5月に入った。
行動変容を強いられ、体力維持のために散歩などしている。歩いてゆける距離に観音寺山遺跡(和泉市)がある。弥生時代後期の高地性集落で、小高い丘になっている。竪穴式住居跡の穴がいくつか残っているだけで、特に見るものはない。高地性集落はかつて「倭国大乱」と関係づけられ、戦乱に対応するため高地に作られたと言われたが、いまはあまり関係がないとされているようだ。
さて、前回は鳥のことを書いたので、今回は植物の話を少し。
植物についてはあまり得意ではなかったが、春の公園を歩いていると黄色い花々が目につく。今まで区別がつかなかったが、ノゲシ・オニタビラコ・サワオグルマなどの違いがだんだん分かるようになってきた。手元には『野草ハンドブック1春の花』があり、植物写真で有名な冨成忠夫の写真が掲載されているので役にたつ。ちなみに、かつて勤務していた職場で冨成忠夫の弟さんと同僚であって、この人からは歌舞伎のことをいろいろ教えてもらったことを思い出す。
あと、「コシャマイン記」で芥川賞をとった鶴田知也の本で『画文草木帖』『草木図誌』の二冊をときどき開いている。いくつか面白いと思ったことをメモしておく。
「春の七草」といえば「せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ」だが、私は「ごぎょう」と覚えているが「おぎょう」とも言い、牧野富太郎は「おぎょう」が正しいと言っているらしい。いずれにしても「おぎょう(ごぎょう)」の実体は「ははこぐさ」である。ハハコグサなんて食べられるのか?と思うが、甘粕幸子の『野草の料理』によると「ある時、雪の多い山村で、この天ぷらを食べたら、とてもおいしかったので驚いてしまいました。都市化し、土地もやせた環境では、ただのアクの強い草ですが、昔の気候条件の中では、おいしい草だったのかもしれません」ということだ。
「ほとけのざ」は「さんがいぐさ」の別称で、春の七草の「ほとけのざ」はこの草ではなく、「たびらこ」のことだという。しかもこの「たびらこ」は「こおにたびらこ」のことで、「おにたびらこ」とは別というから話がややこしい。
「はこべら」はハコベだが、なぜ「ら」が付いているのか分からない。
オオイヌノフグリはどこにでも生えている雑草だと思っていたが、明治時代に日本に入ってきた外来種だそうだ。鶴田の本には半世紀以上前に「ベロニカ」という草花の種子を注文したことが書いてある。これがオオイヌノフグリで、園芸品種として珍重された時代もあったのだ。明治20年春、牧野富太郎はお茶の水に植物採集にでかけたとき、まだ見たことのないコバルト色の花を見つけた。牧野は「ええのがあったぞ、こりゃええ」と土佐弁で叫んだという。発見記事が植物学雑誌に載った時代である。
最後に「どくだみ」について。前川文夫『日本人と植物』から。
「十文字になるはずの総苞片は、一枚だけが大きくて残りの三枚をかかえこんでいる。これをさらに押しひろげると、次の二枚が向きあって立ち、もう一つ、その中に残りの一枚だけが、花々の集まりをつつんでいる―いかにも一つ節から四枚がでているかのようなふりをしているのである」
どくだみは我家の裏庭にもいっぱい生えているから、花が咲いたら確かめてみようと思っている。
閑話休題。
現代と正面から対峙した歌集として、藤原龍一郎の『202X』(六花書房)を紹介しておきたい。
ベースにあるのはジョージ・オーウェルの『1984年』。
1947年に書かれたオーウェルの反ユートピア小説である。私は1984年当時、この小説が話題になったときに読んだ覚えがあるが、藤原の歌集の「あとがき」では次のように紹介されている。「ビッグ・ブラザーという全能の人工頭脳に支配された未来社会。すべての市民の言動は監視され、密告が奨励されて、言論も統制されている究極のディストピアである」
小説の最初の方を読み返しているが、テレスクリーンで体操をする場面など印象的だ。スクリーンを通じて体操をする姿も監視されているのだ。
夜は千の目をもち千の目に監視されて生き継ぐ昨日から今日 藤原龍一郎
明日あれば明日とはいえど密告者街に潜みて潜みて溢れ
さなきだに無敵モードは成立しパノプティコンは呪文にあらず
あの頃の未来としての今日明日や赤茄子腐れたる今日明日や
愛国をネットに書けばあらわれる病み蒼ざめた首なしの騎士
ミシェル・フーコーは『監獄の誕生』でパノプティコン(監視システム)について述べている。監獄だけの話ではなくて、権力によって監視される現代社会について、この言葉はよく用いられる。
藤原は『1984』に描かれたような監視社会を現代の日本に重ねあわせている。
赤紙の来る明日こそ身の誉れ敷島の ゆきゆきて、壇蜜
「オカルトとナチスが好きなゴスロリの愛国少女ですDM希望」
スマホ操る君の行為はすでにしてビッグ・ブラザーに監視されている
歌集には梶芽衣子の「女囚さそり」と「怨み節」など昭和史の記憶をたどる歌も収録されている。
『古事記』や『日本書紀』には「童謡」(わざうた)というものが出てくる。社会的事件を予言・諷刺する時事的な歌である。『202X』も一種の「わざうた」かと思ったが、時代の現実と対峙する作品が川柳ではなくて短歌から生れていることに何だか残念な感じがする。
亀の子のしっぽよ二千六百年 木村半文銭
藤原龍一郎です。拙歌集にふれていただき、ありがとうございます。実は歌集の題名、『202X』を思いつく前の仮の題が「わざうた」でした。「童謡」と漢字で書くと「どうよう」と詠まれるでしょうし、ひらがなの「わざうた」ではわかりにくいし、悩んでいたのですが、なんとか『202X』を思いついて、そちらに決定しました。
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