷凍品は一年中)など、ふだん気づかない情報が書かれている。
昨年の国民文化祭・石川の文科大臣賞受賞作品(半歌仙「遡りては」)から。

遡りては流されて春の鴨    名本敦子
 やまあららぎの尖る銀の芽  久翠
暮れ遅し陶土練る背に月射して 杉山豚望

ジュニアの部の作品(表合せ六句「人気者」)から。

ストーブや期間限定人気者     柚男
 来てくれるかなサンタクロース  侑空
TWICEの日本公演楽しみに     真帆

7月20日、昨年に続き郡上八幡に出かけた。毎年この時期に開催される「連句フェスタ宗祇水」に参加するためである。名古屋から美濃太田に出て、中山道の太田宿を見学した。公武合体のときに皇女和宮がこの道を通ったことで知られる。本陣は門だけしか残っていないが、脇本陣の一部が見学できる。すぐそばに木曽川が流れていて、太田の渡しは難所として知られていた。長良川鉄道に乗って郡上八幡へ。郡上踊りが7月13日からはじまっていて、夜に広場へ行ってみたが、うまく踊れない。
翌21日は9時から宗祇水の前で発句奉納。今年は事前に何も言われていなかったので安心していたが、その場で発句を頼まれ焦る。

再会の下駄の響きや梅雨明ける

会場のまちなみ交流館で三座に分かれ歌仙を巻いたあと、夜は懇親会。その後、今夜も郡上踊りへ。体力も落ちているのか、やはりうまく踊れない。インバウンドの双子の女性が踊りの輪にいるのが印象に残る。今年は10月に国民文化祭が岐阜で開催されるので、また郡上に来たいと思う。

「俳句界」7月号(文学の森)の特集は「潜在意識と俳句」。無意識という言葉もあるが、潜在意識という言葉を使うと、「かたちのないものを形としてとらえる」(鴇田智哉)というニュアンスになるのだろう。
レポートのページに今年3月18日に京都の三木半で開催された「みやこの陣・春の陣」のことが紹介されている。歌仙「春の陣」の巻(捌・北原春屏)から。

賀茂川の流れは絶えず春の陣  小池正博
 物陰緊と小草生月      北原春屏
仏暁の提琴の音の朧にて    西川菜帆

京都府連句協会の主催で、8月17日には「夏の陣」が開催されることになっている。

鹿児島県連句協会の会報「櫻岳」第8号が発行された。同会は設立八年目を迎える。顧問の梅村光明が連句新形式「六条院」について書いている。『源氏物語』に出てくる光源氏の邸宅・六条院に因み、一連六句で四連。各連を「春邸」「夏邸」「秋邸」「冬邸」と呼ぶ。例に挙がっている「恋螢」の巻は当季が夏だったので、夏邸からはじまり、秋・冬・春と四季順行。

夏邸 恋螢十指で編みし籠の中      赤坂恒子
    透けて恥づかし月に羅      上田真而子
   ジャスミンの淡き香りを抱きしめん 木村ふう
    身を焼く思ひ筆にゆだねて    岡本信子
   囁きは天使に悪魔白昼夢      星野焱
    人工知能統べる王国       梅村光明

最後に注目すべき連句書を紹介しておこう。青宵散人『ゴメンナサイ芭蕉さん丸裸』(幻冬舎)。タイトルには裏題(まじめな題)として『芭蕉さんの俳諧 その苦悩と志』とある。こういう題名の付け方がすでに俳諧的。この著者にはかつて『芭蕉さんの俳諧』(編集工房ノア)があった。『冬の日』(狂句木枯しの)の付句の案じ方について、『奥の細道』大垣 木因との確執 ふたみの別れ、各務支考のこと、など興味深い話題が満載である。

2024年5月24日金曜日

「BRUTUS」と『川柳EXPO2024』

「BRUTUS」1008号が「一行だけで」という特集を組んでいる。「明日のための言葉300」と銘うって短歌・詩・俳句・川柳・歌詞などから言葉が選出されている。川柳からは小池正博・なかはられいこ・竹井紫乙・飯島章友・川合大祐・柳本々々・暮田真名・ササキリユウイチの8名がそれぞれ推薦する一句を選んでいる。

春を待つ鬼を 瓦礫に探さねば  墨作二郎
紀元前二世紀ごろの咳もする   木村半文銭

作二郎は小池の、半文銭はササキリの選出。川柳以外にも短歌・俳句などのページも興味深いのでお読みいただきたい。
まつりぺきん編集の『川柳EXPO2024』(発行・川柳EXPO制作委員会)も評判になっている。これは投稿連作川柳アンソロジーで、昨年の『川柳EXPO』に続く第二集になる。ひとり20句の投句で68名、1360句の川柳作品が収録されている。冒頭に掲載されている二名の作品を紹介しておく。

日記には「トロイメライ事故」と記す   笹川諒
こえ、発しないで、ののしり、口づけて  林やは

5月19日には東京で文学フリマが開催されたが、私は参加できなかった。同日、大阪で「関西連句を楽しむ会」が開催され、そちらの方がいそがしかったからだ。これはどういうイベントかというと、1990年代から2000年代にかけて、近松寿子(茨の会)・岡本星女(俳諧接心)・品川鈴子(ひよどり・ぐろっけ)・澁谷道(紫薇)の四氏によって「関西連句を楽しむ会」が京阪神の寺社や大学を会場として毎年行われていた。2006年を最後に幕がひかれ、以後、関西の連句グループはそれぞれ独自の歩みを続けているが、2020年代のいま再び集まる機会があればと企画されたものである。
ゲストに瀬戸夏子を迎え、パワーポイントを使って連句の紹介をした。その後、実作の五座に分かれ、非懐紙・十二調・五十鈴川・自由律半歌仙・二十韻を巻いた。それと並行して笠着俳諧を行い、参加者が適宜句を付けてゆき、半歌仙が完成した。笠着俳諧は寺社の祭や法会に行われ、参詣人などが自由に参加できた、庶民的な連歌・連句である。着座した連衆(れんじゅ)以外は、立ったまま笠もぬがずに句を付けたので、この名がついた。当日の半歌仙を次に紹介しておく。

笠着俳諧 半歌仙「夏始」の巻

夏始ことばの園はここかしら    正博
 渾身の名でとりどりの薔薇    章子
こころもち額縁みぎに傾いて    奈里子
 歴代校長みんな髭づら      ふう
月の舟ジャングルジムと遊んでる  ともこ
 割ってみたきは風船葛      陶子
虫売のブラックニッカには飽きて  奈々
 目当ての部屋へ摺り足で行く   焱
若き日の未完の恋ぞ八十路なお   美恵子
 微温めのお茶を入れ替えようか  樹
独居の鍋底みがくもんもんと    紫苑
 模様に秘めたその能力を     瞑
シベリアの囚われ人に凍てる月   直子
 熱燗を待つ祖父のテーブル    遊凪
鉛筆を手元に置いて句をひねる   弦
 吊り橋長く渡りきれない     正博
花咲かば母の在りし日思い出す   弦
 肌良き石に凭りて眠らん     章子

当日は連句フリマもあり、雑俳として能登・輪島の段駄羅と岐阜の狂俳を紹介した。段駄羅は輪島塗の職場文芸として受け継がれてきた言葉遊びで、五七五の中七を同音異義語にして、前半と後半の転換の妙を楽しむ。

甘党は 羊羹が得手/よう考えて 置く碁石

段駄羅の代表作としてよく引用される作品。中七「ようかんがえて」が掛詞になっていて、連句の三句の渡りのように前後で転じる。被災した輪島に対する応援の気持ちで紹介してみた。