しばらく更新できなかったので、この間のことを日記風にまとめておく。
5月×日
広瀬ちえみ句集『雨曜日』(文学の森)が届く。
句集を出すという話は聞いていたので、楽しみにしていた。
今年はこれまで長いあいだ川柳と向き合ってきた川柳人が成果をまとめる年なのかも知れない。樋口由紀子『金曜日の川柳』、そして広瀬ちえみ『雨曜日』。
あとがきで広瀬は、「かつて『広瀬ちえみ』を評する言葉をたくさんいただきました」と書いている。
ニヒリスト
ナルシスト
迷路の少女
沼のちえみ
穴のちえみ
いろいろ言われているんだな。
「ちえみ個人をニヒリストというのではない。何か自分のこころを動かすことがあれば、いつも、その虚無が首をもたげる、いわば人間全体の抱えている解決不能の問題」「いわばニヒリズムをスプリングボードとしての現実肯定であり生の肯定」(石田柊馬「百万円のおとしだま」、「川柳木馬」76号)
「手ごわい日常の一つ一つこそ歓迎すべきである。それは迷路のちえみの日用品となり玩具となる」(大沼正明「迷路の愉悦」、セレクション柳人『広瀬ちえみ集』解説)
「もうひとり落ちてくるまで穴はたいくつ」(広瀬ちえみ)
『雨曜日』第一章のタイトルは「もう一度沼で逢いましょう」になっている。
過去の評価はさておいて、この句集は読んでいて川柳のおもしろさを堪能させてくれる。きちんと川柳に向き合ってきた人のすることはすごいなと思う。
遅刻するみんな毛虫になっていた 広瀬ちえみ
梅雨に入るからだが沼の匂いして
逢うために右と左に別れましょう
夜行性だから夜行性に会う
咲くときはすこしチクッとしますから
春の野の自分はお持ち帰りください
うっかりと生まれてしまう雨曜日
6月×日
「船団」125号。終刊号だが、「散在」という言い方をしている。
特集は「俳句はどのような詩か」。
芳賀博子の連載「今日の川柳」もちょうど50回で終了。 「魔法の言葉」というタイトルで、これまでの取材のことや、「川柳塔」の電子化事業のこと、十年前の『超新撰21』に清水かおり作品が収録されたことと堺谷真人の解説などについて書いている。
迷ったら海の匂いのする方へ 芳賀博子
会員作品から三句だけ。
そろそろ蝿も簡単に死んでいく らふあざみ
月の夜や駱駝毛布のふっと哀愁 若森京子
白菜は立派それほどでもないぼくら 小西昭夫
「船団」会員では、おおさわほてる『気配』(創風社出版)もいただいている。俳句とエッセー。
人間のすることなんて青葉木菟 おおさわほてる
あっ僕はあやまらないぞあおばずく
カタツムリ合わせる顔がないんです
春の月千年ぶりに吼えてみる
蝉がついたままです鼻の下
あと、「猫町」1号(発行人・三宅やよい)が届いた。「散在」のひとつのかたちだろう。
春かすみ猫はきちんと溶けてゆく 赤石忍
蝶々蝶々容疑者に肉親 近江文代
ラッパーが金子兜太の弓放つ ねじめ正一
楽団のひとりが消える百千鳥 三宅やよい
6月×日
ネットプリント「ウマとヒマワリ9」。
平岡直子の川柳連作「水中ソーシャルディスタンス」20句と我妻俊樹の掌編小説「蚊柱」。
これはオフレコなんだけど、5月5日に予定していてコロナ禍で中止になったイベント「現代川柳のこれから・川柳スパイラル創刊3周年記念大会」では平岡さんに句会の選者をお願いしていた。ネットプリントのかたちで彼女の川柳が読めるのは嬉しい。
鳥かごを大々的に留守にする 平岡直子
耳のなか暗いねこれはお祝いね
「鳥かご」の句は川柳ではよく見かけるが、「大々的に留守」が新鮮である。「耳のなか」は20句のなかで一番好きな句。
我妻俊樹とは一度しか会ったことはなくて、2018年5月に瀬戸夏子と対談してもらった。そのときのことは「川柳スパイラル」3号に柳本々々が書いている。
あれからもう2年経つのかと思うと夢のようだ。
6月×日
柏書房のwebマガジンで瀬戸夏子の「そしてあなたたちはいなくなった」を読む。
「女人短歌」の創刊をめぐって、北見志保子と川上小夜子について。
北見志保子はともかく川上小夜子については短歌大事典でも開かなければ載っていないので、知らないことが多かった。
「彼女たちはなんども試みた。当然のようにそれは厳しい戦いだった。
彼女たちの最後の賭けが『女人短歌』だった」
短日の陽のうつろひに散りこぼす光よ風よ冬青き樫 川上小夜子『光る樹木』
瀬戸のこの連載も佳境に入ってきた。
6月×日
「かばん」6月号が届く。
私が「かばん関西」と交流があったのは2004年~2005年ごろ。手元にある243号(2004年6月号)の特集は「かばん」20周年で20年のあゆみが表になっている。もうひとつの特集は「かばんの新しい風」で、イソカツミ『カツミズリズム』、伴風花『イチゴフェア』などが取り上げられている。
現在に戻ると、2020年6月号は通巻435になるらしい。特集「短歌とBL」。
もんちほしの表紙絵にインパクトがある。表紙のことばとして寺山修司の次の歌が挙げられている。
はこべらはいまだに母を避けながらわが合掌の暗闇に咲く 寺山修司
特集チーフの高村七子によると、短歌は「私」の文学だが、BL短歌の多くは「彼」の文学だという。朝吹真理子と小佐野彈の対談、桝野浩一の「BL短歌と私」、松野志保の短歌など、充実した誌面になっている。
トーキョーは雨だと知っているけれど君がどうしてるかは知らない(芳野悧子)
月曜はしょげてる蜘蛛が来てくれる(佐藤智子)
6月×日
鈴木千惠子著『杞憂に終わる連句入門』(文学通信)が届く。
鈴木は日本連句協会の理事で、連句結社「猫蓑会」の主要メンバー。著者は連句の式目に精通している。
Ⅰ連句に関する覚書、Ⅱ連句作品、Ⅲエッセイ、の三部から構成されている。
「さて、おそらく世の中には他にも、過ぎてみれば杞憂であったということは転がっている。連句の実作もその一つではないだろうか」ということだが、鈴木には次のような付句もある。
わかってるでもうれしいな君の嘘 倉本路子
杞憂に終はる佳人薄命 鈴木千惠子
Ⅰのうち「与奪とは何か」が私には勉強になった。
Ⅱのうち「連句に挑戦」の部分には歌仙を巻くプロセスが順を追って説明されている。
連句の初心者から経験者まで楽しめる本になっている。
2020年6月26日金曜日
2020年5月9日土曜日
森山文切川柳句集『せつえい』のことなど
4月×日
ダニエル・デフォーの『ペスト』を読む。
1665年、ロンドン、ペスト流行。死者約7万人だったという。
デフォーは統計的な数字を克明に記述している。
記録文学だと思っていたら、ペスト流行時、デフォーは5歳だった。ルポではなくて小説なのだった。
ある意味でカミュの『ペスト』より凄いかもしれない。
5月×日
「川柳木馬」164号が届く。
「作家群像」は内田真理子。
てのひらでなじませてからなしくずし 内田真理子
物申す物申す そこな捩り花
梟に耳はなかった紀元前
一句目は川柳性の強い句。二句目はこの作者お得意の花との取り合わせ。三句目は紀元前にまで遡る時間感覚。作家論はきゅういちと八上桐子が執筆している。
同人作品では大野美恵の次の作品に注目した。
ストローの首折り曲げて吸う秘密 大野美恵
羊羹に矯正危惧のある歯形
「蝶」234号も届いた。たむらちせい追悼(3)。
戸の狂ひ叩いて開ける山桜 たむらちせい
焼き畑の春の日取りをことづかる
申すまでもなくわが出自烏瓜
さてと立ち上がり水母と別れたる
5月×日
森山文切川柳句集『せつえい』を読む。
森山とは二度会ったことがある。
一度目は2017年12月、「川柳スパイラル」東京句会(北とぴあ)。初対面だったが、句会の感想を同誌2号に書いてもらった。
二度目は2019年1月、「川柳スパイラル」大阪句会(スピンオフ)。このときは昼の句会がすんだあと、森山はWEB句会のメンバーと夜にもうひとつ句会をするというので別れた。翌日はさらに別の句会に彼は参加したようだ。
文学フリマで「川柳スパイラル」と「毎週web句会」の隣接配置で出店しようという話もあったが、森山が超多忙のため実現しなかった。
WEB上の森山の活躍はよく知られていて、芳賀博子が「船団」122号の「今日の川柳」で「古代ギリシャ柳人パチョピスコス」を書いている。パチョピスコスは森山のこと。芳賀の文章はこの時評(2019年9月13日)でも紹介したことがある。
森山は「僕は川柳の営業をやります」と言っていたが、このたび句集を上梓し作者としての全貌を現わした。『せつえい』(2020年3月29日発行、発行所・毎週web句会)。
【webでの発表句から】
花がない方が自然である花瓶
目を覆うための両手に成り下がる
喋ってはいるが会話はしていない
唇に星をかじった跡がある
【web以外(柳誌、新聞、ラジオなど)から】
混浴に少年がいた十二月
線よりも左は僕が動かせる
迷うなぁどっちのタマネギも軽い
かたたたきけんのうらがわナショナリティ
5月×日
藤原龍一郎歌集『202X』との関連でオーウェルの『1984年』を読むことに。
オーウェルはけっこう読んだつもりだったが、ほとんど忘れてしまっていた。
「自由とは人の嫌がることを言う権利である」というようなことを彼は書いていたような気がする(うろ覚えです)。
『1984年』には「自由とは二足す二が四になると言える自由だ」という言葉が出てくる。
ディストピア小説としてオルダス・ハックスリーの『すばらしい新世界』も読んでみたい。
5月5日
コロナ禍がなかったら「川柳スパイラル」創刊3周年記念大会を開催していたはずだが、今は自重するしかない。
川柳も連句も社交文芸の一面があるので、句会・大会のかたちで集まれないのは辛いものがある。オンライン句会なども試みられているようだが、ZoomとかSkypeとか使ったことのないものにはハードルが高い。
連句では6月の宮城県連句大会(仙台)や7月の連句フェスタ宗祇水(郡上八幡)も中止になった。10月の浪速の芭蕉祭は開催できるだろうか。
ダニエル・デフォーの『ペスト』を読む。
1665年、ロンドン、ペスト流行。死者約7万人だったという。
デフォーは統計的な数字を克明に記述している。
記録文学だと思っていたら、ペスト流行時、デフォーは5歳だった。ルポではなくて小説なのだった。
ある意味でカミュの『ペスト』より凄いかもしれない。
5月×日
「川柳木馬」164号が届く。
「作家群像」は内田真理子。
てのひらでなじませてからなしくずし 内田真理子
物申す物申す そこな捩り花
梟に耳はなかった紀元前
一句目は川柳性の強い句。二句目はこの作者お得意の花との取り合わせ。三句目は紀元前にまで遡る時間感覚。作家論はきゅういちと八上桐子が執筆している。
同人作品では大野美恵の次の作品に注目した。
ストローの首折り曲げて吸う秘密 大野美恵
羊羹に矯正危惧のある歯形
「蝶」234号も届いた。たむらちせい追悼(3)。
戸の狂ひ叩いて開ける山桜 たむらちせい
焼き畑の春の日取りをことづかる
申すまでもなくわが出自烏瓜
さてと立ち上がり水母と別れたる
5月×日
森山文切川柳句集『せつえい』を読む。
森山とは二度会ったことがある。
一度目は2017年12月、「川柳スパイラル」東京句会(北とぴあ)。初対面だったが、句会の感想を同誌2号に書いてもらった。
二度目は2019年1月、「川柳スパイラル」大阪句会(スピンオフ)。このときは昼の句会がすんだあと、森山はWEB句会のメンバーと夜にもうひとつ句会をするというので別れた。翌日はさらに別の句会に彼は参加したようだ。
文学フリマで「川柳スパイラル」と「毎週web句会」の隣接配置で出店しようという話もあったが、森山が超多忙のため実現しなかった。
WEB上の森山の活躍はよく知られていて、芳賀博子が「船団」122号の「今日の川柳」で「古代ギリシャ柳人パチョピスコス」を書いている。パチョピスコスは森山のこと。芳賀の文章はこの時評(2019年9月13日)でも紹介したことがある。
森山は「僕は川柳の営業をやります」と言っていたが、このたび句集を上梓し作者としての全貌を現わした。『せつえい』(2020年3月29日発行、発行所・毎週web句会)。
【webでの発表句から】
花がない方が自然である花瓶
目を覆うための両手に成り下がる
喋ってはいるが会話はしていない
唇に星をかじった跡がある
【web以外(柳誌、新聞、ラジオなど)から】
混浴に少年がいた十二月
線よりも左は僕が動かせる
迷うなぁどっちのタマネギも軽い
かたたたきけんのうらがわナショナリティ
5月×日
藤原龍一郎歌集『202X』との関連でオーウェルの『1984年』を読むことに。
オーウェルはけっこう読んだつもりだったが、ほとんど忘れてしまっていた。
「自由とは人の嫌がることを言う権利である」というようなことを彼は書いていたような気がする(うろ覚えです)。
『1984年』には「自由とは二足す二が四になると言える自由だ」という言葉が出てくる。
ディストピア小説としてオルダス・ハックスリーの『すばらしい新世界』も読んでみたい。
5月5日
コロナ禍がなかったら「川柳スパイラル」創刊3周年記念大会を開催していたはずだが、今は自重するしかない。
川柳も連句も社交文芸の一面があるので、句会・大会のかたちで集まれないのは辛いものがある。オンライン句会なども試みられているようだが、ZoomとかSkypeとか使ったことのないものにはハードルが高い。
連句では6月の宮城県連句大会(仙台)や7月の連句フェスタ宗祇水(郡上八幡)も中止になった。10月の浪速の芭蕉祭は開催できるだろうか。
2020年5月1日金曜日
藤原龍一郎歌集『202X』
5月に入った。
行動変容を強いられ、体力維持のために散歩などしている。歩いてゆける距離に観音寺山遺跡(和泉市)がある。弥生時代後期の高地性集落で、小高い丘になっている。竪穴式住居跡の穴がいくつか残っているだけで、特に見るものはない。高地性集落はかつて「倭国大乱」と関係づけられ、戦乱に対応するため高地に作られたと言われたが、いまはあまり関係がないとされているようだ。
さて、前回は鳥のことを書いたので、今回は植物の話を少し。
植物についてはあまり得意ではなかったが、春の公園を歩いていると黄色い花々が目につく。今まで区別がつかなかったが、ノゲシ・オニタビラコ・サワオグルマなどの違いがだんだん分かるようになってきた。手元には『野草ハンドブック1春の花』があり、植物写真で有名な冨成忠夫の写真が掲載されているので役にたつ。ちなみに、かつて勤務していた職場で冨成忠夫の弟さんと同僚であって、この人からは歌舞伎のことをいろいろ教えてもらったことを思い出す。
あと、「コシャマイン記」で芥川賞をとった鶴田知也の本で『画文草木帖』『草木図誌』の二冊をときどき開いている。いくつか面白いと思ったことをメモしておく。
「春の七草」といえば「せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ」だが、私は「ごぎょう」と覚えているが「おぎょう」とも言い、牧野富太郎は「おぎょう」が正しいと言っているらしい。いずれにしても「おぎょう(ごぎょう)」の実体は「ははこぐさ」である。ハハコグサなんて食べられるのか?と思うが、甘粕幸子の『野草の料理』によると「ある時、雪の多い山村で、この天ぷらを食べたら、とてもおいしかったので驚いてしまいました。都市化し、土地もやせた環境では、ただのアクの強い草ですが、昔の気候条件の中では、おいしい草だったのかもしれません」ということだ。
「ほとけのざ」は「さんがいぐさ」の別称で、春の七草の「ほとけのざ」はこの草ではなく、「たびらこ」のことだという。しかもこの「たびらこ」は「こおにたびらこ」のことで、「おにたびらこ」とは別というから話がややこしい。
「はこべら」はハコベだが、なぜ「ら」が付いているのか分からない。
オオイヌノフグリはどこにでも生えている雑草だと思っていたが、明治時代に日本に入ってきた外来種だそうだ。鶴田の本には半世紀以上前に「ベロニカ」という草花の種子を注文したことが書いてある。これがオオイヌノフグリで、園芸品種として珍重された時代もあったのだ。明治20年春、牧野富太郎はお茶の水に植物採集にでかけたとき、まだ見たことのないコバルト色の花を見つけた。牧野は「ええのがあったぞ、こりゃええ」と土佐弁で叫んだという。発見記事が植物学雑誌に載った時代である。
最後に「どくだみ」について。前川文夫『日本人と植物』から。
「十文字になるはずの総苞片は、一枚だけが大きくて残りの三枚をかかえこんでいる。これをさらに押しひろげると、次の二枚が向きあって立ち、もう一つ、その中に残りの一枚だけが、花々の集まりをつつんでいる―いかにも一つ節から四枚がでているかのようなふりをしているのである」
どくだみは我家の裏庭にもいっぱい生えているから、花が咲いたら確かめてみようと思っている。
閑話休題。
現代と正面から対峙した歌集として、藤原龍一郎の『202X』(六花書房)を紹介しておきたい。
ベースにあるのはジョージ・オーウェルの『1984年』。
1947年に書かれたオーウェルの反ユートピア小説である。私は1984年当時、この小説が話題になったときに読んだ覚えがあるが、藤原の歌集の「あとがき」では次のように紹介されている。「ビッグ・ブラザーという全能の人工頭脳に支配された未来社会。すべての市民の言動は監視され、密告が奨励されて、言論も統制されている究極のディストピアである」
小説の最初の方を読み返しているが、テレスクリーンで体操をする場面など印象的だ。スクリーンを通じて体操をする姿も監視されているのだ。
夜は千の目をもち千の目に監視されて生き継ぐ昨日から今日 藤原龍一郎
明日あれば明日とはいえど密告者街に潜みて潜みて溢れ
さなきだに無敵モードは成立しパノプティコンは呪文にあらず
あの頃の未来としての今日明日や赤茄子腐れたる今日明日や
愛国をネットに書けばあらわれる病み蒼ざめた首なしの騎士
ミシェル・フーコーは『監獄の誕生』でパノプティコン(監視システム)について述べている。監獄だけの話ではなくて、権力によって監視される現代社会について、この言葉はよく用いられる。
藤原は『1984』に描かれたような監視社会を現代の日本に重ねあわせている。
赤紙の来る明日こそ身の誉れ敷島の ゆきゆきて、壇蜜
「オカルトとナチスが好きなゴスロリの愛国少女ですDM希望」
スマホ操る君の行為はすでにしてビッグ・ブラザーに監視されている
歌集には梶芽衣子の「女囚さそり」と「怨み節」など昭和史の記憶をたどる歌も収録されている。
『古事記』や『日本書紀』には「童謡」(わざうた)というものが出てくる。社会的事件を予言・諷刺する時事的な歌である。『202X』も一種の「わざうた」かと思ったが、時代の現実と対峙する作品が川柳ではなくて短歌から生れていることに何だか残念な感じがする。
亀の子のしっぽよ二千六百年 木村半文銭
行動変容を強いられ、体力維持のために散歩などしている。歩いてゆける距離に観音寺山遺跡(和泉市)がある。弥生時代後期の高地性集落で、小高い丘になっている。竪穴式住居跡の穴がいくつか残っているだけで、特に見るものはない。高地性集落はかつて「倭国大乱」と関係づけられ、戦乱に対応するため高地に作られたと言われたが、いまはあまり関係がないとされているようだ。
さて、前回は鳥のことを書いたので、今回は植物の話を少し。
植物についてはあまり得意ではなかったが、春の公園を歩いていると黄色い花々が目につく。今まで区別がつかなかったが、ノゲシ・オニタビラコ・サワオグルマなどの違いがだんだん分かるようになってきた。手元には『野草ハンドブック1春の花』があり、植物写真で有名な冨成忠夫の写真が掲載されているので役にたつ。ちなみに、かつて勤務していた職場で冨成忠夫の弟さんと同僚であって、この人からは歌舞伎のことをいろいろ教えてもらったことを思い出す。
あと、「コシャマイン記」で芥川賞をとった鶴田知也の本で『画文草木帖』『草木図誌』の二冊をときどき開いている。いくつか面白いと思ったことをメモしておく。
「春の七草」といえば「せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ」だが、私は「ごぎょう」と覚えているが「おぎょう」とも言い、牧野富太郎は「おぎょう」が正しいと言っているらしい。いずれにしても「おぎょう(ごぎょう)」の実体は「ははこぐさ」である。ハハコグサなんて食べられるのか?と思うが、甘粕幸子の『野草の料理』によると「ある時、雪の多い山村で、この天ぷらを食べたら、とてもおいしかったので驚いてしまいました。都市化し、土地もやせた環境では、ただのアクの強い草ですが、昔の気候条件の中では、おいしい草だったのかもしれません」ということだ。
「ほとけのざ」は「さんがいぐさ」の別称で、春の七草の「ほとけのざ」はこの草ではなく、「たびらこ」のことだという。しかもこの「たびらこ」は「こおにたびらこ」のことで、「おにたびらこ」とは別というから話がややこしい。
「はこべら」はハコベだが、なぜ「ら」が付いているのか分からない。
オオイヌノフグリはどこにでも生えている雑草だと思っていたが、明治時代に日本に入ってきた外来種だそうだ。鶴田の本には半世紀以上前に「ベロニカ」という草花の種子を注文したことが書いてある。これがオオイヌノフグリで、園芸品種として珍重された時代もあったのだ。明治20年春、牧野富太郎はお茶の水に植物採集にでかけたとき、まだ見たことのないコバルト色の花を見つけた。牧野は「ええのがあったぞ、こりゃええ」と土佐弁で叫んだという。発見記事が植物学雑誌に載った時代である。
最後に「どくだみ」について。前川文夫『日本人と植物』から。
「十文字になるはずの総苞片は、一枚だけが大きくて残りの三枚をかかえこんでいる。これをさらに押しひろげると、次の二枚が向きあって立ち、もう一つ、その中に残りの一枚だけが、花々の集まりをつつんでいる―いかにも一つ節から四枚がでているかのようなふりをしているのである」
どくだみは我家の裏庭にもいっぱい生えているから、花が咲いたら確かめてみようと思っている。
閑話休題。
現代と正面から対峙した歌集として、藤原龍一郎の『202X』(六花書房)を紹介しておきたい。
ベースにあるのはジョージ・オーウェルの『1984年』。
1947年に書かれたオーウェルの反ユートピア小説である。私は1984年当時、この小説が話題になったときに読んだ覚えがあるが、藤原の歌集の「あとがき」では次のように紹介されている。「ビッグ・ブラザーという全能の人工頭脳に支配された未来社会。すべての市民の言動は監視され、密告が奨励されて、言論も統制されている究極のディストピアである」
小説の最初の方を読み返しているが、テレスクリーンで体操をする場面など印象的だ。スクリーンを通じて体操をする姿も監視されているのだ。
夜は千の目をもち千の目に監視されて生き継ぐ昨日から今日 藤原龍一郎
明日あれば明日とはいえど密告者街に潜みて潜みて溢れ
さなきだに無敵モードは成立しパノプティコンは呪文にあらず
あの頃の未来としての今日明日や赤茄子腐れたる今日明日や
愛国をネットに書けばあらわれる病み蒼ざめた首なしの騎士
ミシェル・フーコーは『監獄の誕生』でパノプティコン(監視システム)について述べている。監獄だけの話ではなくて、権力によって監視される現代社会について、この言葉はよく用いられる。
藤原は『1984』に描かれたような監視社会を現代の日本に重ねあわせている。
赤紙の来る明日こそ身の誉れ敷島の ゆきゆきて、壇蜜
「オカルトとナチスが好きなゴスロリの愛国少女ですDM希望」
スマホ操る君の行為はすでにしてビッグ・ブラザーに監視されている
歌集には梶芽衣子の「女囚さそり」と「怨み節」など昭和史の記憶をたどる歌も収録されている。
『古事記』や『日本書紀』には「童謡」(わざうた)というものが出てくる。社会的事件を予言・諷刺する時事的な歌である。『202X』も一種の「わざうた」かと思ったが、時代の現実と対峙する作品が川柳ではなくて短歌から生れていることに何だか残念な感じがする。
亀の子のしっぽよ二千六百年 木村半文銭
2020年4月10日金曜日
「MITASASA」14号のことなど
植物図鑑が売れているそうだ。
コロナで街に行けないから、公園を散歩していると名前を知らない野草が目につく。ちょっと調べてみようという気になるのだろう。この機会に博物学者になってみるのも一興である。
コロナ対応で自粛したが、4月4日に開催するはずだった大阪連句懇話会では「俳諧博物誌」と題して俳諧に詠まれる動植物について考えてみるつもりだった。鳥の話だけ少ししておくと、手元に『野鳥歳時記』(山谷春潮)という本がある。著者は水原秋桜子の門下。秋桜子は中西悟堂と交流があり、「馬酔木探鳥会」というのを行っていたから、秋桜子も鳥には詳しい。『野鳥歳時記』からおもしろいと思ったポイントをいくつか挙げておく。
1 鳥の囀りは全部「囀り」(春)の一語になるが、個々の鳥について見ると、鶯の囀りは春、駒鳥の囀りは夏である。頬白は従来の歳時記では秋だが、現在では春。「高槻のこずゑにありて頬白のさへづる春となりにけるかも」(島木赤彦)の影響か。留鳥でも囀りや鳴きを主眼とするものは春または夏。
2 留鳥・漂鳥・夏鳥・冬鳥・旅鳥の区別と季語の関係。たとえば山から里へ移動する鳥のどの時点をとらえて季語とするかという問題である。この著者は、留鳥・漂鳥で一定の季節に決定できないものは無季としている。
3 渡り鳥は秋の季語。渡りを考えると秋だが、平地に降りるときは冬になっている。旅鳥は秋と春の二度通過する。俳句ではどっちなのか。
4 同じ燕の仲間でも、燕・腰赤燕は春、岩燕は夏。雉子は留鳥で春。千鳥は普通は渡り鳥(冬)だが、小千鳥・白千鳥・イカルチドリは留鳥で「夏千鳥」となる。ややこしいことだが、ナチュラリストの目で俳諧を見直すことも必要だろう。
閑話休題。川柳の話に移ろう。
ネットプリント「MITASASA」14号は川柳号で、三田三郎・笹川諒・暮田真名の三人による川柳作品10句がそれぞれ掲載されている。三田と笹川は歌人だが、最近は川柳の実作も発表している。この三人の組み合わせは注目されるが、今回の暮田の参加は今年2月の『補遺』批評会を契機とするのかもしれない。
まだネプリが配信中なので、ここでは各1句だけ紹介する。
玉手箱の軍事利用が止まらない 三田三郎
「玉手箱」といえば「浦島太郎」である。乙姫さまからもらった玉手箱は開けることを禁じられたもの。ここではお伽話を軍事利用に転じている。開けないことが軍事利用になるのだろうが、開けてしまったらカタストロフになる。「端的に亀が悪いと思います」
金柑の中の王都を煮詰めよう 笹川諒
金柑はビタミンCが豊富だから、煮たものをヨーグルトなどに入れて食べたりする。「金柑を煮詰める」というのは日常の風景だが、そこに「王都」という言葉を入れると情景が一変する。金柑の中に別世界がある。その王都を破壊しようと言っているのではなくて、煮詰めて抽出しようとしているのだろう。現実に重なってもうひとつの世界が立ち上がってくる。
街はもうこども裁判所の様相に 暮田真名
「ごっこ遊び」というものがある。こどもが裁判長や検事になって、模擬裁判をする。ロールプレイをすることによってこどもが社会の仕組みを学んでゆく。しかし、ふと気づくと街中がこども裁判所になっていたのだ。風刺が前面に出ている。
笹川諒は「川柳スパイラル」8号のゲスト作品にも「トワイライト」10句を発表している。
世界痛がひどくて今日は休みます 笹川諒
意味上の主語と一夜を共にする
短歌フィールドの表現者が川柳形式で作品を書くというケースが増えてきた。
たとえば我妻俊樹はすでに川柳作品を多く発表しているが、noteに川柳連作「音楽は黙っていてくれる」(30句)を公開している。
マッチ箱の中でも蝶は飛んでいる 我妻俊樹
109から110に生え替わる
これらの作品は歌人が片手間に書いた川柳というようなものではなく、良質の川柳作品として通用するものとなっている。
「川柳スパイラル」8号から、もうひとり沢茱萸の作品を紹介する。
妄想の間に鹿をかわいがる 沢茱萸
紙媒体。ふたごの面倒よろしくね
「間」には「あわい」とルビがふられている。沢は「かばん」の会員。この2年、川柳句会にも参加している。
川柳「湖」10号(浅利猪一郎川柳事務所)に第10回「ふるさと川柳」の結果が掲載されている。課題「風」。私のオシは「クモの巣に」の句。
もう少し風化してから逢いましょう 齋藤泰子 (最優秀句)
通帳にときどき風を入れてやる 赤石ゆう (優秀句一席)
真っ直ぐな風です 結婚しませんか 平井美智子(優秀句二席)
クモの巣にかかった風のやわらかさ 石田一郎 (優秀句三席)
新作の風のカタログです かしこ 柴田比呂志(優秀句三席)
「水脈」54号より。
マーラーはもう聴こえない水瓶座 一戸涼子
バッキューン酔いどれ天使のねらい撃ち 麒麟
なりゆきで必死にたまご抱いている 落合魯忠
行間のしめりを埋めていく桜 酒井麗水
明日までに標本箱へ帰ります 浪越靖政
俳句についても二誌紹介しておこう。
久保純夫の俳句個人誌「儒艮」31号。おもしろい句が並んでいる。
男黴女黴なる議事堂へ 久保純夫
南朝の途絶えしところ青芒
茹でられし蛸の定型噛んでおり
恙なく帚木として暮らしけり
いつまでのふたりで見たる蟻地獄
端居するところはいつも楕円かな
木耳の口の中から鳴いており
決めかねてすり寄ってくる李かな
はんざきを開いてみれば吾妹かな
わたくしは琥珀の色の麦茶です
「翔臨」97号から。
寝てすぐに三連水車雪漕ぐ夢 竹中宏
積雪に獣糞時は満ち足れり
山頂にだれかが遊んだ雪の洞
和魂舌のまはりの芹のくづ
啓蟄の二蛇踊り場でゆきちがふ
大工の子で外科医となつて花粉症
匍ひ出ては目貼り剥ぎとつたが一期
それぞれの表現者がそれぞれの形式で発信を続けている。
コロナで街に行けないから、公園を散歩していると名前を知らない野草が目につく。ちょっと調べてみようという気になるのだろう。この機会に博物学者になってみるのも一興である。
コロナ対応で自粛したが、4月4日に開催するはずだった大阪連句懇話会では「俳諧博物誌」と題して俳諧に詠まれる動植物について考えてみるつもりだった。鳥の話だけ少ししておくと、手元に『野鳥歳時記』(山谷春潮)という本がある。著者は水原秋桜子の門下。秋桜子は中西悟堂と交流があり、「馬酔木探鳥会」というのを行っていたから、秋桜子も鳥には詳しい。『野鳥歳時記』からおもしろいと思ったポイントをいくつか挙げておく。
1 鳥の囀りは全部「囀り」(春)の一語になるが、個々の鳥について見ると、鶯の囀りは春、駒鳥の囀りは夏である。頬白は従来の歳時記では秋だが、現在では春。「高槻のこずゑにありて頬白のさへづる春となりにけるかも」(島木赤彦)の影響か。留鳥でも囀りや鳴きを主眼とするものは春または夏。
2 留鳥・漂鳥・夏鳥・冬鳥・旅鳥の区別と季語の関係。たとえば山から里へ移動する鳥のどの時点をとらえて季語とするかという問題である。この著者は、留鳥・漂鳥で一定の季節に決定できないものは無季としている。
3 渡り鳥は秋の季語。渡りを考えると秋だが、平地に降りるときは冬になっている。旅鳥は秋と春の二度通過する。俳句ではどっちなのか。
4 同じ燕の仲間でも、燕・腰赤燕は春、岩燕は夏。雉子は留鳥で春。千鳥は普通は渡り鳥(冬)だが、小千鳥・白千鳥・イカルチドリは留鳥で「夏千鳥」となる。ややこしいことだが、ナチュラリストの目で俳諧を見直すことも必要だろう。
閑話休題。川柳の話に移ろう。
ネットプリント「MITASASA」14号は川柳号で、三田三郎・笹川諒・暮田真名の三人による川柳作品10句がそれぞれ掲載されている。三田と笹川は歌人だが、最近は川柳の実作も発表している。この三人の組み合わせは注目されるが、今回の暮田の参加は今年2月の『補遺』批評会を契機とするのかもしれない。
まだネプリが配信中なので、ここでは各1句だけ紹介する。
玉手箱の軍事利用が止まらない 三田三郎
「玉手箱」といえば「浦島太郎」である。乙姫さまからもらった玉手箱は開けることを禁じられたもの。ここではお伽話を軍事利用に転じている。開けないことが軍事利用になるのだろうが、開けてしまったらカタストロフになる。「端的に亀が悪いと思います」
金柑の中の王都を煮詰めよう 笹川諒
金柑はビタミンCが豊富だから、煮たものをヨーグルトなどに入れて食べたりする。「金柑を煮詰める」というのは日常の風景だが、そこに「王都」という言葉を入れると情景が一変する。金柑の中に別世界がある。その王都を破壊しようと言っているのではなくて、煮詰めて抽出しようとしているのだろう。現実に重なってもうひとつの世界が立ち上がってくる。
街はもうこども裁判所の様相に 暮田真名
「ごっこ遊び」というものがある。こどもが裁判長や検事になって、模擬裁判をする。ロールプレイをすることによってこどもが社会の仕組みを学んでゆく。しかし、ふと気づくと街中がこども裁判所になっていたのだ。風刺が前面に出ている。
笹川諒は「川柳スパイラル」8号のゲスト作品にも「トワイライト」10句を発表している。
世界痛がひどくて今日は休みます 笹川諒
意味上の主語と一夜を共にする
短歌フィールドの表現者が川柳形式で作品を書くというケースが増えてきた。
たとえば我妻俊樹はすでに川柳作品を多く発表しているが、noteに川柳連作「音楽は黙っていてくれる」(30句)を公開している。
マッチ箱の中でも蝶は飛んでいる 我妻俊樹
109から110に生え替わる
これらの作品は歌人が片手間に書いた川柳というようなものではなく、良質の川柳作品として通用するものとなっている。
「川柳スパイラル」8号から、もうひとり沢茱萸の作品を紹介する。
妄想の間に鹿をかわいがる 沢茱萸
紙媒体。ふたごの面倒よろしくね
「間」には「あわい」とルビがふられている。沢は「かばん」の会員。この2年、川柳句会にも参加している。
川柳「湖」10号(浅利猪一郎川柳事務所)に第10回「ふるさと川柳」の結果が掲載されている。課題「風」。私のオシは「クモの巣に」の句。
もう少し風化してから逢いましょう 齋藤泰子 (最優秀句)
通帳にときどき風を入れてやる 赤石ゆう (優秀句一席)
真っ直ぐな風です 結婚しませんか 平井美智子(優秀句二席)
クモの巣にかかった風のやわらかさ 石田一郎 (優秀句三席)
新作の風のカタログです かしこ 柴田比呂志(優秀句三席)
「水脈」54号より。
マーラーはもう聴こえない水瓶座 一戸涼子
バッキューン酔いどれ天使のねらい撃ち 麒麟
なりゆきで必死にたまご抱いている 落合魯忠
行間のしめりを埋めていく桜 酒井麗水
明日までに標本箱へ帰ります 浪越靖政
俳句についても二誌紹介しておこう。
久保純夫の俳句個人誌「儒艮」31号。おもしろい句が並んでいる。
男黴女黴なる議事堂へ 久保純夫
南朝の途絶えしところ青芒
茹でられし蛸の定型噛んでおり
恙なく帚木として暮らしけり
いつまでのふたりで見たる蟻地獄
端居するところはいつも楕円かな
木耳の口の中から鳴いており
決めかねてすり寄ってくる李かな
はんざきを開いてみれば吾妹かな
わたくしは琥珀の色の麦茶です
「翔臨」97号から。
寝てすぐに三連水車雪漕ぐ夢 竹中宏
積雪に獣糞時は満ち足れり
山頂にだれかが遊んだ雪の洞
和魂舌のまはりの芹のくづ
啓蟄の二蛇踊り場でゆきちがふ
大工の子で外科医となつて花粉症
匍ひ出ては目貼り剥ぎとつたが一期
それぞれの表現者がそれぞれの形式で発信を続けている。
2020年3月27日金曜日
「井泉」と「杜人」
短歌誌「井泉」92号、巻頭の招待作品に飯島章友の川柳が掲載されている。「井泉」はこれまでにもときどき川柳作品を招待している。たとえば、昨年の87号の松永千秋。
今号の飯島の作品は「おぼろどうふ」と題した15句。
ひさかたのひかりがすべてお説教 飯島章友
「ひさかたの」は「ひかり」にかかる枕詞。「ひさかたのひかりのどけき春の日にしず心なく花の散るらん」(紀貫之)を踏まえているだろう。川柳ではふつう枕詞は使わないのに、このような書き方をしているのは、短歌誌に対する挨拶だろう。川柳史に即していえば、雑排のなかに小倉付があり、百人一首の上五を使ってパロディにしている。
春過ぎて 蚊帳が戻れば夜着が留守
あけぬれば 悪女に恋の俄かさめ
「散る花」にゆかずに「お説教」にズリ落とすのは川柳的テクニックである。
広義では臓器にあたる砂時計 飯島章友
砂時計は広義では臓器に相当するという。意味不明だが、では狭義では砂時計は砂時計なのだろうか。ある種の川柳には「ペアの思想」があり、右といえば左を、嫌いなといえば好きなというように、反対を考える習性がある。臓器と砂時計のイメージが重なってくるとも読める。
選びなさいギムナジウムか白昼夢 飯島章友
AとBのどちらかを選べ、という出題形式だが、実は正解というものはない。「ギムナジウム」と「白昼夢」という次元の異なるものの二者択一を迫られるが、両者に共通するのは「ム」という語の脚韻だけだ。読者はこの問いの前で宙吊りにされている。
かなかなの声の彼方のカルロス・ゴーン 飯島章友
飯島は時事句も混ぜて書いている。
川柳ではゴーンの句はすでに数多書かれているだろう。「消える川柳」と呼ばれる時事川柳を泡のように消えてしまうことから救い出すにはどうすればよいか。そのために「かなかな」「声」「彼方」「カルロス」の語頭韻の響きが使われている。ここでも川柳的テクニックが有効である。
飯島はけっこうテクニシャンなのだが、今回の作品のベースにあるのは、少年の成長物語かもしれない。隠された抒情性。次の句の「十三歳」には「じゅうさん」のルビが付けられている。
十三歳のおぼろどうふな帰り道 飯島章友
次に「杜人」265号をご紹介。「杜人」は一年後に終刊となり、今号は残り4号のうちの1冊目となる。
堂々と間違うための寒卵 加藤久子
反社会的な猫来て膝にのってくる
「堂々と間違う」とはなかなか言えない。「反社会的な猫」を膝にのせるには許容力が必要だ。どうでもいいことはどうでもいい。大切なことは別にあるのだ。
ビー玉のぶつかりあって別の道 広瀬ちえみ
春が来てかわいい嘘が増えており
「かわいい嘘」という表現が「春」に響きあって楽しい気分にさせてくれる。反語とか皮肉の意味にも取れないことはないが、そうではなくて、素直に罪のない嘘と読んでおきたい。世の中は悪意のある嘘に満ちているから。
家族写真に切手を貼って投函す 佐藤みさ子
いつまでも生きる別れがめんどうで
一句目は当たり前のことをふつうに詠んでいるようだが、なぜかドキッとする。誰に対して投函するのか。差出人と受取人はそれぞれ別の世界にいるのではないか。
最後に「杜人集」のコーナーから何句か引用しておこう。
サ行からセム語ひろがる水彩画 野間幸恵
セーターの交換会をする獣 竹井紫乙
かたちをかえる夕暮れの小鳥たち 妹尾凛
こともなく終ってみたい黄金虫 小野善江
今号の飯島の作品は「おぼろどうふ」と題した15句。
ひさかたのひかりがすべてお説教 飯島章友
「ひさかたの」は「ひかり」にかかる枕詞。「ひさかたのひかりのどけき春の日にしず心なく花の散るらん」(紀貫之)を踏まえているだろう。川柳ではふつう枕詞は使わないのに、このような書き方をしているのは、短歌誌に対する挨拶だろう。川柳史に即していえば、雑排のなかに小倉付があり、百人一首の上五を使ってパロディにしている。
春過ぎて 蚊帳が戻れば夜着が留守
あけぬれば 悪女に恋の俄かさめ
「散る花」にゆかずに「お説教」にズリ落とすのは川柳的テクニックである。
広義では臓器にあたる砂時計 飯島章友
砂時計は広義では臓器に相当するという。意味不明だが、では狭義では砂時計は砂時計なのだろうか。ある種の川柳には「ペアの思想」があり、右といえば左を、嫌いなといえば好きなというように、反対を考える習性がある。臓器と砂時計のイメージが重なってくるとも読める。
選びなさいギムナジウムか白昼夢 飯島章友
AとBのどちらかを選べ、という出題形式だが、実は正解というものはない。「ギムナジウム」と「白昼夢」という次元の異なるものの二者択一を迫られるが、両者に共通するのは「ム」という語の脚韻だけだ。読者はこの問いの前で宙吊りにされている。
かなかなの声の彼方のカルロス・ゴーン 飯島章友
飯島は時事句も混ぜて書いている。
川柳ではゴーンの句はすでに数多書かれているだろう。「消える川柳」と呼ばれる時事川柳を泡のように消えてしまうことから救い出すにはどうすればよいか。そのために「かなかな」「声」「彼方」「カルロス」の語頭韻の響きが使われている。ここでも川柳的テクニックが有効である。
飯島はけっこうテクニシャンなのだが、今回の作品のベースにあるのは、少年の成長物語かもしれない。隠された抒情性。次の句の「十三歳」には「じゅうさん」のルビが付けられている。
十三歳のおぼろどうふな帰り道 飯島章友
次に「杜人」265号をご紹介。「杜人」は一年後に終刊となり、今号は残り4号のうちの1冊目となる。
堂々と間違うための寒卵 加藤久子
反社会的な猫来て膝にのってくる
「堂々と間違う」とはなかなか言えない。「反社会的な猫」を膝にのせるには許容力が必要だ。どうでもいいことはどうでもいい。大切なことは別にあるのだ。
ビー玉のぶつかりあって別の道 広瀬ちえみ
春が来てかわいい嘘が増えており
「かわいい嘘」という表現が「春」に響きあって楽しい気分にさせてくれる。反語とか皮肉の意味にも取れないことはないが、そうではなくて、素直に罪のない嘘と読んでおきたい。世の中は悪意のある嘘に満ちているから。
家族写真に切手を貼って投函す 佐藤みさ子
いつまでも生きる別れがめんどうで
一句目は当たり前のことをふつうに詠んでいるようだが、なぜかドキッとする。誰に対して投函するのか。差出人と受取人はそれぞれ別の世界にいるのではないか。
最後に「杜人集」のコーナーから何句か引用しておこう。
サ行からセム語ひろがる水彩画 野間幸恵
セーターの交換会をする獣 竹井紫乙
かたちをかえる夕暮れの小鳥たち 妹尾凛
こともなく終ってみたい黄金虫 小野善江
2020年3月21日土曜日
コロナウイルスとペスト
新型コロナウイルスの流行が止まらない。
最初のうちは他人事と思っていたが、イベントの自粛が始まって、川柳も無縁ではなくなってきた。「川柳スパイラル」でも5月5日に創刊3周年記念大会を東京・北とぴあで開催予定だったが、終息の気配がみえないので、やむなく中止の決断をした。30人程度の規模であっても、パネラー・選者・参加者など人を巻き込んでのイベントになるから、強い意志と確信がもてなければ開催できない。それぞれのイベントの責任者にとっては悩ましいところだと思う。
リスクのない句会として今後ツイッターとか動画を使うことも考えられるかもしれない。また、誌上句会は直接集まることがないから、こういうときには有効だ。ここでは「カモミール句会設立五周年記念誌上句会」を紹介しておこう。
兼題【自由吟】 2句提出(男女各3名、合計6名による『自由吟』の共選)
選者
柳本 々々 (東京都在住・無所属)
細川 静 (青森県在住・「カモミール句会」会員)
楢崎 進弘 (大阪府在住・「連衆」会員)
高鶴 礼子 (埼玉県在住・「ノエマ・ノエシス」主宰)
なかはら れいこ (岐阜県在住・「川柳ねじまき」発行人)
三村 三千代 (青森県在住・古典文学研究者)
締め切り… 2020年4月10日(金)(当日消印有効)
参加費… 一口 1000円(切手不可・小為替等で)/発表誌呈
詳細は「川柳日記 一の糸」https://kanae0807.hatenablog.com/entry/2019/12/01/234204
ウイルスが流行するたびに引き合いに出される文学作品に、アルベール・カミュの『ペスト』がある。アルジェリアのオラン市にペストが流行したという設定で、誠実に現実に対処する人々の姿が描かれている。現在の状況下で読み直すと、いっそう予言的な作品だと実感する。「不条理」という言葉を久しぶりに思い出した。
「彼らは取り引きを行うことを続け、旅行の準備をしたり、意見をいだいたりしていた。ペストという、未来も、移動も、議論も封じてしまうものなど、どうして考えられたであろうか。彼らはみずから自由であると信じていたし、しかも、天災というものがあるかぎり、何びとも自由ではありえないのである」
「不幸のなかには抽象と非現実の一面がある。しかし、その抽象がこっちを殺しにかかってきたら、抽象だって相手にしなければならぬのだ」
「みずからペストの日々を生きた人々の思い出のなかでは、そのすさまじい日々は、炎々と燃え盛る残忍な猛火のようなものとしてではなく、むしろその通り過ぎる道のすべてのものを踏みつぶしてゆく、果てしない足踏みのようなものとして描かれるのである」
都市全体の隔離という状況のなかで、妻や恋人と会えなくなって、町からの脱出をくわだてる者もあれば、自由意志でペストと腰をすえて対峙する者もいる。ヒロイズムではないのだ。
不条理な世界のシナリオを書いてきた別役実が亡くなったが、ある種の川柳も不条理な世界を詠んでいる。私が思い浮かべるのは次のような句だ。
わけあってバナナの皮を持ち歩く 楢崎進弘
弁当を砂漠へ取りに行ったまま 筒井祥文
なぜそんなことが起こるのかという合理的説明ができない。
「太陽がまぶしかったからだ」というのはカミュの『異邦人』だが、かつて関悦史が川柳の不条理について書いていたことを思い出した。
びっしりと毛が生えている壷の中 石部明
関悦史は「『難解』な川柳が読みたい」(「バックストローク」33号)でこの句について、次のように述べている。
「これら字義通りに読めば現代美術のインスタレーション作品かSF風味の不条理コントのように奇妙さが楽しめ、結果として現実と異なる因果律を持つ別世界を類推させてくれる句も、中に『毛が生えている壷』とは何を風刺しているかと対象を特定しようとすると途端に不毛な読みを誘発することになる」
川柳は不条理な出来事を詠むものだと一般化する気はないし、またそんなことをすれば読みが限定されてしまうのだけれど、なぜ自分がこんな目にあわなければいけないのか、という解決できない謎に私たちはいくらでも直面する。昨今の世界や現実がいよいよ怪しいものになってきた。
不条理な火事を訪ねて蟹が来る 小池正博
最初のうちは他人事と思っていたが、イベントの自粛が始まって、川柳も無縁ではなくなってきた。「川柳スパイラル」でも5月5日に創刊3周年記念大会を東京・北とぴあで開催予定だったが、終息の気配がみえないので、やむなく中止の決断をした。30人程度の規模であっても、パネラー・選者・参加者など人を巻き込んでのイベントになるから、強い意志と確信がもてなければ開催できない。それぞれのイベントの責任者にとっては悩ましいところだと思う。
リスクのない句会として今後ツイッターとか動画を使うことも考えられるかもしれない。また、誌上句会は直接集まることがないから、こういうときには有効だ。ここでは「カモミール句会設立五周年記念誌上句会」を紹介しておこう。
兼題【自由吟】 2句提出(男女各3名、合計6名による『自由吟』の共選)
選者
柳本 々々 (東京都在住・無所属)
細川 静 (青森県在住・「カモミール句会」会員)
楢崎 進弘 (大阪府在住・「連衆」会員)
高鶴 礼子 (埼玉県在住・「ノエマ・ノエシス」主宰)
なかはら れいこ (岐阜県在住・「川柳ねじまき」発行人)
三村 三千代 (青森県在住・古典文学研究者)
締め切り… 2020年4月10日(金)(当日消印有効)
参加費… 一口 1000円(切手不可・小為替等で)/発表誌呈
詳細は「川柳日記 一の糸」https://kanae0807.hatenablog.com/entry/2019/12/01/234204
ウイルスが流行するたびに引き合いに出される文学作品に、アルベール・カミュの『ペスト』がある。アルジェリアのオラン市にペストが流行したという設定で、誠実に現実に対処する人々の姿が描かれている。現在の状況下で読み直すと、いっそう予言的な作品だと実感する。「不条理」という言葉を久しぶりに思い出した。
「彼らは取り引きを行うことを続け、旅行の準備をしたり、意見をいだいたりしていた。ペストという、未来も、移動も、議論も封じてしまうものなど、どうして考えられたであろうか。彼らはみずから自由であると信じていたし、しかも、天災というものがあるかぎり、何びとも自由ではありえないのである」
「不幸のなかには抽象と非現実の一面がある。しかし、その抽象がこっちを殺しにかかってきたら、抽象だって相手にしなければならぬのだ」
「みずからペストの日々を生きた人々の思い出のなかでは、そのすさまじい日々は、炎々と燃え盛る残忍な猛火のようなものとしてではなく、むしろその通り過ぎる道のすべてのものを踏みつぶしてゆく、果てしない足踏みのようなものとして描かれるのである」
都市全体の隔離という状況のなかで、妻や恋人と会えなくなって、町からの脱出をくわだてる者もあれば、自由意志でペストと腰をすえて対峙する者もいる。ヒロイズムではないのだ。
不条理な世界のシナリオを書いてきた別役実が亡くなったが、ある種の川柳も不条理な世界を詠んでいる。私が思い浮かべるのは次のような句だ。
わけあってバナナの皮を持ち歩く 楢崎進弘
弁当を砂漠へ取りに行ったまま 筒井祥文
なぜそんなことが起こるのかという合理的説明ができない。
「太陽がまぶしかったからだ」というのはカミュの『異邦人』だが、かつて関悦史が川柳の不条理について書いていたことを思い出した。
びっしりと毛が生えている壷の中 石部明
関悦史は「『難解』な川柳が読みたい」(「バックストローク」33号)でこの句について、次のように述べている。
「これら字義通りに読めば現代美術のインスタレーション作品かSF風味の不条理コントのように奇妙さが楽しめ、結果として現実と異なる因果律を持つ別世界を類推させてくれる句も、中に『毛が生えている壷』とは何を風刺しているかと対象を特定しようとすると途端に不毛な読みを誘発することになる」
川柳は不条理な出来事を詠むものだと一般化する気はないし、またそんなことをすれば読みが限定されてしまうのだけれど、なぜ自分がこんな目にあわなければいけないのか、という解決できない謎に私たちはいくらでも直面する。昨今の世界や現実がいよいよ怪しいものになってきた。
不条理な火事を訪ねて蟹が来る 小池正博
2020年2月15日土曜日
暮田真名『補遺』批評会のことなど
2月9日、三鷹の「かたらいの道市民スペース」で暮田真名の第一句集『補遺』の批評会が開催された。昨年10月に開催されるはずだったのが、台風のため延期になっていた集まりである。
三鷹には何度か行ったことがあるが、いつも水中書店のある北口方面なので、今回は南口を探検してみた。「太宰治文学サロン」が出来ていたので覗いてみる。「トカトントン」の展示があった。太宰の墓がある禅林寺には数十年前に行ったことがあるので、今回は行くつもりはなかったが、批評会までにまだ時間があるので歩いてゆくことにした。以前とはずいぶん変わって立派な斎場になっている。墓地は昔のままで森鷗外の墓と太宰治の墓が向かい合わせになっている。太宰の墓の写真をとる人が向かいの鷗外のところから撮影するので、鷗外墓の方が荒らされるという話を聞いた覚えがあるが、今はどちらも人気がなく静かであった。
昨年は新潟で「坂口安吾風の館」に行ったので、無頼派ゆかりの地に縁がある。「戦後」という時代も遙か過去になった感じがする。
さて、批評会の方だが、主催「川柳スープレックス」で、報告者は平岡直子と柳本々々。
平岡は「短歌にとって川柳とはなにか」「川柳にとって寿司とはなにか」「言葉にとってかわいいとはなにか」という三つのテーマで語った。興味深かったのは導入で平岡が語った部分。平岡は川柳との交流ができて5年になるが、歌人であるゆえに川柳を誤解しているのではないかという不安を感じるという。川柳の句集の批評はむずかしい。歌集の批評は作者の品評会だが、川柳句集は作者を再構成する部品として機能しない。句集を出しても作者が得をするようにはなっていない。蜃気楼のように作者を突き抜けて作品に手が届く。ざっと、そのような話だったと思う。
柳本は「わたしはどこにも行きたくない、ここにいたい」というタイトルで、暮田の「OD寿司」、石田柊馬の「もなか」、兵頭全郎のポテトチップス(「開封後は早めにお召し上がり下さい」)の三つの食べ物を題材とした連作を引いて現代川柳の特質を語った。キャラクターとキャラの違い、川柳は「交換芸術」、それまで世界で起こらなかったことが、言葉によって世界のルールを試してゆく、いろんな世界の可能性を試してゆく、など。
「推し句バトル」のコーナー、それぞれの推し句は次の通り。
川合大祐の推し句 そろばんを囲んだ そんな夏はない
平岡直子の推し句 かなしみと枯山水がこみ上げる
笹川諒の推し句 ダイヤモンドダストにえさをやらなくちゃ
小池正博の推し句 良い寿司は関節がよく曲がるんだ
プレゼンと質疑のあと会場の挙手によって、平岡が勝利。
「OD寿司」の「OD」は「オーバードーズ」(薬の過剰摂取)という意味らしい。
この日の参加者は歌人が多く、歌人が川柳をどう見ているかを改めて意識させられた。
批評会に来ていた山口勲さんから「て、わたし」7号をいただいた。彼には「川柳スパイラル」5号に「語り手の声が聞こえる詩」を書いていただいたことがある。
「て、わたし」7号の特集はアメリカ合衆国の韓国系の詩人で社会活動家のフラニー・チョイ。ヤリタミサコ、西山敦子、堀田季何、山口勲の四人が訳している。
山口の解説によると、収録されているうちの三つの詩は実際のできごとをきっかけに書かれた作品だということだ。
白人男性が自分の作品に注目を集めるためだけにアジア人のペンネームを使って詩を投稿したことに対する怒りから書かれた「チェ・ジョンミン」。
女性へのストリートハラストメントを描いた「『俺、豚肉が好きなんだぜ』と通りで私にわめいた男へ」。
アジア系の警察官が黒人を誤射殺害した事件をめぐる「ピーター・リャンへ」。
山口は「川柳スパイラル」5号掲載の文章で同性愛の黒人女性の詩やロヒンギャについての詩を紹介したあと、こんなふうに書いている。
「私が今回紹介したものは必ずしも『詩的』ではないのかもしれません。作品と人を切り離すべきだという考えから外れた前近代的な捉え方かもしれません。けれども、様々な怒りを通過した作品は近代日本が経験した言文一致とも通じ、声を通すことで社会や自分自身の生活と深く結びつく二十一世紀の文学だと信じています」
「俳壇」3月号に新鋭俳人として中山奈々が紹介されている。中山の俳句とエッセイに松本てふこの中山奈々論が付いている。松本の句集『汗の果実』(邑書林)のことは先月触れたが、もう一冊、宮本佳世乃の第二句集『三〇一号室』(港の人)が好評だ。梅田蔦屋書店ではこの二冊が並んで置かれている。
宮本佳世乃の句は「豆の木」や「オルガン」で読んでいたし、第一句集『鳥飛ぶ仕組み』(現代俳句協会新鋭シリーズ)も手元にある。いつごろから宮本のことを知るようになったのか、もう覚えていないが、俳句のイベントに行くと受付で見かけることがあったりして、自然と挨拶をかわすようになったのだろう。
『鳥飛ぶ仕組み』から次の二句を並べて抜き出してみよう。
二人ゐて一人は冬の耳となる
郭公の森にふたりとなりにけり
「二人と一人」ということが意識されている。「一人」ではなくて「二人のうちの一人」という意識である。二人でいるということが孤独を忘れさせる場合もあれば、二人でいることによって孤独感が深まる場合もある。二人のうちの一人が「冬の耳」となったのなら、もう一人はどうなったのだろう。二人でいるためには「郭公の森」でなければならなかった。それはなぜなんだろう。分かるような気もするし、本当のところは分からないような気もする。この二句にマークを入れたということは、そのときの私の気分に響くところがあったのだろう。
『鳥飛ぶ仕組み』の帯文で石寒太はこんなふうに書いている。
「彼女は『俳句をつくっている時間は、どこか別の場所に行っているように心地いいのだ』という。本当にはじめて会った時に直感した通りの、まさに« 俳句人間 »なのである」
私は川柳フィールドにいるので、俳句の文体にはなじめないところがある。だから、宮本の句のうちでも文末が「~にけり」とか「~たる」となっているものに対しては、「ああ俳句だな」と思うだけだ。『三〇一号室』の中で私がおもしろいと思うのはいかにも俳句らしい句ではなくて、次のような句。(三〇一号室というのだから、三階のいちばん端の部屋だろうか。)
かなかなに血の集まってゐるばかり
こどもつぎつぎ胡桃の谷へ入りゆく
素数から冬の書店に辿りつく
空港に歩いてゆける勾玉屋
掌が枇杷となるまで触れてゐる
白蝶のただ追ひたれば職質され
最期にネットプリント「MITASASA」第12号から三田三郎の短歌を紹介しておこう。
気を付けろ俺は真顔のふりをしてマスクの下で笑っているぞ 三田三郎
三鷹には何度か行ったことがあるが、いつも水中書店のある北口方面なので、今回は南口を探検してみた。「太宰治文学サロン」が出来ていたので覗いてみる。「トカトントン」の展示があった。太宰の墓がある禅林寺には数十年前に行ったことがあるので、今回は行くつもりはなかったが、批評会までにまだ時間があるので歩いてゆくことにした。以前とはずいぶん変わって立派な斎場になっている。墓地は昔のままで森鷗外の墓と太宰治の墓が向かい合わせになっている。太宰の墓の写真をとる人が向かいの鷗外のところから撮影するので、鷗外墓の方が荒らされるという話を聞いた覚えがあるが、今はどちらも人気がなく静かであった。
昨年は新潟で「坂口安吾風の館」に行ったので、無頼派ゆかりの地に縁がある。「戦後」という時代も遙か過去になった感じがする。
さて、批評会の方だが、主催「川柳スープレックス」で、報告者は平岡直子と柳本々々。
平岡は「短歌にとって川柳とはなにか」「川柳にとって寿司とはなにか」「言葉にとってかわいいとはなにか」という三つのテーマで語った。興味深かったのは導入で平岡が語った部分。平岡は川柳との交流ができて5年になるが、歌人であるゆえに川柳を誤解しているのではないかという不安を感じるという。川柳の句集の批評はむずかしい。歌集の批評は作者の品評会だが、川柳句集は作者を再構成する部品として機能しない。句集を出しても作者が得をするようにはなっていない。蜃気楼のように作者を突き抜けて作品に手が届く。ざっと、そのような話だったと思う。
柳本は「わたしはどこにも行きたくない、ここにいたい」というタイトルで、暮田の「OD寿司」、石田柊馬の「もなか」、兵頭全郎のポテトチップス(「開封後は早めにお召し上がり下さい」)の三つの食べ物を題材とした連作を引いて現代川柳の特質を語った。キャラクターとキャラの違い、川柳は「交換芸術」、それまで世界で起こらなかったことが、言葉によって世界のルールを試してゆく、いろんな世界の可能性を試してゆく、など。
「推し句バトル」のコーナー、それぞれの推し句は次の通り。
川合大祐の推し句 そろばんを囲んだ そんな夏はない
平岡直子の推し句 かなしみと枯山水がこみ上げる
笹川諒の推し句 ダイヤモンドダストにえさをやらなくちゃ
小池正博の推し句 良い寿司は関節がよく曲がるんだ
プレゼンと質疑のあと会場の挙手によって、平岡が勝利。
「OD寿司」の「OD」は「オーバードーズ」(薬の過剰摂取)という意味らしい。
この日の参加者は歌人が多く、歌人が川柳をどう見ているかを改めて意識させられた。
批評会に来ていた山口勲さんから「て、わたし」7号をいただいた。彼には「川柳スパイラル」5号に「語り手の声が聞こえる詩」を書いていただいたことがある。
「て、わたし」7号の特集はアメリカ合衆国の韓国系の詩人で社会活動家のフラニー・チョイ。ヤリタミサコ、西山敦子、堀田季何、山口勲の四人が訳している。
山口の解説によると、収録されているうちの三つの詩は実際のできごとをきっかけに書かれた作品だということだ。
白人男性が自分の作品に注目を集めるためだけにアジア人のペンネームを使って詩を投稿したことに対する怒りから書かれた「チェ・ジョンミン」。
女性へのストリートハラストメントを描いた「『俺、豚肉が好きなんだぜ』と通りで私にわめいた男へ」。
アジア系の警察官が黒人を誤射殺害した事件をめぐる「ピーター・リャンへ」。
山口は「川柳スパイラル」5号掲載の文章で同性愛の黒人女性の詩やロヒンギャについての詩を紹介したあと、こんなふうに書いている。
「私が今回紹介したものは必ずしも『詩的』ではないのかもしれません。作品と人を切り離すべきだという考えから外れた前近代的な捉え方かもしれません。けれども、様々な怒りを通過した作品は近代日本が経験した言文一致とも通じ、声を通すことで社会や自分自身の生活と深く結びつく二十一世紀の文学だと信じています」
「俳壇」3月号に新鋭俳人として中山奈々が紹介されている。中山の俳句とエッセイに松本てふこの中山奈々論が付いている。松本の句集『汗の果実』(邑書林)のことは先月触れたが、もう一冊、宮本佳世乃の第二句集『三〇一号室』(港の人)が好評だ。梅田蔦屋書店ではこの二冊が並んで置かれている。
宮本佳世乃の句は「豆の木」や「オルガン」で読んでいたし、第一句集『鳥飛ぶ仕組み』(現代俳句協会新鋭シリーズ)も手元にある。いつごろから宮本のことを知るようになったのか、もう覚えていないが、俳句のイベントに行くと受付で見かけることがあったりして、自然と挨拶をかわすようになったのだろう。
『鳥飛ぶ仕組み』から次の二句を並べて抜き出してみよう。
二人ゐて一人は冬の耳となる
郭公の森にふたりとなりにけり
「二人と一人」ということが意識されている。「一人」ではなくて「二人のうちの一人」という意識である。二人でいるということが孤独を忘れさせる場合もあれば、二人でいることによって孤独感が深まる場合もある。二人のうちの一人が「冬の耳」となったのなら、もう一人はどうなったのだろう。二人でいるためには「郭公の森」でなければならなかった。それはなぜなんだろう。分かるような気もするし、本当のところは分からないような気もする。この二句にマークを入れたということは、そのときの私の気分に響くところがあったのだろう。
『鳥飛ぶ仕組み』の帯文で石寒太はこんなふうに書いている。
「彼女は『俳句をつくっている時間は、どこか別の場所に行っているように心地いいのだ』という。本当にはじめて会った時に直感した通りの、まさに« 俳句人間 »なのである」
私は川柳フィールドにいるので、俳句の文体にはなじめないところがある。だから、宮本の句のうちでも文末が「~にけり」とか「~たる」となっているものに対しては、「ああ俳句だな」と思うだけだ。『三〇一号室』の中で私がおもしろいと思うのはいかにも俳句らしい句ではなくて、次のような句。(三〇一号室というのだから、三階のいちばん端の部屋だろうか。)
かなかなに血の集まってゐるばかり
こどもつぎつぎ胡桃の谷へ入りゆく
素数から冬の書店に辿りつく
空港に歩いてゆける勾玉屋
掌が枇杷となるまで触れてゐる
白蝶のただ追ひたれば職質され
最期にネットプリント「MITASASA」第12号から三田三郎の短歌を紹介しておこう。
気を付けろ俺は真顔のふりをしてマスクの下で笑っているぞ 三田三郎
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