2016年4月22日金曜日

飯島章友の川柳

飯島章友は若手の川柳人のなかで今もっとも意欲的に活躍している一人である。
「バックストローク」会員をへて、現在「川柳カード」同人。2015年1月には柳本々々・川合大祐・江口ちかる・倉間しおりとブログ「川柳スープレックス」を立ち上げた。
飯島は「かばん」に所属する歌人でもあるから、彼を通じて川柳に興味をもつようになった歌人も多い。

「川柳カード」11号の特集「いま現代川柳を問い直す」で、飯島は「川合大祐を読む―ドラえもんは来なかった世代の句―」を書いている。
川合大祐は1974年生まれ。飯島は川合や飯島自身を「第二次ベビーブーム世代」であり、〈この世代は「ドラえもんは必ず来る」と大人たちから言われ続けたにもかかわらず、「ドラえもんは来なかった」世代なのである〉と書いている。そこから飯島は川合の川柳作品に「世界への懼れ」を読み取っている。

さて、「川柳カード」11号から飯島章友の同人作品を読んでみよう。

いまはむかし割れて砕けて散りしUFO
誰そ彼のあれはどなたの脳の皺

飯島作品の背後にはプレテクストの存在が感じられる。
「いまはむかし…」というのは説話の語り出しであるし、「割れて砕けて散りし」は源実朝の短歌「大海の磯もとどろに寄する波割れて砕けて裂けて散るかも」を連想させる。
古典や短歌のフレーズを使って詠みはじめながら、UFOにまでたどり着くという冒頭一句目となっている。
「黄昏」は「誰そ彼」に由来すると言われている。昔の村落共同体では誰もが顔見知りだった。けれども、夕暮れの時間帯に、ふと見知らぬものとすれ違うことがある。逢魔が時である。ここでは「誰そ彼」から「脳の皺」にまで行き着いている。人間の意識や記憶が脳の皺に還元されるのだとしたら、世界のすべての出来事は脳内で生成しているのかもしれない。

諸事情で荊棘線となる地平線
樹形図の果てが世界樹だったこと

「川柳カード」11号には小津夜景が「ことばの原型を思い出す午後」を寄稿していて、飯島の川柳作品を「私という質感/世界という質感」「変質と生命」「逼迫する時間性」「螺旋的起源へ」という観点から論じている。
小津は飯島の作品における「世界という質感」について、〈ぐにゃぐにゃ/ぐちゅぐちゅ〉〈変質の気配にじっと感覚をとぎすます語り手の息づかい〉を読み取っている。この見方を補助線として掲出作品を読めば、ここでも「地平線」が「荊棘線」に変質・変容する気配を読み取ることができるだろう。
「荊棘」はイバラのことで、キリストの「荊冠」などを連想させるが、ここでは「荊棘線」は有刺鉄線のことだろう。どんな事情があるのかはぼかされているが、「地平線」が棘のあるものに変容するのだ。
二句目。樹形図は、数学などでいろいろな場合について枝分かれした形で書いてゆく図。すべての場合を挙げてゆけば、それが全体として世界樹になってゆくというのだ。
「世界樹」という言い方は、たとえば北欧神話に登場する大樹ユグドラシルなどを連想させ、神話的宇宙的なスケールにつながってゆく。
ここでも「樹形図」が「世界樹」に変容してゆくさまが詠まれている。
飯島にとって図や線は固定し静止したものではなく、意識のなかでさまざまに変容する。

足を攣るジムノペディアの少年A

ジムノペディアはギリシア神話に出てくるデュオニュソスの祭のようだが、これは少年を裸にする祭であるらしい。ちょっとBLっぽい感じもする。

へそに頭を入れてまるっと消えました

「頭」には「ず」とルビが付いている。
小津は飯島の作品をDNAの二重螺旋のイメージと重ねているが、飯島は今号ではさらにウロボロスの蛇やメビウスの輪のように、「まるっと」消えてゆくものとして身体をとらえているようだ。

音叉鳴る饐えゆくもののにおいさせ
飛行船泣いて半濁音を生む

今号の飯島作品のうちで、この二句は従来の川柳の守備範囲に入ってくる作品だろう。
「共感」という点でいえば、比較的分かりやすいかも知れない。「抒情性」も感得できる。
けれども、共感されたり受け入れられたりすることにはある種の危険もともなっている。無意識のうちに従来の川柳概念の枠に収まっていってしまうからだ。だから、ここでは今まであまり見たことのない作品を中心に取り上げた。

小津夜景は飯島の作品を「語り手の知覚を拠り所として外界が言語化されてゆく」ものとしてとらえている。その場合の外界は、川合大祐の場合のように「世界への懼れ」として表現されるのではなく、より知的に処理されたうえで表現されているという気がする。
飯島は短歌と川柳というふたつの表現形式をもっている。
ひとつのジャンルの中で次第に完成してゆくような表現者もあるが、飯島のように二つのジャンルを見据えて作品を書いている表現者が今後どうなってゆくのかに私は関心を寄せている。複数の視点をもっていることで、既成の「川柳とはこういうものだ」というフレームにとらわれない表現の可能性が生まれるかもしれないからである。

2016年4月15日金曜日

「杜人」と「川柳カード」

3月27日に「日本連句協会」の全国大会が仙台で開催された。
この大会は例年、東京で開催されるのだが、それ以外の各地でも開催しようというので、2013年の大阪大会に続いて、今回は仙台で開催されることになった。
仙台の街は復興いちじるしく街並も美しい。そのことが逆に東北の他の地方はどうなのだろうと思わせる。仙台にゆく前に会津若松に立ち寄ったのだが、テレビでは福島県の「今日のシーベルト」の数値が地域ごとに毎日放送されていた。非日常が日常化されてしまうとしたら、それはそれでこわいことである。

仙台から大阪に戻ると「川柳杜人」249号が届いていた。
真っ先に佐藤みさ子の句を読む。

言い訳して歩く見知らぬ人々に   佐藤みさ子

言い訳にもいろいろある。家族に対する言い訳。恋人に対する言い訳。自分に対する言い訳。では、見知らぬ人々に言い訳するというのは、どういうことだろう?
言い訳などしない人が、言い訳ばかりしている人を批評的に眺めているのかというと、そうでもなさそうだ。
世間的な名誉を得ている人が内心では忸怩たる思いで生きているというのはよくあることだ。本来の自分ではない状態で暮らしているのだが、自分に対してはごまかせない。自分に向き合うのはこわいから、「見知らぬ人々」に対して言い訳するのかもしれない。

この指はほんとは何で出来てるの  佐藤みさ子

現実だけが本当の世界ではなく、もうひとつの世界がある。
現象の世界と本質の世界。世界は二通りに見える。
私たちは在りえたかもしれない本質の世界から、いま在る日常の世界に頽落している。
しかし、本当のことを言ってしまうと、世界がパックリ口をあけてその姿を現したりする。だから、それに気づかないふりをして、それを見なくてもいいように、いそがしく暮らしてゆく。
佐藤みさ子は本当のことを言う人である。こういう人に対して嘘をついても通用しないだろう。

「杜人」の「一句一遊」のコーナーでは、広瀬ちえみが次の句を取り上げている。

陰毛が生える 私を見捨てずに    久保田紺

この句について広瀬はこんなふうに書いている。

〈女性が「陰毛」ということばを使っている句を見たのは初めてだった。抗癌剤は全身の毛を奪う。陰毛を愛しいもの(喜び)として見ることができるまでの過酷な時間を思った。紺さんは丸裸の生命体として立っている。それを想像するとき、私は言うべきことばを失う。いのちと正面から向き合わなければならないとき、日常の何を取り、何を捨てるか突きつけられる。末期癌を告知されたとき、猛スピードで整理したという。それでも紺さんは川柳を手放さず「陰毛」さえも見つめて書いた。このことに泣けて仕方がなかった。でもほんとうを言うと、それから私はくすくす笑ったのよ、紺さん。捨てられなくて良かったねって〉

久保田紺の句と正面から向き合った受け止め方である。「くすくす笑った」というところに広瀬ちえみの川柳人としての正統性がある。
「川柳カード」11号にも「久保田紺 五十句」が掲載されていて、たまたま50句のなかに同句も収録されている。私は「杜人」と「川柳カード」がシンクロしたように感じた。
「川柳カード」、くんじろうの同人作品も久保田紺への追悼句になっている。追悼というより相聞と言ってもいいかもしれない。紺とくんじろうの句を並べておこう。

いけませんそこに触ると泣きますよ     紺
お酒持っていくからあんた泣きないな    くんじろう

ライオンの歯型のあるおしりが自慢     紺
噛まれたかも知れへんおいど痛いもん    くんじろう

『15歳の短歌・俳句・川柳③なやみと力』が発行されて、このシリーズが完結した。川柳の部分を担当した、なかはられいこの仕事に対して敬意を表したい。第三巻には次の句も収録されている。

わたしって何だろ水が洩れている    加藤久子
まだ来ない痛みを待っているような   佐藤みさ子

2016年3月18日金曜日

神戸の川柳と文学

3月10日は時実新子の命日である。その時期に合わせて「月の子忌 時実新子を読む」というイベントが3月5日、神戸文学館で開催された。主催は八上桐子と妹尾凛の二人による川柳ユニット「月兎(げっと)」。私は行けなかったが、参加者40人ほどでの充実したものだったようだ。神戸新聞NEXT(ネット記事)で当日の様子がうかがえる。
取り上げられたのは第一句集『新子』の時期(1960年~1964年)。
「当時の川柳界は岸本水府や椙元紋太ら『六大家』の時代。男社会の中で、人を恋う心を赤裸々に詠んだ新子川柳は、激しい批判と称賛を受けた」。その一方で「川柳の中では戯画化・女優化が進み、実生活との隔たりが広がっていった」。(八上桐子)
「句の題材にも家族にも、一対一の関係でより深く向き合っていったころ。喜怒哀楽では表現しきれぬ感情を見据えるうち、心の中に孤独を育てていったのだろう」(妹尾凛)
以上は神戸新聞の記事による。
昨年は1955年~1959年の作品が取り上げられていて、年に一度、新子作品の五年分を読み継いでゆくという持続的な計画のようだ。フリーペーパー「Reading新子」Vol.2から。

車輪ゆっくりと花嫁を轢いた      時実新子
向き合って兎のように食べている
切手の位置に切手を貼って狂えない
恋成れり四時には四時の汽車が出る
おそろしい音がする膝抱いており

神戸文学館では「昭和の川柳百人一句」の展示もおこなわれている。私が見にいったのは最終日の3月13日で、現在はもう展示が終わっている。
これは墨作二郎が所蔵していた「昭和の百人一句」を芳賀博子が譲り受け、神戸文学館での展示に至ったものである。「幻の句集」として新聞に紹介され、「船団」108号にも芳賀自身の文章が掲載されている。次の文章は芳賀の解説である。

〈句集が発行されたのは1981年(昭和56)。新潟の「柳都川柳社」主幹、大野風柳が地元の印刷会社の北都印刷(株)とタッグを組み、限定五百部で作った〉
〈まずは氏自身が百人を選考し、自選一句と揮毫を依頼。句には同じく新潟の川柳家にして三彩漆の無形文化財、二代目小野為郎が水彩画を添え、趣深い色紙に仕上げた〉

これが百枚展示されている。
昭和56年時点での現代川柳百人一句として資料価値があり、興味深い。

馬が嘶き花嫁が来て火口が赫い    泉淳夫
転がったとこに住みつく石一つ    大石鶴子
ふるさとを跨いで痩せた虹がたつ   柴田午朗
おもいおもいに元日が明け      下村梵
雪は愛白いまつりが降りてくる    墨作二郎
裏切りや蝶一片の彩となる      寺尾俊平
眼をとじると家鴨が今日も歩いてる  堀豊次
北風よ瞽女の花道だと言うか     水粉千翁

川柳の展示を見たあと、神戸ゆかりの文学者の常設展示を見たが、これが結構おもしろかった。神戸文学館には何度も行っているが、これまできちんと展示を見たことがなかったのだ。
堀辰雄は神戸とは直接関係はないが、竹中郁との交友から取り上げられている。

〈堀君の「旅の絵」という短篇の中の人物は私がモデルである。丁度今から十年前の若い日の私が、あの篇中で生きている。象の皮のような外套を着てベレ帽をかむって、そして、ホテルで下手な英語で交渉する。あの場面をよむと、その間の十ケ年は忽然と消えうせて、堀君も私も二十歳台の物好きな青年になってしまう。あの頃は、何でもかでもが面白くて仕様のない年頃であった。堀君を引っぱって明石の町に隠棲していたイナガキタルホを訪ねたりしたのもあの頃だった〉(竹中郁『消えゆく幻燈』)

イナガキタルホはもちろん稲垣足穂である。
ついでに、竹中郁の描く足穂の姿を紹介する。

〈彼は高等数学を語る。天文学を語る。男色を語る。鉛筆を語る。飛行船を語る。手品を語る。そして、ただ麻痺するためにのみ、滅茶苦茶にわけのわからぬ酒を飲む。そして醒めるとああ又この地球へ逆戻りかといった顔をしている〉

神戸ゆかりの文学者としては、他にも久坂葉子や十一谷義三郎、賀川豊彦、島尾敏雄など、たくさんいて語り尽くせない。

神戸の話題から離れるが、近ごろショックだったのは、ジュンク堂の千日前店が閉店になることである。この本屋さんでは随分調べ物をさせてもらったのに残念だ。
『15歳の短歌・俳句・川柳②生と夢』を買い求めた。
佐藤文香のエッセイ「あなたさえ本気なら」は必読。

靴紐を結ぶべく身を屈めれば全ての場所がスタートライン   山田航
鉄棒に片足かけるとき無敵      なかはられいこ
オネショしたことなどみんな卵とじ  広瀬ちえみ

私のイチオシの木村半文銭の句「紀元前二世紀ごろの咳もする」も収録されている。
次週3月25日の時評はお休みさせていただきます。

2016年3月11日金曜日

昨夜助けた石鹸―『井泉』68号

『井泉』68号(2016年3月)、招待作品として、きゅういちの「洗面器」15句が掲載されている。『井泉』は、春日井建の没後、2005年1月に創刊された短歌誌。編集発行人・竹村紀年子。招待作品に短歌・俳句・現代詩のほか川柳も掲載されることがあって、この時評でもこれまで何回か取り上げてきた。

方法が満たされている洗面器   きゅういち

「洗面器」という連作の一句目。
湯水ではなくて「方法」という抽象的なもので洗面器が満たされている。その結果、「洗面器」も抽象化され、比喩的な意味をもってくる。
「煮えたぎる鍋 方法はふたつある」(倉本朝世)という句がある。きゅういちの場合は方法は二つではなくて多数あるのだろう。

牛乳の膜を揺らして来る正午

来るのは誰(何)か。誰かが(何かが)やって来るのだろうが、「正午」がやって来るようにも読める。「牛乳の膜を揺らして」というのは牛乳缶をぶらさげて来るというより、何らかの状況を表現しているようだ。牛乳を飲もうとすると膜ができている。膜は飲むのにじゃまになるが、膜ができるところが牛乳らしいとも言える。誰かが(何かが)薄膜を揺らしてやって来るのだ。
攝津幸彦に「階段を濡らして昼が来てゐたり」という句があって、「昼」は女の名だという読みをした人があったことを思い出した。

名前呼ぶしばらくあって家鳴りする

振動で家が揺れる。地面が揺れるのだろうが、名前を呼んだあと、家鳴りがおこる。「家鳴り」とはポルターガイストのようなものだろうか。
「私」が誰かの名前を呼ぶのか、誰かに名前を呼ばれるのか。地霊のような無気味な存在。
川端康成の『山の音』では山の音が心理的な揺らぎの象徴となっている。

来世から再三文字化けのメール

怪異の句が続く。異界からのメールは文字化けしていて読めないが、本来はメッセージがあったはずである。それが「再三」くるのだから、不安感をあおる。削除してもメールは届くのだ。

昨夜助けた石鹸が立っていた

これはもう「戦争が廊下の奥に立ってゐた」(渡辺白泉)のパロディだろう。
俳句史に残る名作と向き合う場合に、どのように表現したらいいか。きゅういちは「石鹸」を持ち出した。しかも、「昨夜助けた石鹸」である。
人を助けるというのは難しいものである。どこまでも助け続けることは不可能だし、助けたあとは自分で努力しなさいと突き放すのも中途半端だ。助けたのは石鹸である。風呂場か洗面台かわからないが、連作だとしたら洗面台かもしれない。石鹸が立ってこちらを見ていて、それが鏡に写っていたりする。滑稽にも思えるし、不条理とも受け取れる。

肉まんを潰し殉死をしてしまう

「肉まん」をつぶすという日常と「殉死」という厳粛な状況を結びつけてしまう。
乃木大将の殉死は漱石と鷗外にショックを与えた。
この句の場合、それほどの深刻さがないのは、「~をしてしまう」という文体のせいだろう。

心音の速いファミマのチキンをば

ファミマのフライドチキンはもう生きていないから心音がするはずはないのだ。単なる食物としてなら美味しく食べられるだろうが、そこに心音を聞きとってしまったら…さあ、あなたはどうするだろう。川柳は断言だという意見がある。また、未了性が川柳だという人もいる。この句では結末は読者に預けたままで、宙吊りになっている。
川柳の方法はいくつもあるのだ。狭い守備範囲を守って、その中で無難な句を書いていても仕方がない。きゅういちはいろいろな方法を駆使している。「ふらすこてん」44号ではこんな川柳を書いている。

玄武ゆく玉子パックを鞍にして      きゅういち
朱雀にいさんそこはソースとちゃいますか
「ま」のクチで座薬を待っている白虎

『井泉』68号では、リレー評論「現代に向き合う歌とは?」というテーマで、黒瀬珂瀾が「ほろびについて」という文章を書いていて、次のような歌が紹介されている。

君はあくまで塔として空港が草原になるまでを見ている    千種創一
虐殺を件で数えるさみしさにあんなに月は欠けていたっけ
映像がわるいおかげで虐殺の現場のそれが緋鯉にみえる
恐竜のように滅ぶのも悪くない 朝のシャワーを浴びつつしゃがむ
骨だった。駱駝の、だろうか。頂で楽器のように乾いていたな

これらは先ごろ歌評会のあった千種創一『砂丘律』から。

『井泉』は毎号、表紙に春日井建の絵が使われている。ここしばらく「笑い壺」の絵が使われている。種子のようなものが入った容器が「へへへ…」と笑っている図。春日井建のユーモア感覚がうかがえて楽しい。

『旬』204号(2016年3月)を読んでいて、宮本夢実が亡くなったことを知った。
10年くらい以前の『旬』のバックナンバーの中から紹介する。10句選ぼうと思ったが、いい句が多いのでその倍くらいになった。

掬われる金魚は人を選べない      宮本夢実
鍵ひとつあればいつでも蛇になる
幕間で変える表紙と裏表紙
弱い樹が先に切られる風の中
しくじってほどほどに揺れ大樹なり
ふるさとの空を見にゆく潜水艦
我がもの顔の風船がある腕の中
心ならずも落ちた穴からくる花信
人形の理屈を言わぬ膝頭
別れたいのでこっそりと烏賊になる
混沌の四月を背泳ぎでかわす
少年の指から漏れるアミノ酸
産道で最初に聴いたクラシック
咳をする造花だけには水をやる
背信の時刻表から遠ざかる
締まらぬ蛇口たためない鳥の羽
すぐ落ちる鳥で友達また増える
午後二時のうなじあたりにある沼だ
川になるアゲハに逢うと決めてから

「死」や「ほろび」について考えていると、石原吉郎の次の詩を何となく思い出した。

世界がほろびる日に
かぜをひくな
ビールスに気をつけろ
ベランダに
ふとんを干しておけ
ガスの元栓を忘れるな
電気釜は
八時に仕掛けておけ

2016年3月5日土曜日

瀬戸夏子症候群―不要なんだ君や僕の愛憎なんか

短歌の読み方、俳句の読み方、あるいは川柳の読み方というようなものがあるのだろうか。ひとつのジャンルに慣れ親しんでいると、そのジャンルの作品の読み方や書き方に染められてゆくものである。頻繁に繰り返される業界用語や評価基準などが習慣化されて自然に身についてゆく。結果としてジャンルの評価基準は制度化され、初心を失った作者はその基準に合致するような作品を無意識的に再生産してゆくようになる。そしてある日ふと疑問に思うのだ、こんなことでいいのだろうか?―短歌における「詩」、俳句における「詩」、川柳における「詩」が問われるのは、そのような局面においてである。

瀬戸夏子歌集『かわいい海とかわいくない海 end.』(書肆侃侃房)が上梓された。『そのなかに心臓をつくって住みなさい』につづく待望の第二歌集である。
巻頭ちかく、見開きの左頁に次の四つの選択肢が提示されている。

a. 友達になりたい。
b. 悪かった。おれが謝るよ。
c. 何をきいていてもむかしの恋人とプールのなかにいるようだ。
d. 君はお金持ちなんだね。

これらの選択肢の前頁には次の短歌が置かれている。

片手で星と握手することだ、片足がすっかりコカコーラの瓶のようになって

あなたはどれを選ぶだろう。素直にaだろうか。bくらいがいいんじゃないかな。すこし屈折してcだろうか。dだと俗物と思われはしないか。そもそも、この選択肢は何なんだ?前の短歌に対する選択肢とは全然ちがうのかもしれない。

瀬戸夏子は評価の難しい歌人である。
たとえば『誰にもわからない短歌入門』で三上春海はこんなふうに書いている。

〈「わからない歌」ということでしたら瀬戸さんの歌を外して語ることはできないでしょう。瀬戸さんは斉藤斎藤さんとあわせて現在もっとも「前衛」を体現している歌人だとわたしはおもっているのですが、そのようなひとの歌ですから当然「わからない」。でもすごいんです〉

『桜前線開架宣言』でも山田航は次のようにコメントしている。

〈瀬戸夏子は間違いなく現代短歌のなかでも特に重要な歌人のひとりなのだが、論じるのがきわめて難しい。なぜなら、「一首単位で表記する」という短歌の原則を打ち破るスタイルを取っているため、歌が引用しづらいからだ〉

今度の歌集は一首単位で読めるのだが、論じるのが難しいという点では変わりがない。
「短歌的喩」とか「上の句と下の句の関係性」とか、「韻律のうつくしさ」や「私性」など従来の鑑賞の仕方は瀬戸夏子の作品においてはいったん無効になる。
では、そこには何が表現されているのか。

わたしにかかった秘密のその隙に太陽へ執刀する花はさかりに
緯度を引く気持ちで宝石をたべて悲しむ人々を裏切るように所以を知らせる

瀬戸の短歌を難解にしているのは言葉の出所である。
ふつう、作品の創作過程というものは読んでいて何となく想像がつくものである。
突然出現した言葉であっても、それはその作品の中の別の言葉(連作の場合は隣接する別の短歌やテーマ)を契機として生まれたのだということが、うっすらと理解できたりする。
けれども瀬戸の短歌では、その言葉がどこから飛んできたのかが見えない。
多くの場合は日常的文脈を超越した「意味の関節外し」と捉えたり、補助線を引くことによって「見えない梯子」の在りどころを理解できたりする。けれども、瀬戸の作品はそういうものとも違うようだ。
結局、瀬戸夏子の短歌を読むときは、一行の詩として読むほかはないのである。

それはそれはチューリップの輪姦でした
心臓が売りものとなることをかたときも忘れずに いつかあなたの心臓を奪うだろう

短律と長律。
そういう分け方をすれば、短律は少なく、長律が大部分である。もちろん五七五七七の短歌形式で書かれている作品もある。短歌形式の韻律のさまざまなヴァリエーション。彼女の作品には短歌でありながら詩でもあるというパラドクシカルな魅力がある。
わからないところもあるけれど好きな歌。

再演よあなたにこの世は遠いから間違えて生まれた男の子に祝福を
突風にあなたはくずれて是と答え左手ばかりを性器に変えた
口を出さないでくれこれからのしゃぼん玉のなかにひらく無数の傘よ
おれの新聞をとってくれ りんごはいい りんごは体によくないからな
火星のプリンセスどんどんいなくなってく彼女の髪だけを切りたい
走ってく花のかたちの音楽で本名だなんてはしたないって
僕が行く、僕が行って、僕がはにかむ午前のあいだに現代になる
窓から感情がポテトチップスとして降ってくる 夜というよりも昼
北極の極ならそんなの埼玉の天使と東京の天使で話しあいなよ
晩節を汚すためにもそばにいてくれ他は正式な最後通告

「私は無罪で死刑になりたい」というタイトルの章について。
「罪なくして配所の月を見る」という言葉がある。罪人ではなく風流人として流刑地の月を見たいというのだろう。瀬戸は「流刑」ではもの足りなくて過激に「死刑」という言葉を使う。風流貴族の寝言など蹴とばす勢いである。

いいきかせて天国のほうへ不要なんだ君や僕の愛憎なんか
恋よりももっと次第に飢えていくきみはどんな遺書より素敵だ
きっときみから花の香りがしてくるだろう新幹線を滅ぼすころに

これらの歌は比較的分かりやすい。別に心配することもないのだが、瀬戸夏子の読者にとっての「愛唱歌」になる危険性があるかもしれない。瀬戸が読者を意識して書いているとは思えないが、頻出する「あなた」や「きみ」は誰を想定しているのだろう。

瀬戸夏子の『かわいい海とかわいくない海 end.』を読んで言えるのはただひとつ。この歌集を読んだあとで他の歌人の歌を読むと、それらがひどく甘ったるいものに感じられてしまうということだ。どうやら瀬戸夏子症候群に罹患してしまったようだ。

2016年2月26日金曜日

『15歳の短歌・俳句・川柳』

現代俳句協会青年部主催の勉強会で昨年来、新興俳句が連続して取り上げられてきた。
2015年9月に高屋窓秋、10月に渡邊白泉、11月に三橋敏雄、12月に西東三鬼、そして2016年2月は富澤赤黄男。
私は聴きに行けなかったが、久留島元から富澤赤黄男についてのレジュメをもらった。
赤黄男の「クロノスの舌」の「蝶はまさに〈蝶〉であるが、〈その蝶〉ではない」は有名だが、俳句と川柳について次の一節がある。
「現代俳句と現代川柳の混淆―これは重大なことである。
このことについて、批評家も作家も全然触れようとしない。
―これはまた重大なことである。
俳句の真の秩序が見失われてゐる証左であらう」
赤黄男の問題意識をひとつの契機として私も「俳句と川柳」について随分考えてきたが、これは常に繰り返されるテーマなのだろう。
赤黄男の句に見られる一字空けは現代川柳でも多用される。混淆の出発点は「旗艦」にあるようだ。

「船団」107号(2015年12月)の特集は「昭和後期の俳人たち」だった。「昭和後期」という括り方は耳慣れないものだ。筑紫磐井・仁平勝・坪内稔典の三人が座談会を行っている。
筑紫が取り上げているのは相馬遷子・阿部完市・最晩年の高浜虚子である。

ねぱーるはとても祭で花むしろ    阿部完市

そして筑紫はこんなふうに発言している。
「今、阿部完市の俳句をみるとどこか最近の若い作家に影響が出ているような気がしないでもない。要するに意味でもないし、メッセージでもないし、遊びのようでもあるんだけれど、それだけにとどまらない何か詠みたいものがある」

一昨年、「蝶俳句会」から発行された『昭和の俳句を読もう』という冊子は、54人の俳人の各30句を抄出し、かんたんなコメントをのせたもので、私もよく利用させてもらっている。その中から阿部完市の句をもう少し引用する。

ローソクもってみんなはなれてゆきむほん   阿部完市
栃木にいろいろ雨のたましいもいたり
にもつは絵馬風の品川すぎている
木にのぼりあざやかあざやかアフリカなど

地名の使い方など興味深く思われる。
「船団」の対談に戻ると、坪内は「平成の今の時代は俳句史的な考え方というのが元気がないと思います」と言っている。俳句でもそうなのか。川柳の世界でも川柳史へのリスペクトはまったく感じられない。私が「現代川柳ヒストリア」を立ち上げた理由のひとつがそこにある。

『大人になるまでに読みたい15歳の短歌・俳句・川柳』(ゆまに書房)の第1巻「愛と恋」が刊行された。
短歌の選と解説は黒瀬珂瀾、俳句は佐藤文香、川柳はなかはられいこが担当している。
短歌・俳句・川柳の作品が一冊のアンソロジーの中で同居しているのは画期的なことだ。
川柳からは30句掲載されていて、鶴彬や岸本水府などの評価の定まった作品から現在ただいま書かれている最新の作品までが網羅されている。そのうちのいくつかを紹介する。

お別れに光の缶詰を開ける       松岡瑞枝
あのひとをめくれば雨だれがきれい   畑美樹
よいにおいふたりで嘘をついたとき   久保田紺
非常口の緑の人と森へゆく       なかはられいこ
くちづけのさんねんさきをみているか  渡辺和尾
わたしたち海と秋とが欠けている    瀧村小奈生
永遠と書くゆうぐれもかりうども    清水かおり
たてがみを失ってからまた逢おう    小池正博

「たてがみを…」は柳本々々が取り上げてから比較的知られるようになった句。初出は「WE ARE!」4号(2002年5月)だから、なかはられいことも縁の深い句である。

ドラえもんの青を探しにゆきませんか     石田柊馬
君はセカイの外へ帰省し無色の町       福田若之

それぞれの作品に選者による解説と作者のプロフィールが付いていて読みやすい。
石田柊馬の川柳と福田若之の俳句が見開きページの左右に掲載されている光景は、ちょっと感慨深いものがある。
第二巻「生と夢」も刊行されているはずだが、私はまだ見ていない。第三巻「なやみと力」は3月下旬に刊行予定。どんな句が掲載されるのか楽しみである。

2016年2月19日金曜日

「オルガン」4号のことなど

「オルガン」は2015年4月創刊。生駒大祐、田島健一、鴇田智哉、福田若之、宮本佳世乃の5人による季刊俳誌で、いま4号が出ている。毎号、同人作品と座談会で構成される。

ゴスロリ少女財布に溜め息が白い   福田若之
火事跡に階段の蠢いてゐる      宮本佳世乃
水鳥や眠りのつひの眩しさの     生駒大祐
滝凍てて夜な夜な途方もない配膳   田島健一
ぬるい膝からつはぶきの場所へ出る  鴇田智哉

4号の座談会のテーマは「震災と俳句」。宮本佳世乃からの質問状「あなたは震災句についてどう思いますか、また、どのように関わっていますか」について5人で話し合っている。その内容は深めてゆけば、時評や評論のテーマになるようないくつもの問題性を含んでいる。

興味深かったのは鴇田が引用している高木佳子の文章(「現代詩手帖」2013年5月)。
いわき市在住の歌人である高木に電話をかけてきた人がいて、「今は仮設住宅にお住まいで?」と訊いたという。高木の住んでいるのは高台で津波被害にあっていないし、線量も低かったのだ。電話をかけてきた人は「じゃあ、普通に暮らしていらっしゃる?」と怪訝そうだったという。その人のなかには「被災歌人」という構図が出来上がっていたのだ。

この話を紹介したあとで鴇田はこんなふうに言う。
「この高木さんみたいに、そう相手から期待されると、期待に応えなきゃ悪いとか、応えられなくてすみませんみたいな、変な感情が生じてしまうこともある」「文字として書かれている俳句とか短歌そのものは変わらないのに、添えられている地名で何かが変わる。そこで変わっていいの?っていう疑問もあるんだよね」
地名や作者名によってテクストの読みがずいぶん変わってしまうことは震災作品でなくても経験するところである。

読者の問題について、田島はこんなふうに言っている。
「読者にとっては、自分がわかる枠組みのなかで俳句を読みたいっていうのはあるよね。読み手が『この句はよくないです』って言った場合には、『自分が期待していない言葉がここにある(あるいは、ない)』、っていうことでしょ」

あと、次のような発言も記憶に残った。
「僕は、脆弱な言葉と脆弱でない言葉があると思っていました。時事的な言葉は脆弱で、桜みたいな言葉は強固だと。それが、そうじゃない場合もありうるってことですね」(生駒大祐)
「ある言葉を詠まないっていうあり方は、裏返して言えば、スマホを詠んだら何でも新しい句だと思っているあり方と、そう変わらないんじゃないかって。スタンスは違っても、じゃあそこで書かれるべきものは何なんだ、って問題はどっちにしろ残るよね」(田島健一)

『点鐘雑唱』は「現代川柳・点鐘の会」(墨作二郎)が毎年発行しているアンソロジーで、その年の「点鐘」誌掲載作品と点鐘勉強会作品から抽出している。2015年版は昨年一年間の作品をまとめたもの。その中からいくつか紹介する。

自己主張の導火線が錆ついている      阿部桜子
あなたの夢を一度も見ないカタツムリ    石川重尾
遠慮するなと誕生日がやってくる      一階八斗醁
地球儀のどこもかしこも蛸足配線      笠嶋恵美子
弟がちくわの役を降ろされる        北村幸子
鉄砲を担ぐと積乱雲になる         進藤一車
旅ひとり手稲の雪を見ているか(桑野晶子の死)  墨作二郎
戦争が出来る憲法の裏メニュー       瀧正治
「聞き耳」はこちらと象の後ずさり     平賀胤寿
重なって重なってから枯れる        前田芙巳代
咳すれば山頭火よりパブロン        渡辺隆夫
死ぬ前に鞠子の宿のとろろ汁        渡辺隆夫

「第20回杉野十佐一賞」が発表されている。
詳細は「おかじょうき」のホームページを見ていただくとして、高得点句を何句か紹介する。

毎週金曜 息の発売日           佐久間裕子
息止めて止めて止めて止めて欅       瀧村小奈生
六条御息所的今夜             笹田かなえ
テラってギガってナノらない息なんだ    中西亜
すうはあすうはあなめらかにくさる     宮沢青

印象的だったのは広瀬ちえみの選評である。
「川柳は現在行き交っていることばに左右されていると思った」
「固有名詞を使うときはその言葉自体がすでに抱えている背景を一句のなかで料理しなければならないことを強く意識するべきだと私は思う」
「俳句には季語(時間の積み重ねがある)があるが、それと固有名詞とはちがう。川柳で使われる固有名詞はどちらかといえば作者の生きている現在を呼吸している。しかし一句のなかにピタリと嵌まったときは大きな力を持つのが固有名詞である。川柳におけることばの流通を良くも悪くも考えさせられた」

俳句や川柳における「作者」「読者」「ことば」の問題は、実作と連動するさまざまな局面で深められてゆきつつある。