2012年9月21日金曜日

池田澄子と樋口由紀子

9月15日(土)に大阪・上本町で「川柳カード」創刊記念大会が開催され、川柳人をはじめ俳人・歌人を含めて109名の参加者があった。7月に発行された創刊準備号に続き、創刊記念大会も開催されて、「川柳カード」(発行人・樋口由紀子、編集人・小池正博)という新しい川柳誌がスタートしたことになるが、実は創刊号はまだ発行されていない。
本誌は昨年11月に終刊した「バックストローク」の後継誌と見られているようだが、新誌を立ち上げる以上、「バックストローク」とも少し異なった川柳活動を歩むのは当然である。そのひとつの志向が広く短詩型文学の世界に「川柳」を発信しようとすることで、今回の大会に俳人の池田澄子を招いて樋口由紀子が対談したのはその現れである。

樋口のエッセイ集『川柳×薔薇』(ふらんす堂)に池田澄子が帯文を書いている。樋口は「豈」の同人としての経歴が長く、池田とはごく親しい関係にある。「豈」51号(2011年2月)は「池田澄子のすべて」という特集を組んでいるが、樋口はそこに「池田澄子の固有性」という文章を書いている。この文章は「固有性と独自性―池田澄子小論」と改題されて『川柳×薔薇』にも収録されている。
一方、池田澄子の方は「川柳」をどう見ているのであろうか。
『現代川柳の精鋭たち』(北宋社)が上梓されたときに、池田は「豈」34号(2001年11月)に書評を書いている。この書評については、後に触れる。
こういう両人の交流をふまえて、今回の対談が実現したことになる。ローマは一日にしてならず。

池田澄子はあちこちで対談しているが、記憶に新しいのは昨年の「ユリイカ」10月号に掲載された「たのしくさびしく青臭く」という対談で、聞き手は佐藤文香である。そこにはこんなやり取りがある。

佐藤 いま代表句を訊かれたら何と答えますか?
池田 代表句はやっぱり一番新しい句ということになってほしい。こないだ何かで代表句について書いてくれと言われて「一番新しい句集の最後のほうの句」って書きました(笑)。でもあなただって自分の代表句がどれかなんて気にしないでしょ?自分から言うなんて恥ずかしいよね。
佐藤 そうですね(笑)。
池田 毎回これが代表句って気持で書いてるもんね。
佐藤 そういう気持ちってすごく作家的だと思うんです。むしろ俳句を始めてすぐの人ほど、句会で褒められた特選の句を言ってまわりますよね(笑)。

池田は「俳句研究」で阿部完市の句を見て「あっ!」と思って俳句を始めたという。やがて三橋敏雄に師事することになる。このあたりの経緯を池田は繰り返し語っている。
今回の樋口との対談でも、話の順序として「じゃんけんで負けて蛍に生れたの」「ピーマン切って中を明るくしてあげた」の句が紹介されたが、この句ばかりを取り上げられると、確かに「ほかの句はダメなの?」と言いたくなるだろう。
「川柳カード」における対談は、池田をフォローしてきた者にとってはそれほど新鮮味はなかったかも知れないが、肝心なことは川柳人が池田の肉声を聞くことができたという点である。池田の話は終始実作から遊離することがなかったし、川柳人が共感をもって耳を傾けたのもその点であろう。
池田の俳句に向かう姿勢・言葉に対する姿勢として、聞き手の樋口が特に引用したのは次の二点である。

「少しの言葉で成り立つ俳句は技が恃みであり、取り立てて技と思わせない技こそ必要とする形式である」(『休むに似たり』)
「人の書いた言葉にそうだなあと思い、自分の書いた言葉にそれでいいの?ホントにそれでいいの?を繰り返している私」(『自句自解』)

川柳人である樋口由紀子が池田澄子に共振するところも、このあたりにあるのだろう。
ここで、『現代川柳の精鋭たち』の書評に話を戻すと、池田は「豈」34号で次のように書いていた。

「私の俳句は川柳に近いところもあると思われているかもしれず、自分でもそんな感じがしないでもないのだけれど、ほんの少しも、川柳を書こうと思ったことはない。俳句に近いと思われる川柳を書いている方々は、逆の意味で同じ思いを抱いておられるのだろう」

ここには実作者にとって微妙な意識が語られている。
そして、『現代川柳の精鋭たち』の読後感について、次のように書かれている。

「大雑把に言えば具象性の希薄さ。それとも、それが現代川柳の詩性とされているのだろうか。詩性の深さは、具象からの遠さに比例するか。見るからに異次元めかすことが、詩性であるか。イメージの飛躍は魅力だが、着地せずに飛んだままのナルシシズムは、空虚である」

池田澄子が当時と同じ考えであるかどうかはわからない。しかし、「言葉は作者の甘えや錯覚に冷淡である」という考えは変わっていないだろう。
大会にも参加していた正岡豊はツイッターで「かつては俳句を書くということは川柳を書かないということだった」という感覚について述べている。
いまはそのような感覚は崩れていて、俳句・川柳という峻厳な区別は若い表現者には意識されていない。俳句と川柳の違いを常に俳句側から突きつけられてきた川柳側の人間として、私はそんな感覚はなくなってよかったと思っている。ジャンル意識なしに、表現者として向き合える状況が一部の俳人・川柳人の間でようやく生まれてきたからだ。
実作者として俳句なり川柳を書いているときに、それぞれの表現者は確固とした手ごたえをもって作品を書いているだろう。しかし、「川柳とは何か」「俳句とは何か」と問い詰めると事態は曖昧になってくる。
池田澄子と樋口由紀子との対談には、実作者としての経験から遊離することのない確かさがあった。ひょっとしてこの対談が、川柳人が他ジャンルの表現者に対して身構えることも疑心暗鬼になることもなく真っ直ぐに向き合うための、その契機になるのではないか。両人の対談を聞きながらそんなことを考えた。

語りえないことというものはある。語りたくないこともまた存在する。この日の対談の詳細は、「川柳カード」創刊号(11月下旬発行)に掲載される。

2012年9月14日金曜日

同じ現実を見ているはずなのに川柳はなぜ遅れていくのだろう

短歌誌「井泉」47号が届いた。
永井祐歌集『日本の中でたのしく暮らす』の書評を彦坂美喜子が書いている。

あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな  永井祐

永井祐と言えば真っ先に思い出す歌である。逆に言えば、私はこの歌以外に永井のことは何も知らない。永井の歌集名となったのは次の歌である。

日本の中でたのしく暮らす 道ばたでぐちゃぐちゃの雪に手をさし入れる  永井祐

「日本の中でたのしく暮らす」というフレーズを私はイロニーと受け取ってしまう。たぶん多くの川柳人もそうだろう。「たのしいはずのない現実」と「たのしく暮らす」という言葉との落差が反語や皮肉を産みだすのだと…。けれども、彦坂は次のように述べる。

「道化、イロニー、ふざけている……歌集名からから想像するこのような感じは、歌集の作品を読む限りどこにも見当たらない。『日本の中でたのしく暮らす』という言葉そのままに、そこにはいっさい余計な思念は含まれていないことがわかる。むしろ、このストレートさは、外部がない彼らの現在そのものの象徴のようである」

うーむ、イロニーではなかったのか。そう思うと、この歌はおそろしい。「ぐちゃぐちゃの雪に手をさし入れる」も短歌的喩ではないのだろう。

「井泉」に連載の「ガールズ・ポエトリーの現在」で喜多昭夫は柴田千晶を取り上げている。柴田千晶といえば、藤原龍一郎とのコラボレーションで東電OLを詠んだ作品を真っ先に思い出すが、喜多は柴田千晶について次のように言う。

「柴田千晶の作品が好きだ。そこには紛れもなく『現代』が描かれているから。今、私たちが息を吸い込んでいる『時代』の空気感がありありと感じられるから。やはり文学は絵空事であってはならない。時代の痛みを表現しなければならないのだ」

冬帽の手配師蟹江敬三似       柴田千晶
風花の倉庫うつむくフィリピーナ
全人類を罵倒し赤き毛皮行く

田口麦彦は「川柳研究」に「誌上Twitter」というコーナーを連載している。今年の5月号のタイトルは「いま変わらずにいつ変わる」、6月号は「時代の感性を磨く」となっている。昭和28年に西日本を襲った大災害に遭遇したことがきっかけとなって、その体験を詠むことから川柳を始めた田口は、「いまこそ変革の時」と訴えている。
「人間生きているかぎり、立ち止まったままの停滞は許されない」「今でジョーシキと思っていることを勇気を持って見直すことから一歩がはじまる」(「川柳研究」5月号)

けれども、田口がいうような新しい川柳表現にはなかなかお目にかからない。同じ現実を見ているはずなのに、なぜ川柳は遅れてゆくのだろう。もちろん表層的な時事句は量産されているが、現実と川柳形式とが何かのヴェールによって隔てられているような気がする。

もう一度、「井泉」に戻ると、「リレー小論・短歌は生き残ることができるか」に山田航が「もっといろんな人に会いたい」という文章を書いている。ここでも永井祐の短歌が引用されている。

『とてつもない日本』を図書カードで買ってビニール袋とかいりません   永井祐

そして、山田はこんなふうに述べている。
「自分の思いを理解してくれる者だけで周囲を固めて世界を築こうとして、本当に他者を描いているなんていえるのだろうか」「短歌が生き残る手段があるとしたら、たとえ仮構であってもより広い社会層の人々の声を掬い上げて多面的な抒情を表現してゆくことが、大きな有効性を持っていると思う」

すぐれた表現者が現れない限り、批評は何もできないのだ。

2012年9月7日金曜日

きゅういちの10句を読む

俳誌「船団」に芳賀博子が連載している「今日の川柳」、今月発行の94号では湊圭史を取り上げている。湊はデイヴィッド・G・ラヌー著『ハイク・ガイ』(三和書籍)の翻訳者として知られるが、3年ほど前から川柳も作りはじめ、「ふらすこてん」「バックストローク」などに作品を発表している。評論の分野でも活躍し、『新撰21』『俳コレ』などのほか、ウェブマガジン「詩客」にも時々「俳句時評」を書いている。昨年の「バックストロークin名古屋」でパネラーをつとめたことは記憶に新しい。
芳賀は湊にインタビューした上で、彼の作品とあわせて「ふらすこてん」同人の作品も紹介しているが、こういう形で「ふらすこてん」が広く短詩型の世界に紹介されることは歓迎すべきことである。「ふらすこてん」の主宰者である筒井祥文は川柳の句会回りには熱心だが、川柳のワクを超えた表現の世界に対してアピールすることには必ずしも熱心とは言えないからである。

さて、「ふらすこてん」の同人に〈きゅういち〉という川柳人がいる。本名は宮本久だが、〈きゅういち〉の名で同誌を中心に川柳作品を発表している。「川柳木馬」130・131号の「前号句評」など他誌にも文章を発表しているから、ご存じの方も多いことだろう。仕事が忙しいようで、句会・大会にはあまり顔を見せることがない。川柳人はあちこちの句会を回ることによって名が知られてゆき、選者をつとめる経験を重ねることによって階梯を登ってゆく。きゅういちの場合は、そういう階梯を踏んでいないから、大多数の川柳人の作品とは無縁のところで川柳活動を続けている。句会回りにあまり熱心ではない私が言うのもおかしいが、そこにはある種の危険性を孕んでいないこともない。句会に染まらないことは独自の表現世界をもつことであるが、同時に「川柳」から遊離する諸刃の刃となるからだ。
私は今まで彼の作品を読むたびに、何か腑に落ちないものを感じていた。表現意図と言葉が釣り合っていないというか、何故このような作品を書くのだろうという感じがぬぐえなかったのである。ところが、「ふらすこてん」23号(9月1日発行)のきゅういち作品を読むと、テーマと言葉が拮抗していて充実した作品世界を切り開いている。筒井祥文が巻頭作品においているのも頷けるのである。
今回は、きゅういちの10句を私なりに読んでみたい。

慎みの梨のほとりへ嫁ぎます

嫁いでゆく女性の口調で語られている。けれども、「慎みの梨のほとり」へ嫁ぐのだという。慎ましい女性が慎ましく嫁いでゆくとも読めるが、慎ましくない女性が心を入れ替えることにしたと読んだ方がよさそうだ。
「梨」の別名を「ありの実」という。「無し」という音を忌んでのことである。「慎みの梨」というようなものが実体として存在すれば、それはそれでおもしろいだろうが、一句は「慎みがない」という言葉から発想されている。
そうすると、この女性は心を入れかえて慎み深くなったのでは更々なく、慎みの無い態度を貫いていることになる。
ともあれ一人の女性が嫁いでゆく。次に起こるのは出産という事態である。

黄を帯びた刃先産み付けられてをり

「黄を帯びた刃先」を産むのだという。
昆虫が葉に卵を産み付けるように、人の肉体が無機的な刃物を産む。刃物を産んだとき生身の体は傷つくだろう。それはひとつの受苦であると同時に、産み付けられたものが他者を攻撃するために用いられてゆく。

《子宮内砂漠》に月の満ち行くや

砂漠の月というイメージがある。あるいは「月の砂漠」という歌がある。
子宮の内部風景を見たことはないが、それは砂漠のようなものかも知れない。そこに月が出ている。けれども、「月が満ちる」という言葉は出産の場面でもよく使われる。そうすると、この月は偽物の月なのだ。
月が満ちて出産のときが近づいてゆく。

代理母に白湯を注げば午後のキオスク

出産するのは代理母かもしれない。
カップラーメンにお湯を注ぐと食品が出来上がるように、代理母の子宮を借りて子どもが製造される。人間的な行為と即物的な行為が重ねあわされている。
今回のきゅういちの作品は、常にダブル・イメージによって作られている。二つの文脈が一つの句に圧縮されているのだ。
キオスクでカップ麺にお湯を注いでいる人がいる。お湯がぬるくて食べにくいことも多々ある。

頬杖に舫う脱法物の義母

代理母の次は脱法ハーブ。母という存在も脱法ハーブのようなものか。
「舫う(もやう)」だから船をつなぐのだろう。つなぐこととそれを拒むものがせめぎ合っている感じがする。

母子手帳醤油の樽に狂れる月

「狂れる」は「狂える」の誤植なのか、それとも「おぼれる」と読ませるのか。
「母子手帖」で切れるのだろうが、母子手帳が醤油に濡れているイメージも浮かぶ。平穏な世界にズレや違和が生じている。

遠雷や全ては奇より孵化をした

「孵化」は昆虫や鳥の場合に使う。ヒトが生まれるにしても、鳥獣虫魚と同じ相で眺められている。
「奇」は「奇跡」か「奇矯」か「奇人」か。マイナス・イメージとばかりは言い切れない。この「奇」に積極的な意味を込めたとすれば、この句が10句全体を支える役割を果たしている。

生まれなさい外に気球が待ってます

生まれたものは母の胸に抱かれるのだろうか。いや、そうではなくて気球に乗ってさらに遠くの場所に連れていかれるのである。
気球に乗ってこの世に生まれてくるとも読めるが、私はその読みは取らなかった。

臨月のキャベツ担いで走る婆

臨月のキャベツを担いで走るのは産婆であろうか。
ここにも妊婦とキャベツとを等質に見る目がはたらいている。

発注と違う嬰児よ安らかに

この句について筒井祥文は「『安らかに』眠れという。が、それは生きてのことか殺されてのことか。ここいらが川柳である。『発注と違う』は既にモノ扱いである」と選評を書いている。
発注したモノが届くように、ヒトは生まれてくる。時には発注したモノとは異なる製品が届くこともある。
「誕生」という命を産みだす事態をきゅういちは冷徹に描ききっている。それは過酷なこの世界を反語的に問い直すことでもある。川柳人の根底にある世界との違和をきゅういちは表現しきったのである。

遠雷や全ては奇より孵化をした   きゅういち

2012年8月31日金曜日

無理して逢えば何事もなし

川柳入門書というのではなくて、エッセイ風の文章を連ねることによって読者が自然と川柳に親しんでゆけるような川柳書がもっと出版されればよいと思っている。そのような川柳書として、今回は佐藤美文著『川柳を考察する』(新葉館)を取り上げて、書評してみたい。

本書は「風のたより―川柳の可能性を探る」「京都を川柳する」「江戸っ子二題」「戦後宰相を川柳で斬る」「川柳を遺すために」「定型のリズムは変わるか」「川柳と俳句の違い」「川柳作家論」「花吹雪 東京句碑巡り」「名句鑑賞」の10章に分かれ、川柳をめぐるさまざまな話題を平易に取り上げている。読者はどこから読みはじめてもよいし、書かれていることを契機として関心の深い問題を自分で深めてゆくこともできる。「あとがき」として「かつてはあった路地の親切」が付く。

「風のたより」は佐藤美文が発行する川柳誌「風」の巻頭言から選ばれた文章を集めている。巻頭言だから1テーマ1ページの短い文章だが、「差別語と川柳」「革新と伝統の外で」「川柳は詩であるか」「虚と実」など川柳の世界でこれまで議論されてきたテーマを含んでいる。
「清水美江先生のこと」という一文があって、佐藤美文の師について触れている。清水美江(しみず・びこう)は川柳誌「さいたま」を発行し、十四字にも力を入れていた。私は一時期「風」誌に投句していたが、それは十四字に関心があったからである。佐藤美文による本格的な清水美江論を読んでみたいものである。

「戦後宰相を川柳で切る」の章はこの筆者の得意とする分野のひとつで、時事川柳を材料にして戦後史を綴ってゆく手法をとっている。「風」誌に連載されていた「川柳が詠んできた戦後」は後に『川柳が語る激動の戦後』(新葉館)としてまとめられた。これは「読売新聞」の時事川柳欄を基にして、戦後の政治史・風俗史を綴ったものである。この試みは私も興味深いと思ったので、編著『セレクション川柳論』(邑書林)のなかに「昭和62年」の部分を収録させていただいたことがある。

もう幾つ寝ると長老風見鶏    牛夢

「川柳と俳句の違い」は俳誌「七曜」講演録(平成16年)で、俳人を前にして川柳を語ったものである。他ジャンルの方々に対して川柳のことを語るという機会は今後増えてゆくものと思われる。俳人を前にしてどのように川柳を語るのか。他人事ではなくて、一人一人の川柳人があらゆる機会をとらえて川柳を語るべきだろう。佐藤は俳句と川柳の違いにつての様々な言説を紹介したあと、川柳の歴史を通して「川柳とは何か」を説明する。
「今日の話は、川柳の歴史を通して皆さんに川柳はこういうものだということを理解していただいて、その中で皆さんの中の俳句と比較していただきたいのです。そして、その中で俳句と川柳の違いというものを、おのおのの形で自分自身で理解していただければと思っています」
常套的な説明方法ではあるが、結局、俳句と川柳の違いは歴史的にしか説明できないものであり、その上に立って現在の俳句・川柳の作品例に話が及んでゆくしかないものであろう。

「川柳作家論」では茂木かをる・佐藤正敏などを取り上げているが、私が一番関心を持ったのは「十四字作家―江川和美の世界」である。江川和美は十四字詩作家としてのペンネームで、十七字の川柳人としては小川和恵の名で知られている。「川柳研究」「さいたま」などで活躍したが、昭和50年に50歳で亡くなっている。7年余りの川柳活動であった。
彼女の十四字(七七句)を紹介する。

かくれて逢えばきつね雨降る   江川和美
言葉は要らぬ花の陽だまり
逢う日約して瞳に吸われゆく
返事を決める固い足袋履く
悪魔に貸した胸の合鍵
騙されていた日々のしあわせ
今日の素直をしげしげと見る
迫る不安がおしゃべりにする
無理して逢えば何事も無し
ゆめ売りつくしペンがささくれ

七七句における情念作家という面もあって、すべてを評価するわけではないのだが、「無理して逢えば何事もなし」は私の愛唱する句のひとつであり、十四字の歴史に残る一句であるだろう。

「名句鑑賞」には次の句が紹介されている。

落下傘白く戦場たそがれる    戸田笛二郎

戸田は落下傘部隊としてセレベス島攻略戦に参加した。
金子光晴には「落下傘」の詩があるが、空から落下していきながらとらえた戦場の風景は、川柳のとらえた戦争詠のひとつとして迫力がある。笛二郎は昭和19年に中部太平洋で戦死する。22歳。兄の雨花縷は「私が餓死したら兄さんが私の句集を作ってくれ、兄さんが戦死したら私が兄さんの句集を作る」と言った弟との約束を果たしたという。

最後に、定型について。本書には「定型のリズムは変わるか」をはじめとして定型論が見られるが、山路閑古著『古川柳』(岩波新書)に触れている部分がある。
山路閑古は川柳を阪井久良伎に学び、俳句を高浜虚子に学び、連句を根津芦丈に学んだ総合的な短詩型詩人である。
『古川柳』の序章で山路は「ふる雪の白きをみせぬ日本橋」の句(川柳)を取り上げて、次のように述べている。
「『古川柳』には無季の句が多く、よしんば雪のような季語を含んでいても、それは季題ではないから、季節の主張もせず、寒さの連想をも伴わない。このようなことを、季題の制約を受けないというのである」
そして、リズムについては次のように言う。
「リズムには、このように耳に響き、心に感じられる音楽的リズムもあるが、それとはべつに、判断に訴え、知性を振動させる、声なき声のリズムというものがある。これを『内在律』というが、『古川柳』が詩として『発句』と対抗し得るのは、こうした『内在律』の面においてである」
「内在律」は現代詩で用いられる言葉かと思うが、定型律であるはずの川柳を内在律と捉えることによって俳句との違いを説明しきれるかどうか、魅力的でもあるだけに検討を要する課題かもしれない。

2012年8月24日金曜日

暑気払いに川柳誌逍遥

今年の夏は過酷なので、過ぎ去ったときにはいかにも終わったという感じがすることだろう。そうなるまでにはまだ少し時間があるが、今週はこの夏にいただいた川柳誌について具体的に書いてみたい。

北海道の川柳誌「水脈」31号に、岡崎守が「『水脈』誌の10年」という文章を掲載している。「水脈」(編集人・浪越靖政、事務局・一戸涼子)は2002年8月に第1号が発行されたので10周年を迎えたことになる。「水脈」は「あんぐる」(1996年7月~2002年2月)の流れを汲んでいる。同誌の中心にいた飯尾麻佐子の体調不良によって終刊となったが、違った形で活動を続けようということで新誌「水脈」として出発した。それから10年が経過し、岡崎守は次のように述べている。

「1句を生み出すことによって自己を表現し、10句をまとめることによって個性が表出されていく。1年に3回で30句、10年で300句を吐き続けたことになる」
「その時の流れの中で、作品にどれだけの変化が生まれ、10年間の人生の変遷が刻まれたのであろうか」
「時の移ろいの中で変質を遂げたか否か、作品の質の向上はあったのか、などについての愚問は、各人のみが認識するのだと思う」

31号の同人作品から何句か紹介する。

さわやかな貌して眉のないさかな     新井笑葉
雲は爛れて昭和史の瓦礫         岡崎 守
別れとは縄目模様の美しさ        酒井麗水
先例にならい手首を振ることに      一戸涼子
曲がらないスプーンと長い話し合い    浪越靖政

高知の「川柳木馬」133号、清水かおりの巻頭言にも柳誌のたどってきた時間の流れに対する意識が見られる。清水はこんなふうに書いている。

「木馬83号(平成12年1月発行)の巻頭言に高橋由美が『三十も後半の私を捕まえて『若い世代』などと銘打ってくれるな』と書いてから12年が経過した。すっかりその年代を若いと言える年になった私達である。日々の生活と共に濃淡はあっても、それぞれが現在も川柳の現場に居続けるのはやはりこの短詩型の魅力に獲り付かれているからだろう」
「私達の作品はしばしば作風という言葉で評される。作風は一般に作者の個性や川柳に対する考え方、柳歴が反映されると考えられるが、柳誌という集合体でみると、何となくひと括りにされてしまいがちである」
「木馬は創刊以来、高知県では革新系の柳誌という立ち位置であった。これはあくまで高知という現場での認識であって、全国的に問えば、何をして革新誌というのか疑問に思うことの多い現在である」

柳誌に対する○○風(「木馬」風)という呼称は「ひと括りにできる退屈」にすぎないという自己批評をもっている清水は、同時に海地大破たちが創刊したこの柳誌に関わってきたことを振り返ることが「明日を書くためには必要なこと」とも述べている。

「木馬」今号に飯島章友が「前号句評」を執筆しているのが注目される。飯島は「かばん」に所属する歌人であり、川柳も書いている。彼は「短歌的喩」のことから話を始めている。
『言語にとって美とはなにか』で吉本隆明は短歌の上の句と下の句が互いに意味と像を補完し合っている構造を「短歌的喩」と呼んだ。飯島はこの「短歌的喩」が川柳の「問答構造」に似ているという。飯島はこんなふうに言う。
「筆者は、歌人や柳人との会話で幾たびか、短歌と川柳の親和性を確認しあったことがある。川柳は、表面的な文字数の形式でいえば、俳句とまったく同じである。だが発想や内容はきわめて短歌と似ている。それは〈問答〉という、両分野の構造の類似に起因するのではないか」

同号には平宗星が「川柳木馬における関西諷詠と関東諷詠」を掲載している。平によれば、
「関東諷詠」は江戸の古川柳の伝統を受け継ぎ、「意外性」を重んじ、奇想天外なイメージを好み、独自のメタファーを尊重する。一方、「関西諷詠」は作者の心情を重んじ、私小説的な「物語性」を尊重するという。そして、「関東諷詠」を代表するのが中村冨二、「関西諷詠」を代表するのが定金冬二だと言うのである。
私は冨二・冬二をもって関東・関西を一般化するのはどうかと思うし、川柳の書き方の二つの方向性を関西・関東という地域性に解消してしまうことには更に疑問を感じてしまう。

ここで「川柳木馬」の作品を挙げておこう。

仁淀川産アユと交換する今日一日     内田万貴
肝煎りのいない月夜の集会所       河添一葉
空間のゆがみを通り蟹は来る       小野善江
羽の一枚一枚にルビをふる        山下和代
私信から出た青鷺のうすねむり      清水かおり
ついたての向こうに君の綺麗な句読点   高橋由美
尾行者のズボンびっしり藪虱       古谷恭一

青森の柳誌「おかじょうき」7月号は「川柳ステーション」の掲載号である。
発行人・むさしは次のように書いている。
「川柳ステーション2012をどうやら終えることができました。今、青森県内の川柳社で自らの主催する大会に県外から選者を招いているのは当方だけのようです。ましてや、トークセッションもやっているなんて話は聞いたことがありません。句会だけの大会でも大変なのに何でそんなことをするのだろうと言う方がいてもおかしくないのですが、それをやるからこそおかじょうき川柳社なのだと思っています」
6月2日に開催された「川柳ステーション2012」トークセッションのテーマは「理系川柳と文系川柳」で、パネリストはなかはられいこ・瀧村小奈生・矢本大雪、司会はSinである。「文系川柳」「理系川柳」とは聞き慣れない言葉であるが、なかはられいこは「方程式のように別の言葉を入れ替えてみたくなる」のが理系川柳だと言い、矢本大雪は「理系川柳は理性に、文系川柳は感性に訴えるもの」と述べている。
う~ん、この分類はどこまで有効だろうか。例に挙げられている作品を見てもどちらとも言えない、あるいはどちらとも受け取れる句が並んでいる。むしろ、暫定的に分類しておいた上で、矢本が言うように「理系だ文系だと分類は殆ど出来ない状況にある」というあたりが落としどころのようだ。

「川柳ステーション」の句会からは、次の二句をご紹介。

象の鼻が結果ばかりを聞きにくる     熊谷冬鼓
Re:Re:Re:Re:Re:胸には刃物らしきもの   守田啓子

「象の鼻」の句は「伸」という題、「Re」は「再」という題である。
川柳誌というより句会報から印象に残った作品を挙げてみたい。まず、「大山滝句座会報」150号から。鳥取県の大山滝(だいせんたき)は日本の滝百選にも選ばれている。誌名はそこからとられているが、この号では誌上大会の結果を掲載している。

水掻きも夢もあるのに沖がない     森田律子
出直してみても大きな鼻である     金築雨学
腹筋か木綿豆腐か押してみる      石橋芳山

7月1日の「玉野市民川柳大会」句会報から。

想い馳せると右頬にインカ文字     内田万貴
嵩ばらぬものを握らす歩道橋      江尻容子
一万個に分けても富士は立っている   森茂俊
とんと揺すってもう二・三人入れる   内田万貴
豆腐の口角に陽動作戦         蟹口和枝

大会や誌上大会を行うことによって選ばれた作品を発表誌のかたちでまとめる。それが一種のアンソロジーとなる。句集形態のアンソロジーが少ない川柳界で、それがすぐれた作品にであうための近道なのだろう。
あと、評価の定まった作品が川柳誌のなかで取り上げられることがある。「川柳びわこ」8月号の「句集紹介」には八木千代の句集『椿抄』が掲載されている。

潮騒を連れてこの世の月が出る     八木千代
とりあえず門のかたちに石二つ
書きすぎぬように大事なひとに書く
今折ったばかりの鶴が翔んでゆく
触れられたことではじまる桃の傷
稜線で逢うお互いの馬連れて
見送っていただけるなら萩の道
どの井戸も底があるので救われる
錯覚の場所を何度も掃きにいく
まだ言えないが蛍の宿はつきとめた

八木千代は「川柳塔」同人で米子市在住。『椿抄』は1999年の句集『椿守』をベースに今年上梓された句集。時の流れに淘汰される中で残った作品にはやはり力がある。
この夏ももうすぐ過ぎ去るだろう。冷厳な時間法則の中で過ぎ去るものは過ぎ去り残るものは残ってゆく。川柳も同じである。

2012年8月17日金曜日

ドイツで川柳について考える

8月7日付の朝日新聞夕刊に「ハンブルク・バレエ週間」についての記事があり、その中に「RENKU」という文字を発見してあっと驚いた。「RENKU」は即ち「連句」である。私はバレエについては無知であるが、振付家ジョン・ノイマイヤーが芸術監督を務めるハンブルク・バレエにはファンが多いらしい。6月17日から7月1日まで開催されたバレエ週間は、このバレエ団の最大の催しだという。14公演の演目のうち、初日に演じられた「RENKU」は日本の大石裕香とドイツのオーカン・ダンの振り付けによる。
バレエにおいて短いパートをつなぎながら連句的世界を創ってゆくという構想は、ノイマイヤーがモーリス・ベジャールとかねてから話し合っていたプランだった。ベジャール亡きあと、ノイマイヤーは大石とダンの二人の若手にこの試みを託したのである。
大石裕香は大阪出身のダンサーで、今回自らは踊らず、振付に回ったようだ。舞台はシューベルトの「死と乙女」を軸に展開する。Linked Poetryとしての連句精神が国際的な普遍性をもっていることのひとつの証しである。

国学院大学主催の万葉集・夏期講座が大阪天満宮で開催されて、一時期よく聴講に行った。今でもあるのかどうか分からないが、万葉集や記紀神話、折口信夫などについて学ぶところが多かった。あるとき、講師の岡野弘彦が「自分は毎年ヨーロッパへ出かけ、外国で短歌のことばかりを考えている」と語った。まだ若かった私は「短歌を考えるのなら日本で考えたらいいじゃないか、なんでわざわざ外国へ行く必要があるんだろう」と思ったものだった。岡野が言っていたことが今にしてよく分かる。外国へ行くと日本のことが見えてくるのだ。

斎藤茂吉は大正10年から大正13年まで滞欧生活を送っている。「斎藤茂吉選集」(岩波書店)の第9巻は「滞欧随筆」として、茂吉のヨーロッパ滞在中の動静を記した随筆がまとめられている。特に短歌が論じられているわけでもないが、この時、茂吉は日本を外から眺め、短歌についても考えを深めたことだろう。
「滞欧随筆」のうち有名な「ドナウ源流行」の冒頭を引用してみよう。

「この息もつかず流れてゐる大河は、どの辺から出て来てゐるだらうかと思つたことがある。維也納(ウインナ)生れの碧眼の処女とふたりで旅をして、ふたりして此の大河の流を見てゐた時である。それは晩春の午後であつた。それから或る時は、この河の漫々たる濁流が国土を浸して、汎濫域の境線をも突破しようとしてゐる勢を見に行つたことがある。それは初冬の午後であっただらうか。そのころ活動写真でもその実写があつて、濁流に流されて漂ひ着いた馬の死骸に人だかりのしてゐるところなども見せた。その時も、この大河の源流は何処だろうかと僕は思つたのであつた」

こうして茂吉はドナウの源流を求めて復活祭の休みにミュンヘンを出発するのである。

今夏、スイス・ドイツを旅行した。ハンブルクでバレエを見、茂吉のようにドナウ河の源流を訪ねたと言えば話の辻褄は合うが、そんなこともなくただ漫然と観光したばかりである。けれども、思考の流れは自然と川柳のことに向かっていった。もちろん、ヨーロッパには表面的には川柳の影も形もない。私たちが極東で日夜腐心している川柳という文芸は実に小さな形式に見えてくるのである。だが、川柳精神という意味ではヨーロッパのあれこれの文学作品と通底するものがぼんやりと見えてくる。

私も人並みにライン河下りの観光船に乗ってローレライの岩などを見た。船上にはハイネのローレライの歌まで流れていたが、学生時代には暗誦できたローレライの歌詞がもはやおぼろげになっているのに呆然とするのだった。ハイネは詩集『歌の本』の抒情詩人として知られているが、『アッタ・トロル』『ドイツ冬物語』などの長編諷刺詩を書いていて、きわめて政治的・諷刺的な詩人である。翻訳では分かりにくいが、たとえば『アッタ・トロル』におけるゲーテ批判はこんな調子である。

行列の中には、思想界の
大家たちが大勢いた。
われらのゲーテはすぐわかった。
あの目の明るい輝きを見て―

ゲーテはヘングステンベルクに酷評されて
墓の中にじっとしていられず、
異教の輩と一緒になって、いまも
生の狩猟を楽しみ続けているのだ。(『アッタ・トロル』第18章)

ヘングステンベルクという男が一連のゲーテ批判の文章(特に『親和力』に対する道徳的批判)を書いた。死せるゲーテは墓の中にじっとしていられなくなって現世にさまよい出てきたのだ。ハイネは批判者に同調しているのではない。彼の諷刺と嘲弄はヘングステンベルクとゲーテの二方向に向けられている。もちろんゲーテの方が偉大なのである。
ロマン派のイロニーは常に空想の世界と現実の世界との落差から生まれる。ローレライの夢の世界からだけ出来ているわけではない。

連句のエッセンスであるイメージの連鎖はエズラ・パウンドのイマジズムなどに影響を与え、冒頭で紹介した現代バレエにまで及んでいる。それでは川柳という文芸のエッセンスは何であろうか。おおかたの日本人が駄洒落で下品なものと受け止めている川柳ではなくて、世界文学の場に出したときにも通用する川柳の普遍性というものがあるかどうかということである。もしあるとしたら、たぶん、それは「批評性」であり、もう少し拡げていうと「批評的ポエジー」だろう。
ドイツを旅していて、常に思い出していたのはトーマス・マンのことである。トーマス・マンの文学の本質はイロニーにあり、彼の作品の多くはパロディである。ゲーテは別格としてハイネ・ニーチェ・マンなどのドイツ精神の中には批評的ポエジーが流れている。「形式としての川柳」ではなくて「川柳の精神」というようなものを考えないと、川柳は実に小さな文芸に終始してしまうことになる。

ノイシュバーンシュタイン城は観光客で溢れていた。ヴィスコンティの映画でも有名なルートヴィッヒ二世が18歳で王になったとき、最初に命令したのはヴァーグナーを自分のもとへ連れてくることだったという。彼はヴァーグナーに傾倒していたのだ。彼にとって城の建設は権力の象徴などではなくて、理想の芸術空間の実現だった。
地位も財力もない私たちは言葉によって自分の世界を構築するしかないのである。

2012年8月3日金曜日

佐々馬骨という川柳人

佐々馬骨が関西の川柳界に現れたのは2011年7月の「川柳・北田辺」(くんじろう主宰・大阪市東住吉区)の句会が最初であった。
このときの句会では席題・兼題のほかに「川柳相撲」が行われた。ジャンケンで東西に分かれ、先鋒・次鋒・中堅・副将・大将の五名を選抜、対戦直前に発表された題について三分以内に作句する。勝敗は対戦選手以外の参加者の挙手で決めるというものである。
馬骨は東方の先鋒として登場し、西方の先鋒・次鋒・中堅・副将の四人を次々に打ち破ったのであった。相手の大将には惜しくも敗れたが、馬骨の才気は参加者に強烈な印象を残した。ちなみに、このときの彼の句は次のようなものである。

オーバー追いかけすぎて追い越した恋   席題「オーバー」
クロネコヤマトがクロネコヤマト撫でる  席題「撫でる」
何者だ黄色い谷の男と女         席題「谷」
合鍵がメーター持って帰ったよ      席題「メーター」
芸名はカラオケ一曲200円        席題「名前」

翌月の8月、馬骨は京都の川柳句会「ふらすこてん」に姿を見せた。そのときの彼の句を挙げておく。

ナガサキはだいぶ先です牛屈む     席題「屈む」
ヒロシマを通りすぎては犬屈む
アスファルトのため息あたりめを裂く  兼題「裂く」
鵜飼の鵜さらに人の指はきだす     兼題「さらに」

その後、馬骨は「北田辺」「ふらすこてん」の両句会で、川柳を作り続けた。「北田辺」の句会に馬骨はいつも酒壜を持参してきた。彼自身は体調が悪くてあまり飲めなかったが、参加者にふるまっては談笑するのだった。この句会が気に入っていたのだろう。
川柳人として活動したのは約半年、次のような作品を書いている。

ルービックキューブの一室秘密基地
むかしむかしスリッパの宇宙船があった
とさかの青い鶏がいて仏門に入る
図鑑から鳥の目族が攻めてくる
鳩の糞が等高線に落ちてきた
日曜大工で納棺を作った
森にいるうしろの正面はダリ君だ
変なかけら親指と親指のあいだ
60と70が並ぶ嘘みたいに
透明な老人集う海の底
ほろほろと身軽足軽近江の出
上空にUFO竹槍を持て
世の中は底辺×高さ÷欲
深海魚新年会のあと冬眠す

「深海魚」の句は2012年1月7日の「ふらすこてん」句会での作品。とても体調が悪そうに見えた。これを最後に彼の姿は句会では見られなくなり、2012年6月7日に帰らぬ人となった。1954年生まれだから、享年58歳だろうか。部屋のカレンダーには6月24日のところに「北田辺句会」と書かれていたという。

佐々馬骨は佐々木秀昭という名の俳人であった。
出発は短歌で、塚本邦雄の門下としてスタートしたと聞いている。20年ほど短歌を書いていたようだが、俳句に転じた。佐々木秀昭句集『隕石抄』(2008年・霧工房)には次のように書かれている。

「思へば二十年ほど前から短歌を始めた私でしたがいつの頃からか自分の体内に流れる韻律は俳句であるやうな気がしてきました。手元にある記録からですと1989年5月に自分の意志で句を初めて作つたとあります。以来沢山の句会や同人誌に参加させてい ただきました」(あとがき)

美しきサイコロほどの火事ひとつ

『隕石抄』の巻頭句である。「美しきサイコロ」が喩となって「火事」に結びついていく。短歌的喩とも見えるが、五七五定型のなかに言葉が美しくおさまっている。「美しく」からはじまりながら「火事」にゆきつくところに作者の性向がうかがえる。

その辻を曲がれば梅か不幸せ

『隕石抄』の代表句と私は思っている。
辻を曲がるまで何があるか分からない。香がしているから梅だと予測できるが、ひょっとすると不幸の匂いかも知れない。ここにも作者の気分が反映されている。

句納めに思ひ出されるトニー谷
呼べば咲くねぢ式である白牡丹
七月の深爪をする家系かな
思ふ。丸、三角、死角、夏の宵
炎帝に憑りつかれゆく馬の骨
九月尽箱も爆発したいだらう
虫売りの父が呼びこむ美少年

暗い作品ばかりというわけではなく、諧謔があったり耽美的であったりもする。日常世界の背後にあるものを見る目が川柳眼とも通じるところがあって、晩年の彼は川柳にはまっていったのだろう。
俳句仲間と連句を巻くこともあったらしく、昨年の「第五回浪速の芭蕉祭」の応募作品にも連衆のひとりとして名を連ねている。入選はしなかったが、歌仙の表六句を紹介する。

白昼やふつと消えたる蓮見舟     雲水
 つぎつぎに葉を返す南風       令
杜の国ひとまたぎする夢を見て    馬骨
 練り歯磨きを絞り出す指      雲水
月光に翁面なる舞ひ人は        令
 漂白の果て二学期始まる      馬骨

『隕石抄』に戻ると…

隕石の中に淡雪眠りたる

彼が偏愛した隕石のイメージである。
私は井上靖の詩集『北国』に収録されている散文詩「流星」を思い出す。長くなるが引用しておきたい。

高等学校の学生ころ、日本海の砂丘の上で、ひとりマントに身を包み、仰向けに横たはつて、星の流れるのを見たことがある。十一月の凍つた星座から、一条の青光をひらめかし忽焉とかき消えたその星の孤独な所行ほど、強く私の青春の魂をゆり動かしたものはなかつた。私はいつまでも砂丘の上に横たはつてゐた。自分こそやがて落ちてくるその星を己が額に受けとめる地上におけるただ一人の人間であることを、私はいささかも疑はなかつた。
それから今日までに十数年の歳月がたつた。今宵、この国の多恨なる青春の亡骸―鉄屑と瓦礫の荒涼たる都会の風景の上に、長く尾をひいて疾走する一箇の星を見た。眼をとぢ瓦礫を枕にしている私の額には、もはや何ものも落ちてこようとは思はれなかつた。その一瞬の小さい祭典の無縁さ。戦乱荒亡の中に喪失した己が青春に似てその星の行方は知るべくもない。ただ、いつまでも私の瞼から消えないものは、ひとり恒星群から脱落し、天体を落下する星といふものの終焉のおどろくべき清潔さだけであった。

佐々馬骨はそのような流星として私の記憶の中で生き続けることになるだろう。


(来週は夏休みをいただいて休載します。次回は8月17日にお目にかかります。)